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眞白き富士の嶺 緑の江の島 仰ぎ見るも 今は涙
帰らぬ十二の 雄々しきみ霊に 捧げまつらん 胸と心 ボ一トは沈みぬ 千尋の海原 風も浪も 小さき腕に 力もつきはて 呼ぶ名は父母 恨みは深し 七里ヶ濱邊 み雪は咽びぬ 風さえさわぎて 月も星も 影をひそめ み霊よ何処に 迷ひておはすか 帰れ早く 母の胸に み空にかがやく 朝日のみ光 闇にしづむ 親の心 黄金も寶も 何しに集めん 神よ早く 我も召せよ 雲間に昇りし 昨日の月影 今は見えぬ 人の姿 悲しさ余りて 寝られぬ枕に 響く波の 音も高し 帰らぬ浪路に 友よぶ千鳥の 我も恋し 失せし人よ つきせぬ恨みに 泣く音は共々 今日もあすも かくて永久に 明治43年1月23日(日曜日)午後1時30分頃、神奈川縣鎌倉と江の島の中間七里ヶ濱の荒磯に於いて逗子開成中學校所有のボ一トが沈没し、乗ってゐた12名の少年は皆溺死した。 その人々の名と年齢は、 逗子開成中學校 5年生 牧野文雌(23)笠尾虎治(22)徳田勝治(21)木下三郎(20) 小堀宗作(20)宮手登 (18) 4年生 松尾寛之(19)谷多操 (18) 2年生 徳田逸三(17)奥田義三郎(15)内川金之助(年不明) 逗子小學校児童 徳田武 (11) 以上で、徳田姓を名乘る勝治、逸二、武の3人は兄弟であった。此の12名は1月23日の朝9時30分中學校のボ一トを三浦郡田越村字堀の内の海岸から乘り出した。朝から天候不穏だったので其の時海洋で演習をしてゐた田越村の消防夫たちは中止をすヽめたが、聞かずに江の島さして漕ぎ出したのである。午後に到って風が強くなり波が高くなってついにボ一トは七里が濱の沖で沈没してしまった。 七里が濱は難所して知られ、その海洋へ泳ぎつかうとすると強い底流のために東方に流される。 だから少年達は海岸へ泳ぎつく事が出來なかったのだらう。 少年たちのうち木下三郎は二本の櫂を持って小坪の海洋(鎌倉と逗子の間)まで泳いで來たが陸地に達せずして人事不省となり小坪の漁夫2名に救はれたが蘇生しない。漁夫たちは急いで學校へ報告する。 校長田邊氏は直に救助に向ひ、横須賀警察からは署長吉警視自ら20名の巡査を率ゐて現場に急行し、22隻の漁船に200名あまりの漁夫を乗せて屍体捜索に向かった。 24日午後横須賀鎮守府からは駆逐艦、吹雪、霞の2隻が派遣された。 21日午後には畏くも葉山に御避寒中の皇太子殿下(大正元天皇)騎馬にて海洋へ御微行あり捜索隊の行動を望見あらせられたのみならず居合せた生徒に種種御下問あった。 25日正午頃七里が濱の沖で始めて 2人の少年のしたい屍体が発見された。 制服着用爪の徳田勝治が。飛白(かすり)の綿入に外套を着した弟武治を確かりと抱きしめたまま死んでゐるのだつた。當日午後なほ2名の死体を発見した。 26日は激しい風雲。27日には逗子葉山村民は皆休業して捜索に赴き、横須賀からは水雷艇7隻が出動した。さうして残る7名の死体を全部七里ヶ濱沖合で発見した。27日の午後5時、逗子延命寺で哀悼の式が行はれ、其の時此の歌が鎌倉女學校の最上級生(4年生)に依って合唱された。 作詞者三角錫子刀自は鎌倉女學校の教諭で、逗子に住んで居り、此の事件を目撃した。 此の曲は when we arrive home と云ふ題のアメリカの曲で garden と云う人の作である。これが「昔のわが宿変わらぬふるさと」と云ふ訳詞によってひろく女學校などで欧はれ、常時最も愛好された旋律であった。この歌詞は「哀悼の歌」と題せられて雑誌「月刊楽譜」に出てゐたものである。単行本はその後に出版され、大正7年頃からは演歌となって巻間に流布したが、歌詞も変へられ、曲は短調になってしまった。 #
by 55kara
| 2006-02-25 13:29
| 事件もの
風紀名門の子女に恋するを 純情の恋と誰が言う
