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ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2

東浩紀「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2」は、とても親切な本であり、まずはそれに感心した。

前作となる「動物化するポストモダン」に限らず、これまで東浩紀の著作のやり方は、主張を固めるための検証作業がともすれば大雑把であるし、また、さほどに関連性が深いとは言えない事例を強引に繋ぎ合わせて一つの流れを意識させようとするものがあった。僕はこのやり方を批判するものではない。むしろ、あざやかに全体の論旨を生み出していくダイナミックさに感銘を受ける。

しかしもちろん、このような書き方は批評の言語としては今の日本で例の少ないものだから、読者は彼のやり方に違和感を感じるかもしれない。だが彼がなぜこれを選んでいるかということは、現在に至るまでの東浩紀の批評活動のルーツがすべて収められた「郵便的不安たち#」を読めば明確に分かるはずだ。ここでは簡単に触れるまでにしたいが、要するに彼の動機にはポストモダン化が徹底された現代においては批評がもはや成り立たないという強い危機意識がある。そして、超越的な論理によって社会全体を語ることができない時代には、従来的な言論はオタク的に各分野を追求するしかできなくなってしまう。彼はそれに抵抗している。各分野で閉塞せず、しかも超越的な論理なしでもジャンルを横断できる批評の方法を模索しているのだ。あの豪快な書き方はまさにそれである。彼は個々の例示について微に入り細を穿った「事実としての」正確性を求める論考を否定しないが、しかし今、自分は必ずしもそうあらなくてもよいと思っている。そこに僕は批評の言語を活性化させるための力強い意志を見る。

しかし多くの読者は批評というものが特定分野に対する博物学的な「まとめ」から成り立っていると考える。だから読者はそのような作り方を追求しない東浩紀の文章にしばしば驚き、場合によっては拒否反応を示すことになる。例えば彼はしばしばオタクについて書いているが、細部に拘るオタクにとっては「例示すべき作品名が間違っている」または「作品内外の背景事情を深く理解していないため間違った読み方をしている」という批判の対象となる。あるいは、論旨を作る上で根拠が薄いと言われてしまうこともある。しかし東浩紀はそんな詳細な検証をやっていくのが自分にとっての第一義であるは思っていないから、批判に対して「それが何だ」という顔をして、どうかすると自分の考えるように読まれていないことに不愉快そうですらある。批評が博物学的な「まとめ」の積み重ねだとばかり信じている読者には、なぜ彼が不愉快なのか理解できないだろう。彼が批評について何を考えているかをまず理解しなければ、彼が著作を通して何を伝えたいのか理解するのは難しい。著者と読者の間にこの相互不理解があるのは、東浩紀が批評の抱えた問題をまだまだ一般読者の問題として伝え切れていないために起こっているはずだが、しかし彼は昔からたびたび書き、訴えている内容なのも事実なので、一向に理解しない読者の過失でもあるだろう。個人的には、それが理解され、浸透しない仕組みに何かがあると東浩紀に考えてほしいと思う。しかしそれは彼の問題ではないのかもしれないし、そこを気にするのは僕が読者の意識について今こだわっているからだと思う。

いくぶん遠回りになったが「ゲーム的リアリズムの誕生」の話を始めよう。この本も確かに東浩紀のダイナミックな論理展開を持っているが、しかし読者に対するケアを怠らず、議論を明快に進めていこうとする。これは今までの東浩紀の本では見たことのないものだ。おそらく「動物化するポストモダン」という、これまでの東浩紀でおそらく最も広く読まれた本の続編として、前作に違わず、またさらに広い読者に受け入れられるために選んだ書き方だと思われる。まず、この本は構成まで明快だ。前半ですべての理論を示し、後半でその理論を自ら使ってみせる。「理論をツールとして使うとはこういうことだ」という実践を彼は見せてくれているのである。今はごく簡単に触れるだけしかできないが、彼はここで自分の理論を読者が考えを広げるためのツールとして使ってほしがっている。社会学的な語り口が一般化した昨今では、状況分析がしばしば分析自体を目的として成り立ち、人々はそれに慣れすぎている。東浩紀は時評としてマッピング(位置付け)とランキング(格付け)だけを氾濫させるのではなく、理論によって思考を開始する手順を示しているのだ。理論が、この本で扱っている内容を超えてさまざまなことを考え始めるための糸口になれるというのである。

理論のパートでは、噛んで含めるように読者の理解を確認しながら話を進める。読者に高みを見せるために一歩一歩と共に石段を上ってくれるごとき姿勢はたいへん好感が持てる。この姿勢は、本文や注釈において各論についての反論の余地が示され、それぞれについて彼の議論を妨げるものではないことをきちんと説明するさまからも伺える。特に、これは前作であった批判を念頭において先回り的に言及しているのかもしれないが、個々の作品についての細かな事実関係については本論と関係がないということが何度も書かれている。この細かなエラートラップのように張られた自省と検証がありながら、しかも彼の持ち味である論理のダイナミズムが維持されるのは全く素晴らしいと思う。次第次第に読者と共に論理の頂点に達して眺望を見渡し、いよいよ本の後半から各作品に対してポストモダン的な読解を始めるという展開は実に爽快感がある。この着実で活き活きとした議論の進め方は、全く優れたエンタテインメントとして読めるものだ。

