チベット・モンゴル条約百周年!
昨日、院生Mに言われて、本日が調度百年前にチベット・モンゴル条約が締結された日であることを思い出した。なので本日急遽チベット・モンゴル条約に関するエントリーをあげる (確認の甘い部分があると思うので、気がついたところからあとで治す)。
20世紀初頭、清朝は主要な地に限って官員を駐在させ、チベットとモンゴルの社会と文化は尊重するという伝統的な政策を一方的に廃し、モンゴルと東チベットにおいていわゆる「新政」という名の実効統治を開始した。この情勢を受けてチベットとモンゴルの王侯たちはそれぞれの立場から様々な対抗措置をとった。
ハルハ・モンゴルは1911年に中国からの独立を宣言し、モンゴルにおけるチベット仏教界のトップ、ジェブツンダンパ八世を国王として推戴した。このあとモンゴルはロシアの庇護を受けることに成功し、結果として現在も独立国として存続している。
一方、チベットにおいては、チベット仏教界のトップ、ダライラマ13世が1913年に亡命先の英領シッキムから帰還して、チベット人に対して、施主であった清朝は崩壊したこと自立すべきこと布告し(前回のエントリー)、一ヶ月後、チベットとモンゴルとの間に互いの独立を承認しあう友好条約を結んだ。それが、百年前の今日、締結されたチベット・モンゴル条約である。
以後、チベットは1950年まで事実上の独立国として機能したものの、その後共産党の軍隊に占領されて現在に至る。清朝の影響力という視点から見れば、はるかに影響力の小さいチベットが現在中国の支配下にあり、より強かったモンゴルは独立国として存在するという対照的な結果となったのである。
実は、この条約は全権大使がドルジエフである。しかし、イギリスの行政官チャールズベルに対して時のチベット政府は、このドルジエフにダライラマ13世は全権委任していない、といっているし、某研究者は(名前だしてよかったら出しますので連絡ください)、この条約の締結の状況が現在不明であるため、はっきりしたことは言えないが、条約の言葉使いがチベット側の承認を得たものとはとてもいえないこと、たとえば、「チベットが清朝の支配下からでた」という表現は、モンゴルにおいては妥当であっても、前述したようにダライラマ13世は一貫して「チベットが清朝皇帝の支配下にいた」という認識を否定しているので、矛盾すること、この条約はモンゴル主導で締結されたものではないかという。
まあ、そういうわけで、いろいろ物議をかもしている条約だけど、当時のダライラマ13世とモンゴルのジェブツンダンパ8世が、チベット仏教という共通の文化を基盤に、助け合うことを誓い、文化の違う中華民国を全否定していたという事実には変わりない。
●「チベット・モンゴル条約」(1913年1月11日) 調印地 フレー(現ウランバートル)
我々モンゴルとチベット両〔国〕は,満洲政権の支配下から脱し中国と別れてチベット・モンゴルそれぞれ独立国家を為した。過去より現在に至るまで,チベットとモンゴルの両者は仏教政治を一つにして,大変緊密な関係であるので,今、〔それを〕さらに確かなものとする方法として条約を締結する。その内容は,
モンゴル国の皇帝のご命令により条約締結の権限を与えられたりは:
外務大臣衙門の大臣であるターラマ=ニクタ=ビリクト=〔ラプタン〕
副大臣にして将軍職にあるマンレー=バートゥル=ベイレ〔ダムディスレン〕
チベットの国の皇帝であるダライラマ御前のご命令によって条約締結の権限を与えられたのは、
侍従ツェンシャプ=ケンチェ=ロサン=ガワン(ドルジエフ),
ツェドゥン・ガワン=チューズィン、フレー(ウランバートル)の布施管理官ツェドゥン=イェシェー=ギャツォ
書記ゲンドゥン、ケルサンが条約を締結した。
第一条:モンゴル〔人〕が独立国家を為し,黄帽派の主たるジェツンダンパ=ホトクト御前を鉄の豚の年11月9日に皇帝として推戴したことを,チベットの皇帝であるダライラマ御前は称揚して,確認し変わらないものとした。
第二条:チベット人が独立国家をなした上で,ダライラマ御前を皇帝として推戴したことを,モンゴルの皇帝であるジェツンダンパ御前は称揚し,確認し変わらないものとした。
第三条:尊い仏の教えを衰えさせず興隆させるために,我々両国は協議のうえで努力せねばならない。
第四条:チベットとモンゴルの両〔国〕はこれより後,常に,内外の脅威より相互に,護り合い助け合うものとする。
第五条:仏教政治の仕事や仏教政治の学習のために,〔チベットとモンゴルを〕相互に往来する者達は,それぞれの地において援助しあうこと。
第六条:チベットとモンゴルの両者はそれぞれの地域から産出される産物・家畜・皮革製品などの商品の移動,金の移動の中で決済の時期がきた時には,従来と同様〔その決済を〕妨げることはない。