路頭に迷う女性に恋するを 不純の恋と誰が言う 雨降らば降るがよい 風吹かば吹くがよい 泣いて笑って月下の酒場に こび売る女性は 水蓮の如き純情あり 酒は飲むべし百薬の長 女は買うべし人生無上の快楽 幼少美女の膝枕に快楽の一夜明ければ 夢もなしまた金もなし 砕く電剣握る美林 のぞくコンパス六分の儀 ああ我山行 渡鳥 いざ唄わんかな 蒙古放浪の歌を 心猛くも 鬼神ならぬ 人と生まれて 情けはあれど 母を見捨てて 波越えてゆく 友よ兄等と 何時亦会はん 波の彼方の 蒙古の砂漠 男多恨の 身の捨てどころ 胸に秘めたる 大願あれど 生きて帰らむ 希みはもたぬ 砂丘を出て 砂丘に沈む 月の幾夜か 我等が旅路 明日も河辺が 見えずば何処に 水を求めん 蒙古の砂漠 朝日夕日を 馬上に受けて 続く砂漠の 一筋道を 大和男の 血潮を秘めて 行くや若人 千里の旅路 負はす駱駝の 糧薄けれど 星の示せる 向だに行けば 砂の逆巻く 嵐も何ぞ やがては越えなん 蒙古の砂漠 水産放浪歌 富貴名門の女性に恋するを 純情の恋と誰がいうぞ。 暗鬼紅灯の巷に彷徨う女性に恋をするを 不情の恋と誰がいうぞ。 雨降らば雨降るもよし 風吹かば風吹くもよし 月下の酒場にて媚を売る女性にも 純情可憐なる者あれ。 女の膝枕にて一夜の快楽を共に過さずんば 人生夢もなければ恋もなし。 響く雷鳴 握る舵輪 睨むコンパス六分儀 吾等海行く鴎鳥 さらば歌わん哉 吾らが水産放浪歌 心猛くも 鬼神ならず 男と生れて 情はあれど 母を見捨てて 浪越えてゆく 友よ兄等よ 何時また会わん 朝日夕日を デッキに浴びて 続く海原 一筋道を 大和男子が 心に秘めて 行くや万里の 荒波越えて 波の彼方の 南氷洋は 男多恨の 身の捨てどころ 胸に秘めたる 大願あれど 行きて帰らじ 望みは待たじ #
by 55kara
| 2006-02-12 09:30
| 書生節
岸打つ波の 音高く 夜半の嵐に 夢さめて
青海原を ながめつつ わが同胞(はらから)は 何処ぞと 呼べど叫べど 声はなく たずねさがせど 影はなし うわさに聞けば 過る月 二十五人の 同胞は 旅路を急ぐ 一筋に 外国船とは 知りつつも 航海術に 名も高き イギリス船と 聞くからに ついうかうかと 乗せられて 波路もとおき 遠州の 七十五里も はや過ぎて 今は紀伊なる 熊野浦 名も恐ろしき 荒波に 乗り出でたるぞ 運のつき 折りしも雨は 降りしきり 風さえ添えて 凄まじく 渦巻く波を 巻きあげて われを目がけて 寄せ来たる かすかに見えし 灯台の 光もいつしか 消えうせて 黒白も分かぬ 真の闇 水先はかる 術もなく 乗合人も 船人も 思案にくるる 瞬間に 岩よ岩よと 呼ぶ声の マストの上に 聞こゆれば あわやとばかり 身をかわす いとまもあらで 荒波に 打ち流されて 衝突の 一声ぼうと とどろけば 流石に堅き 英船も 堪えも果さで 打ち破れ 逆巻く波は 音高く 機関室へと ほとばしり 凄き声して 溢れたり 斯くと見るより 同胞は 互いに救い 救われて みな諸ともに 立ち上がり 八州船の 救いをば 声を限りの もとむれど 外国船の 情けなや 残忍非道の 船長は 名さえ卑怯の 奴隷鬼は 人の哀れを 外に見て 己が職務を 打ち忘れ 早や臆病の 逃げ仕度 その同胞を 引きつれて バッテーラへと 乗り移る 影を身送る 同胞は 無念の涙 やるせなく 溢るる涙を 押し拭い ヤオレ憎き 奴隷鬼よ 如何に人種は 違うとも 如何に情けを 知らぬとも この場をのぞみて 我々を 捨てて逃がるるは 卑怯者 思い出せば その昔 俊寛僧都に あらねども 沖なる島の 身を投じ 見るも憎しや 情けなや 彼は岩なり 我は船 みすみす沈む 海原の 底の藻屑と なりゆくは いといと易き ことながら 家に残れる 妻や子や 待ちくたびれし 弟妹の 我なき後は 如何にせん 憂きぞいとぞ 思わるる 浮世は仮とは いいながら 常なき者は 人ごころ 昨日の恩は 今日の仇 斯かる奴とは 露知らず その信義をば 片頼み ついうかうかと 大海に 乗り出でたるぞ 恨めしや よしや恨みは 残すとも 汝が為せる 罪悪は この世のあらん 限りには などで晴さで おくべきか 右手に稚子 左手には 老いたる者を 助けつつ 悲嘆に沈む 涙淵 伏しつまろびつ 泣き入りて 目もあてられぬ 風情なり 