作成者: 平川秀幸
本文書は、欧州委員会の委託で、1998年から2000年にイギリス、フランス、ドイツ、イタリア、スペインの五ヶ国で行われた研究調査プロジェクトPABE(Public Perceptions of Agricultural Biotechnologies in Europe: 欧州における農業バイオテクノロジーに関する一般市民の認知)の報告書Public Perceptions of Agricultural Biotechnologies in Europe: Final Report of the PABE research project (funded by the Commission of European Communities Contract number: FAIR CT98-3844 (DG12 - SSMI))からの抜粋・要約である。この調査の目的は、五カ国における遺伝子組換え(GM)食品に対する一般市民の反応を形づくっている社会的、倫理的、文化的な要因に関する情報を提供し、各国レベルおよび欧州連合(EU)レベルの政策立案に役立てることにある。
調査方法は、一般市民の認知(perceptions)についてはフォーカスグループの手法を用い、利害関係者(バイオテクノロジー・種子企業、食品メーカー、食品販売企業、政治家、行政、審議会メンバー、科学研究者、環境NGO、消費者NGO、農民組合)についてはインタヴュー、参与観察、文書分析が用いられた。報告書の全文は、PABEプロジェクトのホームページからダウンロードできる。
この調査によって明らかになったのは、GM論争の利害関係者たちは、GMO(遺伝子組み換え生物)に対する一般市民の反応を誤解しており、それが現在のGM論争の行き詰まりの原因の一つになっているということである。
政府や規制機関、科学的研究機関、企業などGMOに関する公的・民間的な意思決定に直接的な影響力を及ぼす政策アクターによるGMOに対する一般市民の認知の特徴づけは、典型的に二つのパターンで枠付けられている。一つは、一般市民の「知識の欠如」というものであり、一般市民の教育を振興する政策に結びついている。もう一つは、一般市民が抱く「科学外的(non-scientific)」な「倫理的」懸念というもので、倫理問題の専門家やGMOの社会的受容(social acceptance)に関するコンサルティングの専門家を登用するということにつながっている。PABEの報告書では、このような支配的な一般市民像とそこから導かれる政策は、一般市民の懸念の本質の全体を理解しておらず、その懸念を形づくっている社会的・文化的・制度的要因についても認識していないということが論じられている。事実はもっと複雑であり、「真のリスク」と「認知されたリスク」、「リスク」に関する懸念と「倫理的」懸念、「科学的」懸念と「科学外的」懸念といった、しばしば見られる区別は、あいまいなものになっているのである。
利害関係者に関するPABEの分析(インタヴュー、参与観察、文書分析)によって、彼らが一般市民に対して抱いている特別の非常に支配的な見方が明らかになった。その主要な特徴は、下の表1にまとめてある。これらの見方は、特に、政府や規制機関、科学的研究機関、企業(とくにバイオテクノロジー企業)にいる多くの利害関係者の言説に頻繁に登場したものである。彼らは、GMOに関する公的・民間的な意思決定に直接的な影響力をもっている重要な政策アクターである。また彼らは、ある程度まで、GMOやそれに関連する公的・民間的な政策決定の推進者としても特徴づけられる。しかしながら、非常に似通った一般市民像は、反GMO運動に関わっている組織(環境NGO、消費者NGO、農民組合)の代表者にも見られたことは強調されなければならない。
表1 GMOに対する一般市民の反応に関する利害関係者*たちの10の神話
神話1 |
根本的な問題は、一般市民が科学的事実に無知であるということである。 |
神話2 |
人々は、GMOに対して「賛成」か「反対」かのどちらかである。 |
神話3 |
消費者は医療用のGMOは受け入れているが、食品・農業に利用されるGMOは拒絶している。 |
神話4 |
欧州の消費者は、貧しい第三世界に対して利己的に振る舞っている。 |
神話5 |
消費者は、選択の権利を行使するために遺伝子組換え表示を欲している。 |
神話6 |
一般市民は、誤って、GMOは不自然なものだと考えている。 |
神話7 |
市民が規制機関を信用しなくなってしまったのは、BSE(狂牛病)危機の失策が原因である。 |
神話8 |
一般市民は「ゼロリスク」を要求しているが、これは不合理である。 |