第七条:今後,金銭の貸し付けをおこなう時には,貸借時に印務処に申請して押印して確認を行っていない時には,負債を取り立てる時,役所に申し立てないこと。ただ、条約を締結する前の債権者で互いに苦境にあって実際の関係がある時には、〔債務者を〕取りたて支払わせてもよい。しかし,〔債務者の〕シャビや旗民に対して負債を負わせない。
第八条:この条約を締結した後,追加すべき重要事項がある場合には,チベットとモンゴルの両国は,権限を付与された大臣らを任命して,協議してもよい。
第九条:この条約文を締結して押印し確認した不変なものとなしてからは,この内容そのままに〔実行〕すること。
モンゴル国の皇帝の地から任命されて、条約締結の権限を与えられた
外務大臣衙門の大臣であるターラマ=ニクタ=ビレクトゥ〔ラプテン〕、
副大臣にして将軍職にあるマンレー=パートゥル貝勒〔ダムジスレン〕
チベット国の皇帝である勝者王ダライラマ御前が任命して条約締結の権限を与えた大臣
ツェンシャプ=ケンチェ=ロプサンガワン
ツェドゥン=ガワン=チューズィン
ウランバートルの金融管理官(布施管理官)ツェドゥン=イェシェーギャムツォ
書記のゲンドゥン、ケルサン
モンゴル国の共戴2年12月4日〔に締結した〕。
*(13年2月25日に前のテキトーな訳を下げて、チベット語原文よりの訳をいれました。)
20世紀初頭、清朝は主要な地に限って官員を駐在させ、チベットとモンゴルの社会と文化は尊重するという伝統的な政策を一方的に廃し、モンゴルと東チベットにおいていわゆる「新政」という名の実効統治を開始した。この情勢を受けてチベットとモンゴルの王侯たちはそれぞれの立場から様々な対抗措置をとった。
ハルハ・モンゴルは1911年に中国からの独立を宣言し、モンゴルにおけるチベット仏教界のトップ、ジェブツンダンパ八世を国王として推戴した。このあとモンゴルはロシアの庇護を受けることに成功し、結果として現在も独立国として存続している。
一方、チベットにおいては、チベット仏教界のトップ、ダライラマ13世が1913年に亡命先の英領シッキムから帰還して、チベット人に対して、施主であった清朝は崩壊したこと自立すべきこと布告し(前回のエントリー)、一ヶ月後、チベットとモンゴルとの間に互いの独立を承認しあう友好条約を結んだ。それが、百年前の今日、締結されたチベット・モンゴル条約である。
以後、チベットは1950年まで事実上の独立国として機能したものの、その後共産党の軍隊に占領されて現在に至る。清朝の影響力という視点から見れば、はるかに影響力の小さいチベットが現在中国の支配下にあり、より強かったモンゴルは独立国として存在するという対照的な結果となったのである。
実は、この条約は全権大使がドルジエフである。しかし、イギリスの行政官チャールズベルに対して時のチベット政府は、このドルジエフにダライラマ13世は全権委任していない、といっているし、某研究者は(名前だしてよかったら出しますので連絡ください)、この条約の締結の状況が現在不明であるため、はっきりしたことは言えないが、条約の言葉使いがチベット側の承認を得たものとはとてもいえないこと、たとえば、「チベットが清朝の支配下からでた」という表現は、モンゴルにおいては妥当であっても、前述したようにダライラマ13世は一貫して「チベットが清朝皇帝の支配下にいた」という認識を否定しているので、矛盾すること、この条約はモンゴル主導で締結されたものではないかという。
まあ、そういうわけで、いろいろ物議をかもしている条約だけど、当時のダライラマ13世とモンゴルのジェブツンダンパ8世が、チベット仏教という共通の文化を基盤に、助け合うことを誓い、文化の違う中華民国を全否定していたという事実には変わりない。
●「チベット・モンゴル条約」(1913年1月11日) 調印地 フレー(現ウランバートル)
我々モンゴルとチベット両〔国〕は,満洲政権の支配下から脱し中国と別れてチベット・モンゴルそれぞれ独立国家を為した。過去より現在に至るまで,チベットとモンゴルの両者は仏教政治を一つにして,大変緊密な関係であるので,今、〔それを〕さらに確かなものとする方法として条約を締結する。その内容は,
モンゴル国の皇帝のご命令により条約締結の権限を与えられたりは:
外務大臣衙門の大臣であるターラマ=ニクタ=ビリクト=〔ラプタン〕
副大臣にして将軍職にあるマンレー=バートゥル=ベイレ〔ダムディスレン〕
チベットの国の皇帝であるダライラマ御前のご命令によって条約締結の権限を与えられたのは、
侍従ツェンシャプ=ケンチェ=ロサン=ガワン(ドルジエフ),
ツェドゥン・ガワン=チューズィン、フレー(ウランバートル)の布施管理官ツェドゥン=イェシェー=ギャツォ