折りしも一人の 少年は 甲板上に よじのぼり 沖なる方を 打ち見やり せきくる涙 とどまらず 「われ航海の 一端も 学び覚えし ことあらば 日頃の技倆を あらわして 逃るる術は 易けれど わが同胞の 危難をば 捨てて救わで ただ一人 命を惜しむ たわけもの 大和心の 大丈夫(ますらお)に 嘲り笑わる 苦しさよ いざ是よりは 潔よく みな諸ともに この身をば 千尋の海に 打ち沈め 藻屑とこそは 果てなん」と 呼び終わる その中に 無常を告ぐると 時の鐘 山なす波に 打ちまかせ 二十五人の 同胞は 無惨や藻屑と なりにける 斯くと知らずや 白波を 舟に乗じて 船長は 紀伊の浜辺に 上陸し 領事庁へと 進みいで 己が過失を おおわんと 非を理にまぐる 陳述を 音に名高き ホント氏が 何どて知らざる 事やある 固より知りつる 事ながら わが東洋に 人なしと 日頃の傲慢 あらわして 大悪無道の 奴隷鬼を 無罪放免 それのみか アッパレ見事の 船長と 褒めはやしたる 裁判を 聞いて驚く 同胞は 切歯扼腕 やるせなく 世論一時に 沸騰し 正は正なり 非は非なり 国に東西 ありとても 道理に二つ あるべきか ノルマントンの 船長の その暴悪の 振舞いは 外つ国々の 人ですら その非をせめぬ 者ぞなき 乗合多き その中に 白晳人種は みな生きて 黄色人種は みな溺る 原因あらば 聞かまほし 彼も人なり 我も人 同じ人とは 生まれながら 危難を好む 人やある いのち惜しむぬ 者やある イギリス国の 法官よ 汝の国の 奴隷鬼は 人を殺して 身を逃る 義務を忘れて 法犯す 極悪無道の 曲者ぞ これぞ所謂 スローター などて刑罰 加えざる などて刑罰 加えざる 汝が国は 兵強く 軍艦大砲 ありとても わが国民は 知識なく 国が実に 弱くとも 鳥や豚では あるべきか 是非曲直を 知る者を 大和だましい ある者を 二千余年が その間 尚武の国と 名も高く 外国人の 侮りを 受けしこと さえなきものを 斯くする法の 傲慢の その裁判に おめおめと 従う奴隷が あるべきか 汝知らずや 我が民は 恥のためには 命をも 義理にのぞめば 財産も 捨てて惜しまぬ その理は 破船の時の 少年の 挙動を見るさえ 知りつらん わが同胞は 不常にも 無惨の横死と 聞くならば 雲井にかける 都人も 伏屋に宿る しずの女も 六十余州は みなおなじ 己が困苦を 打ち忘れ その兄弟は 妻子まで 救わでやまぬ 鉄石の 心は同じ 敷島の 大和ごころの 大丈夫 道理つめなる 論鋒や その豪気なる 振舞いは 岩をも砕く いきおいに さすがに名高き 英人も 傲慢心は 打ち破れ 一旦免せし 奴隷鬼を 一言いわさず 引捕らえ ふたたび開く 公判に 罪科の所置を 定むれば 二十五人の 家族らも 三千余人の 同胞も その公平に 感嘆し 積もるうらみも 是に晴れ 波風にわかに 沈まりて 残るは元の 月ひとつ いとあざやかに 見えにける それを見るにも 思いやる いまは明治の 御治世 外交とみに 繁くなり 国事も日々に 多端なり はるかに彼方を 見渡せば 筑紫の海は 波高く 風さえ強き 秋の空 薩摩の海の 南には 豺狼の住む 国もあり 用意もなくて うかうかと 吹き流されて 破船せば 二十五人は まだ愚か 三千余万の 兄弟も あわれ危難に 過るにも まして条約 改正の 今にも談判 整わば 内地雑居と なり来り 赤髪碧眼 かず多く わが国内に 乗り込みて 学問知識を 競争し 工芸技術 それぞれに 名誉の淵に 乗り出し 勝負を競う 事なれば 油断のならぬ 今の時 ノルマントンの 沈没の その惨状を 知る者は 心根たしかに 気をはりて 若しくも第二の 奴隷鬼や なお恐ろしき ファントムが 顕われいでたる 事あらば 三千余万の 同胞は みな諸ともに 一致して 力を限り 情かぎり 縦横無尽に 憤撃し それでも及ばぬ その時は 生命財産 なげうちて 国の権利を 保護して 保たにゃならぬ 国の名を 保たにゃならぬ 国の名を 明治20年に流行した。作詞家不肖、作曲者ルルーは、陸軍軍楽隊を指導したフランス人で、彼が作曲した「抜刀隊の歌」の曲を借りて歌詞を載せ替えたものと、『日本流行歌史(上)』説明している。メディアのない時代、こんな風にして事件は喧伝された。 #
