私が欠かさず見ているテレビドラマは「麒麟が来る」と「アンという名の少女」の2つだけ。
他には、渡辺謙主演の「御家人斬九郎」の再放送を時々見るくらい。
他にも見れば面白いテレビドラマはあるのでしょうが、テレビに時間を取られるとその分だけ本を読んだり音楽を聴く時間が無くなりますので物理的限界だ。
●テレビドラマ「アンという名の少女」
→NHK公式サイト
「赤毛のアン」は中学1年の時に読んだ記憶があります。良かったと思いますが、同じ頃に読んだ「野菊の墓」「伊豆の踊子」や「しろばんば」の方が面白く、また涙した覚えがあります。やはり、私は日本人なのでしょう。欧米の少女向け文学はもうひとつ、ピンと来るものがありませんでした。
あちらの少女は生まれや育ちに恵まれなくとも、明るく、逞しく、賢く、自分の意見をハッキリ主張する点が日本のとは明瞭に異なりますね。シャーロット・ブロンテ作の「ジェイン・エア」もその典型。その代り、日本独特の「はかなさ」「哀愁」といった情緒は乏しい。まあ、日本のじめじめと湿っぽい雰囲気は時にはウンザリしますが。
ともあれ、日曜の深夜だというのに、懐かしさからこのドラマを見てみたら、思いのほか面白く、ハマってしまいました。私は原作の内容についてはうっすらとした記憶しかないので、ほとんど初めて見るドラマという感じです。
孤児のアンが養女として暮らすことになったカスバート家の老女、マリラ役の女優が良い。背が高く保守的で冷徹そうで、しかし、実は優しさも持ち合わせている女性というイメージにぴったり。こういうキャラクターは好きです。
また、マリラの兄のマシューは妹とは対照的で優柔不断、ものをハッキリと言えないタイプ。妹以上に優しい人柄。ふ~ん、北米にもこういうタイプの人間はいるんですね。
それと、マリラの近所の友人、レイチェル・リンドは、もしかしたら世界共通の女性のタイプか、近所の情報通でおしゃべりでおせっかい好き。背が低くずんぐりタイプ。マリラとのデコボココンビぶりが楽しい。
主人公のアンですが、イマイチ。吹き替え役の女性の声質の問題なのか、シナリオの問題なのか、私の好みとは合わず、少々耳障り。しかし、徐々に慣れましたけど。原作に忠実?なのかもしれませんが、やせっぽちで可愛くないメイクだ。これもまた、徐々に慣れましたが。
ストーリーは新鮮味は無い。定番のような筋書き。偏見や差別、虐めにアンは心が折れそうになっても立ち向かう。時には「おしん」と似て来る。それでもこのドラマが面白いのはマリラとマシューがいるからです。この二人は素敵です。
●「麒麟が来る」
回を追うごとに戦国時代のドラマという感じが濃くなって来ました。放映再開後、帰蝶(川口春奈)が全然登場しないけど、どうしたのかしらん?
初めのうちは違和感を覚えた信長(染谷将太)も、だんだんと板について来た。
足利義輝(向井理)は凛々しかったなあ。ただ、このドラマでは義輝が塚原卜伝から指導を受けた剣豪という描き方はせず、どこか気弱なキャラになっていました。宮本昌孝の小説「剣豪将軍義輝」とはかなり異なっていました。あんまり活躍しては誰が主役だか分からなくなるから抑えたのかな?
望月東庵(堺正章)と駒(門脇麦)のシーンはイマイチ。堺さんのセリフ回しはどうも。。。
それよりも、もっと戦闘シーンが欲しいなあ。
アメリカのハリウッド映画やテレビドラマと比較すると目立つことですが、日本の映画・ドラマは「おしゃべり」「おしゃべりによる説明」がちょっと多過ぎます。なぜか?理由の一つは予算の乏しさによるもの。もう一つは、彫りの深い顔立ちの欧米の俳優は黙っていても、表情だけでも演技になりますが、悲しいかな、日本人の場合は黙っていたのでは演技にならないのです。高倉健や三船敏郎のような例外はいましたけれどもね。。。
しかし、NHKはお金持ちなんだから、おしゃべりで尺を稼がず、もっと動きを入れて欲しいよ。
●「御家人斬九郎」
若き渡辺謙さんの演技も良いけど、何と言っても芸者役の若村麻由美さんが素敵です。この頃の若村さんは特に美しく、色気を感じさせます。カッコいいわ。
「芸は売っても、色は売らぬ」との心意気と、悪人を憎み、困っている人を助ける侠気の気性。話し方も立ち振る舞いも、粋で、いなせな芸者…おそらく、下町の深川芸者のイメージではないかと思います。それにピッタリの若村さん。見る価値があります。斬九郎(渡辺謙)とのおしゃべりによる突っつき合い、意地の張り合いも愉快です。
2020.10.09 |
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菅総理が106人の推薦メンバーの中、6人の任命を拒否したとして、ちょっとした騒ぎになっています。
これは過去に前例が無いことも騒ぎの原因になっているようです。
①なぜ?と、疑問に思うのは当然です。
②菅総理が例によって、「法的に適切に行った」と、木で鼻をくくったような回答しかせず、拒否した理由を説明しないことで反感を招いているのも当然でしょう。
③任命拒否されたメンバーがいずれも過去に安倍政権の政策に反対か批判をしたことがあるとて、陰険な復讐人事ではないかとの疑惑を招くのも当然でしょう。
④よって、菅総理は任命拒否の理由をきちんと説明すべきだ、とするのも当然の意見でしょう。
ここまでは国民の多数が同じように思うことでしょう。
●「学問の自由の侵害だ」「恐怖政治だ」「粛清だ」とヒステリックに騒ぐ一部の左翼&リベラル派。
こういう「定番のフレーズ」を用いての批判を見ると、私はゲンナリしてしまいます。恐らく、少なからぬ国民も付いて行けなくなるものがあるのではないでしょうか?
