1人の娘が死に、1人の娘が出産間際
道長の明子腹の長女・寛子が息を引き取ったのは、万寿2(1025)年7月9日の暁方、寅の刻(午前4時前後)のことだった(『小右記』同日)。
道長は、寛子の死を看取らなかった。訴えを聞き、落飾させた後は、見捨てるようにそそくさと土御門殿に帰ったのだ。さすがにまんじりともできず、暁方に寛子臨終の報せを聞いた時は胸が張り裂けそうだった。だが、こちらはまたこちらで倫子腹の末娘・嬉子が出産を前に里帰り中だった。
嬉子は寛仁2(1018)年に威子から尚侍を引き継ぎ、治安元(1021)年、15歳の時に、2歳年下の春宮・敦良親王の妃となっていた【図表1】。
今回は初めての懐妊で、土御門殿には春宮も行啓して見舞うなどしていた(『左経記』万寿2〈1025〉年6月25日)。
妊婦を襲った「赤裳瘡」と陣痛の苦しみ
だが、頃悪しく「赤裳瘡」と呼ばれた麻疹が流行し、嬉子も感染してしまった(『小右記』万寿2年7月27日・29日)。時々物の怪の発作が出ていると聞いた小一条院は、寛子の病の折、藤原顕光の怨霊が言った「尚侍様の産室に必ずや参って、お産を拝見しましょうぞ」という言葉が脳裏に浮かび、ぞっとしたという(『栄花物語』巻二十五)。
『小右記』によれば、嬉子に赤裳瘡の発疹が出たのが7月29日、お産の最初の兆候があったのが8月1日。病から回復して出産という大事を迎えるほどに体調が整っていたとは考えにくい。しかも嬉子は、難産だった。
赤裳瘡と陣痛の二つの苦しみは、当時の人々の目には物の怪どもの悪事と映った。案の定、顕光と延子の怨霊が立て続けに現れて大声を上げた。嬉子の苦痛の声を、周囲は彼らのおぞましい声と聞いたのである。
8月3日、嬉子は男児を産んだ。親仁親王、のちの後冷泉天皇(1025〜68)である。邸内は歓喜に沸き、道長も胸をなでおろした。翌日には産湯の儀式「御湯殿の儀」が行われ、嬉子はその様子が見たいと、あどけない子供のように御帳台から出て立って眺めた。だがそれが元気な嬉子の最期の姿になった。