人は常に周囲の環境社会と関係をもちながら生活しているが、その社会生活上の諸活動や文化の諸領域への関心や価値志向のあり方を見ると、そこには人によって様々な相違が見られる。シュプランガー(Spranger, E. 1914)は人間の精神活動がいかなる価値を中心的価値として追求しているかによって、次のような類型を立てた。
彼の心は純粋な客観性に向けられている。感情・欲求・嗜好・嫌悪・恐怖・希望などに対する対象の関係は彼にとって無意義であり、彼はただ客観的認識への熱情を知るだけである。彼はひたすら真理を追究するが、実生活上の問題の解決には無力である。個人主義になる。
彼はすべての生活関係のなかで実用的な着眼点を重要視する。実際的人間と呼んでもよい。彼の行為の主要価値は行動自体のなかにあるのではなく、そこからもたらされる実用的効果に存する。彼はすべてのものをその利用価値に従って経済的見地から判断する。彼はまったく利己的であり、その欲望の目的は財産である。
彼は現実的な欲求や行動に直接つながりあうことをせず、むしろ理論的な思慮を離れて生活の様々な遊びを楽しく観照する。そうした人びとのうち、生活の印象を純粋に受動的な態度でとらえ、すべてのものからあたかもその芳香を吸収するような人が印象派(Impressionist)であり、他方、あらゆる印象に対して自己固有の主観的色彩を付与するような、強烈な内面性を有する主観的性質の人が表現派(Expressionist)である。この型の人びとにとっては美は最高の感覚充実であり、また人生の本来の生活価値である。
社会的態度は他人の生活への関心であり、共同社会との献身的な融合である。その最高度の発現は社会的な精神愛であり、対象は個人から社会全体にまでおよぶことになる。彼らは他の人びとに助力することのなかに自己の生活の最高の価値を見出す。彼らは思慮も打算もせず、経済的な原理に対してはきびしく対立する。しかし、純粋の社会型は稀であって、精神的献身の行動は同時に自己価値の高揚として体験される。社会型の最高の現世的表現形式は母親であり、その場合は愛の本能が全人格を構成する生活意志になるのである。
彼は権力意識と権力享楽に傾倒し、支配と命令を志向する。彼は自らを力として感受し、その力のなかでのみ彼独自の生活意識を満たしていく。生活上すべての価値領域は彼の権力欲に奉仕させられるのであって、知識は支配の手段であり、芸術は権力衝動の展開に奉仕すべきものとされる。この権力人を経済人と混同してはならない。権力人は節約とか労働とかの経済の法則には従わず、むしろ外交や談判、征服や強制によって事態を処理するのである。
信仰の核心は存在の最高価値を探求するところにある。至高のものを自己のなかに見出した者は、法悦と救済を感ずる。ところで、この型のなかにもいろいろな相違が見られる。すなわち、内在的神秘家(immanenter Mystiker)の宗教は絶対的な生命肯定を志向しており、人生のすべての積極的価値のなかに神性の発露を見出す。他方、超越的神秘家(trnszender Mystiker)はすべての生活価値を存在の生活価値とは無関係のものと見て、最高価値を極端な現世否定の道の上に見出そうとする。しかしこれら両者の極端なものは稀であって、普通は双方の結合型が存在する。
シュプランガー(Spranger, E. 1914)の価値類型
一般に外的な環境からの危険に対して自己を守ることを防衛というが、精神分析では主として内的な危険、すなわち不安から自己を守ることを防衛という。すなわち、内部から発する衝動や自我との葛藤、あるいはそこから起きる不安を避け、自分を守ろうとする行動のしかたを防衛機制(defence mechanism)という。これは破局を避けることによって、生活体と環境との間の不均衡を回復して安定した適応状態をもたらそうとすることにほかならないので、適応機制(adjustment mechanism)と同じことである。
欲求不満の状態に陥ったときに、いたずらに情緒的反応に走らず、これに真正面から積極的に取組み、現実の客観的認識および分析の上に立って、その場にもっとも有効適切な方法によって問題を解決しようとする理性的、合理的な態度がとられることもあるが、多くの場合は情緒的反応によって不合理な解決のしかたがなされやすい。この場合の行動様式すなわち防衛機制も種々様々であるが、その主なものは次のとおりである。
ダラード(dollard, J.)らは攻撃はつねに欲求不満の結果であるという仮説を提唱したが、欲求が満たされないときの最も基本的な反応様式は攻撃で、特に年少者に多く見られる。これによって、一時的には緊張の解消が起こることがある。
攻撃の対象は普通は妨害要因そのものに直接向けられるが、この攻撃が社会的に許されないとか、攻撃しても歯が立たないとか、かえって罰せられるというような場合は、この攻撃的行動への妨害がより強度の欲求不満を引き起こし、ここに悪循環が生ずる。このように禁止された攻撃的行動は他の対象に置き換えられたり(八つ当たり)、変わった形であらわれたりする(空想による代償的満足)。また、攻撃の対象も形も変化したひとつの場合として自己攻撃がある。すなわち、攻撃が外部に向けられない場合、内向して自己軽蔑、自己嫌悪となり、更にはなはだしいときは実際に自分の体を傷つけたり、自殺を試みたりする。
これは欲求が阻止された困難な場面や不安を感じさせる場面から逃げ出し、更に緊張が高まるのを防いだり、消極的に身を守ることによって安定性を取り戻そうとすることである。これは、単に退くことによって身の安全をはかる退避(物理的逃避、中止、あきらめ)、現実で満たされない欲求を自由な空想の世界で代償的に満足させようとする非現実への逃避、または空想への逃避(空想、白昼夢、回想)、当面する問題を避けて、それとは直接関係のない他の活動に没頭する他の現実への逃避(レクリエーションその他)などがある。また特殊な場合として、適応困難な状況に直面することが避けられなくなったとき、その状況への適応行動に欠くことのできない機能が働かなくなる病気への逃避がある。これは当人に意識されずに起こり、ヒステリーにしばしば認められる。いずれにせよ、逃避するだけでは当面の困難を回避することはできても、本来の欲求の満足は得られないので、緊張は充分には解消されない。
これは一種の逃避とも考えられるが、人格の内部構造の未分節化に伴って生起する未成熟な段階での行動をとることをいう。すなわち、現在より低い発達段階でのみ許容されるような幼稚な行動をとることをいう。たとえば、親から可愛がられていた子どもがが、弟妹の誕生によって愛情の欲求が阻止されると、指をしゃぶったり、夜尿をしたり、よく泣いたり、急にわからずやになったりするのがこの例である。
自分のある面での欠陥や欠点を、他の面での優越性によって補うことをいう。身体が弱くて運動の苦手な子が、勉強に専念して、運動での不満をカバーしようとするのが、この例である。また、配偶者への不満を子どもへの盲愛によって補おうとするのもそうである。