しかも、戦略が無さ過ぎ、芸が無さ過ぎる。
理由。
①言っていることが、大袈裟、誇張、飛躍に満ちている事。
②戦前の京都大の「滝川事件」や「天皇機関説事件」を引用する人がいるが、次元が異なる。
③そもそも、多くの国民は、日本学術会議の何たるかを知らないし、遠い存在でしかない。
④おそらく、東大・京大の教授を中心とした学者達の更なる名誉な制度か、くらいの認識。
●仮に、今回の件が「学問の自由の侵害」「粛清」に該当するのであれば、
①任命を拒否された6人の学者が、所属する大学や研究機関を追放された。
②全ての出版社から著作の出版を拒否された。
③全てのテレビ・ラジオの出演を拒否された。
④メディアが一斉に6人を非難した。
⑤6人が右翼に襲われ、死傷者が出たのに、国民も政府も右翼に同情した。
⑥6人が「強制収容所」に入れられた。
⑦6人が処刑された。
番外として、菅総理が自ら、拒否した6人の変わりに6人の右翼or保守系学者を「推挙」した場合。※
※
この場合、「推薦」ではなく、「推挙」が妥当な言葉。
以上のいずれかに該当すれば、それはもう、「学問の自由の侵害」であり、「粛清」であり、世の中がひっくり返るような大問題・大事件と言えます。
そうでないのであれば、「学問の自由の侵害だ」などと騒ぐのは当たらないと思います。
「学問の自由」「言論の自由」というフレーズを、安易に、やたら使うと、これらの文言そのものの価値が低下してしまうし、やがてはマヒし、国民の心には響かなくなってしまいます。
●8年間、自民党の圧勝続きで野党は全敗。立憲民主党と国民民主党が合流したものの、今日のJNNの世論調査では、立憲民主党の支持率は5%。惨憺たる有り様。
それゆえ、左翼&リベラル派の「焦燥感」は、尋常ならざるものがあるでしょう。
安倍政権にあっては、
安倍晋三(モリカケ、桜、660億円マスク、等々)河井夫妻・菅原一秀・ドリル優子・ 赤いストール松島、甘利明・下村博文・稲田朋美、等々。。。この政権は沢山の疑惑を生み出し、詭弁の繰り返しで放置してきました。
ところが、安倍政権や自民党の支持率が多少、下がることはあってもすくに回復しましたし、野党の支持率は一向に伸びず、選挙の度に惨敗を繰り返して来ました。
バブル崩壊後、日本では長く大規模な社会運動が行われなくなり、活力を次第に失い、国民はどんどん内向きになる中、野党が国民の不満の受け皿にもならず、何かを大きく変え得る大物の存在もパワーも無くなっています。
それゆえ、一部の左翼&リベラルがいきりたち、大袈裟・誇張・飛躍の三点セットの文言をヒステリックに叫ぶようになったのでしょう。さりとて、昔の極左のように暴れる「元気?」すらありません。
このように考えますと、何やら、悲観的な気持ちにならざるを得ません。。。
私が少しだけ期待するとすれば、日本学術会議のメンバー全員が一斉に、菅政権に対する抗議の意味で辞意を表明することです。これをやれば国民の支持は高まると思います。
日本学術会議の本気度が明快になります。
グダグダと言葉を並べるより、ビシッと態度で表明する方が説得力があります。
学者としての反骨精神を発揮して、大いに造反して戦って欲しいですね。
こう言っては何ですが、学術会議の皆様に置かれましては、既に学者として「功なり名遂げた」方々。日本学術会議を辞めたくらいで、まさか、研究や生活に支障をきたすわけでもありますまい。
2020.10.06 |
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●「死んだら仏様だから」「亡くなった人のことを悪く言うな」「相手は病人じゃないか」「病と戦いながら頑張ったのだから」等、日本人は死者と病人が好きなんですね。
そして、死者と病人には甘くなる。
病気と知ると、「天に日輪なく、地に人の道なしと諸人の望みを泥土にゆだねるに等しい」、と嘆きたくもなるような政治を行った首相に対しても甘くなり、支持率が急上昇するという奇妙な現象が起きる日本。
これは、非分析的で非論理的で、情緒に流されやすい日本人の特性なのでしょうか?
生まれたばかりの乳児を残して自殺してしまう女性を批判するどころか、同情やら賛美するメディアや国民。これでは、「自殺すると皆が誉めてくれますよ~!」と、あたかも自殺を推奨しているかのような錯覚すら覚えます。
本人は死にたくて死んだのだからまだ良い。
が、何の罪も無い乳児や中学生の子供はこれからどんな辛い人生を歩むのであろうか。そう考えるだけで母親の身勝手さに怒りを覚えます。しかし、誰もそのような事は言わない。いや、言ってはいけない、という同調圧力が存在するようです。
キリスト教が自殺を重い罪として来たことには意味がありました。
もちろん、だからと言って、実際に死者の墓をあばき、遺体に鞭を打つ、という行いは嫌だけど。
●「前を向く」「前向きに生きよう」「歩き続けよう」「がんばろう」の合唱が好きな日本人
特にメディアがこういうことを唱え続けます。それに影響されたのか、アスリートがやたら「前向きにとらえます」「明日に繋げて行きます」というセリフを異口同音に言うが、私は時々、鬱陶しくなります。
なるほど、確かに立派な人生観です、と言いたい所ですがちょっと待って下さい。
これらの言葉の裏側には、「終わったことはもう忘れよう」「もう済んだことじゃないか」「水に流しましょう」「過去のことをゴリゴリ掘り起こし、突っつくのは止めようよ」「やることが後ろ向きだ。前を向いて歩いて行こう」
という心理が内在しているのです。
それは政治家とメディアを見れば分かります。この両者がかつて、過去の行いを真に反省したことがありますか?むしろ、反省しないことが政治家とメディアの特権のようですらあります。
車にだってバックミラーがあります。前ばかり向いて進めば大事故を起こします。「後ろを向く」「引き返す」ことも重要ですよ。山道で道に迷った時、悪天候にあった時、ここでは引き返す勇気が問われます。
人生には明日に繋がらない失敗や後悔などいくらでもありますよ。
映画のセリフではありませんが、「何であんなことをしてしまったのだろう」「あの時、ああすれば良かったのに」という後悔でため息をつく人間は少なくありません。
すると、「君は後ろ向きだねえ」「後悔したって意味無いでしょう」「嫌なことは忘れて前を向けよ」と来る。
しかし、私は思うのです。努力しても報われない人生に絶望したり、あの失敗は何が理由だったのだろう、と突き詰めることも無く、能天気に「前を向いて」「歩き続けよう」と唱える人間のなんと薄っぺらなことよ。
「努力すれば必ず報われる」…これは大ウソです。報われることもありますが、報われない事の方が多いのが真実です。能力の差、肉体的な差、運・不運の差はどうにもなりません。
しかし、それでも努力を続けて汗を流して生きて行くしかない…これが真実と思います。
これは私が内向型人間だからそう思ってしまうのでしょうか?