書記ゲンドゥン、ケルサンが条約を締結した。
第一条:モンゴル〔人〕が独立国家を為し,黄帽派の主たるジェツンダンパ=ホトクト御前を鉄の豚の年11月9日に皇帝として推戴したことを,チベットの皇帝であるダライラマ御前は称揚して,確認し変わらないものとした。
第二条:チベット人が独立国家をなした上で,ダライラマ御前を皇帝として推戴したことを,モンゴルの皇帝であるジェツンダンパ御前は称揚し,確認し変わらないものとした。
第三条:尊い仏の教えを衰えさせず興隆させるために,我々両国は協議のうえで努力せねばならない。
第四条:チベットとモンゴルの両〔国〕はこれより後,常に,内外の脅威より相互に,護り合い助け合うものとする。
第五条:仏教政治の仕事や仏教政治の学習のために,〔チベットとモンゴルを〕相互に往来する者達は,それぞれの地において援助しあうこと。
第六条:チベットとモンゴルの両者はそれぞれの地域から産出される産物・家畜・皮革製品などの商品の移動,金の移動の中で決済の時期がきた時には,従来と同様〔その決済を〕妨げることはない。
第七条:今後,金銭の貸し付けをおこなう時には,貸借時に印務処に申請して押印して確認を行っていない時には,負債を取り立てる時,役所に申し立てないこと。ただ、条約を締結する前の債権者で互いに苦境にあって実際の関係がある時には、〔債務者を〕取りたて支払わせてもよい。しかし,〔債務者の〕シャビや旗民に対して負債を負わせない。
第八条:この条約を締結した後,追加すべき重要事項がある場合には,チベットとモンゴルの両国は,権限を付与された大臣らを任命して,協議してもよい。
第九条:この条約文を締結して押印し確認した不変なものとなしてからは,この内容そのままに〔実行〕すること。
モンゴル国の皇帝の地から任命されて、条約締結の権限を与えられた
外務大臣衙門の大臣であるターラマ=ニクタ=ビレクトゥ〔ラプテン〕、
副大臣にして将軍職にあるマンレー=パートゥル貝勒〔ダムジスレン〕
チベット国の皇帝である勝者王ダライラマ御前が任命して条約締結の権限を与えた大臣
ツェンシャプ=ケンチェ=ロプサンガワン
ツェドゥン=ガワン=チューズィン
ウランバートルの金融管理官(布施管理官)ツェドゥン=イェシェーギャムツォ
書記のゲンドゥン、ケルサン
モンゴル国の共戴2年12月4日〔に締結した〕。
*(13年2月25日に前のテキトーな訳を下げて、チベット語原文よりの訳をいれました。)
COMMENT
● 管理人のみ閲覧できます
| | 2013/01/13(日) 19:12 [EDIT]
| | 2013/01/13(日) 19:12 [EDIT]
このコメントは管理人のみ閲覧できます
● 「チベットの文化大革命」
ちーぱく | URL | 2013/01/14(月) 16:29 [EDIT]
ちーぱく | URL | 2013/01/14(月) 16:29 [EDIT]
久しぶりの書き込みです。しばらく訪問してなかったのですが、最近ちょこちょこ読んでます。クリスマスプレゼントが秀逸で爆笑でした。学生時代に戻りたい、とちょっとだけ思いました。
ところで、産経新聞の書評欄(2013年1月13日付)に「チベットの文化大革命 神懸り尼僧の『造反有理』」(メルヴィン・C・ゴールドスタイン他著、風響社)の書評が掲載されていました。
★ネットにもありました(購読料ムダ?)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130113/bks13011309130005-n1.htm
チベットもの、あと商売がら中国モノはの本は常々チェックしてて、内容によってはわりとソッコーで買ったりするのですが、書評を読んでも「おもしろいのだろうか?」とちょっとよくわからない。
なにぶん3,150円もするので、ご利用は計画的に、かも。
白雪姫はもうお読みになりまして
ところで、産経新聞の書評欄(2013年1月13日付)に「チベットの文化大革命 神懸り尼僧の『造反有理』」(メルヴィン・C・ゴールドスタイン他著、風響社)の書評が掲載されていました。
★ネットにもありました(購読料ムダ?)
http://sankei.jp.msn.com/life/news/130113/bks13011309130005-n1.htm
チベットもの、あと商売がら中国モノはの本は常々チェックしてて、内容によってはわりとソッコーで買ったりするのですが、書評を読んでも「おもしろいのだろうか?」とちょっとよくわからない。
なにぶん3,150円もするので、ご利用は計画的に、かも。
白雪姫はもうお読みになりまして
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