そのお店は「きくや」
僕が興味を引かれたのは営業時間だけではない。事前にチラ見した情報で、とても古めかしい食堂であることがわかっている。東京の、いや日本の技術の粋を集めたスカイツリーとのギャップを肌で感じてみたい。
うしろにそびえるはスカイツリー
東京スカイツリー駅から徒歩2分のところにある。古き良き時代を知らない僕でも、この外観はなかなか看過できない。
蛍光灯の明かりがもれている
変わったのれんだ。のれんのある店にはたいてい心構えを強いられる。ただ2時30分の開店に合わせたので一番乗りだろうから、常連ににらまれることもないだろう。歌舞伎のステッカーにはすでににらまれているが。
これは…
よし、一番乗りだ。
まるで古い駅の待合室のような店内だ。なんだろう、落ち着く。雑多な心地良さってあるだろう。“ゆとり”はあえて作るもんじゃなく、詰め込んだほうがより感じるもの。
一角に腰かけていたご主人と思われる男性が、すっくと立ち上がり気さくに声をかけてくれる。
ご主人「寒かったでしょ。ストーブの近くにどうぞ。」
いろいろ聞いても怒らなそうな人だと一目でわかった。勝手に頑固親父を想像していたのでほっとした。
いわゆる丑三つ時。ストーブの上のやかんからは、ホフホフと湯気が上がっている。
野菜ハイと牛乳ハイが気になる
何にするか聞かれたので、ふと目に入った野菜ハイと牛乳ハイを注文してみることにした。ご主人も勧めてくれたので間違いはないだろう。
注文を待つ間、いろいろ写真を撮らせてもらった。僕にとっては、見るものがいちいち新鮮だ。
やはり手書きのポップには味がある
つまみと食事のメニューが混在している。このあたりに酒飲みが集まる店の雰囲気が漂っている。酒肴と食事の境目があいまいなのだと思う。
どこかで見た事ある切り抜き
僕がバシバシ写真を撮っているとガララッと扉が開いて常連と思しき客が一人、また一人と入ってきた。こちらを特に気にするようでもなく、席について冷蔵庫から焼酎のボトルを取り出していた。
夜中だというのに示しあわせたかのように集まって来る。地域の会合だろうか。彼らの話す内容に自然と耳が傾く。仲間が小手指まで行ってなかなか帰って来られないとか、なんかそんなことを言ってるようだ。
たぶんストーブが駅の待合室感を出していると思う
店の中央で放熱するこのストーブは、暖をとるだけのものではない。常連の一人は、焼酎を割るためにやかんのお湯を注いでいた。
誰か常連の人と話してみたいが勇気が出ない。逆に、話しかけられようと写真を撮りまくって常連の気を引く作戦をとってみた。構図にこだわってる雰囲気をかもし出しながら、必要以上に同じ写真を何枚も撮る。我ながら滑稽なことをしてるなぁと思う。
野菜ハイと牛乳ハイ
野菜ハイとは野菜ジュースを、牛乳ハイとは牛乳をそれぞれ焼酎で割ったものだった。のんべえ仕様か、やたらと濃かった。
カレーライスを注文してみる。
はい、おまち。
意外と家庭的なカレーが出てきた。 300円
これは一口でうまいとわかった。毎回レンジでチンではないと思うが、意外なことに米のうまさが際立っていた。謎。そして食べ慣れた家庭の辛口カレー。スパイスのレシピが気になり尋ねると、「ルーを何種類か混ぜて使ってる」との答えだった。なるほど、おいしゅうございます。
いや待て、スパイスよりも聞きたいことがあるのだった。
タクシードライバーの憩いの場だった
一番の疑問をぶつけてみた。
―なぜこの時間の営業なんですか?
ご主人「隣が東武タクシーなの。2時とかに運転手が帰社するから、それにあわせて店開けてんだよ。」
先程来、歓談している常連客はタクシードライバーだったわけか。
東武タクシーの様子
住居兼店舗という柔軟性がなせる業だろう。「きくや」を先代が始め、昭和23年にこの地にやって来て、今はご主人一人で営業を続けているらしい。当初はまだ、東武タクシーも無かったそうだ。
―あれ?じゃあその頃は営業時間はどうなってたんですか?
ご主人「朝5時くらいから夜9時くらいで開けてたね。その頃なんて食べる店ここぐらいしかなかったからね。」
ご主人は昭和15年生まれの72歳。8歳からこの家に住んでいることになる。
ころがし会のボーリング大会&忘年会のお知らせ
ご主人「タクシーの連中が貼ってくの。マージャンやる仲間で旅行行くんだ。俺は店あるから行かないけど。朝このあとマージャンやりに行って、昼前にまたここに戻ってくんだよ。」
後日、行ってみたら別のチラシに替わっていた。
ころがし会のボーリング大会&忘年会のお知らせ
タクシー勤務の休みは皆同じではないから、いろいろな集まりで皆が楽しめるようにしているのだろう。
ドライバーさん愛用の寝袋
始発まで寝袋にくるまっている人もいるそうだ。冬は電気毛布を入れるらしい。ガン寝モードだ。
この店にはレトロという言葉はそぐわない。生活そのものだからだ。
新しいドライバーさんが、袋を片手に入店して来た。
本を持ち帰ったら後日戻せばよい
そして何冊かの雑誌を置いて、代わりにそこらにあった雑誌を袋に入れていた。
―持ち帰った本を返しに来たんですかね?