東浩紀がこのような書き方をできたのは、当然のことながら東浩紀を取り巻く前作以降状況が大きな影響を及ぼしていると思われる。これは「ファウスト」との関係などによってライトノベルのシーンに彼が接近したため、この本が全体としてライトノベルを主に扱った文芸批評として成り立ったということだけを意味しない。例えば前作の時期に比べて「オタク」や「萌え」がここまでポピュラーになったことは彼にとって悪いことではなかった。「動物化するポストモダン」では、分野や世代においてあまりに広がりすぎている「オタク」「萌え」などを読者に対して1から紹介しつつ、そこから日本社会のポストモダン化を読み解くという形式を持っていたために、あの本はしばしばジャーナリスティックな観点から単にオタク文化やその特性を世に紹介したいものだと誤解されたことがあったと思う。東浩紀がオタクを引き合いに出して語りたかったのは社会のポストモダン化についてだったが、読者の読解によってはオタク文化を紹介する姿勢のみを読み取り、そこから「日本では現状においてオタク文化が台頭している」という誤解した形での時評としてあの本を扱ったり、また前述したように、「紹介されている」個別作品やその読み解き方だけに固執されることがあったのである。

しかし今や「オタク」などは社会的に十分認知され、東浩紀はそれらのカルチャーを紹介する役を兼任する必要が全くない。かくしてこの本はライトノベルやノベルゲームに限定した形で議論を進めて他のジャンルへとぶらす必要がなく、話がまとまって読みやすいものになったと思う。「文学」という、古くから批評が語るフィールドとしてなじみの題材だったこともよかったかもしれない。いずれにせよ非常に敷居が低く、しかも前作以前から引き続いている質の高い理論を端折らずに提供できているため、新しい分野を新しい言語で語り、新しい読者へ訴えかける批評と呼びうる優れたものになったと思う。これは東浩紀が前々から目指している批評の形としても高い完成度だと言っていいのではないだろうか。言うまでもないことだがこれは議論がアカデミックであるか否かというレベルの問題ではない。しかし結果として前作以上に新書という書籍形態にうまくチューニングすることにも成功していると思われる。

ただ、それでもこの本を誤解して読んでしまう読者はいるだろう。例えば、東浩紀はこの本に書かれた「ゲーム的リアリズム」が台頭することによって従来文学における自然主義的なリアリズムは駆逐されると主張し、彼自身がそれを望んでいると思う読者がいるだろう。誤解してはならないのは、やはりこの本は全く前作と同様に時評的ではないし、また単に文学の新しい(「次の」)トレンドを紹介するものではないということである。

東浩紀はもちろん、読者がそのような読み間違いをしないために必要な言葉を注意深く用意してくれている。まず、先ほども述べたように今の日本はポストモダン化が徹底された状態にある、ということである。それはつまり「ゲーム的リアリズムによって自然主義的なリアリズムは駆逐されたりしない」ということそのものなのだ。ゲーム的リアリズムは自然主義的リアリズムからすげかえられるべく現れたわけではないし、また概念的に上位に位置するわけでもない。それが全く別のものとして、バラバラに成り立ったときに、自然主義的なリアリズムにとって異質だという理由でうち捨てることができないというのがポストモダン的な状況なのである。「まんが・アニメ的リアリズム」であろうと「ゲーム的リアリズム」であろうと、既存とは異なった作品は次々に現れ、爆発的に売れ、表現の上での洗練もますます加速している。しかし従来的な批評の言語はいまだにそのようなものを扱うことすらできないため、ただ無視したまま衰退していっている。ここに批評の迎えている危機があり、この本で東浩紀が提示している理論とは、批評がこれらの作品を読むための力を得るためのダイナミズムなのである。

僕は読みながら、伊藤剛の「テヅカ・イズ・デッド」を思い出していた。あの本も、従来のマンガ批評が「ガンガン」などに掲載されてた新しいマンガ作品を無視していることへの問題視からはじまっている。二作のスタート地点は同じだし、さらにそれがアニメであろうと音楽であろうと小説であろうと、政治思想であろうと、今やあらゆる場所でそういうことが起こっている。彼らの仕事はいずれも「大きな物語」ですべてを束ねることができず従来の批評が限界を示した時代に、いかにして批評を成り立たせるかというものである。

逆に言えば、彼らがやっていることはそれらの無視された作品たちを当然のものとして享受している幸せな読者のためのものではない。「ゲーム的リアリズムの誕生」が迎えようとしているのは、これらの作品を理解できない古い読者たちである。彼らはひょっとすると社会がすっかり変わってしまったということをいまだに理解していない。自分たちが敗北したとして、誰か別の人が自分たちのいた位置に座るのだろうかと考えてしまうほどに、ポストモダンという状況を理解していない。東浩紀が何とかしようとしているのは、そのような時代感覚である。同時に、あと15年もすれば、「ゲーム的リアリズムの誕生」に書かれたことなんて当たり前のものとして扱える論客がたくさん現れるだろう。僕はつまり、そのときこの本は不要になるのかもしれない、と思っているのだ。それこそ、ライトノベルの若い読者層にとっては、自然主義的リアリズムなど敵でも味方でもない。実際、若い世代の作品への触れ方はリアリズム自体を全く意に介していないほどにとても自由だ。だから結局これは「大きな物語」に束縛されて不自由を抱えた、最後の世代ための書物なのではないかと思う。もちろん東浩紀だってそんなことには気づいているだろう。しかしこの本が「時代遅れ」と言われるようなころが来るなら、彼もきっとそれを喜んで、新しい言論の到来を祝うことだろう。

2007.05.11 | | コメント(0) | トラックバック(0) | [文章] [マンガ] [アニメ] [ゲーム

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