反道徳的な欲求は、社会的な力によってその自然の発現が抑制されているので、そのような欲求を満たすためには、社会から承認される形に変形しなければならない。この変形過程を昇華と呼ぶ。たとえば、宗教や芸術的活動、映画やダンスには性的欲求の昇華が見られ、スポーツやゲームは攻撃欲求の昇華が考えられる。
ある対象に向けられていた欲求が満たされないと、対象を他のものに置換え、それによって不満による緊張を解消しようとするメカニズムである。父親に対する敵意や憎悪を職場における上役や、学校における教師に対して持ったり、母親に対する依頼心が、後に恋人に対する甘えの感情のなかに残っていたりするのがこの例である。このように人から人に置き換えられるだけでなく、人から動物へ、または物に置き換えられることもある。たとえば子どものいない夫婦が猫を可愛がったり、孤児院を経営したり、骨董品を集めたりするような場合である。
これはそのままの形で発現すると不安や破局を招くおそれのある欲求や感情を、意識しないように無意識の世界に押しこめてしまうことをいう。人間が社会的に適応していくためには、抑圧ということは大変必要なことである。しかし、抑圧された欲求は、本人は意識しないが、解消されないまま精神的にしこり(complex)となって無意識のなかに蓄積され、これが無意識的に葛藤を引き起こし、折にふれて形を変えて意識界に現われて、不適応をもたらすことが多い。神経症的兆候の多くはこのような場合である 。
そのままの形で発現することが好ましくない欲求が抑圧された場合に、それと反対傾向の行動として表出されることをいう。きびしい禁欲主義や性への蔑視が強い性的関心から発していたり、継子に対する過度のあまやかしが、実はその子に対する無意識的な憎しみから発しているような場合が、この例である。
これはある行動がその際の状況とは無関係に、紋切り型に持続するこという。欲求不満を反復経験すると、行動の柔軟性が消失して、問題解決には無益な、あるいは不合理な特定の行動が、強力に、持続的に繰り返されることがある(頭をかく、舌を出す)。
これは自分よりすぐれた人と自分とを同一視することにより、自己の欠点や弱点を補い、不安を減少させ、その価値を増大し、満足を得ようとすることである。尊敬する人の服装や口調をまねたり、自分の親や出身校の自慢をしたり、映画や小説に熱中してその主人公と自己を同一視して現実には阻止されている欲求を満足させるなどは、この例である。また虎の威を借りる狐の類もこれである。
これは自分の失敗や欠点を承認すると自己の価値が低下するので、これを認めようとしないで、もっともらしい理屈をつけてこれを正当化し、自分の価値を保持しようとすることである。仕事がうまくできないと道具のせいにしたり、能力が足りなくて試験に失敗しても問題が悪いといったり、体の調子が悪かったといったり、仮に受けたのだといったりするのが、その例である。イソップ物語にあるすっぱいぶどうや甘いレモンの理屈もこの機制である。
これは自分を他人の中に転置するメカニズムで、心中ひそやかに抱き、押さえている好ましくない欲求や感情があるとき、これを自己のなかに認めると不安になるので、これを他人に移しかえ、他人がそれをもっていると思いこむことである。このメカニズムは無意識的に営まれる。異性間の嫉妬、攻撃的傾向などに、よくこの投射が現われる。これが病的になると被害妄想になる。投射のもうひとつの形式は、自分の失敗や欠点から生ずる非難を他人のせいにすることで、いわゆる責任転嫁である。
]]>われわれの社会では欲求がただちに満足されることは少なく、制限されたり、抑圧されたり、あるいは待機させられたりすることが多い。このように目標に向けられた行動をはばむ条件を障害というが、何らかの障害によって欲求の満足が阻止された場合には、その障害を除去し、乗り越え、あるいは回り道を発見して解決したり、また、他の代わりの目標に切りかえて代償的満足を得たり、要求水準の低下をはかったりする。ところが、それでもなお欲求の満足を阻止している条件を排除することができず、しかもその欲求はあきらめることができないような場合には、その人は落着きを失い、内部の緊張から焦燥の状態に陥る。このように、ある欲求に基づいてある目標に向けられた行動が阻止されることを欲求不満(frustration)といい、このような状況を欲求不満事態(frustration situation)という。
欲求不満を起こす原因は、物理的障害であったり、対人関係などの社会的条件であったり、また、自己の能力だとか、他の種々なる欲求との葛藤などの内的条件であったり、さまざまであるが、ローゼンツヴァイク(Rosenzweig, S.)はこれを次のように分けている。
(1)欠乏(privation) 欲求を満足させる対象が本来存在しない場合。食料の欠乏とか、子どもが友達と同じ玩具をもっていない時などがその例である。
(2)喪失(deprivation) 今まで存在していた欲求満足の対象が失われた場合。愛情の対象との別離、好きな玩具の破損、失職など。
(3)葛藤(conflict) 外的な妨害物または障壁のため心理的葛藤が生ずる場合。雨のため子どもの活動の欲求が阻止されたり、交通機関のストライキによって目的地に行かれなくなった場合など。
(1)欠乏(欠陥) 欲求を満足させるのに必要な機能を欠いている場合。身体的な欠陥、知能が低いこと、能力の欠如など。
(2)喪失(損傷) 今までもっていた欲求満足のために必要な機能が失われた場合。病気や負傷などの場合。
(3)葛藤 個体内の抑圧などによって心理的葛藤が生ずる場合。道徳的水準が高すぎて、良心とか内的抑制傾向とかによって自己の行動が抑制されて、本来の欲求との間に葛藤を生じたり、あるいは失敗の不安や他人から笑われるかもしれないという恐れなどが行動の障壁となる場合である。
欲求不満はこれらの原因が客観的に存在することによって起こるのではなく、むし ろ、これらの原因の主観的な受けとり方が問題である。時には予想された障壁によっても欲求不満が生ずる。また欲求不満が起こるためには、欲求が強いことが前提となるので、基本的欲求が満たされない時に起こりやすい。特に人格的欲求が問題となる。
われわれの社会生活には幾多の障壁が存在するので、欲求の阻止を経験しないではすまされない。しかしながら、欲求阻止の状態がどの程度まで進行したら欲求不満状態に陥るかは、個体によってかなり異なる。すなわち、人はある程度までこれに耐える力をもっており、この欲求不満に耐える力をローゼンツヴァイクは欲求不満耐忍性(frustration tolerance)と称した。
このトレランスは次のような条件に規定される。
(1)生活経験 一般的にトレランスは年齢が進むにつれて増大するが、このことはトレランスが学習のもたらす結果であることを意味する。従って、幼児からの生活経験が問題となる。幼少の時から欲求の充足が容易で、欲求不満の経験が少なすぎると、要求ばかり高くてトレランスは形成されない。また、あまり強い欲求不満をしばしば経験しすぎると、劣等感が強くなり、欲求不満を克服する適当な方法が習得できないで、これまたトレランスは形成されない。これに対して、適当な強さの欲求不満を適当な間隔をおいて経験し、それに適切な家庭教育や社会的訓練が加えられると、欲求不満を克服する合理的方法が学習され、その成功感によって次第に高度の困難にも耐えていくようになる。
