わかりやすい
安保法制の「論点」明確化
~サヨクの本丸議論~
わかりやすい安保法制の「論点」明確化
2015.8.6
安保法制について、社会学者・政策学者の西田亮介さんが
と書かれていました。共感する方も多いと思います。見渡す限り賛成派と反対派は水と油で、噛み合った議論がなされているとは全く思えません。今回私は、賛成・反対両者の主張を最も大雑把・シンプルに比較し、この問題の論点を明確にしたいと考えました。
我々は一体、「何」と「何」で迷っているのでしょうか?
まず、賛成派の主張が乗っている「右の皿」。こちらはとても明確です。
情勢変化に合わせた安全保障強化の必要性
ですよね?
アメリカの存在感低下、中国の野心と躍進。南シナ海のシーレーン防衛問題を指摘する声が上がって来ていますが、素人目にも中国はこれからもっと「手」を出してくるように思えます。状況は変わっているのです。
現実的な対応策が必要なことは明らかだと思います。
(ついでに、集団的自衛権が世界中どの国にも与えられている当然の権利だ、というのも事実だと思います)
賛成派の皆さんは
「何でこんな自明なことがわからないんだ!?」と苛立っているのが現状ですよね。そしてそこで賛成派の話が止まってしまっているのです。どうしてこんなに明確な必要性が存在する安保法制に、少なくない数の反対の声があるのでしょう? それは安保強化の必要性がわからないから、ではなく
「別の理由で反対しているから」です。そしてその「理由」が、左の皿に乗っている何か、です。
議論を噛み合わせる為には、双方を比べなくてはいけません。
で、左の皿ですが、実はこっちがイマイチはっきりしてないように見えるのが一番の問題なんです。
(これは反対派の課題だと考えています)
しかし、これだけの数の反対の声が上がる以上、必ずどこかに意思としての
明確な対立点があるはずです。もちろんそれが「憲法9条」なんですが、賛成派が中身のある必要性を提示している以上、反対派の側も器としての憲法だけでなく、その中身を論じることが、今はもう必要なのだと考えます。
まずは何となくそれっぽく上がっている議題をあえて潰しながら、そのポイントを探して行きましょう。
日本の平和が脅かされる?
9条があるので日本が平和だという論ですね。これは実証が極めて困難(というより甚だ疑問)であるということ以前に、もしもこれが議題であるなら、それは「日本の防衛」の話ですから、右の皿=安全保障と同線上の話となるわけで、もっと議論が進んでもいいんですよね。防衛の具体論で話が終止し、
反対派が撃沈されて終わりのはずです。
実際、賛成派寄りの人々の中では「問題は日本の防衛にとってプラスになるかどうかだ」という位置付けでこの問題を考えている方が散見されますが、その考え方ではいつまで経っても議論が噛み合うことはありません。なぜなら、これは対立点にはなり得ないからです。
つまり左の皿に乗っているものは、どうやら賛成派の方の考える
合理性とは違うものを含んでいると推察できます。
憲法を守れ?
国会等ではこちらの方がメインなのでしょうか。憲法違反だからダメ、という論です。
もちろん憲法は守らなくてはいけません。しかし、賛成派のすべての方が憲法を蔑ろにしていいと考えているとは思えません。この憲法を守れという意見には、賛成派の側にも大きな反論が存在しているのです。それは「自衛隊自体が憲法違反であり、
『憲法を守るかどうか』はすでに原則論ではなくなっている」というものです。反対派の方も恐らく大多数は自衛隊の存在を容認している以上、日本の防衛はすでに憲法の原則(ゼロライン)からは外れた位置で考えなくてはならないのです。
(乱暴に言えば、日本の合憲論議は「程度問題」になりかけているのです)
→ ご納得いただけない方へ 文末に追記があります。
では、「形骸化したゼロライン」ではなく、実際に反対派が
堅持したいと意思を込めているラインはどこなのか、そこに対立点があると考えます。
…で、それがやはり
専守防衛(=先制攻撃の放棄)の価値判断
なのではないでしょうか?