神話9 |
GMOに対する一般市民の反対は、倫理的または政治的な、「他の」要因によるものである。 |
神話10 |
一般市民は、事実を歪曲する扇情主義的なメディアの従順な犠牲者である。 |
* 利害関係者 = バイオテクノロジー・種子企業、食品メーカー、食品販売企業、政治家、行政、審議会メンバー、科学研究者、環境NGO、消費者NGO、農民組合。「10の神話」では、特に規制当局など政府機関、科学研究機関、バイオテクノロジー企業を指す。
支配的な一般市民像と10個の神話は、一つの基本的な参照枠に基づいている。つまり、(a)科学の専門家によって―合理的に―評価されると考えられている「客観的リスク」と(b)一般市民によって―主観的かつ不合理に―認知されると考えられている「主観的リスク」という区別の想定である。
一般市民の不合理な思考と行動という仮定を例証するために、たくさんの逸話が利害関係者の間で出回っている。たとえば彼らは、社会に新しい技術が導入されるたびに、一般市民は最初は抵抗するが、やがて適応し、利用するようになるという見方を主張する(共通に用いられる例は、電車、自動車、飛行機、ワクチンである)。利害関係者たちの間でそのような逸話が利用される仕方は、常に同じである。つまりその目的は、一般市民の最初の反応は無根拠であることが判明し、したがって彼らの(不合理な)過剰反応はやがて自然に消え失せるということを示すことなのである。しかしながらこのような歴史上の出来事の構築は、問題となっている技術が、受け入れられるようになる前に、規制や技術革新を通じて変更されているという事実を捕えそこなっている(例: 自動車の運転と製造に関する広範囲の規制)。さらにそれらは、一般市民によって提起された元々のリスクに対する懸念の多くは、実際に現実のものになっているという事実も見損なっている(自動車による歩行者の死亡事故、飛行機事故、チェルノブイリ原発事故、ワクチン投与による健康被害など)し、それほど十分に懸念されていなかった悪影響が現実化したことも忘れている(環境に対する自動車の悪影響)。それらの逸話のなかで言及される一般市民の懸念が結局のところ現実化してしまうもう一つの仕方は、たとえ十分に分節化されていなかったとしても、一般市民は、たとえば自動車のような技術は、社会を根本から変えてしまうことを予期するというものだ。たとえば、自動車の登場は些細な出来事でもないし、その影響も死亡者推計のみをもとに理解されたり評価されうるものでもない。それは、われわれの都市の形や日々の仕事の形を作り、生活のペースを加速し、かつては考えられなかったような活動や生活様式を可能にしたのである。
利害関係者が語る逸話は、体系的に同じ筋書きをたどり、それを通じて、一般の人々が懸念するような事柄は完全に周辺化されてしまう。われわれが彼らの一般市民像を「神話」だと呼ぶ理由の一つはここにある。それは、特定の共有された世界観を構築し、子供たち(ここでの場合には仲間の利害関係者たち)を怖がらせたり対応戦略(ここでの場合は不合理な大衆の反応に対するもの)を与えたりすることによって、彼らが外界に直面する準備をさせるという子供向けのおとぎ話と似ているのである。
利害関係者が用いる第二の逸話は、人々は、ある領域では、日常的に非常に高いリスク(死亡率で定義されたもの)を受け入れているが、他のケースの非常に小さなリスクには断固として反対するという事実を参照するものだ。たとえば「喫煙や登山をする人々は非常の大きなリスクを受け入れているのに、同じ人々がGMOのはるかに小さなリスクを懸念しているのだ!」というわけだ(他にも、原子力やBSE、ダイオキシンなど)。それゆえ利害関係者たちは「リスク比較」をよく持ち出す(例:「GM食品を食べるよりも、毎日仕事に自動車で行くことのほうがはるかに危険である!」)。これらの例の背後にある含意は、ほとんど常に同じである。つまり、一般市民の行動は矛盾しており、そのことが、信頼できる科学的基礎に基づいた合理的で冷静なリスク管理を行うことに対する打ち勝ちがたい障壁になっているということである。そのように考える利害関係者たちはしばしば、「客観的リスク尺度」を用いることを訴えて、一般市民に対するリスクコミュニケーションを改善しようとする。このような解釈は、一般市民は、専門家によって定義されたリスクは、GMOや原子力発電所、BSE、ダイオキシンなどよりも喫煙や自動車の運転、登山の方がすっと高いことに気がついていないという利害関係者たちの信念に根ざしている。しかしながら、Paul Slovicの独創的な研究(1)に始まる膨大な研究群が証明しているように、死亡率に限定して尋ねられたときには、一般市民の推計は、特にさまざまな技術や活動の相対的なリスクの大きさの「順位」については専門家とそれほど違わないのである。たとえばそれらの研究が繰り返し示しているのは、自動車を運転したりタバコを吸う一般市民は、それによって死ぬリスクを完全に意識しているということだ。場合によってはこの事実は、利害関係者たちの言説でも認められているが、たいていそれは、素人は、主体的に選び、直接的な便益を得ている行動の場合には高いリスクも受け入れるということを強調するためである。そしてそれもまた、一般人の行動を不合理なものとして描くためなのである。