by 55kara
| 2006-02-12 09:14
| 事件もの
あわれなるかや へそ穴くどき 国はどこよと 尋ねて聞けば
国は内股 ふんどし郡(ごおり) だんべ村にて ちんぼというて おそれおおくも もったいなくも 天の岩戸の 穴よりはじめ 亭主大事に こもらせ給い ふじの人穴 大仏殿の 柱穴にも いわれがござる 人の五体に 数ある穴に わけてあわれや へそ穴くどき 帯やふんどしに 締めつけられて 音(ね)でも息でも 出すことならぬ 仁義ごとにも 出ることならぬ 夏の暑さに じつないことよ ほんに体も とけるよでござる 日の目おがまず 夜昼しらず よその穴ショの 楽しみ聞くに 春は花見に 夏蛍見に 秋は月見に 冬雪見とて 耳はおお聞く 琴三味線の 鼻は香(こう)買い蘭麝(らんじゃ)の香り 口は三度の 食事のほかに 酒や魚や 茶菓子というて うまいものには 鼻ふくらしゃる おらが隣の 朋輩穴は かわいがらるる 愛嬌もちて 世間のつきあい 慰みごとよ 月に一度の お厄のほかに 夜毎夜毎に その賑やかさ きんべおととに きんしちというて 暮れの六つから 明け六つまで どたらばたらと裏門たたく わしもたまげて 覗いてみれば 光る頭を ぶらぶらと下げて 坊主頭に 縦傷はわせ 禿げた頭に かづらを巻いて おらは隣に 大法事がござる 誰が法事だやら わしゃ知らねども 知らん坊さん達 出たり入ったりなさる お米とぐやら 白水ながす おとき喰うやら口ぐちゃやしゃと お布施つつむやら 紙ぐしゃぐしゃと わしら屋敷まで 白水ながす いかにわたしが りくぶじゃとても よその騒ぎで 気ばかりもめる せめてぐるわに 毛でも生えたならば ごみやほこりを 入れさせまいと あるに甲斐なき へそやこれの穴 サエー #
by 55kara
| 2006-02-11 14:42
| 瞽女唄
新保 ナーエ コリャ 広大寺かめくり(花札ばくち)こいて コリャ 負けた ナーエ 袈裟も衣も ヤーレ みなさえ コリャ 取られた ナーエ (囃し) ああいいとも いいとも 一時こうなりゃ 手間でも取るかい ナーエ あとでもへるかい いいこと知らずの 損とりづらめが いいとも そらこい 新保広大寺に 産屋が出来た お市案ずるな 小僧にするぞ ナーエ 桔梗の 手拭いが 縁つなぐなら おらも染めましょ 桔梗の型てば ナーエ (囃し) そうとも素麺 下地が大事だ こいてばコンニャク きんには大事だ もっとも麦飯 とろろが大事だ おらカカそれより まんこが大事だ いいとも そらこい さほど目に立つ お方じゃないが どうやら私の 虫やが好くてば ナーエ (囃し) 新潟街道の スイカの皮でも 抱いたら離すな 十七島田に 乗ったら降りるな きっきとこいだら ほっぺに吸い付け いいとも そらこい 新保広大寺が ねぎ喰って死んだ 見れば泣けます ねぎのはたけ ナーエー 殿さ殿さと ゆすぶりおこせば 殿さ砂地の 芋で無いぞ ナーエー 越後ごぜ達が唄い広めた「新保広大寺節」は、江戸時代の五大流行唄の筆頭ともいわれた。北上した越後ごぜは、山形、秋田、青森、北海道と唄い歩き、そして「津軽じょんがら節」、「口説節」、「道南口説」、「北海道鱈つり唄」などに流れ継がれていった。 関東方面に上京した越後ごぜによって、このザレ歌は上州風土に合う「木崎音頭」、「八木節」へと変じていったといわれる。 南下した越後ごぜは、信州路から甲州路や中仙道へと唄い歩き、「古代神」、「麦わら節」に変化や影響を与えた。また、三国峠を越えて「八木節」や「船屋唄」のルーツとなり、北へ向かって秋田民謡に影響を与え、青森で「津軽じょんがら節」を生み、更に西へ向かっては、中国地方の民謡「古代神」の元唄となり、全国各地の「口説」の源流となっている。 #
by 55kara
| 2006-02-11 10:23
| 瞽女唄
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