専守防衛は戦後70年日本が採り続けた、他の主要国に比べ最も特徴的な防衛方針です。
当たり前の話ですが、今回の安保法制議論がこじれている最大の点は、現政権の進める安保法制が、現存する専守防衛の方針とバッティングする可能性があるからです。
反対派が「安保強化の必要性」を真剣に考えていないように見えるのと同様に、賛成派からはこの「専守防衛の価値」をどう考えるか、という点が語られていません。
なぜ論理性・合理性を重視する賛成派の方からこの視点が抜け落ちるかと言えば、恐らく専守防衛が短期的・直接的に日本の国益を目指している方策には見えない、という点にあるのではないでしょうか?
何しろ行動の選択肢を自分から(しかも自分だけ)捨てているのですから、普通に考えれば単に「損」になるような気がします。専守防衛を認めることは、「特殊」であり、あえて言えば「非常識」なことを掲げているのだという自覚は大前提として必要になるのです。
つまり反対派は、目の前の損を見越しても継続する「価値」が専守防衛にあることを示さなくてはいけないのです。そしてそれこそが、憲法改正の議論にもつながる「サヨクの本丸議論」だと考えています。
(ですからサヨクはこれをちゃんと語らなくてはいけないし、保守にはきちんとこれを潰していただきたいのです)
もちろん価値判断は人それぞれですので、ひとまず個別の意見は後回しにします。
ここで重要なのは、この「専守防衛」は現在稼働中のプロジェクトだということです。バッティングが現実のものである以上、ここに言及せずに安保法制を語ることはできません。日本の防衛を語るキーパーツとして、賛成派もどんな判断であれ「専守防衛の価値」を議論に乗せる必要があるのです。
念の為繰り返しておきますが、「専守防衛の価値」を議論しなければいけない理由は、
「専守防衛の存在」は「南沙諸島問題」と同じく確かな現実問題だからです。ここでは一旦、それが重要な「論点」として存在するということだけを認識して下さい。
これでやっと、右左両方の皿の重さを比較する論理に入ることができます。
(この時点では概念的で構いません)
くどいようですが、「専守防衛の価値などゼロ」というご意見は全く問題ありません。ゼロならゼロと言っていただくだけで、十分この後の話にお付き合いいただけます。
実際に、天秤の相手側が跳ね上がる極端なパターンの方の政治的態度はクリアで、何の欺瞞もありません。
左を重視(右は軽視)パターン
ただ、こちらのパターンはどうなんでしょう?
現状のまま特に安保強化を検討しない、というような立場です。
今回は「どう我々は変わっていくか」ということを話し合わなくてはいけないので、論外などという言葉を使ってはいけないのかも知れませんが、あまり
取り上げる必要はないように思えます。
ましてや自衛隊の存在まで否定するような論に至っては、日本の大多数意見になる可能性はかなり低いので、そういったご意見を持たれることはもちろん自由ですが、ここで検討する意味があるとは思えません。
右を重視(左は軽視)パターン
一方で、こちらのパターンは十分ありえます。
専守防衛自体を無意味とする立場です。
事実、決して「過激な保守」などではない著名な論客の方の中にも、9条2項撤廃を訴える方は多数いらっしゃいます。きちんと
日本も重武装して、各国の軍事バランスで武力衝突を極力抑え込んで行こうという考え方は、筋の通った理論です。
しかしこれにはやはり、バッティングする
「現在稼動中のプロジェクト」をしっかり止めなくてはいけません。
これも当たり前の言い方になりますが、憲法改正が先に必要になるのです。しかしここまでの話を踏まえれば、これはただの憲法原理原則論にはなりません。
今回の安保法制で合憲論議が空回りしているのは、守るか守らないかの基準としての「ゼロラインが形骸化」しているというだけです。憲法を守るという意義そのものが揺らいだわけではありません。
そして専守防衛という現状・現実のラインが議題として据えられた場合、憲法の「縛り」は十分に機能します。もっと違うところがラインだ、と主張されるのなら、より上に外れる側に立証する責任がありますよね。
そうでないというのであれば、後はもう「憲法を守らなくていい」という理由を説明しなければいけなくなってきます。
それには例えば、