(2)知的、技術的能力 知的能力が高く、現実生活についての知識をもっていたり、一定の技術を身につけていれば、欲求不満を克服することができるからトレランスは強くなる。
(3)性格 一般に内向性の人は少しの欲求不満にも挫折しやすいが、外向性の人は少々の欲求不満には負けず、積極的にこれを克服しようとするので、トレランスが強いといわれている。
(4)生理的・身体的条件 正常人に比較すると、身体障害者や神経症患者、アルコール中毒患者などはトレランスが弱い。また、正常人でも疲労時や病気中は一時的にこれが弱まる。
]]>人は一時にただひとつの目標だけを追求しているわけではない。互いに相克し、両立しがたい目標を追求することも多い。2つ以上の欲求または動機が同時に存在し、それに基づく誘発性の強さがほぼ等しく、かつそれらの目標としていることが相互に相容れない反対の方向になっているような時は、力が釣り合って、人はその位置から動くことが困難になる。かかる状態を葛藤場面(conflict situation)と呼ぶ。葛藤場面には次のような3つの基本的形態があることをレヴィン(Lewin, K. 1935)が示した。
2つの正の誘発性の間に位置する場合。つまり、両方魅力的であるがどちらかひとつを選ばなければならず、一方を選べば他方を断念しなければならないような事態である。この場合は葛藤場面の中では比較的たやすく行動は決定され、それほど強い緊張状態は起こらない。というのは、正の誘発性をもった対象は、人がそれに接近するほど人を引きつける力を増大し、人が遠ざかるほど人を引きつけるを力減少させるので、一方の目標へいったん接近すると、場の力のバランスは破れ、接近した方の目標に向かう行動がとられるからである。ただし、両者の魅力が大であるほど、また、両者の魅力が小さいほど、決定に時間を要する。
二つの負の誘発性の間に位置する場合。"前門の虎、後門の狼"といった進退きわまった状態である。負の誘発性をもった対象は、人がそれに接近するほど人を退ける力を増大し、人が遠ざかるほど人を退ける力を減少させる。この場合、一方の対象から遠ざかれば、他方の対象にそれだけ接近することになり、前者の人を退ける力は減少しても後者のそれは増大する。従って、人は振子運動をして、未決定の状態が比較的長く継続し、苦しい状態におちいる。人はなんとかしてこの状態から逃げ出そうとする。この脱出を防ぐためには、その人の自由度を制限し、強固な障壁を設けることが必要である。そうなると、ますます強い緊張状態が発生し、心理的逃避や、退行現象、放心状態、身体硬直などが起こる。戦争神経症はこのような事態において発生する。この葛藤の方が前の葛藤より選択、決定に時間がかかることが多い。
正と負の誘発性が同じ方向に存在する場合。"みたし、こわし"の状態とか、"虎穴にいらずんば虎児を得ず"といった場合である。これは同一の対象が正と負の誘発性を同時にもっている場合と、正の誘発性をもった対象に到達するために負の誘発性をもった領域を通過しなければならない場合とがある。このような事態では、対象からある程度離れている時には、負の誘発性の人を退ける力は減少するが、正の誘発性に引かれて対象に接近すると、人を引きつける力より退ける力のほうが強くなる。従って、人はある地点まで対象に接近したところで、引きつける力と退ける力とが釣り合い、そこで立ち往生し、対象に近づいたり離れたりという動揺的行動をとる。
]]>バスとダーキー(Buss, A. H., & Durkee, A., 1957)は攻撃を7つの側面に分類している。
他者に対する身体的暴力。他者との喧嘩は含むが事物の破壊は含まない。
遠まわしの攻撃と方向のない攻撃で、前者は悪意のあるゴシップ、いたずらなど。後者はかんしゃくをおこしたり、乱暴にドアを閉めるなど。
些細な刺激で否定的な感情を爆発させる準備状態で、怒りっぽい、不機嫌になりやすい、すぐ憤慨する、すぐ粗野になるなど。
通常は権威に向けられる反抗的行動で、消極的な不服従から規則や慣習を破るなどの協調の拒否まで含む。
他者に対する嫉妬や憎しみで、実際に不当な扱いをされたとか不当な扱いをされているとの思いが関連する。
他者に対する敵意の投射で、他者に対する不信や警戒から他者が自分の権威を傷つけたり危害を加えようと計画しているという信念まで含む。
話し方や内容で否定的感情を表現するものである。話し方は言い争う、怒鳴る、金切り声を出すなどで、内容は脅し、悪態、酷評など。
攻撃行動を説明する代表的な考え方に以下の理論がある。
ダラードら(dollard, J., et al., 1939)による説で、フラストレーション(frustration : 欲求不満)は攻撃動因を高め、必ず何らかのかたちで攻撃を引き起こし、さらに攻撃は先行のフラストレーションなくしては起こらないとする考え方である。
攻撃の源泉はフラストレーションだけでなく、他者からの言語的ないし身体的攻撃や、既存の攻撃習慣も攻撃のレディネス(readiness : 準備状態)をつくる。さらに、攻撃のレディネスがあっても、攻撃行動を引き起こすためには、適当な手掛かり、すなわち、現在ないし過去の攻撃と結びついた刺激(例えばピストルとかナイフなど)が存在しなければならない(ただし、攻撃レディネスが極端に高いときは手掛かりがなくとも引き起こされる)とするバーコヴィツ(Berkowitz, L., 1965)らの考え方である。
他者の攻撃行動を見たり、攻撃行動が称賛されたり、称賛されているのを見ると、攻撃行動は促進される。バンデュラ(Bandura, A.)は一連の実験から、観察学習(observational learning)あるいはモデリング(modeling)の重要性を示している。 ロスら(Ross, D., & Ross, S. A.)との研究(1961)では、大人がプラスチック製のボボドールという人形を口汚くののしったり、蹴ったりするのを見た幼児は、その人形と遊ばせると、見なかった幼児より、攻撃的な行動が多く見られた。もちろん人形に対してだけでなく、生身の人間に対しても同様のモデリング効果が見られる(Bandura, A., et al., 1963)。また1965年の研究では、ボボドールを棒でたたく攻撃的なモデルが罰せられるのを見た子どもたちは、その攻撃的なモデルがほめられるのを見た子どもたちより、攻撃行動が少ないことを示している。
死の本能(Thanatos : タナトス)を仮定したフロイト(Freud, S., 1933)は、人間は生まれながらにして攻撃本能をもつので、攻撃行動を減少させることはできないとし、攻撃を非破壊的な方法で処理できる機会を人びとに与えることが大切だと述べているている。
生化学的には扁桃核や視床下部などの興奮と攻撃行動との関わりがあることが知られている。
