『ロベスピエール』

佐藤太郎(仮)
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ピーター・マクフィー著 『ロベスピエール』





訳者あとがきによると、「ロベスピエールについて日本語で読める書籍は意外に限られている」のだそうだ。その知名度からすると、意外なほど伝記も研究書も数は多くはない。一方フランスや英語圏では今でも盛んにロベスピエールの研究が行われており、本書もその成果である。

では日本とフランスでロベスピエールへの評価が大きく異なるのかというと、必ずしもそうとばかりはいえないようだ。「一九八九年のフランス革命二百周年の際に行われたフランス人の世論調査によれば、彼こそ最も否定的な感情を呼び起こす人物であり、好感度ではルイ一六世やマリ=アントワネットにすらはるかに先行を許していることが明らかになった」。

ロベスピエールの名はギロチンによる大量処刑(実際にはイメージされるほど多数の人命を奪ったわけではない)に結び付けられ、忌避感が強いというのは日本とフランスにおいて共通しているとしていいだろう。しかし違いもある。やはり「一九八九年の一連の記念事業をアカデミックな立場から組織する責務を担っていた」、ソルボンヌ大学教授のミシェル・ヴォヴェルは「なぜ私たちは依然としてロベスピエールを支持するのか」というタイトルの講演を行っている。ロベスピエールの名を冠した高校が誕生するなど、彼の理想を評価する立場も左翼を中心にある。

「ロベスピエールは近代最初の冷酷で狂信的で尊大な独裁者、スパルタ風の「徳」の国という、妥協を許さない自身の理想を押しつけようとその政治権力を行使した妄想狂だったのだろうか。それとも、信念を持ち、自己犠牲もいとわない先見性のある人物、圧倒的な軍事的困難にもかかわらず革命と共和国を導き、その危機を救うことに成功した革命の偉大な殉教者だったのか。個人の自由の制限、共和歴二年(一九七三~九四年)の「恐怖政治」による大量の逮捕と処刑、これらは革命を救うために払われるべき必要な代償だったのだろうか。あるいはこの年は恐怖と不必要な死、投獄と困難の時代だったのか。ロベスピエールは常にこの二つのイメージに分裂した人物」であり、すでに書いたようにフランスでも「そのネガティブなイメージの方がはるかに強い」。

誹謗者も護教論者も、ロベスピエールを「革命の権化」のように見る。「彼らにとっては、革命へのスタンスとロベスピエールへのスタンスとはほぼ常につながっているのである」。ロベスピエールへの評価はフランス革命への評価と切り離すことができず、そのためどちらの立場に立つにせよそこに縛られたものとなる。著者自身も例外ではないし、それを自覚してもいる。その限界をふまえつつ、ロベスピエールとはいったいいかなる人物、政治家であったのかに迫ろうとするのがこの伝記である。


マクシミリアン=マリ=イジドール・ドロベスピエールは一七五八年にフランスのアラスに生まれた。「彼はのちに単にマクシミリアン・ロベスピエールとして知られるようになる」。ドロベスピエール家は貴族ではなかったが、貴族を表す「ド」を名乗ることを許されていたように、この地方の法曹界の名門一族であった。しかしマクシミリアンの人生は、彼が誕生する前から不穏な空気に包まれていた。マクシミリアンの両親が結婚式を挙げたとき、母となるジャクリーヌはすでに妊娠五カ月だった。「カトリック教会の影響力の強い敬虔な町にあって」、このような形での結婚はスキャンダルであったし、父となるフランソワの両親は結婚式に出席しなかった。一方でフランソワの父はその後孫の代父になっていることを考えると、深刻な不和が一族にもたらされたというわけでもなかったようだ。

フランソワとジャクリーンの間にはマクシミリアンの後に二人の女の子と一人の男の子が生まれたが、五番目の子どもの出産時にジャクリーンは亡くなる。マクシミリアン六歳の時だった。父フランソワはといえば、妻の葬儀に出席すらしなかった。彼は別の場所で法務官の仕事についており、また折を見て帰郷した際にも子どもたちに会ったり、養育しようとしたこともなかったようだ。兄弟たちはばらばらに親戚に育てられることになる。多くの伝記作者が、この幼少期の体験がマクシミリアンのその後に大きな影を投げかけたとしている。しかし著者は「マクシミリアンは、人生最初のきわめて重要な六年間に、母親との間に愛情深い関係を持ち、そのあとは温かい親戚によって支えてもらった」という解釈も可能であるとしている。ロベスピエールが三十一歳で政治の表舞台に登場するまでの資料は極めて限られており、とりわけその内面においては多くを推測するしかない。そのために結果から演繹する形で、俗流心理学めいたもので彼の幼少期を描こうとする試みが強かった。