「うるさい日本の私」の著作でも知られる哲学者の中島義道氏が下記のように言っています。
…最近ひきこもる青年たちの数が増えて、私は嬉しくてしかたない。この国もそうとうまともになったなあという感慨に耽っている。みんな将来に夢を抱き、邁進している世の中は不気味である…。
ウーム。グヌヌヌ。。。ガッハッハ(^o^)
で、私は、日本人が「死者」や「病人」が好きである事、「前を向く」「前を歩こう」の合唱が好きな事、そして、「反省」や「過去の見直し」を嫌う事、これら三つが、実は心理的には表裏一体なのだと、今頃になって気が付きました。
2020.10.02 |
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●哲学って、難しいよね。
私も若い頃~三十代前半、哲学や宗教に非常な興味を抱き、アレコレと書物を当たったり、聴講したり、時には日曜座禅に参加して、修行のマネごとをしたこともあります。
ルソー、マルクス、ニーチェ等を読んだがもちろん、ほとんど理解出来なかった。仏教哲学としての「唯識」や「空の思想」に至ってはまるでチンプンカンプン。あとは、哲学の入門書の類を読んで分かった気分になっただけ。
八つ当たりではないけど、謎々のようなドイツの哲学書を不思議な日本語に和訳している日本の学者に対しても、「この人、本当にニーチェの哲学を理解しているの?」と疑ったりもしました。
●人が生きる「よすが」になる哲学・宗教とは?
私は自称、「寺ガール」ですし神仏を尊ぶ謙譲の精神を多少は持っているつもりです。が、特定の宗教を信仰することが出来ないし、神も仏も信じているとは言えません。
さりとて、宗教とは正反対の共産主義・無政府主義思想には「人間」が置き去りにされているようで、とても付いて行けないものを感じます。
すると、私のような人間にとっては、ひょっとすると、実存主義、あのサルトルが「実存主義はヒューマニズムである」と称した実存哲学こそが、生きるよすがになる可能性があるのかもしれない、と思ったりもする。しかし、理解するのが難しいのでは「よすが」になりそうもない。
それでも、年齢四十歳、新進気鋭のドイツ哲学者、マルクス・ガブリエルの唱える「新実在論」「新実存主義」には非常に興味深いものがありそうです。
そもそも、実存主義のキモは、「人間の主体性」と「自由」にあるからです。
●マルクス・ガブリエルの「新実在論」「新実存主義」の柱の一つは
サクサクっと簡単に言うと、
「世界とは、私たち人間が無しでも存在する全ての事物・事実だけではなく、わたしたち無しには存在しない一切の事物・事実もその中に現に存在している領域」と定義してるようです。
で、「わたしたち無しでは存在しない一切の事物・事実」とは何か?
それは例えば、正義、人権、美、数式、非物質的な永遠的対象…等々です。
●ベートーヴェンの音楽の美は実在する
交響曲第五番は、あの単純な「ジャジャジャ・ジャーン」の音列とリズムから、まるで「神の統一」のような創造物となり、私たちはそこに音楽の美を感じ、言語に絶する感銘を受けます。
この美は手に触れることも見ることも出来ませんが、確かに「実在」するものです。その証拠に世界中の多くの人間がこの音楽から感銘を受けているではありませんか。
これは決して、妄想でも現実逃避でも無く、逆にベートーヴェンの音楽が現実の私たちにとっての日々の糧であり、渇きにとっての水とも成り得ているのです。
むしろ、日常の単調な日々の中で、仕事も作業も家事も機械的にこなすだけの人間の状態こそ、「現実逃避」になることだってあるのです。面倒なことを考えるのを止め、嫌なことを忘れる為に仕事に没頭したり作業に夢中になることはわたしたちがしばしば行っていることです。
マルクス・ガブリエルはこのことを強く、積極的に唱えているようです。
彼は一角獣のユニコーンですら「実在している」と唱えるのです。それは東京の街中には実在しないが、本や映画という「意味の場」においては、確かにそこには実在するのだと。
自然科学信仰が猛威をふるっている21世紀において、こうした考え方は批判されます。
しかし、わたしたち日本人は多少は仏教や神道を知っているので、ガブリエルの考え方に親和性があると思います。日本の歴史における「怨霊信仰」や「穢れ」の思想だって、「存在する」と考えているからです。
「なぜ世界は存在しないのか」とのセンセーショナルな問いかけに対しても、日本人の多くは「暴論だ」とは思わないのではないでしょうか?