ダラードらによれば、一度攻撃行動をとると心理的緊張が低くなり、攻撃行動を低減できるが、フィッシュバック(Feshbach, S., 1955)は、実際に攻撃行動をとらなくとも、頭の中で空想するだけで攻撃動因を軽減できるとしている。これをカタルシス(catharsis)効果と呼ぶ。
攻撃行動をとらないモデルへの接触は、カタルシスより有力な攻撃行動の抑制につながる。ミルグラム(Milgram, S., 1965)によれば2人が同盟して攻撃行動をとることを拒否しているのを観察した被験者は、攻撃行動を求める実験者の要請に従おうとはしなかった。バロンとケプナー(Baron, R. A., & Kepner, C. R., 1970)の実験結果もミルグラムの結果を支持している。
ボボドール人形に攻撃行動をとった子どもをほめると、ほかの子どもへの攻撃行動がみられる(Walters, R. H., & Brown, M. A., 1963)が、逆に罰した場合は攻撃行動は抑制される(Deur, J. D., & Parke, R. D., 1970)。しかし罰の効果は両刃の剣で、罰というおどしがかえって攻撃行動を助長する(Walters, R. H., & Thomas, E. L., 1963)場合もあり、たとえ攻撃行動を押さえることができても一時的である(Estes, W. K., 1944)ことも示されている。一方、攻撃的な行動をとらないことをほめることでも攻撃行動は抑制できる(Brown, P., & Elliot, R., 1965)。
攻撃行動をコントロールするためには、教育によって、暴力的で破壊的な行動はしてはいけないことだという価値観を内面化していくことも重要である。
攻撃によって受けている被害者の苦痛(victim pain)を、その人の立場になって感じるとることのできる共感性豊かな人は攻撃行動を抑制することができる(Feshbach, N. D., & Feshbach, S., 1969)。
]]>社会的動機といわれるものの種類は極めて多く、その分類もいろいろと試みられている。
1.獲得(acquisition) 所有物と財産を得ようとする要求
2.保存(conservation) いろいろなものを集めたり、修理したり、手入れしたり、保管したりする要求
3.秩序整然(orderliness) ものを整頓し、組織立て、片づけ、整然とさせ、きちんとする要求
4.保持(retention) ものを所有し続け、それを貯蔵する要求; かつ質素で、経済的で、けちけちとする要求
5.構成(construction) 組織化し、築き上げる要求
6.優越(superiority) 優位に立とうとする要求、達成と承認の複合
7.達成(achievement) 障害に打ち勝ち、力を行使し、できるだけうまく、かつ速やかに困難なことを成し遂げようと努力する要求
8.承認(recognition) 賞賛を博し、推薦されたいという要求; 尊敬を求める要求
9.顕示(exhibition) 自己演出の要求; 他人を興奮させ、楽しませ、扇動し、ショックを与え、はらはらさせようという要求
10.不可侵性(inviolacy) 侵されることなく、自尊心を失わないようにし、"よい評判"を維持しようとする要求
11.劣等感の回避(avoidance of inferiority) 失敗、恥辱、不面目、嘲笑を避けようとする要求
12.防衛(defensiveness) 非難または軽視に対して自己を防衛しようとする要求; 自己の行為を正当化しようとする要求
13.中和(counteraction) ふたたび努力し、報復することによって敗北を克服しようとする要求
14.支配(dominance) 他人に影響を与え、あるいは統制しようとする要求
15.恭順(deference) 優越者を賞賛し、進んで追随し、喜んで仕えようとする要求
16.模倣(similance) 他人を模倣、またはまねようとする要求; 他人に同意し、信じようとする要求
17.自律(autonomy) 影響に抵抗し、独立しようとする要求
18.反動(contrariness) 他人と異なった行動をし、独自的であろうとし、反対の側に立とうとする要求
19.攻撃(aggression) 他人を攻撃したり、または傷つけたりしようとする要求; 人を軽視し、害を与え、あるいは悪意をもって嘲笑しようとする要求
20.服従(abasement) 罪を承服甘受しようとする要求; 自己卑下
21.非難の回避(avoidance of blame) しきたりに反する衝動を抑えることによって非難、追放または処罰を避けようとする要求; 行儀よく振舞い、法に従おうとする要求
22.親和(sffiliation) 友情と絆をつくる要求
23.拒絶(rejection) 他人を差別し、鼻であしらい、無視し、排斥しようとする要求
24.養護(nurturance) 他人を養い、助け、または保護しようとする要求
25.求援(succorance) 援助、保護または同情を求めようとし、依存的であろうとする要求
26.遊戯(play) 緊張を和らげ、自分で楽しみ、気晴らしと娯楽を求める要求
27.求知(cognizance) 探索し、質問し、好奇心を満足させる要求
28.解明(exposition) 指摘し、例証しようとする要求; 情報を与え、説明し、解釈し、講釈しようとする要求
マレーの心理発生的要求リスト(Murray, H.A., 1938)
動機づけ(motivation)についてはいくつかの定義があるが、ここでは、行動を解発させ、それを特定の方向に導き、さらにそれを維持強化する一連の行動発生の過程のことと定義する。この定義のなかで、個体内部の行動を解発させる原動力が動機、動因、要求(欲求)などと呼ばれる。一方、対象が帯びる力を目標(goal)とか誘因(incentive)という。目標や誘因は行動を誘発させる対象魅力のようなものであるが、接近したい対象(正の目標・誘因)もあれば回避したい対象(負の目標・誘因)もある。
動機づけの過程は、一般的にいえば、欠乏状態により生じた個体内部の不均衡から生じた緊張(tension)状態を、目標への接近を果たすことにより低減させる過程であり、一種の欲求充足の過程でもある。充足できれば快や満足を得るが、何らかの理由で目標への接近が果たせなければ欲求阻止・非充足の状態におちいることになる。これが欲求不満(frustration)と呼ばれる状態である。
生理的動機はまた、ホメオシタシス性動機(homeostatic motive)とも呼ばれる。ホメオシタシス(homeostatic)とはキャノン(Cannon, W.B.)により提唱されたものであり、もともと生物が外部環境状態の変化にかかわらず自己の状態の恒常性を保つ動的な平衡状態のことを意味し、生命の維持、および環境への適応の上から不可欠な機能である。体温、脈拍、呼吸数、空腹、渇、睡眠、排泄、寒暑による体温調節などの諸動機が含まれる。これらの動機について、視床下部 (hypothalamus)を中心とした中枢での生理的メカニズムや、食行動を中心とした心理・生理学的研究も多い。