緊急事態だからという意見があります。南沙諸島の危機が待ったなしに迫っており、時間のかかる憲法改正をしている余裕がない、というものです。これを最大限に受け止めたとしても、時間が問題であるならば今回の法案を
時限法にしておき、期限内に憲法改正を試みるという論理的な対処も提案されています。
もう一歩踏み込んで考えると、その憲法改正にあたって賛成派からは
(1)スタートに日本人全体の決定的な意思が参加していたとは言いにくく
(2)それからもう70年が経過した現在でも
(3)発議に過半数ではなく「両院3分2以上」という条件は、3分の1の反対で否決できてしまうという意味において、
「現在の民意」の正しい反映とは言えないのではないかといった指摘も聞かれます。
96条のハードル自体は私は必要なものだと考えていますが、専守防衛の話が非常に特殊であるということを考えれば、この指摘自体には一定の理があるようにも思えます。
憲法改正の議論がチラつく度、サヨクの側はその「価値」を真剣に語るより、世界でも高水準である日本憲法のガチガチの「硬性」に話を押し付けるのみでいたことは、痛いところだからです。
ですから、仮に
「今回の安保法案を時限法にする代わりに、(96条は変えずに)9条改正の発議に賛成し国民投票に入る」という野党提案があったとしたら、サヨクの本音として「ゴリ押しの上の脅迫に負けた」ような思いがする反面、少なくとも「理」のない現状の安保法制の進められ方よりはずっとマシなのかな、と考えてしまいます。
(これだって、ちょっと前からすれば保守の大勝利ですよね)
…で、やっとここまで来ましたが、賛成派も反対派も多くの人は両極パターンではなく、「安保強化は大事だし、専守防衛にも一定の価値はある」という考え方なのではないでしょうか?
(そんなことねえよ!という方は、単に一つ前の極端パターンの話に戻るだけです)
第一、首相答弁で専守防衛に変更はないと述べられているわけですから、我々が真に検討すべきは、このパターンということになるのだと思います。この均衡パターンでは、左と皿と右の皿の折り合いを目指します。
そこで、キモとなる議論はやはり
今回の安保法制で先制攻撃は可能になるのか!?
なのではないでしょうか?
賛成派の方は「ならない」と言います。しかし、ここで賛成派の言っているのはフセインのクウェート侵攻のようなバリバリの侵略のことを指し、そんなことはできない、と言っているのだと思います。もちろんそれは当然です。
しかし、それだけでは回答として不十分なのです。なぜなら、
「先制攻撃」という行為の認識には、大きな「レンジ(=幅)」がある
からです。
単なる侵略だけが先制攻撃ではないのです。
軍事の「最初の一撃」が繰り出される事態には、あらゆる状況が考えられます。
※そして今回検討されている集団的自衛権は想定事態を大幅に膨らませるため、我々はこれまでよりこの判断の難しさを迫られているのです。
誰が見ても明らかな侵略から、自衛権として当然のレベルのものまであります。中には「例え結果がこちらから殴りつけたということになるとしても、抑止力の為にはチラつかせることが必要」と言えるかも知れないものもあるでしょう。
その意味で、日本は自分から選択肢を縛っていると言えます。
ご指摘を受け、追記しました!
専守防衛という他国よりもずっとガチガチな「自分縛り」の方針を掲げている以上、放棄する“先制攻撃”とは「国際法違反の先制攻撃」の基準よりもっと抑制的なのでは、ということです。
地理的制約がなく=日本と離れた場所で、集団的自衛権で発動する「最初の一撃」は、一般に言う「先制的自衛」の範疇であっても、日本の「専守防衛」の枠にはおさまらないものがあるはずです。
「国際法違反の先制攻撃」=侵略をしないというだけなら他国と一緒ですから、ますます日本の「専守防衛」って何なんだ、となりますよね。
やはり日本の防衛を考える上では、どうしてもこの「専守防衛」=自らの選択肢を減らすという方針の不自由さに行き当たります。それは個々の「価値判断」で受け止めるしかないのです。
そして、ここまで概念的であったこの「価値判断」が、「どこまで“最初の一撃”を抑制するか」という具体論のパラメータを示してくれるのです。
「神学論」と揶揄されていた反対派の議論を、具体論の上でゼロか百かではない「定量化」することができたのではないでしょうか?