で、ガブリエルの唱える「なぜ世界は存在しないのか」の意味については、彼の著作を読んで欲しいです。
最近は彼のインタビューをまとめた新書が何冊も出版されているので、これを一冊読めば分かります。
たまには哲学書を読み、脳ミソのバージョンアップを図るのも良いかと。
それと、NHK衛星放送でも彼のインタビューが予定放映されています。
→NHK番組サイトです
マルクス・ガブリエルは「哲学」を象牙の塔の中に引きこもらせず、社会システムの改善や人間の倫理性※を高める為のアクティブな活動としている点に注目です。
※
ガブリエルは「倫理性の向上」を重要視しています。
学校の授業に「倫理・哲学」をきちんと科目として設置せよと強調しています。
一部の自然科学者たちや経営者たちの暴走や罪悪は倫理の欠如によるとしています。
なぜなら、自然科学も経済も、倫理とは無関係な世界だからだと。
政治家やメディアが社会問題を論じる際に、自然科学の専門家の意見を聞くことがしばしばあるが、ガブリエルさんは「もっての他だ!」と批判します。物理学者に倫理・道徳、歴史の話をさせてどうなるの?社会福祉政策や外交政策の話をさせてどうなるというのか。
・ちなみに、政治に関与する日本学術会議のトップが物理学者であることは、ある意味、象徴的です。
さらには、今、物理学者は宇宙論の追求よりも、エネルギー問題の解決に頭脳を結集することが急務だと。なぜなら、宇宙論(多層宇宙とか)の意義も必要性も大いに認めているが、それ自体は私たちの生活の改善には役に立たないから。
(ただし、ガブリエルさんは宇宙の話は大好きで胸がときめくと)
この辺り、やはり、ガブリエルさんもキリスト教の国の人間なんだなあ、と感じます。
私も「倫理・哲学」の授業の設置には同感。
が、日本の場合、「修身」とか「教育勅語」とかのお話になりそうで、どうも。。。
★昨日までの皆様から頂戴したコメントについてレスを省略することをお許し下さいm(__)m
久し振りにコメントを頂戴したコンチェルト様、ありがとうございます。同感です。
2020.10.02 |
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●正しく怖がる
ワイドショーとニュース、そして夜の報道番組では、今日は新規感染者数が何人だ、記録更新だ、を伝えることに躍起だけど、その一方で不自然なくらい伝えないか、後回しにされているのが、重症者数と死者数だ。
これって、おかしくないか?
東京に限って言えば、この1ヶ月、死者はほとんど出ていない。
重症者はゼロか1人程度で、累計で20人前後。
毎年、インフルエンザの方がよほど重症者や死者が多いのだが。
そこで、私は勘繰りたくなるのだが、
死者数や重症者数を全面に出し正直に伝え、新型コロナはたいした病気じゃなさそうだ、となると、メディアは視聴率が稼げなくなるし、政権批判にも繋げられないからかな、と。
これって、一種の「不安商法」じゃないかと思いたくなる。
不安と恐怖を煽り、いたずらに国民を不安に、疑心暗鬼に陥らせるヤツだ。
これって、あの福島原発の事故の時と良く似ていると思う。
山本太郎氏がその典型であるように、「日本から脱出だ!」などと不安を煽りたてる人やメディアがあった。
誤解の無いように言うと、私は新型コロナを風邪程度、とあなどる気持ちは無い。新型コロナはインフルエンザより致死率が10倍程度あるらしいし、まだ特効薬やワクチンがあるわけでもない。後遺症の問題もある。
新型コロナに感染し、いっとき重症にもなった赤江珠緒アナの体験談を聞くと…彼女は私と同世代だ…とても他人事ではないなあと思う。
ただ、対策はハッキリしている。
3密を避ける、マスクをつける、手を良く洗う、人とは距離を保つ…これらを注意深く履行する。
逆に、やれ飲み会だのパーティーだのとはしゃぐ人達。これで感染しても、自業自得でしょ。
政府の無為無策を批判するのは簡単だ。批判されて当然。
ただ、政府としても再び経済活動を止めたり、著しく制限することは難しい。
正直、国民に注意を喚起し、あとは、重症者数や陽性率、医療のひっ迫度の推移を見守るしかないのだろう。
別に私は安倍政権を擁護するつもりはないけどね。
それより、会社から経営悪化を理由にリストラされるかも…こちらの方がコロナよりよほど怖い(^_^;)
ありきたりだが、福島原発も、新型コロナも、「正しく怖がれ」だな。
もっとも、国民も馬鹿ではない。今回の新型コロナの「第二波」に関しては、メディアが煽る程には恐怖に陥っていないようだ。「第一波」と異なり、明らかに重症者や死者が少ないから。
もちろん、今後のことは分からない。分からないけど、「第二波」は「第一波」とは違うと感じている。
●結果論だが…新型コロナにも良い点がある。
「罰当たりなことを言うな、感染で酷い目にあっている人もいるのに!」と怒られるかもしれない。
しかし、誤解を恐れずに言うと、
①新型コロナ対策は、そのままインフルエンザ対策、風邪対策にもなっている。確か、昨冬~今年春までのインフルエンザ感染者は例年よりかなり少ないとか。
②経済活動が制約されたので、空気汚染が改善されている。その証拠に、毎年花粉症に悩まされている私が今年はほとんど軽度で済んだ。花粉症は花粉とスモッグが混ざることで起きるのだ。
③交通量が減り、交通事故が減っている。
自動車産業は泣いているけどね。。。
④これが一番大事なのだが、今回の新型コロナ騒ぎ日本の医療体制、医療資源が私が何となく思っていた以上に貧弱であると露呈したことだ。
PCR検査数が諸外国と比べ異常に少ないことも、日本程度の感染者数でたちまち医療がひっ迫してしまうことも…政治家や役人の怠慢もあるかもしれないが…驚きだ。
⑤まだある。
東日本大震災では当時の民主党政権はオタオタ、ヨレヨレ、脳内がシャバドビアし、「やはり、野党には非常時の対応はダメなんだ。自民党だったらここまで酷くはならなかっただろう」と酷評された。
が、今回の安倍政権と安倍首相の無様な姿を見、「これは、民主党政権よりヒドイ。なにが有事に強い安倍政権だ、ふざけんな!」と判明したことだ。
2020.07.30 |
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●マリア・ソツコワ選手が引退
まだ二十歳なのに、とても残念です。
より女性的に優雅に円熟した演技を見たかった。。。
ピンクの衣装が実に似合う女の子でした。
お人形さんのようなお嬢様的風貌とスタイルの良さで演技が惹き立っていました。
特に、最後のビールマンスピンは雄大で見応え十分。
大きく、ゆったりとした優雅な演技は私も好きでした。
ただ、身長が173㎝に伸びて、ジャンプの方が苦しくなりましたね。