生理的動機あるいはホメオシタシス性動機の多くは充足されないと死に至るが、性の動機については禁欲したからといっても種族保存の機能が果たせないだけのことで死に至るわけではない。このような論理から性の動機はホメオスタシス性動機の範疇に入れないのがふつうである。
性の動機はエストロゲン(estrogen: 卵胞ホルモン)とかアンドロゲン(androgen: 男性ホルモン)といった性ホルモンや神経的メカニズムの働きを基礎とするが、高等動物、ことに人間においては大脳の関与も大きく、異性刺激(例えば身体つき、所作、音声など)によっても解発される。あるいは記憶再生されたイメージや言語のような非直接的刺激によっても喚起される。あるいは、主要な性ホルモンの分泌が阻害されても、かなりの程度の性行動が生じることも知られており、性ホルモン以外による動機の解発を示している。
内発的動機とは、行動目標が外在しないで活動それ自体が生活体に快や満足をもたらすような動機であり、自発的活動(spontaneous activity)ともいう。ビューラー(Buhler, K.)は、これらの活動が器官を働かせること自体が快だとして、「機能の快(Funktionlust)」と呼んだ。生活体の基本的特性というべき環境を探索したり[探索動機(exploratory motive)と呼ばれる]、いろんなものに触ってあれこれ操作したり[操作動機(manipulation motive)と呼ばれる]するような行動を惹起する動機である。
社会的動機は、特に人びとの適応行動を考える上で重要である。それは学習や経験により獲得されるものであり、心理発生的動機と考えられる。社会的動機は生理的動機などから派生してきたものというより、生理的動機を充足するための社会的生活から発生してきたものであり、充足のための手段や道具とみなされていたものが行動目標化して、それを獲得しようとする動機である。
社会的動機に関しては、マーレー(Murray, A.H., 1938)がそのパーソナリティ論の中でそれを心理発生的要求(psychogenetic need)と呼び、分類リストを示している。この中の比較的実験的研究が進んでいる社会的動機に親和(affiliation)、達成(achievement)、攻撃(aggression)などがある。
(1)親和動機 友情と絆をつくりたいとする動機である。他者との友好的接触を保ち、好意を交換し、協力し合いたいなどの欲求であり、親子間、夫婦間、職場や地域の仲間同士などに見られるものである。
親和動機に関する研究結果としては、一般に、親和動機の強い人は他者への接触、特に相手の承認を求めるような傾向が強いこと、仲間を選ぶ場合、有能な人より親しい人を選ぶ傾向が強いことなども指摘されている。また、幼児期に両親や他者への依存傾向を高めた(比較的甘やかされた)長子やひとりっ子は、中間子や末子よりも親和動機が強くなる傾向があるという。
(2)達成動機 困難にめげず、自分の持てる力をフルに活用し、何かを成し遂げようとする動機である。このことから、この動機は自我関与もしくは自己実現の特性を持ち、要求水準とも密接な関係を持っている。マッククレランドら(McClelland, D.C. et al., 1958)はマレー(1938)のTAT(絵画統覚検査)図版を利用し、達成動機が現実のいろいろな行動とどのような関係を持つかについての広汎な研究を行なっている。それによれば高い達成欲求を持った人に共通する行動特性、態度特性として、1.個人的責任感が強く、概して成績がよい、2.適度な危険への挑戦的傾向、3.活動結果の成績を知りたがる傾向、4.達成すべき目標と手段を明確に認識している、5.優れた才能を持つ人に対する接近傾向がある(仲間を選ぶ場合親しさではなく有能さで選ぶ)などの結果を見出した。
達成動機は幼少期のしつけの型によって影響されるといわれ、「・・・してはいけない」という制限型のしつけより「・・・したらどうか」という自立型のしつけの方が高い達成動機の人間をつくるという研究もある(しかし極端な要求のしすぎは達成欲求高揚には妨害となる)。
(3)攻撃動機 害意をもって他人(時には自分も)を攻撃したりする動機である。相手にとって有害な刺激(言動)を与えることではあるが、例えば混雑する電車内でうっかり相手の足を踏んでしまったような行為は、相手への有害な行為ではあっても偶発的側面が強く攻撃の範疇には入れない。
]]>われわれは、他人と接するときに、相手がどのような人物であるかについていろいろな手がかりを用いて推測し判断している。
推測判断の手がかりになるものに、まず外見的な特徴がある。身長や体格、髪型、顔つきや表情といった身体的な特徴のほかに、そのときの服装や持ち物、装飾品なども手がかりになる。さらに、対面的に相手とコミュニケーションが始まると、行動的な特徴や個人的な情報も加わる。例えば、声や話し方、話の内容、しぐさや態度などの特徴、さらに職業や家族構成、出身地といった個人的な属性に関する情報などが大きな判断材料になる。また、これらの情報は、直接相手と対面する以前に与えられることもあり、その時点でその人物についてかなり明確な印象が形成されることもある。
いずれにせよ、最終的にはそれらの情報をもとに、やさしそうな人だとか頭がよさそうだとか、親しみやすいなどといった全般的な印象として結論づけられることが多く、性格やパーソナリティはもとより、相手の意図や欲求、心理的な態度、感情の状態、能力といったその人固有の内面的な特徴について総合的に推論をしているといえる。他者に対するこのような一連の推測判断の課程は、対人認知(Person perception)と呼ばれる。
人と人とのコミュニケーションは、大きく言語的コミュニケーション(verbal communication)と非言語的コミュニケーション(nonverbal communication)とに分けることができる。前者では送り手の意図が明確に示され、受け手もそれを意識することが可能である。一方、後者は、前者の補完的な意味合いを含むこともあり、言語的メッセージが使用不可能な場合の代替機能を果たすこともある。また、言語では表現しきれない意味や微妙な心情を伝える場合や、相手を拒絶したり回避する場合に非言語的な機能が使われることが多い。
アイゼンバーグ(Eisenberg, N. 1982)は、愛他性とか思いやりに関連するプロソーシャルな道徳的判断の発達には、6つの段階(レベル)があると述べている。
道徳的な配慮よりむしろ利己的、実際的な結果に関心をもっている。「善い」行動とは、行為者自身の欲求や要求を満たすのに役立つ行動である。他者を助けるあるいは助けない理由は、自己への直接的な利益、将来の互恵性および好きな人あるいは必要な人への気づかいといった考慮である。
たとえ他者の要求が自分の要求と相容れなくても、他者の身体的、物質的、心理的要求に関心をよせる。この関心は、役割取得とか同情の言語的表明、罪悪感のような内面化された感情への言及といった明瞭なものではなく、ごく単純なことばで表現される。
善い人・悪い人あるいは善い行動・悪い行動の紋切り型のイメージ、他者の承認や受容といった考慮が、プロソーシャルに行動するかしないかということの理由に用いられる。