元々、賛成派の安保強化の必要性はわかりやすく定量化しやすいものですので、ここ来てやっと両派を具体論のものさしで比べることができます。
行き着いてみれば、「専守防衛を維持する」ことは「安保強化を高めること」と単なる一直線上のトレードオフに過ぎないのです。後はそれぞれが左側の「価値」と右側の「必要性」を判断して妥結点を探るだけです。
ホント、当たり前のことしか言ってませんね。「専守防衛方針をどう守りながら、安全保障(=抑止力)をどう高めていくか」の具体論、これだけの話だったんじゃないんでしょうか?
実際の国会では、そのような議論はなされていません。(反対派の反省はもちろんですが)反対派の私から見た賛成派への最大の不満は、賛成派はここでいう右側の皿の話しかしていないことです。単に議論不足なのです。
そして現政権の欺瞞もここにあります。地理的範囲を指定せず、存立危機事態の基準が非常にあやふやな以上、集団的自衛権の名分で米軍の行動にいくらでも参加できるとも言えますから、先に述べた先制攻撃の範囲はほぼ最大限に広がります。
(というより、現政権の方針はそのまんま「抑止力に必要な先制攻撃は全部可能にする。その方が安全になる」って話なんじゃないですかね?)
その主張自体は結構です。しかし「専守防衛は変わりない」と言う以上は、当然のバッティングを片付けていただきたいのです。そこを「説明不足」と指摘されているのです。
要するに、現政権と一部の賛成派の方の意見は、専守防衛方針をどうするかという「実際の日本の防衛上の課題」を語れないという点において、「現実論」でも「論理的」でもないのです。
重要なポイント
この「専守防衛は何を縛るか」という点について、賛成派から内容のある提示がありません。
あったとしても、著名な論客の方ですら「国際法違反を犯さない」というラインでの言及に留まっています。
国際法違反をしないというのは他国でも同じなので、国際法を守るというだけでは、結局のところ日本の専守防衛方針というのは、特に他国より何かを制限しているわけではなかった、と言っていることになります。
それは戦後70年の日本のコンセンサスと大分ズレがあると考えますが、いかがでしょうか?
もしもこの先、
左の皿=専守防衛の価値をしっかりと語ることのできる方が、
右の皿=安保強化の必要性をそれよりもっと「重い」と主張するならば、
我々はそれをしっかり受け止めなければいけません。
そしてそれは、軍事というものの在り方そのものを含んだ、最高峰の防衛議論になるはずです。
あとひとつ、仮に今回は珍しくサヨクに「理」があるとしても、現政権は「理」の外で安保法案を通そうとしてるのだ、という指摘があります。「アメリカの意向が強く、仕方がない」など、そういったものです。
もちろん納得はできませんが、言っていることの認識ならできるかも知れません。確かに私自身、いくらなんでも与党議員(色々な考えの方がいるはずなのに)が片っ端からここまで黙るかな?という素朴な疑問もありますので。
私は賛成派と折り合いたいと考えているので、「ほぼ全員が官邸の威光に対して腑抜けになっている」とかそういう言い方はしたくないのです。
しかしもしもそうだとしても、国民としての議論はやはり論理に拠るべきですし、首相へ細かな説明を促すのにも、論理を基本にすべきではないかと思います。
何より、今回私はこの話を経済系やIT系などに多い「論理性を重要視する方々」、そして西田亮介さんが言われるところの「プラグマティック」な人々に向けて送りたいと考えているのです。
正直もしもこのような考え方を進めた場合、反対派は今より減るかも知れないとも思います。情緒に訴える野党のやり方の方が「今」の世論喚起だけを見たら数が取れるかも知れません。
しかし、私はそれでは世代交代の進んだ10数年後には(反対派は高齢者が多いとは限りませんが)今よりもっと酷い状況が待っているのではと危惧しています。
では、今後サヨクは本当に論理性を獲得できるのか。個人的な意見では、サヨクは新自由主義者と同盟するべきだと考えています。リベラルとネオリベの融合、神様とピッコロの融合みたいじゃないですか。あれもタイミングさえ間違えなければ最強だったはずです。
尚、今回は流石に長くなりすぎましたので割愛しますが、機会があればサヨクとしての私自身の価値判断もお話しできればいいですね。恐らく…
「日本文化の最大の特徴である“曖昧”精神こそ、この問題の根源的な『矛盾』に対峙するのに最も向いているのでは」
とか何とか言い出すと思います。
こういう妄言を潰すためにも、是非保守の皆さんも「専守防衛の価値」を語ってみてください。
諸々の間違いなど、お気づきの点がありましたらどうぞご指摘下さい。
どうもありがとうございました。
今回私が言いたかったのは、
「専守防衛って何?」
ということです。
現政権も「専守防衛」は継続すると言っていますが、果たして「専守防衛」とは何を縛っているのでしょうか?