もともと、演技後半になると少しスタミナが切れてジャンプが回転ギリギリか回転不足になるケースがありましたので、平昌五輪シーズンくらいから苦しくなりました。
思い起こせば、同じロシアの女子選手では、ラジオノワさんもポゴリラヤさんも身長が伸びてジャンプが苦しくなり、結局は若くして引退してしまいました。
他の国でしたらまだしも、女子フィギュア界では最も熾烈な争いが繰り広げられているロシアにおいては、モチベーションを維持するのは非常に困難なことだったのかもしれません。
その点、高身長でも30才まで現役を続け世界のトップクラスを維持したイタリアのカロリーナ・コストナーさんは偉大でしたね。そのコストナーさんも最後はやはりジャンプに苦しんでいました。
このように考えますと、フィギュアスケートというのは女子シングルの場合、小柄な方が得なのかもしれません。ちょうど、女子体操がそうであるように。
跳んだり、くるくる回転したり、といった運動は小柄な方が有利なんでしょうね。。。
動画の演技はロシアの作曲家、シュニトケのアダージョの音楽に乗って、ソツコワ選手が素晴らしい演技をした時のもの。総合2位に入りました。
ソツコワ選手、お疲れ様でした。
2020.07.09 |
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映画音楽の巨匠、イタリアのエンニオ・モリコーネさんが亡くなられました。
91才の天寿を全うされました。
モリコーネさんの名曲といえば、ニューシネマパラダイスの「愛のテーマ」の人気が高いようです。
私はこうしたクラシックな味付けの曲よりも、初期のシンプルなマカロニ・ウェスタンものの方が好きです。
「続・夕陽のガンマン」
私はクリント・イーストウッドさんが好きなので、本来なら好みではないマカロニ・ウェスタンでも彼の主演のものは見ました。やはり、カッコいいです。
特に、「続・夕陽のガンマン」はコミカルなタッチなので、残酷な殺しのシーンが売りもののマカロニ・ウェスタンでも見ていて救われます。
当時、イタリアで製作されるマカロニ・ウェスタンではやたらと暴力シーンを流し続けたり、おしゃべりが多かったのを、イーストウッドさんが監督に意見具申をし、
暴力シーンや決闘シーンはそんなに多くやらず、セリフも減らし、ストーリー性を高めるようにしたそうです。
これも功を奏し、彼の主演した映画が次々とヒットしたそうです。
彼も偉いのですが、彼の意見を取り入れたイタリアの監督や制作会社も偉かったと思います。
もちろん、モリコーネさんの音楽もカッコ良かった。
「荒野の用心棒」「夕陽のガンマン」「続・夕陽のガンマン」と3作続いたヒットにより、
イーストウッドさんもモリコーネさんも世界的な存在になったのですね。
2020.07.06 |
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●昔は七月を文月(ふみづき)と呼んだ。他にも七夕月(たなばたづき)、七夜月(ななよづき)、織姫と彦星にちなんで、愛に逢う月「愛逢月」(めであいづき)とも言いますね。
愛逢月…たまたま、篠田節子さんの短編小説の題名でこれを見かけ、素敵な名前と思いました。
七月限定で、片割月は愛逢月になります(^_^)/
●乃南アサさん、カッコいいわ(^o^)
乃南アサ
@asanonami 6月23日
「テレビが投票を呼びかけないのはね、投票率が低い方が都合がいいと思っているチカラが働いてるから。本当なら呼びかけなきゃいけない。私たちの、ささやかだけど確かな権利なんだから。その権利を行使することを呼びかけないことが、もうおかしい。」
乃南アサ
(@asanonami) July 1, 2020
「これからジワジワ、ずっと感染者は増えていくはず。そうなっても、小池都知事のままでは「自衛」としか言われない。それだけで、本当に乗り切れると思いますか? この4年間、公約を何一つ果たしてこなかった人の言うことを、簡単に信じられますか? 今回は自分の生命に直結する。投票しよう!」
乃南アサさん、最近のことでしょうか?
かなり政治について、積極的に発信しているようです。
言説、ごもっとも!よくぞ言ってくれました。
以前にも書きましたように、乃南アサさんは私も愛読する女性小説家です。
とくに、「凍える牙」 女性刑事、音道貴子シリーズは大好きです。
単なるミステリーではなく、一人の女性刑事の生活、悩み、煩悩等が筆致細かく描かれ、地に足のついた小説になっているのが魅力です。
また、歴史小説「水曜日の凱歌」は、戦後すぐに設置された、「特殊慰安施設協会」 (RAA)で働く女性達の姿を子供の視点から描いたユニークなストーリー。
どれもが女性らしい優しさ、暖か味が随所に感じられ、殺伐とした内容に陥らないのが良い。
でもまあ、東京都民の多くは、現役都知事に投票するんだろうね。
私はこの人には絶対に投票しませんよ。
何故かと言いますと…色々ありますが…一つには、この都知事は非常にズルイ人だと感じるからです。責任逃れ、と言う点で女性特有のズルさを感じます。
この都知事が、ある番組に出演した時の発言で、やたらと「日本政府が」「専門家によると」等、人の意見や話ばかり言いたてるので、司会者がイラついて次のように言ったのが印象的でした。
「いや、そうではなくて、都知事としての、アナタの意見・判断をお聞きしているんです」
2020.07.05 |
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●篠田節子
この人の小説、面白いわ。ちょっと、想像もしなかったタイプの女性小説家ですね。
「カノン」「弥勒」「女たちのジハード」「純愛小説」「仮想儀礼」と、立て続けに読みました。
①「カノン」 (文春文庫)
弦楽器のチェロ。そのチェリストを目指していた主人公の女性が、大学で出会った男性ふたりに翻弄され、人生が狂う…三角関係の恋愛小説と思いきや、実はホラーものでした(・・;)。
確かに、音楽とホラーは親和性があります。横溝正史の「悪魔が来りて笛を吹く」もそうでした。これはフルートが使われていましたが、「カノン」ではヴァイオリンです。
恩田陸や中山可穂と同様、篠田さんもクラシック音楽が好きなようです。
②「弥勒」(講談社文庫)
ヒマラヤの小国パスキムの仏教美術に魅了させられた新聞社の永岡。日本との国交を断絶したその国に、密かに乗り込むことになる。その直後に彼の運命は大きく狂う。宗教を否定し、完全平等社会を目指すとのイデオロギーを狂信する解放軍に捉えられ、死と隣り合わせの捕虜の毎日。また、愛してもいない女性と強制結婚させられる等。壮絶な生活が。
これは、船戸与一や佐々木譲などの「海外冒険小説」のような内容です。まさか、篠田さんのような女性がこういう壮大で波乱に満ちた海外冒険ものを書くとは、あの「カノン」からは想像も出来ませんでした!