判断は、同情的な応答、役割取得、他者の人間性への気づかいといったものを含んでいる。あるいはまた、行為の結果に関連した罪悪感とかポジティブな感情を含んでいる。
助けるあるいは助けないの理由の根拠は、内在化された価値、基準、義務および責任性を含んだものであり、他者の権利や尊厳を守ることの必要性に言及する。しかし、これらは明確には述べられない。
助けるあるいは助けないの理由は、内在化された価値、基準や責任感に基づいており、個人と社会の契約上の義務を維持しようとする願望およびすべての人の尊厳、権利、平等についての信念に基づいている。自分自身の価値や受容した基準に従って生きることによる自尊心の維持に関連したポジティブあるいはネガティブな感情も、この段階を特徴づけている。
]]>自己概念は、学校と家庭における主要人物との同一視を通して発達する。欲求と空想はこの段階の初期において支配的である。興味と能力は社会参加と現実吟味の増大に伴い、この段階でいっそう重要になる。この段階の副次段階は、
欲求中心・空想のなかでの役割遂行が重要な意味をもつ。
好みが志望と活動の主たる決定因子となる。
能力にいっそう重点が置かれる。職務要件が考慮される。
学校、余暇活動、パートタイム労働において、自己吟味、役割試行、職業上の探求が行なわれる。探索期の副次段階は、
欲求、興味、能力、価値観、雇用機会のすべてが考慮される。暫定的な選択がなされ、それが空想や討論、課程、仕事などのなかで試みられる。
青年が労働市場または専門的訓練に入り、そこで自己概念を充足しようと試みる課程で、現実への配慮が重視されるようになる。
表面上適切な分野に位置づけられると、その分野での初歩的な職務が与えられる。そしてそれが生涯の職業として試みられる。
適切な分野が見つけられ、その分野で永続的な地歩を築くための努力がなされる。この段階の初めにおいて若干の試行がみられる場合がある。その結果、分野を変える場合があるが、試行なしに確立がはじまるものもある。とくに専門職の場合がこれである。この段階の副次段階は、
自分に適していると考えた分野が不満足なものだとわかり、その結果、生涯の仕事を見出さないうちに、あるいは生涯の仕事が関連のない職務のつながりだということがはっきりしないうちに分野を1~2回変更することとなる。
キャリア・パターンが明瞭になるにつれて、職業生活における安定と保全のための努力がなされる。多くの人にとって、この時代は創造的な時代である。
職業の世界である地歩をすでに築いたので、この段階での関心はその地歩を保持することにある。新しい地盤が開拓されることはほとんどなくて、すでに確立されたラインの継続がみられる。
身体的、精神的な力量が下降するにつれて、職業活動は変化し、そのうち休止する。新しい役割が開発されねばならない。いわば最初は気が向いたときだけの参加者という役割、ついで参加者でなしに、傍観者としての役割をとるようになる。この段階の副次段階は、
場合によっては公式の引退(定年)のときであり、ときには維持段階の後期にあたる。そして、仕事のペースは緩み、職責は変化し、ときには下降した能力に合わせて仕事の性質が変容する。多くの人は常用的な職業の代わりにパートタイムの職務を見出す。
おのおのの年齢的限界については、人によって大きな違いがある。しかし、職業上の完全な休止はだれにもいずれやってくる。ある人にとっては気楽に楽しく、別の人には不愉快で落胆を伴って、あるいは死とともにやってくる。
職業生活の諸段階(Super & Bohn, 1970)
この水準の子どもは、文化の規則と「善い」「悪い」「正しい」「間違っている」というような、行為につけられたラベルに敏感である。しかし、それらのラベルは、行為によって生じた物理的な結果または快楽主義的な意味での結果(罰、報酬、好意の交換)がどうかという点で解釈されるか、あるいは規則やラベルを宣言した人の身体的な力がどうであるかという点から解釈される。この水準は、次の二つの段階に分けられる。
物理的な結果によって行為の善悪を判断し、結果のもつ人間的な意味や価値を無視する。罰を避け、力のあるものに対して盲目的に服従することは、それ自体価値のあることだとされる。しかし、罰や権威によって支えられて背後に存在している道徳的秩序を尊重することによって、それらが価値づけられるのではない(その場合は第四段階である)。
正しい行為とは、自分の欲求や場合によっては他人の欲求を満たすための手段である。人間関係は取引の場のようにみられている。公平、相互性、平等な分配という要素は含まれているが、それらは常に、物質的で実用主義的に解釈される。相互性は、「君が僕の背中をかいてくれれば、僕も君の背中をかいてあげる」といったものであり、忠誠、感謝、公正といった事柄ではない。
この水準では、各人の家庭、集団、国家のもつ期待が、直接的にどのような結果が明確に生じようとも、それ自体価値をもつものとしてとらえられる。個人的な期待や社会秩序に同調するという態度だけではなく、忠誠心をもった態度、秩序を積極的に維持し、支持し、そしてそれを正当なものとする態度、そして、秩序に含まれる人々や集団と同一視する態度をとる。この水準は次の二つの段階に分けられる。
善い行為とは、他を喜ばせたり、助けたりすることであり、他者から肯定されるようなことである。多数派の行動あるいは「自然な(ふつうの)」行為という習慣化されたイメージに自分を同調させる。行為は、しばしばその意図の善し悪しによって判断される。「彼は善いことを意図している」ということは、まず重要なことになる。「善良であること」によって是認を受ける。
権威や固定された規則、そして社会秩序の維持を指針とする。正しい行為とは、義務を果たすこと、権威への尊敬を示すこと、すでにある社会秩序をそれ自体維持することである。
この水準では、道徳的価値と道徳原理を定義しようとする明確な努力がみられる。それらの道徳的価値や道徳原理は、それらを支持する集団や人々の権威とは独立に、そしてそれらの集団に個人が同一視しているということとも独立に妥当性をもち、適用性をもつものである。この水準もまた、二つの段階に分けられる。
一般に功利主義的な色あいを帯びている。正しい行為とは、一般的な個人の権利や、社会全体によって批判的に吟味され一致した規準によって定められる傾向がある。私的な価値観や見解の相対性を明確に意識し、一致に達するための手続き上の規準を強調する。合法的に民主的に一致したことを別にすれば、権利は、私的な「価値観」と「見解」に関することがらである。結果的には「法的な観点」が強調されるが、社会的利益についての合理的な考察によって法を変えることができることも、同時に強調される(第四段階の「法と秩序」の考えのように法を固定化するのではない)。法の領域を離れれば、自由な同意と契約が、義務に拘束力を与える要素である。この考え方は、合衆国の政府及び憲法における「公式の」道徳性である。
