蓮沼執太は最初ひとりだった。それから三人が加わって蓮沼執太チームになった。更に何人もが招かれて蓮沼執太フィルになった。フィルは段々人数が増えた。もしも今、開演前に客席でこれを読んでいるのなら、これからあなたが目にし耳にするのは、その最新の顔ぶれだ。
バンドではなくチームと呼ぶ。フィルハーモニックオーケストラとは言わずフィルとだけ名乗る。単なる語感の問題ではなく、このネーミングがとても彼らしいと思う。軽やかで風通しの良いイメージ。そしてこの感覚は、彼とフィル(チームは全員そこに含まれている)の演奏家たちとの関係性のありよう、そのユニークな距離感を端的に表していると思える。
フィルの十五人のメンバーとは、それぞれ十五通りのコミュニケーションの仕方が存在している。大体こんなようなことを、彼はインタビュー記事で語っていたし、直接聞いたこともある。フィルのレパートリーには、もともとは別の形であった楽曲をフィル用にアレンジし直したものと、最初からフィルのために書かれた比較的新しい曲とがある。私はそれらがどうやって作曲され、どのように編曲されて、如何にして各々の演奏家に伝達された後、全員での練習やリハーサルに繋がって、遂には聴衆の前で披露されることになるのか、そのプロセスをほとんど知らない。だが、ひとつ確かなことは、まずは一対一の関係が基盤になっている、ということだ。蓮沼執太と誰か。それらがひとつひとつ積み重ねられ織り成され連なっていって、フィルのアンサンブルが成立する。それは当たり前のことのようでいて、やはりいささか独特なことであるようにも思える。
留意すべきなのは、先の発言にも明らかなように、彼が一対一の、個と個の関係をこそ、集団の前提として重要視しているということだ。自分の曲を演奏する者たち、さしあたり自分の名の下に集った者たちを、自分とその他全員ということではなく、あくまでも個人的なコミュニケーションの重ね合わせとして考えること。そうすることによって、作曲家やリーダーとしての自身の権能と専制を出来得る限り中和しようとすること。ここには無意識的であれ、そのような姿勢がほの見えている。その結果として、蓮沼フィルという集団は、ともすれば同様の試みが(良い意味でも)身に纏いがちな凝集力や禁欲性のようなものではなく、ステージ上に心地良い風が幾筋も吹き通っているかのような、穏やかさと健やかさを獲得している。
だが、そうだとすれば、むしろここで考えてみるべきことは、一対一の、個と個の関係性の総和であることが、どうやって合奏と呼ばれる営みを、あの魅力的なアンサンブルを喚び起こすのか、ということなのかもしれない。おそらくここに、蓮沼執太の二番目のマジックが存在している。個のつらなり/つながりは、如何にして共同体に発展するのか。集団は常に個人へと分解されるが、個人を足していけば共同体としての集団になるということでもない。だから問題はここで最初に戻ってくる。つまり、やはり蓮沼執太は、個々の他者と個として相対しながらも、最終的には、それらを何らかの仕方で統率しているわけである。統率という言葉が強ければ、ともかくも彼はフィルを纏め上げているのだ。これも当たり前のようだが、そうではない。フィルと呼ばれる/名乗る集団は数多あるが、蓮沼フィルが他のどんなフィルとも違っているのは、この二重性(二段階)によっている。ひとりとひとりの関係が集まって、みんなになる。わたしと、あなた(たち)の関係が足し算/掛け算されていって、わたしたちになる。こんな当たり前のことを、いま再びあらためて考え直させてくれるようなところが、蓮沼フィルにはある。だからこれは音楽だけのことではない。だからこれは音楽以外の、蓮沼執太が、さまざまな状況において他者たちと結ぶ関係性のありようの話でもある。言いかえれば、演奏の場ではなくても、フィルのメンバーたちとではなくても、彼がやっているのはフィルと同じことなのだと思う。誰かと何かをすること、何かを生み出すこと、みんなになること、わたしたちになること。
私は以前、今や『あまちゃん』によって国民的音楽家となった大友良英が、山口情報芸術センターで行なった、その名も『ENSEMBLES』というタイトルの展覧会にかんする文章の中で、次のように書いていた。
大友良英にとって「合奏」とは、他者同士(その一方が「人間」でなくても構わない)による「共同=恊働」の可能性と、それが実現される「機会(時空間)」という問題、すなわち「社会性」のテーマへと収斂する。しかし大友の言う「アンサンブル」とは、嘗てのように、ただ単に同じステージ上で互いに音を出し合う、という行為のこと(だけ)では最早ない。寧ろそうした従来の意味での古典的な「合奏」が、あからさまな過飽和とデッドエンドに直面して以後、そこに横たわる紛れもない断層を越えて、ふたたび新たに模索される「アンサンブル」を彼は志向しているのだ。従って、それは「社会性」のみならず、一種の「政治性」も帯びることになる。