しかし著者が指摘する通り、確かに冷静に見ればマクシミリアンの辿った歩みは当時としてはそう不幸なものではない。学校に通い始めるとその優秀さが認められ、教会から奨学金を得てパリで学び、有能な弁護士として故郷に戻って来るのである。

ロベスピエールの人生を大きく変えたもの、それは幼少期の環境というよりも時代の状況であったのだろう。フランスの財政は火の車となっており、王は貴族の免税特権の廃止を模索し、貴族はこれに専制だと反発を強める。両者は自身の主張に正当性を持たせようと三部会に期待した。一方新興著しいブルジョワジーは貴族への不満を募らせており、「彼らの期待とは逆に、一七八九年の全国三部会招集によって、アルトワを含むフランス社会のあらゆるレベルで、社会不安が一気に噴出することになるのである」。

「全国三部会の招集によって、ロベスピエールは、自身の中でくすぶっていた不満をはっきりと表明し、自身根本的に不正であると結論づけていた社会システムを下支えする役割を果たしていた諸法院に対してではなく、むしろ「世論」の法廷に向けて、主張を展開していくチャンスを獲得する」。

といってもロベスピエールはすぐに頭角を表したわけではない。彼はカリスマ性に欠ける人物であり、演説もうまいとはいえなかった。彼を期待の星の押し上げたのは、その理想主義とともに、現実を見抜く目であり一貫した姿勢だった。革命の進展にともない外国との戦争になだれ込んでいこうとする人々がいたが、ロベスピエールはこの軽挙妄動を批判した。ロベスピエールは平和主義だったのではない。彼は革命と共和国を守るためなら断固たる措置を取るのを躊躇しない。無茶な戦争を仕掛けたところで益はないばかりか、かえって革命を危機に陥らせるとして反対したのであり、ロベスピエールの警告通り、オーストリアに戦争をしかけたあげくみじめな撤退を強いられると、彼に期待する声が高まった。

ロベスピエールは革命勢力の中ではとりたてて過激であったわけではない。ロベスピエールは「共和政の諸制度には、市民的徳の涵養、再生された社会がどうしても必要」だということがわかっていたが、一七九二年の時点で、まだそれには早いと、「共和政創設の要求に躊躇していた」。「人民は本来的に善であると彼は考えていた。しかし彼はまた、数世紀もの間の貧困と無知とによって、人民が堕落させられてきたことも認めていた」。
ロベスピエールは、当人の主観としても周囲の評価としても、空理空論を弄ぶ理想主義者というよりも、理想を掲げつつ現実的状況も視野にいれることのできる人物だと見られていたのだろう。


ではロベスピエールの理想とはどういったものだったのだろうか。

「「共通の幸福」とは単に個人の幸福の総体ではない。それはむしろ社会全体の健全さと調和である。ロベスピエールは繰り返し主張する。これは、非常に裕福な人と非常に貧しい人が存在する社会では達成しえないのだと。だからこそ、すべての権利の中で最も重要なものは、生存の権利」なのである。

ロベスピエールは「巨富を持つ人間ととりわけ金融資本を嫌悪」する。「国家、あるいは「社会」の役割とは、教育、社会福祉、社会参加の諸権利を通じて、みなが「公正な分配」を保証されている状態を確保することである。もし「人の所有物のうち最も重要な、人が自然から与えられら最も神聖な権利である自由」、これが他者の自由を尊重する必要性によって制限を受けるのが必然であるというのであれば、所有もまた、累進課税によって制限を受けなければなければならないだろう」。

このあたりは、著者が現代に引き寄せていることを括弧に入れたとしても、二一世紀の今日でもそのまま通用するかのようである。これはロベスピエールの先見の明を表すものであると同時に、彼はルソーから多くを受け取っているように、その時代の反映でもある。

ではその彼がなぜ「恐怖政治」へと足を踏み入れていったのだろうか。「彼の政治や社会に関する見方、そしてこれを達成するために必要な推進力は、やはりスパルタの理想にも多くを負っている。最高存在というアイディア、公的な恥辱ではなく死刑の限定的な適用、そして偉業達成への名誉以外の報酬の否認。スパルタを称賛する彼は、こうしたものをスパルタから借用するまでになる」。

ルソーとスパルタ、なんとも妙な取り合わせのようだが、ロベスピエールにとってこれは矛盾するものではなかった。

ロベスピエールは「人間の権利は「すべての国家に共通する普遍的な法典」であり、「どこの国の人間であってもお互いに助け合わなければならない兄弟である」とする。しかし、他者を隷属させようと戦争を起こす輩(ヨーロッパ同盟軍)は「悪党で殺人者」として扱われるべきだと警告している」。