ここには、宗教や思想の裏表、正義と悪、罪と罰を執拗に問う作者の意欲が表れています。
③「純愛小説」(角川文庫)。4つの短編集。
今度は純愛か。純愛、という言葉に引っ掛かったが、これが純愛?熟年の男女のが?。まったく、篠田さんという小説家は一筋縄では行かないのです。「弥勒」とは正反対の狭い世界を精密に描いています。
④「女たちのジハード 」(集英社文庫)
「ジハード」と来たか。しかし、読んでいて一番分かり易かった。5人のOLが、助平親父にセクハラされても、3高エリートにふられても、ヤクザに脅されても、めげずに生き抜いて行く、前向きのお話だ。ちょっと、藤堂志津子の小説を彷彿とさせるものもあります。小説の前半はありきたりの内容に見えますが、後半に行けば行くほど、ストーリーは濃く、熱く、すっかり、篠田さんのペースにハマってしまうのです。
決してヒロイン的ではなく、長所も欠点も普通に持ち合わせた5人の女性。その個性の描き分けの見事さ、平凡にみえて奥深い人生の在り方を考えさせる。これが直木賞を獲得したのもうなずけた。
人生の真実は一つではない。こんな人生にはこんな真実があり、あんな人生にもあんな真実がある。読み手にそう考えさせることも、優れた小説の条件と思います。
⑤「仮想儀礼:上下2巻」(新潮文庫)
これはちょっと私にはイマイチでした。何故か?
篠田さんでもそうなのか。。。
これは…偉そうに言います…女性小説家に共通した欠陥と思うのですが、会話の部分に、「冗漫なおしゃべり」が目立つのです。「お茶の間小説」と揶揄されるように。「ガールズトーク」「女子会」のように。
篠田節子は特定のカテゴリー、ジャンルに偏せず、ミステリー、ホラー、冒険、恋愛、宗教・思想と、守備範囲が広いのも特長のようです。いやあ、わたし、最近までこの女性小説家のこと、知りませんでした。
●辻村深月
実は、女性小説家の辻村さんの小説を(今のところ)私はあまり好きにはなれません。
これといって感銘を受けたことも無い。しかし、どうしても、「おさらば」出来ない何かがある。引っ掛かるものがある。何だろう?と気になることがある。興味があるのかな。
「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」「ツナグ」「盲目的な恋と友情」
原則として、私は2冊(2作品)読んでみて、「自分には合わない。好きになれない。」と思ったら、その小説家とはおさらばすることにしています。
「ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。」「ツナグ」を読み終わった時点で、辻村さんの小説とはおさらばかな?と思いましたが、何か引っ掛かるものがありました。
また、若手…といっても今は40才か…でバリバリ活躍し、人気も高い辻村さんの小説を楽しめないということは、私が中年になり、感性が衰えているのか?そんなこと無い!という思いもあり、なおのこと、おさらば出来ませんでした。3冊目の「盲目的な恋と友情」を読み、ついに辻村さんの小説を諦めることが出来なくなりました。
誉めてもいて貶してもいる言葉として、辻村さんは 「目端が利く」「芸達者」な小説家と思いました。
SFでさんざん使われた手法、「特殊能力の持ち主」「死者が生き返る」もあれば、ミステリーでさんざん使われた手法、「前半はA、後半はBの視点」「殺人者と、殺人後に手を加えた者が別々」「行方不明者を探す旅」「どんでん返し」等、何でも器用に駆使しています。
上手いと思う。読者が喜ぶ術をよく心得ている。最後まで読まずにはいられなくなる。しかも、登場人物は小学生から高校・大学生が多く、比較的若い読者層にも受けるであろう。
しかも、恋愛では決して綺麗事に終始せず、女のどす黒い感情をむき出しにしてみせたり、露骨なセックスシーンすらも辞さない。これもまた、読者に「女性の心理を描くのが上手い」「内容が濃い」と、ウケそうだ。
最近は、どちらかと言うと、ドロドロとしたものよりも、サラッと何気なく、の小説の方が好まれて来た様子があるので、逆に、女のドロドロとした世界をえぐる辻村さんの小説を新鮮に感じる読者もいるであろう。
特に、「盲目的な恋と友情」には辻村さんの特徴が良く出ていると思います。
私も普通の小説愛好者として、上記のようなものも嫌いではない。
昔も今も、女性小説家といえば、「女の特性を売り物」にして来たのであり、また、読者もそれを期待して読んで来たのです。瀬戸内晴美、円地文子、藤堂志津子、桜木紫乃、村山由佳等。。それぞれ個性もジャンルも異なれど、みな、女性心理を描くのはお手の物だ。
もっとも、「女性を描くのが下手な女性小説家」ではお話にならないでしょう。そうすると、「女性の心理を描くのが上手い」は、辻村さんの特長になり得ない。
では、私はどこが気に入らないのか?
