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偏愛の館(仮題)

偏愛の館(仮題) 2

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 その後、兄は再び眠ってしまった。わたしは兄の身体に毛布を掛けて、そっと部屋を出た。
「まずは、食材を手に入れないと」
 この屋敷に来る途中、商店街のような道を通ってきた。そして、その道が小学校への通学路でもあった。とにかく何か食べないと、お腹が空きすぎていた。
 お金は母が遺してくれたものが多少あったが、それも大した額ではない。桃山さんが要らない家財道具を売る手はずを整えてくれたりしたが、処分する物の費用を差し引けばほとんど手元には残らないようだった。
 内定していた就職は家が遠くなったため、辞退するしかなく、今後はこの土地で仕事を探していかなければならない。それでも家賃がなくなっただけでもだいぶマシだったので、住む場所があることだけは有り難い。
 食料品と並んで日用雑貨も実は何もかも不足している。だけど、それはおいおい考えるとして、今、必要なのは、食べ物だ。
 わたしは、応接間に置いたままの荷物を引っ張り出し、そういえば、以前使っていたわたしの部屋は今どうなっているんだろう、と初めて2階へ足を踏み入れてみる。家の中至る所にうっすらと埃が積もり、いったいどれだけの間、ここは誰も訪れなかったんだろうと思う。ちょっとアンティークな造りの木製の階段、板張りの壁、木目のある床材。住んでいた当時はなんとも思わなかったのに、懐かしくて、ここに戻れたことを、再び触れることが出来たことを心よりも身体が素直に嬉しいと感じているようだった。
 踊り場を過ぎて庭に面した方へ折れたとき、2階への階段の先、つまり廊下の方からふわっとした光が差してきた。廊下の窓からの太陽の光かと思ったが、その光は一瞬ふわりとわたしを包んだだけで消えていった。
 おや? と立ち止まってみたが、その後何の変化もなかったので、わたしはどんどん蘇ってきた記憶の波と共に、階段を上り切った。
 玄関脇から繋がっていたこの階段は屋敷の中央よりずれているので、廊下は左右の長さが違う。短い方には部屋が二つあり、手前から兄の部屋と奥がわたしの部屋で、反対側に両親の部屋と、客間があった。
 わたしは真っすぐに自分の部屋まで進み、そっと扉を開けてみた。きしむ音がするかと思ったが、ふわっという滑り具合で扉は開き、やはりカーテンを閉め切った状態の薄明るい空間が目の前に広がった。それでも、部屋の間取りが大きく窓も大きいので、階下のあの狭い空間とは違って圧迫感もないし、イヤな感じはしない。
 何より驚いたのは、蘇った記憶そのままの部屋が保存されてあったことだ。埃は多少積もっていたが、10年も放置されていたとは思えない。せいぜい数年分程度に見える。あ、そうか、とわたしは思った。
「使用人を解雇したのは数年前って言ってた」
 それまでは掃除だけはされていたのかも知れない。
 小さな勉強机とボード、書棚、ソファとテーブル。ベッドに掛かった羽毛布団とカバーの柄も覚えていたし、天蓋付きのベッドもただただ懐かしかった。だけど、わたしにとってはもはや異空間のようだ。ここに住もうという気にならない。
「もう少し狭い部屋はなかったかな」
 わたしは、自分の部屋だった空間を後にする。
 ふと呼ばれたような気がして、兄の部屋の前で立ち止まった。ここに入ったことはあっただろうか。中から兄の友人たちの声が聞こえていて、慌てて外へ飛び出した幼い日のことを思い出した。部屋の中を覗き込んだことくらいはあったかも知れないが、入った記憶はなかった。
 それで、わたしはなんとなく躊躇われて、扉に手を掛けることなく階段を下りてきた。
「さて、買い物!」
 わたしは、財布とハンカチだけを入れた小さなバッグを持って、外へ出た。

「お兄ちゃん、遅くなってごめんね。お腹空いたでしょ?」
 物置の隅からワゴンを見つけて、わたしはそれに作った食事を乗せて部屋まで運んだ。扉を開けると、兄はだるそうな表情で半分身体を起こした状態でベッドに寄り掛かっていた。
「こうちゃん、名前」
「え」
「名前で呼んで」
「あっ…凪」
 野菜スープと豚肉の生姜焼き、それから炊飯器がなくてベーカリーで買った食パンだった。
「和なのか、洋なのかよく分からないけど」
「ありがとう」
 兄は微笑んだ。しかし、床に直接皿を並べて一緒に食べ始めたのだが、すぐにわたしは兄がほんとうに食べ方を忘れてしまったのではないかと思った。箸が使えないとか、食器が持ち上げられないとかそういう問題ではない。口に入れた食べ物を咀嚼して飲み込むことが出来ていない。辛うじてスープだけを少し口に含んでやっとの思いで飲み込む程度。
「お兄ちゃん、だ―」
 すっと真顔で見つめられて、わたしはハッとして言い直す。
「凪、大丈夫?」
 しまいに、兄は口に含んだ食べ物にむせて、吐き出してしまった。わたしは慌てて兄の背中をさすり、彼の頭を抱きしめた。
「今まで…じゃあ、今までどうやって何を食べてたの?」
 げほげほと苦しそうに咳込み、兄は、ぜいぜいと肩で息をして、ふらりとわたしの腕に倒れ込んできた。Tシャツから伸びた腕の針の痕に目を留めて、わたしは何故か思った。
「お兄ちゃん、もしかして、口で食べてなかったの? 注射とか…点滴みたいなのとか?」
 背中がぞくりと冷えた。
 いったいどういうこと?
「ねえ、お兄ちゃん。今まで何があったの? 何をされてたの?」
「こうちゃん」
 兄はうっすらと口の端をあげた。
「名前で呼んでよ」
 
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