このあたりは、今日における「リベラルな帝国主義」をも先取りしているかのようにも見えるが、当時の状況を考えると、フランスそのものがが反革命勢力と手を結んだ外国の「悪党で殺人者」によって蹂躙させられそうになっているのであるから、革命と共和国を守ることを最優先に考えるロベスピエールがこれに強く反撃するのは当然のことであったろう。

様々な陰謀がはりめぐらされていたのは事実だ。これは外国勢力のみによるのではない。古典教育を受けていたロベスピエールは、スパルタを理想としたように、もともと強い影響を古代ギリシャやローマから受けていたが、この状況の中さらにそれに傾倒し、そこから教訓を引き出そうとした。ロベスピエールはキケロに倣う。「いくら勝利を愛国心によって達成したところで、これをわれわれのすべての危機の終結と考えることが、いかに浅薄な考えであるか」と彼は強調した。「一七九三年終わりの軍事的勝利は、危機の終焉を意味しなかった。最も深刻な危機は今や国内にある」。

ロベスピエールにとって、世界は「共和主義者とその敵しか存在しない」ものとなった。「共和国にいる市民は共和主義者だけ」であり、「共和主義の敵は、まさに「国民の正義による復讐の刃」を感じることだろう」と考えた。

一七九四年二月には、ロベスピエールはこう演説する。「このような状況にあって、諸君の政治の第一の行動原理は、人民を理性によって導き、人民の敵を恐怖によって制することである。平時における人民の政府の主要な動力は徳である。革命の渦中にあっては、それは徳と同時に恐怖である。徳のない恐怖は忌まわしく、恐怖のない徳は無力である。恐怖とは、即座に行われ、厳格で、確固とした正義のことである」。

ロベスピエールを肯定的に評価する人がいうように、ここで断固たる姿勢を見せないことには革命が頓挫していたことは確かだろう。一方で、「徳のない恐怖は忌まわしい」、つまり言葉を換えれば、自分たちが与える恐怖は徳のあるものであるというのだが、その徳の有無を判断するのはいったい誰であろうか。正しい目的のためならあらゆる手段は正当化されるという、その罠にロベスピエールは嵌まり込んでいった。

ロベスピエールは様々な陰謀を前に猜疑心をつのらせていくと同時に、健康状態がひどく衰え始めていた。この両者があいまって、ロベスピエールは正常な判断能力を失っていった。そしてロベスピエールの威信が低下すると、今度はあらゆる罪を彼になすりつけようとする人々が現れる(「これはみなロベスピエールの仕業だ!」とされていることに、ロベスピエールが言及している)。こうしてロベスピエールは、革命の負の部分の象徴とされてしまうのであった。

ロベスピエールが逮捕された時、彼は「「靴を脱がされ、靴下もふくらはぎのところまで下ろされていた。」野次馬は、すでに集まり始めていた。「彼の間近に寄った者のうち幾人かが、彼の右手を持ち上げ、顔をのぞき込んだ。ある者は「死んでないぞ。まだ温かいもの」といい、ある者は「立派な顔の王様じゃないか」ともいい、また他の者は「仮にこれがカエサルの身体でも、なぜゴミ捨て場に投げ込まれないんだ」と言っている」。

死刑判決が出ると、ロベスピエールは苦痛にうめきながらペンと紙を要求する仕草をしたが、この願いは退けられた。荷車によって処刑場に運ばれる長い行程で、彼は「取り囲む群衆からの嘲りを浴び続け」た。「なかなか愛くるしい王様じゃないか」「陛下、お苦しいですか」と嘲笑された。彼は十七時間も苦痛にあえぎ、ようやく処刑の時を迎える。ロベスピエール、三十六歳だった。


この最期はキリストを連想せずにはいられないし、また彼の掲げた理想を思えば、彼を「聖人」のごとく思いたくなる気持ちもわからなくはない。一九世紀のフランスは政治的に次々と混乱状況に陥るが、そのままではないにしろ、革命の理想の原理へと立ち返ろうとし続けたし、少なからぬ部分が現在にまで引き継がれている。ロベスピエールが断固として革命と共和国とを守ろうとしなければいったいどうなっていたであろうかという問いは、決して牽強付会ではない。同時に、「平和の時までは恐怖」という彼が陥った隘路は二〇世紀に起こった革命のそれでもあったのも事実であり、そのことから目を反らしてもならない。

この伝記を読めば、著者の見方に同意するかはともかく、フランスや英語圏でロベスピエールという人物、政治家に強い関心が寄せられ続けているその理由がよくわかる。日本ではとかく表象的イメージで片づけられがちなこの人物のその可能性と限界を今また問い直すことは、決して無駄なことではないだろう。


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