利害関係者によるこのような客観的リスクと主観的リスクの対比の構築と、それと関連した、認知されたリスクは主観的で首尾一貫しておらず、不合理で変わりやすく、予想できないものであるという信念は、数多くの社会学者によって観察され記述され批判されてきた。しかしながらわれわれの利害関係者の分析は、このような一般市民のリスク認知についての考え方が、これまでの批判にもかかわらず、どの程度、ある特定の集団の中で未だに根強いものであるかを示すものである。さらにPABEの研究によってわれわれは、どのようにして、このより一般的な神話が、GMOに対する一般市民の対応という文脈のなかでのより特殊な神話へと翻訳されているのかを見ることができる。
(1) Slovic, P. (2000) The Perception of Risk. Earthscan, London; Slovic, P., Fischhoff, B., Lichtenstein, S. (1979) Rating the risks. Environment, 21(3):14-20 and 36-39. [訳注:ちなみにスロビックの有名な論文"Perception of Risk" (Science, vol.236, pp.28-285, 1987)の最も重要な論点は、一般の人々と専門家では、リスク認知の枠組み自体が大きく異なっている――専門家はリスクをもっぱら年間死亡率で定義するのに対し、市民は他の様々な尺度を用いている――ということにある。スロビックのこの論文は、原子力やGMOの専門家たちが一般向けにリスクを語る際には必ずといってよいほど参照されるが、興味深いことにしばしばそれは、スロビックの主旨とはまったく異なる「専門家の正しい客観的リスク」と「素人の誤った主観的リスク」を対比するために持ち出されている。これは、原論文を読まず一種の伝言ゲームとして、この論文が誤用されているか、読んでいてもその主旨を完全に誤解するほどまでに、「客観的リスクvs主観的リスク」という専門家たちの枠組みが根強いことを示している。]
一般市民は、遺伝子操作や、GMOの研究開発、規制、商業化の進捗状況の科学的な詳細については概して無知であるが、そのような知識の欠如では、農業バイオテクノロジーに対する彼らの反応を説明することはできない。フォーカスグループの参加者たちが表明した懸念は、多くの場合、GMOに関する誤った信念に基づいてはいなかったのであり、実際、彼らが議論したのは、以下のように、GMOの科学的詳細についてのものとは異なる種類の問題であった。
表2 フォーカスグループの参加者たちの主要な疑問
要するに、参加者たちのGMOの認知は、利害関係者たちが考えるような主観的・感情的な反応ではなく、経験的な知識に基づいている。しかしその知識の種類は、科学者やGMOの推進者たちが考えるようなものとは非常に異なっている。科学者や政策立案者は、GMOについて合理的な意見を形成するためには、一般市民が遺伝子組換え技術についての専門知識をもつ必要があると考えがちである。しかしながら、GMOに関する自分たちの議論をサポートするためにフォーカスグループの参加者たちが用いたのは、次の三種類の知識であった。
この神話によれば、論争の一方には事実があり他方には感情がある。合理的な事実は科学的な証拠と論証に基づいており、われわれの最良の知識に照らせばGMOは安全である。したがって、GMOに反対する人々は不合理であり、もっとよく科学を理解しさえすればGMOを受け入れるはずだと考えられている。また、GMOに対する反対は、無知だけでなく、SF小説や扇情主義的なメディア、第2次世界大戦のドイツのような優生学にまつわる不幸な歴史的事件の記憶によって培われた間違った信念にも基づいていると考えられている。
この見方を裏付けるために、特に「人口の70%が、普通のトマトには遺伝子が含まれておらず、遺伝子組み換えトマトには含まれている」と考えているというユーロバロメーター(一般市民の科学