ご主人「いや、いつも新しい雑誌を持ってきてくれるのよ。古いのは持ってってくれるんだ。運転手は雑誌好きだから。」
持ちつ持たれつというわけか。
こののれんもドライバーさんの差し入れだろうか
ドライバーさん達とご主人の会話が弾んでいるので、新たに料理を注文するのを躊躇したが、おそらくいつも弾んでいるので意を決して注文する。
半熟玉子のハムエッグ 500円
ハムエッグの値段は妥当だと思っているとのこと。じゃあカレーは安すぎるのではと思うが、カレーは出すときに手間がかからないから安く設定しているらしい。
取材は基本NG
こんなフォトジェニックな店をメディアはほうっておかないだろう。かくいう僕もその一人だ。
―いろんなテレビ局が来たでしょう?
ご主人「うちね、取材は受けないの。静かにやりたいのよ。こないだも、外国人2人が撮影していいですかって言うから、じゃあお客さんは撮っちゃだめだよって言ったら、外で待ってたカメラマンとかがぞろぞろ入ってきて参ったよ。」
ロバート・ローズ
ご主人「とんねるずの番組の話も来たけど断ったの」
もしかして、それって汚いけどウマい店ってやつだろうか。でもご主人が断ったのは、番組内容に腹を立てたからではない。純粋に静かにやりたいからだ。ビフォーアフターの出演依頼が来たら絶対に断ってください。
ちなみに、この店をネットの記事として書きたいんですと恐る恐るお願いしてみたところ、意外にもあっさりOKしていただいた。もしや懐に入り込めたのか俺?と一瞬思ったが、ご主人にとってインターネットの影響力が、穏やかな日常を揺るがすほどの脅威じゃなかっただけのことだろう。
深夜3時を知らせる柱時計。江川のサイン色紙もあった。
―スカイツリーが建ってからお客さん増えました?
ご主人「いや、減ったね。せっかくスカイツリーに来たなら、たくさんスカイツリーに店あるからそっちに行きたいんじゃない?」
スカイツリー(新タワー)建設前のマップ
―あれ?この○印何ですか?小梅小学校に印ついてますけど。
ご主人「卒業した小学校だからね。王さん(王貞治)もこの辺に住んでたんだよ。だけど出世したら別の所に行っちゃってさ。この辺で成功した人は、どっか行っちゃうんだよ。目黒とか。」
いや、むしろずっと同じところに住んでいる方が珍しいですから。半世紀以上同じ家に住むってどういう感覚なのだろう。僕にはわからない。そういう家を汚いとは何事だとか、でも企画としては面白いしなとか、あの番組について考えてみた。でも当のご主人は笑っているので、僕も深く考えるのをやめた。
熱心に撮影していると、一人のドライバーさんが声をかけてきた。
「あれなんだと思う?」
あれ
「戸棚?違うよ~、冷蔵庫だよ~!戸棚ってぇ~。~~。」
どうやら冷蔵庫とのこと。これまた年季が入っている。
―え?ご主人、今もあの冷蔵庫使っているんですか?
ご主人「電源は入っていないよ、飲み物の保存場所として使ってるだけだから」
じゃあ実質戸棚ですねと思った。でも、ドライバーさんに話しかけられたのが嬉しかった。この店での通行手形を得た気がした。
ぬいぐるみは魂の抜けたような顔をしていた
―ご主人、あの人形は何で飾っているんですか?
ご主人「…?誰か持って来たんじゃない?いろいろ持ってくんだよ。あのトラックもそう。」
あの佐川急便の絵見たことある
長年やっているといろいろと増えていくようだ。歌謡チャンネルがついていたが、この後お色気温泉チャンネルに替わることになる。
—コンポがありますけど音楽かけるんですか?
ご主人「テレビで歌かかってるチャンネルあるから、今はコンポは使ってないねぇ。」
人がどんな音楽を聴いてるのかってとても気になる。お願いしてCDを見せていただいた。
安全地帯、髙橋真梨子、有明貴志…有明貴志って誰!
ご主人「安全地帯は娘が好きなんだよ。有明貴志は、そこのラーメン屋の大将だよ」
どうやらこの近所には演歌歌手がいるようだ。
ドライバーさんがメニューの貼られた棚の裏から、紙を取り出して何か書き込んでいる。
気になる裏側には馬券のマークカード常備されていた
競馬好きのドライバーさんが記入したマークカードを持って、ご主人がなにかのついでの時に馬券を購入してくるらしい。ご主人も楽しんでやってると思うのだが、このサービス精神はどっからくるのか。
撮りたいなら今のうちだと勧められたハズレ馬券(二ヶ月保管)
この後も、ビールだけしか頼まないドライバーさんに「ビールだけって…。なんか食わないと。」と栄養を摂るよう説いていた。そうか、野菜ハイと牛乳ハイもそうだったのか。すこしでも栄養を摂らせたいとの思いから勧めたのか。
この時間帯に一般客は来ない。東京スカイツリー駅の付近には夜でも若者がたむろしているが、その喧騒は届かない。
と思ったら、来た。
「おざーっす」
テキパキと新聞をホッチキスで綴じる
連中は競馬が好きだから、と毎日4社のスポーツ新聞が届く。
―ご主人の事をドライバーさん達はなんて呼んでるんですか?
ご主人「え?…マスター…?マスターだったかなぁ?」
この店で過ごす半生
僕は店に来る前は、キリンの進化だろうと思っていた。周りの店との競合を避けるため、深夜の時間帯の営業で生き残りの道を見出した、と。
しかし、実際にはマスター(と呼ばせてください)の愛情によるものだった。
こんな店が近くにあるのなら、夜の仕事も悪くないなと思って店を出た。
きくや
東京都墨田区向島3-45-1
営業時間:02:30~12:00 16:00~18:00
始発待ちは近くのファミレスを利用しましょう。(筆者)