「国際法違反の先制攻撃」=「侵略」をしないというだけであれば他国と一緒ですので、それでは日本独自・特殊の防衛方針である「専守防衛」を理解できていないということになります。これまで日本は、国際的に「先制的自衛」として認められるものまでも、厳し過ぎるほど自制して来たのです。
つまり「専守防衛」は、「先制的自衛」すらも厳しく縛っているのです。
そして、この度語られている南シナ海問題などへの抑止力強化は「地理的制約を外す」「集団的自衛権」などを必要としています。これは「先制的自衛」の想定ケースが今までに比べ跳ね上がることを意味します。
つまり「安保強化」は、「先制的自衛」をこれまでより開放する必要があるのです。
そうであれば、後は「安全保障の必要性の為に、どこまで『先制的自衛』を可能にしていいか、といった具体論の程度問題にできませんか?」というのが私の提案です。
「自衛隊は違憲ではないのでは?」という声が寄せられています。
13条から個別的自衛権の論拠を引き出し、自衛隊の存在を現実に対応させた先人達の知恵を否定するものではもちろんありません。途中の乱暴な飛ばし方は大変恐縮ですし、私自身も本音で申し上げれば今回の安保法制は「憲法違反」で十分片付く話ではと思っております。
しかし、その個別的自衛権すら一度「解釈」を通っているという指摘が一定の賛同を得て、安定的な数の政権すら維持してしまっている以上、「憲法違反」という指摘を掲げるだけよりも、もう一歩踏み込んだ論理性ある反論を反対派の側が口にするべきだと考えているのです。
大変口幅ったいですが、
サヨクも強くなりたいのです。10年後の為です。
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賛成派だって先制攻撃なんて容認してない
賛成派の方が当然と考えているある種の自衛も「広義の先制攻撃」では?ということです。
先制攻撃という行為の定義が国際法違反の先制攻撃=侵略だけではなく、国際法上もOKな「先制的自衛」すら日本独自ルールの「専守防衛」のもとではNGとされるものがあるのでは、という話です。(特に地理的制約がないことや、集団的自衛権で発動するケースに関して)
ですから後は、専守防衛の価値判断が重要なのではないでしょうか?
日本も国際法の制約を守るから危険なことにはならない
当然です。再三申し上げているのは、日本の「専守防衛」という独自ルールからはみ出すということだけです。「専守防衛」という国際法よりずっとガチガチのルールを日本は自分だけに課しているのです。
このご指摘が出てくること自体、「専守防衛」の特殊性に関してお考えになられていないのだと思います。ですので、その「専守防衛」って何だ、ってことを考えようという話です。
現実に進行中の防衛方針ですので、論点になることは無視できるはずがありません。
右=抑止力強化と、左=先制攻撃放棄は別次元の話だ
実際にどこまで「先制的自衛」を可能にするか、という“現実問題”でその二つはバッティングするのでは、という話です。
地理的制約を外して集団的自衛権を開放すれば、「先制的自衛」を想定するケースは跳ね上がると思います。逆に言えば、正にそれが抑止力だと賛成派は言っているのではないのでしょうか?(手を出そうとすればこっちからやるぞ、という線を増やすこと)
そしてそれに対して、専守防衛は非常に抑制的なのです。
なので、平たく言って、
右=抑止力強化は、「最初の一撃をできるだけ可能にしてチラつかせたい」
左=先制攻撃放棄は「最初の一撃をできるだけ出さない」
だと考えることができれば、単なるトレードオフで折り合いがつけられるのではと思っています。※折り合いたくて言ってるんです。ちなみに私自身はもちろん最大限抑制的でありたいと考えております。
今回の安保法制が専守防衛とバッティングしないというのなら、専守防衛ってホントに何なんでしょう。