正しさは、論理的包括性、普遍性、一貫性に訴えて、自分自身で選択した「倫理的原理」に従う良心によって定められる。それらの倫理的原理は、抽象的であり、倫理的である(黄金律・・・己の欲するところを人に施せ、定言的命令)。すなわちそれらは、「公正」、人間の「権利」の「相互性」と「平等性」、「個々の人格」としての人間の尊厳の尊重という、普遍的な諸原理である。
道徳性の発達段階(kohlberg. 1976)
ハヴィガースト(Havighurst, 1953)は、個人が健全な発達を遂げるために、発達のそれぞれの時期で果たさなければならない課題を設定し、それら発達課題(developmental task)について次のように述べている。
「発達課題とは、人生のそれぞれの時期に生ずる課題で、それを達成すればその人は幸福になり、次の発達段階の課題の達成も容易になるが、失敗した場合はその人は不幸になり、社会から承認されず、次の発達段階の課題を成し遂げるのも困難となる課題である」
各課題は、歩行の学習のような身体的成熟から生ずるもの、読みの学習や社会的に責任ある行動をとることの学習のような社会からの文化的要請により生ずるもの、職業の選択や準備、価値の尺度などのような個人の価値や希望から生ずるものなどからなっている。しかし、多くの場合、これら3つのすべてが関係している。
ロシアの生理学者パブロフ(Pavlov,I.P.,1927)は、犬の唾液の分泌が学習によって統制されることを発見し、条件反射(conditioned reflex)の学説を展開した。この実験は、防音室内で犬を実験台に固定し、唾液腺開口部に管を接続して室外に導き、室外から実験を観察できるようにした。そして犬に肉を与えると同時にメトロノームの音をきかせ、これを30~40回ぐらい繰り返すと、メトロノームの音だけで、餌を与えなくとも犬は唾液を分泌し、その唾液量も餌を与えた時とほぼ等量であることを見出した。これは音という刺激と、それとは元来は無関係であった唾液分泌という反射の間に、新しい連合が成立したためと考えた。そこで食物に対して唾液を分泌する反射は生得的なものであるから無条件反射(unconditioned reflex)といい、唾液分泌を起こす刺激である肉を無条件刺激(unconditioned stimulus)と呼んだ。これに対し、元来唾液分泌とは何の関係も無いメトロノームの音に対して唾液を分泌する反射は、後天的に経験によって獲得されたものであるから、これを条件反射といい、唾液分泌を起こす新しい刺激であるメトロノームの音を条件刺激(conditioned stimulus)と呼んだ。
この条件づけにとって最も必要な条件は、条件刺激と無条件刺激とを対提示することであり、この手続きを強化(reinforcement)あるいはレスポンデント強化(respondent reinforcement)という。一般に強化を繰り返すほど条件反射量は増大し、条件刺激提示から条件反射が開始するまでの時間間隔、すなわち潜時(latent period)が短くなる。
条件刺激と無条件刺激の提示の時間的関係については、条件刺激を無条件刺激より前に与えるほうが条件づけを成立させやすい。最適の条件は、0.5秒前後条件刺激が先行する場合である。無条件刺激が逆に条件刺激より先行する場合を逆向条件づけというが、この場合は条件づけは極めて困難である。
パブロフは音刺激と唾液分泌を条件づけた後、音刺激と黒い四角の視刺激を対提示したところ、黒四角の刺激は餌とともに提示されたことがないにもかかわらず、この黒四角という中性刺激が唾液反応を引き起こすことができることを見出した。このようにもともと強化力をもたない中性刺激が強化刺激とともに繰り返し提示されると、強化力を獲得し、それによって強化をしていく手続きを二次強化(secondary reinforcement)という。この中性刺激が二次強化刺激となるためには、一時強化が存在することが必要であり、また、その一時強化刺激と接近して生起する刺激であることが必要である。
一度条件づけが成立しても、無条件刺激を与えないで、条件刺激だけを提示すると次第に反応が衰え、ついには消失する。これを消去(extinction)という。この消去は、合図と反応の関係づけが解消されるのではなく、合図があっても反応が起こらないようにする制止過程が発生することによる。
]]>オペラント行動と強化のされ方との関係を、強化スケジュール(schedule of reinforcement)という。強化スケジュールは、いくつかの種類に分類される。
これは、自動販売機の物を買うように、行動が起きる度に強化される場合である。
連続強化以外の強化の仕方のことを部分強化、または、間欠強化(intermittent reinforcement)という。
部分強化で強化された行動の方が、連続強化で強化された行動よりも、強化された行動が消去されても長く持続することが実験によって明らかになっている。部分強化スケジュールにはいくつかのタイプがある。
これは、決まった反応数に対して強化する方法である。たとえば、定率強化5のスケジュールとは、5回反応する度に、強化する仕方である。
セールスマンが販売品を決まった数売るごとに、特別手当をもらったり、ごほうびに温泉旅行や海外旅行に行かせてもらう場合がこれにあたる。
この方法は、他の部分強化スケジュールよりも、短時間でオペラント行動の反応数を増やすことができる。
歯科治療に極端な恐怖心をもっている子どもに対して、たとえば3回来院するごとに特別なごほうびとして、その子どもが好きなアニメの主人公の絵のカードをあげるのは、定率強化スケジュールの例である。もちろん、毎回来院する度にほめてあげたり、手帳にシールを貼ってあげたりして、「来院する」というオペラント行動を連続強化することは基本的に重要な対応になる。
これは、強化が決まった反応回数ごとにされるのではなく、不規則になされる方法である。たとえば、変率強化10というのは、全体を平均して10回目の反応に強化をする仕方をいう。したがって、ある場合は、7回目に強化されるが、別な時は12回目に強化されることもある。
上で述べた歯科治療の子どもの例でいうと、何回目ごとの来院時にアニメの主人公のカードをあげるか厳密にしないで、おおよそ3回目あるいは4回目、5回目の時にあげ、全体として平均4回目の来院時にあげるようにする仕方は、これにあたる。
これは、前の強化から一定の決まった期間が過ぎた後の最初のオペラント行動を強化する方法である。たとえば、定時強化3分というのは、前の強化から3分経った後の最初の行動を強化するスケジュールを意味する。
歯科治療に通っている子どもに、前の治療から2週間以降に来院するごとにアニメの主人公のカードをあげるのは、この方法になる。サラリーマンの月給制や週給制は、このような強化のされ方に近い。
定時強化スケジュールと同じように前の強化からある時間が過ぎた最初の行動を強化する方法ではあるが、その時間を一定させない仕方である。たとえば、不定時強化6分というのは、前の強化から、平均して6分経った最初の行動を強化するスケジュールをいう。ある時は4分経ってから、別の時は9分経ってからの場合もあるが、全体としては、平均6分後に強化される。