藤堂志津子や桜木紫乃の小説と文章には、ストイックなもの、凛々しさのようなものが漂っているのですが、辻村さんの文章は…甘ったるい安香水的な感触を肌に感じます。
あるいは、いかにも「女の子で~す」的なスイーツ臭が漂う。
例えば、「盲目的な恋と友情」の文章に、
……そうやって、彼と数えきれないほど会い、食事して。キスをして抱き合って…
「~て」「~て」を重ねて行く書き方。品が無く、いやらしい。
さらに、
…私は蘭花に謝っていた。
ごめんね、ごめんね、蘭花ちゃん。
のように、短く行を変え、読点で繋ぎながら、同じ語句を繰り返す書き方。
まさに、安香水的甘ったるさが鼻につく。
卒業も近い大学生が、何が、「蘭花ちゃん」だ。
「ちゃん」じゃねェ~よ!
問題は、辻村さんはこうした書き方を「意図的に、あえて」しているのだろうか?それとも、彼女の個性から自然に湧いて来たものなのだろうか?です。
私は前者のように思える。あえて、そうやってみせた、との遊戯的な発想。これもまた、「芸達者」の一つなのだ。こうしたタッチの文章に快感を覚える読者がいることも事実なのだ。
しかし、私はこうした、あざとい手法には抵抗を覚えます。
それなら、読まなければいいじゃないか、と言われるかもしれない。
「盲目的な恋と友情」の後半では、傘沼留利絵(ネーミングもマンガチック)が主人公になるのですが、この女性の描き方がちょっと純文学的なのだ。
女性特有の、「妄執のうめき」をこれでもかこれでもか、と執拗にえぐり出す。留利絵はほとんど神経不安症に近い。現実と意識がズレまくり、しかも、そのズレが本人の問題とは絶対に気がつかない。
この辺りの内容には単なる娯楽小説の世界を超えて、文学に最も接近した瞬間がある。
読み手はまったく救われず、ゲンナリさせられるであろう。
内容に建設的な姿勢が無く、読者に不毛の疲労感を与えるだけなのに、辻村さんは娯楽小説であることを忘れたかのように、女性の黒い心理をひたすらえぐるのだ。
留利絵のような女性を21世紀型の新しいタイプとして描き切ったら文学だ。
もしかすると、辻村さんは娯楽小説を書きつつも、どこかで純文学を書きたいとの欲求が抑えられなくなっているのかもしれない。二つの世界の間で揺れ動いているのかもしれない。
この「盲目的な恋と友情」にはそう思わせる内容がある。
辻村さんには潜在能力の高さに加え、将来性がありそうです。
最近、私が読んだ小説家の中では彼女が一番年齢が若い。
それだけ期待もあります。
最初に言いましたように、私は辻村深月の小説が好きにはなれません。
しかし、私が彼女の世界から離れられない理由はこれまで書いた通りです。
※
辻村さんの新しい作品、「かがみの孤城」と、ジェイン・オースチンの「高慢と偏見」を意識したらしい、「傲慢と善良」の評判が高いようです。
読みたいのは山々なのですが、他に読みたい本が目白押しです。また、私は図書館で借りるのは苦手なので、上の両作品の単行本が中古本店で安く売られるか、文庫本になるまで待つつもりです。
2020.06.29 |
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“人種差別を美化する”映画「風と共に去りぬ」、配信から消える
→記事はこちらです
この記事の内容について、一応の理解は出来る。
結論から言うと、私はこうした「焚書」のようなやり方には反対である。
これは一種のバックラッシュ(反動)の典型と思う。
アメリカのような民主主義国がこのような「焚書」めいたことを行うことは特に残念だ。
配信会社の措置は、今の世論に「阿ている」ようで共感出来ない。
言論の自由・表現の自由はどうなった?
映画「風と共に去りぬ」を観た人は、「この映画は黒人奴隷制を美化している」と思うだろうか?
白人と比べ黒人は劣るから差別されても仕方ない、と思うだろうか?
私は思わなかったけどなあ。
この映画では、むしろ悪い白人が随所に登場していたと思うが。また、北軍を馬鹿にする南部の人達の姿がどこか滑稽に描かれていたと思うが。
マーガレット・ミッチェルの原作では、当時の奴隷制度に対する批判や考察は見られない。
奴隷制度を前提にしたストーリーになっていることは事実だ。また、これが原作の欠点と言えば言えるかもしれない。だからと言って、「美化している」とまで言えるだろうか?
この映画のテーマは奴隷制度とは別の所にある。一人の大地主の娘が、南北戦争の時代を、敗戦の側に立った南部の悲惨な有り様の中で、無一文同様の境遇に陥った中で、いかに強く生き抜いたかにある。戦後、この映画を観た日本人は同じく敗戦から立ち直りつつある日本の姿と重ね合わせ、深い感銘を受けたのではあるまいか?
