仕事用の inbox に “Happy Anniversary!” というメールが届いていた。 入社してから三年経ったらしい。我ながらよく頑張った。
今の仕事にはまあまあきついところもあり、きついといってもデスマ的なきつさとは違うんだけど、 たとえば自己主張の強い人々と議論するなんてのはきつい。 気の弱い私はなるべく成り行きに任せることでしんどさを小さくしようとしている。 けれど成り行きに任せすぎると意思決定の無力感が板についてしまう。バランスはあやうい。
今のところの私が完全な無力サイドにおちず踏みとどまれているのは、 チームの同僚やリードによるところが大きい。
苦手な仕事
私は日頃ブラウザのバグをとったり、 JavaScript から使える新機能の API を生やしたりといった仕事をしている。
嗜好に限った話をすると、API を生やすよりバグをとる方がすきだ。 バグをとると皆ハッピーになる。あまりケチはつかない。 きわどいバグはアーキテクチャの歪みを教えてくれる。それを正すとすっきりして気分がいい。 凝り固まった筋肉をのばすストレッチ体操のよろこびに似ている。
API を生やす仕事はバグとりほどすみやかでもよろこばしくもない。 新機能は多かれ少なかれソフトウェアの中身を複雑にする。 そんなコードは必ずしも歓迎されない。それに標準化の議論もある。
公のメーリングリストなどで進む標準化の議論には、私は今のところ口をだしていない。 あの意見の多い船頭のあつまりに乗り込む気力がわかない。 公の場に出す叩き台を会社の中で議論するときは、なんとか口をはさもうとする。 でも同僚相手だからといって議論が簡単になったりはしない。 よく言えばフランクな、歯に衣着せないメッセージが飛び交うし、話が脱線あるいはループすることもある。 宗教論争じみた抽象論にもつれこむこともなくはない。
コードを書く以外の仕事がプログラマにあるとしたらそれは議論だろう、 なんてのは誇張がすぎる。でも話に首をつっこむ苦労は標準化に限ったものではない。
メールを通じたオンラインの議論も、顔を合わせての議論も、それぞれのしんどさがある。 顔を合わせた方がだいたい良いはずなのだけれど、 相手のしゃべりが早すぎて何言ってるのかわからん、なんてことは恥ずかしながらよくある。
What do you think?
議論についていく体力が尽き、もう好きにしろと意識の底に沈みかけていると、ときどきこうやって水を向けられる: Hey, what do you think? - 君はどう思う? 意見を問われている。はっと目を覚ます。いちおう存在は認知されてたのか・・・。
メールなんかでは、よく What do you think? を略して WDYT? と書く。
実際のところ、挫けかけている議論の多くでは話の流れすらわかっていない事が多い。 それでもわかる範囲で口を挟む。その API よりこうした方が面倒がすくなくていいよね、なんて話をする。 そういう発言が受け入れられることもある。主張が通るのは嬉しい。 意見がなくても、よくわかってないんだけどと復習をおねがいして議論に復帰することもある。 疲れて面倒になっているときは、まあいいんじゃないなんてお茶を濁す。
水を向けられたら何か言える程度には話を追いかけておこう。 はっきり自覚はないけれど、私はそんな風に議論を眺めているのかもしれない。 自分のターンがやってくる可能性によって論戦のなか湧き出す無力感をおしとどめている。
誰もがいちいち相手に水を向けるわけではない。 メーリングリストやミーティングは議論の場であり、そこには暗黙の WDYT? がある。 相手に促されるのを待つまでもなく自分から口をはさめばいい。というか、それがふつう。
だからどちらかというと、WDYT? は励ましの言葉だ。お前もなにか言え、意見があるはずだ。 WDTY? の持ち主は疑問符で私達の背中を押す。 自ら口火を着るのが苦手な私でも少しは議論の輪の中に居場所がある、 この感覚は、たびたび WDYT? を唱えるチームメイトあってのことだろう。
影響をうけやすい私は、自分のメールでも WDYT? を使ってみる。 実際ためしてみると、これが単なる励ましテンプレートでないことに気づく。 機械的に WDYT? と付け加えただけのメールは収まりが悪い。 どう思うっていうけど何を訊きたいの? 言いたいことを並べただけのメールには問いがない。 だから最後に放り出された疑問符が唐突に映る。
メッセージを WDYT? と締めくくるなら、その前に一連の問いが必要だ。 論点を示し、自分の意見や懸念、疑問や不安を積み重ねて、 ようやく WDYT? をトッピングできる。 文末の WDYT? はメッセージの輪郭を照らしだす。 そのシルエットにあわせて言葉を押し広げ、畳み込み、切り整える。
Does this make sense?
何かを問うことが、議論を実りあるものにする。
議論を導く問いの定型句は他にもある。 WDYT? と同じくらいよく見かけるのは Does this make sense? - 筋が通ってるとおもう?
発言の意図が見えず話が食い違いそうなとき、曖昧な質問にあてた返事が的を射ているか怪しいとき、 話が噛み合っているのを確認するために Does this make sense? と念を押す。
WDYT? が議論に発破をかける花火だとしたら、Does this make sense? は話が道に迷わないための誘導灯。 誰かと知らない街を旅している。相手が黙って先を急いだら、少し不安でもあとを追うだろう。 こっちでいいんだよね?といわれたら、ちょっと待ってと立ち止まり、地図を見るだろう。 Does this make sense? は相手に振り向き視線を送る。
WDYT? 同様、Does this make sense? にも文章の背筋を伸ばす張力がある。 捨て台詞のあとに Does this make sense? とは書けない。 文末の疑問符が making sense な説明を求め私に訴えかける。
WDYT?, Does it make sense? - こうした定型的、修辞的な疑問句は、具体的に何かを問うてはいない。対話を促す相槌に近い。 だから腰がひけているとき、さっさと話を終わらせたいときは、無意識に疑問符が消える。 文中に現れる修辞的疑問句の数とその対話の懐の広さは呼応する、気がする。
角の立ちそうな、でも見逃してほしい提案に対し、ご意見番から質問がやってきた。 慎重にしたためた言い訳の文末を、 Hope this answers your question. - とピリオドに閉じこめる。 Does this make sense? と問えない自分の気の弱さにどんよりする。相手のレトリックに舵をとられ、嬉しくない結論にたどり着くのを恐れている。 問いによって関心の扉が開かれた今こそ、相手の懐に入り込む好機だ。本来は。それはわかっている。ただ胆力が足りてない。
Are you happy with this?
長く続いた議論の果て、ぼろぼろの結論を手に幕を下ろそう。Are you happy with this? - これでいいよね?納得したね?
この疑問符は反論を求めていない。ただ合意の程度を問うている。 メールであまり見かけない表現なのは、 それなりに近しい間柄でないと相手の happiness を推し量るのが憚られるためだろうか。
疑問符から道をひらき、疑問符で励まし、疑問符に歩み寄り、疑問符越しの握手を交わす。 そんな頼もしい大人になれればと思わなくもない。でもちょっとムリかな。どう思う?