釣りや、ギャンブル、または宝くじなどの「当たり」がこれに近い。正の強化刺激が強化される時間や期間が一定していない場合は、この強化スケジュールによる強化の仕方になる。
適切なオペラント行動が見られた時には、その直後に強化刺激を与えた方が、しばらく経ってから与えるよりも、強化の効果が大きいということである。時間が経ちすぎた強化刺激は、強化の効果を生まない。
強化刺激には正と負という区別以外に、もう一つの分類の仕方がある。それは、無条件強化刺激(unconditioned reinforcing stimulus)と、条件強化刺激(conditioned reinforcing stimulus)という分類の仕方である。
無条件強化刺激とは、食べ物(正の無条件強化刺激)、暑さ、寒さ、痛み(負の無条件強化刺激)などのように、そもそもそれ以前どのような経験がなくとも、生まれつきオペラント行動を強化するものをいう。条件強化刺激とは、無条件強化刺激と一緒に提示された刺激で、その無条件刺激がなくとも、強化する刺激になったものをいう。2次的な強化刺激である。たとえば、おこづかい、シール、ほめ言葉(正の条件強化刺激)や「危険」という立て札、赤信号(負の条件強化刺激)などである。
条件強化刺激は、無条件強化刺激と違って、数や種類が豊富にあり、手ごろに便利に使用できる。ブラッシング指導の際に、子どもが好きなシールを使ってブラッシング行動を強化するのは、条件強化刺激をうまく使った例である。
自分で強化刺激を与えたり与えなかったりして、強化スケジュールを自分で決めた場合、他人からそのようにされるよりも、強化しやすく、強化がなくなった後でも、つまり消去後も、行動がより強く持続する。
ブラッシングの例でいうと、どのような場合にシールを貼るのか(強化スケジュールの計画)を子どもが自分で決めたり、お母さんではなく子ども自らがシールを貼った方が、効果が高くなる。
]]>環境に対する自発的な行動であるオペラント行動の結果、生じる環境の変化によってその自発が増加することを、オペラント条件づけ(operant conditioning)あるいは道具的条件づけ(instrumental conditioning)という。
自発的行動を増加させる刺激を強化刺激(reinforcing stimulus)という。これは、強化子(reinforcer)とも呼ばれる。オペラント行動の自発の後に強化刺激を伴わせることを、強化(reinforcement)という。
オペラント行動の自発の後に提示されることによって、自発の頻度を増加させる刺激を、正の強化刺激(positive reinforcing stimulus)という。そのような強化の仕方を正の強化(positive reinforcement)と呼ぶ。また逆に、自発の後に除去されることによって、自発の頻度を増加させる刺激は、負の強化刺激(negative reinforcing stimulus)と呼ばれる。そのような強化の仕方は、負の強化(negative reinforcement)である。ここでいう正負という考え方には、正が望ましく、負が望ましくない、というような価値観は入っていない。
オペラント行動の結果として負の強化刺激が提示されたり、正の強化刺激が除去されることによって、行動の頻度が減少することを、罰(punishment)という。前者の場合は、正の罰(positive punishment)、後者の場合は、負の罰(negative punishment)と区別される。
また、オペラント行動は、その直前にその行動を引き起こす引き金となる刺激があって自発される。そのような刺激を、弁別刺激(discriminative stimulus)と呼ぶ。行動と刺激のつながりを、随伴性(contingency)という。
強化刺激の提示と除去とオペラント行動の自発頻度の増減との関係をまとめると下記のようになる。
正の強化刺激 負の強化刺激
提示 正の強化 正の罰
(行動の自発頻度の増大) (行動の自発頻度の減少)
除去 負の罰 負の強化
(行動の自発頻度の減少) (行動の自発頻度の増大)
子どもの歯磨きの指導を例にとって説明すると次のようになる。子どもが歯ブラシ(弁別刺激)を手にし、ブラッシングをする(オペラント行動)。ブラッシングをし終わった直後に母親が、ほめて手帳にシールを貼ってあげる。その結果ブラッシングをする自発頻度が増大すれば、歯ブラシ(弁別刺激)→ブラッシング(オペラント行動)→ほめ言葉・シール(正の強化刺激)という随伴性が形成されたことになる。これが正の強化である。このように随伴性が形成された子どもにブラッシングをいつもしてもらうためには、歯ブラシを子どもに見えやすく手が届きやすい場所に置き(弁別刺激の提示)、ブラッシング終了後直ちに十分にほめ、シールを毎回貼ってあげなければならない(正の強化刺激の提示)。
これは、オペラント行動の自発の直後に負の強化刺激が除去されることによって、その行動の自発頻度が増大する、という行動と刺激のつながりである。
たとえば、傷の痛みがひどいので、鎮痛剤(弁別刺激)を口に入れて飲む(オペラント行動)と痛みがなくなる(負の強化刺激の除去)という一連の刺激と行動のつながり、すなわち随伴性は、逃避条件づけの例である。
逃避条件づけではオペラント行動をすることによってその時に提示されている負の強化刺激が除去されるが、回避条件づけでは、オペラント行動をした時点では負の強化刺激はまだ提示されておらず、その行動をした結果、負の強化刺激を回避できることによって、その行動の自発頻度が増大する。
子どもが注射を嫌って逃げる行動は次のように説明できる。子どもが、注射器(弁別刺激)を見て逃げると(オペラント行動)、注射による痛みを避けられる(負の強化刺激の回避)。
オペラント行動の自発の結果として、負の強化刺激が提示されることによって、その行動の自発頻度が減少する場合である。
たとえば、幼児が不安のなかで初めて歯科治療を受けに来院した(オペラント行動)時、痛み(負の強化刺激)の経験をすると、その後、歯科医院に治療に行こうとしなくなる(オペラント行動の減少)のも、正の罰による行動の変化の例である。
これは、オペラント行動の自発の結果として、正の強化刺激が除去されることによって、その行動の自発頻度が減少する場合である。
たとえば、先に正の強化の例としてあげたブラッシングの場合でいうと、その子どもが、夕食後のブラッシングをさぼった(オペラント行動)ので、手帳に貼ってあるシールを母親が一枚剥がす(正の強化刺激の除去)のは、さぼりを減少させるための負の罰による対応である。
消去とは、それまで強化されていたオペラント行動が、それ以上強化されなくなったために、その行動の自発頻度が減少する場合である。
たとえば、親切に診てくれる医師(正の強化刺激)がいたのでいつもある病院に通院していた(正の強化)が、その医師が他院に転勤してしまったために、その病院から足が遠のく(オペラント行動の減少)のは、消去の例である。
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