(『即興の解体/懐胎』、青土社刊)
これはそのまま蓮沼執太についても言えることだと思う。もちろん、彼には「社会性」「政治性」などといった強めの言葉は似合わないが、しかし他者との「共同=恊働」すなわち、その都度の好ましき「共同体」の生成を模索している点では、大友良英の言う「アンサンブル(ズ)」と蓮沼執太の「フィル(的な集団)」は、ほとんど同じものなのである。いや、かつて大友良英が即興演奏において追究した、それ以前とは根本的に異なるコミュニケーションのあり方を、蓮沼執太は作曲された楽曲の新しい「合奏」の場に引き継いでみせたのだということかもしれない。そして繰り返すが、それは極めて汎用可能性の高い、一種のメソッドとも言える。他者とのかかわり方をアップデートすること。そこから共に何事かを立ち上げてゆくこと。
ところで、先の私の文章の前には、大友良英による同展のステイトメントからの引用が置かれていた。「テーマは「アンサンブル」。様々なコンテクストの中で生まれるインタラクティブなアンサンブルは、現代の社会情勢を映し出す鏡のように、人と人との関係、人とオブジェ、人と機械との関係の可能性、不可能性を見据え、より開かれた未来に向けてボジティブな展示になるでしょう。また単に一方通行の展示ではなく、これらの素材を生きたものにするのは、会場にこられた一般の人たちです。作品の多くは観客との相互作用の中ではじめて、アンサンブルとして成り立ちます」。そう、あなた(たち)と呼ばれる存在、わたしたちへと紡ぎ上げられるべき存在は、ただステージ上の音楽家たちのみではないし、蓮沼執太と直接かかわる者たちだけのことでもない。もちろんのこと、観客ー聴衆も、つまりあなたもまた、来るべき「合奏」の一員として最初から考えられている。
「観客との相互作用の中ではじめて、アンサンブルとして成り立ちます」。これもまた、蓮沼執太が言いそうなことである。そしてやはりここでも、この言葉の当たり前さに惑わされないことだ。大友良英も、蓮沼執太も、これを比喩として言っているのではない。その時その場の、一度きりの機会(チャンス)を、けっしてリバースすることもリプレイされることもない時空間を、共に生きる/生きた者は、誰もが「アンサンブル」の一員なのであり、重要なことは、そのことに気づいているかということと、そのつもりでやれているか、ということでしかない。演奏とは、音楽とは、ただ楽器を操る者によってのみ為されるわけではないのである。それは、どこまでも拡張され得る可能性を秘めているのだ。
この意味で実に興味深く思えるのは、二〇一三年秋に神戸アートビレッジセンターで開催された蓮沼執太『音的→神戸 | soundlike 2』展である。タイトルでもわかるように、この個展は東京のアサヒアートスクエアで行なわれた『音的 | soundlike』のパート2なのだが、展示作品はかなり更新されていた。その中に、こんな題名の新作があったのだ。『いつかのライヴをくつろいで観る楽しさ』。友だちの部屋を思わせる妙に居心地の良さげな空間で、蓮沼フィルのライヴ映像が流れている、ただそれだけのインスタレーションである。ただそれだけ、と言えば正にそうなのだが、しかし私は、この作品にこそ、蓮沼執太のユニークネスが突出して現れていると思った。それは単なる「演奏の記録」ではない。鑑賞者自身は体験していないのかもしれない(この作品が神戸で展示されたことを思い起こそう)、いつかのライヴをくつろいで観る楽しさを差し出すこと。その時その場に居なかった者でさえ、「アンサンブル」に、「みんな」になれてしまう、そんな気持ちになれるということが、あの作品の狙いだったのだと思う。それは、フィルの生演奏に立ち会っている時の、あの押し付けがましさの一切ない多幸感が、デジタルなオーディオ−ヴィジュアルのデータとしてパッケージされてもなお、多分にしっかり残されていることの証明でもある。
さて、ところがしかし、と続けつつ、もうすぐこの文章は終わるのだが、蓮沼執太は今後これから、十五通りを一通りに変えていくことを宣言している。だから私がここまで述べてきたことは、すでにして過去の考察に過ぎない。だが無論のこと、それはけっして、旧来的な意味での「ひとり」への回帰を意味するものではないだろう。それは、あの新たなる合奏、新たなるコミュニケーションのあり方を踏まえての、更に新しいアンサンブルになっているに違いない。では、それは如何なるものなのだろうか? それはもちろん、まだ私にもわからない。だが、もしも今、開演前に客席でこれを読んでいるのならば、それをあなたが目にし耳にするのは、もうまもなくの筈である。