●「風と共に去りぬ」が配信中止なら、昔の西部劇の多くも配信中止だよ。
例えば、ジョン・ウェイン主演の名作「駅馬車」や「黄色いリボン」がその典型であるように、アメリカ原住民(インディアン)が悪者にされているのだ。「正義の味方の騎兵隊と、野蛮な悪者のインディアン」という図式は西部劇の定番だった。これらの映画こそ、騎兵隊を美化し、インディアン差別を助長していると言えまいか。しかし、これらの映画を配信中止にしろ!との声が聞こえて来ないのは何故だろうか?※
これに対し、「片割月は黒人ではないから、黒人差別について鈍感なのだ」と言われれば、「ごもっとも」と言うしかない。が、だからと言って、配信を中止することは飛躍ではあるまいか?と思う。
最近では、差別の象徴だからケシカランと、南軍を指揮した将軍の銅像が倒されたり、あげくの果てには過去のアメリカ大統領の銅像までが倒されつつあるようだ。
ここまで来ると、「言い掛かり」ではあるまいか?それはちょうど、旭日旗とデザインが少しでも似ているか連想させるものはダメだと難癖をつける韓国を思わせる。
「難癖・言い掛かり」と言えば、本の題名を忘れたが、男女差別に反対するアメリカ人女性が著作の中で日本語の女性差別を指弾していたのを思い出す。
つまり、「出戻り」「未亡人」「姦しい」等の言葉に女性差別の意味が込められていると批判しているのだ。ここまでは分かる。が、このアメリカ人女性はさらに、「男女」「夫婦」などの熟語で「男」が先に来るのは性差別だと言うのだ。さすがに、ここまで来ると、「言い掛かり」だ。
英語にも、「人類」を意味する言葉に、「mankind」がある。男で人類を代表しているがこれはいいのか?「人間」を意味する「human」は「hu」と「man」の合成語だろう。こんなことを言いだしたら切りが無い。
●反差別運動がヒステリー化すると、バックラッシュ(反動)が起きる。
かつて、黒人による公民権運動が盛んなころ、黒人回教徒(ブラック・パンサー)の教えに、「黒は美しい」という標語があったそうだ。これは、「白は美しく、黒は醜い」という白人主義に対するカウンターであり、バックラッシュだったと言える。歴史的・社会的背景を鑑みれば無理も無いのかもしれないが、こういう標語は、幼稚である。
ドイツは長い間、ユダヤ差別の象徴であるヒトラーの著書、「我が闘争」を禁書にして来た。確かに、歴史的背景を鑑みれば、禁書にしたくなるのも無理は無い。が、こうした「臭いものにはフタ」的な発想はバックラッシュだ。
逆に、イスラエルの方ではワーグナーのオペラを劇場で演じることを禁じて来た。ワーグナー自身がユダヤ人差別者であったこと、ワーグナーのオペラがナチス・ドイツで愛用・悪用されたからだ。
これも西洋におけるユダヤ人差別という歴史的背景を鑑みれば無理も無い。イスラエルの人々にとって、「ワーグナー」と聞くだけで不愉快だったかもしれない。
しかし、ワーグナーのオペラそのものにユダヤ人差別を助長するものは無いのだ。
そのイスラエルでもワーグナーの音楽がコンサートで演奏されるようになって来た。
●バックラッシュとしての「焚書」は国の形が大きく変わる時にも起きる。
明治維新では、廃仏毀釈の運動が起き、多くの寺の建造物や彫刻が破壊された。
中国の「文化大革命」ではベートーヴェンの音楽ですら「ブルジョアの産物」として演奏を禁止された。
●人間や国の「ヒステリー」と、「心の傷」は時間が解決するしかないのであろう。
前にも書いたことがあるが、チャイコフスキー作曲の「1812年」はナポレオン戦争に勝利したロシアを祝う音楽である。フランス人が聴いたら不愉快とまで行かなくとも、面白くは無いだろう。が、現在、フランスでもこの曲は「普通に」演奏されているそうだ。
また、ヨハン・シュトラウスⅠ世作曲の有名な行進曲、「ラデツキー行進曲」は1848年にイタリアを征服したオーストリアの将軍ラデツキーの名誉を讃える為の音楽である。が、イタリアでこの曲を演奏してはならぬ、という話は聞かない。
中国ではベートーヴェン他の西洋音楽は今では普通にコンサートで演奏されている。
●今、日本では「焚書」はあるのか?
私は、「ある」と思っている。
中国や韓国では、先の戦争で日本を悪者にした映画が多く作られて来た。おそらく、ヘボ映画が多いだろうが、中には名作もあるはずだ。が、私の知る限り、それらのDVDは日本には無い。
そりゃそうだ。そんな映画、日本人が見たら不愉快だからな。私は観たいのだが。
日本では、「日中戦争」を題材にした戦争映画を観る機会は稀で、「戦争映画」といえば、「太平洋戦争」での海軍の「活躍」を描いたものばかりだ。
日本政府が、「そんな中国映画のDVDを輸入してはいけない」と禁じているとは思えない。が、そこは日本得意の「忖度」と「事なかれ主義」で、「狡猾な焚書」が行われているのだろう。右翼の脅迫も怖いし。
※
アメリカ合衆国における黒人人口は4千万弱。アメリカ原住民は300万強。
黒人よりもさらに弱い立場にあるようだ。
2020.06.22 |
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「麒麟がくる」が8月下旬までお休みになった。この間、NHKでは過去の戦国もの大河ドラマの名場面を放映することになり、戦国ファンには楽しい時間になる。
今回は、「独眼竜政宗」。1987年に放映され、高い視聴率を出したという。
私はこれをレンタルビデオでみました。
●「独眼竜政宗」はとても面白いが、ウンザリもさせられるドラマだった。
伊達政宗演じる渡辺謙さんは見栄えも良いし大熱演で見応えありました。が、これは役者よりもシナリオと演出の問題かもしれませんが、この政宗はやたら大声で激高したり、泣いたり、おびえたりするものだから、私には政宗がヒステリー、精神分裂の持ち主に見えてしまった。
しかも、側近の一人である伊達成実(三浦友和)が、これまた政宗に劣らず、大声を張り上げて怒鳴ったり、笑ったりするものだから、見ていて余計に疲れる。
ストーリーの傾向として、「政宗ひとり、まかり通る!」といった、徹頭徹尾、政宗のドラマという印象。それゆえ、政宗に感情移入出来る視聴者にはこたえられないだろう。これぞ、人間ドラマ!と。私もこの面での楽しさは味わえましたし、渡辺謙さんの役者としての才能も感じた。
逆に、この頃の時代の歴史の流れを概観する要素(戦国大名だけでなく、農民や商人等の動き)が減るので、1年続く大河ドラマとしてのスケール感が乏しくなり、ドラマティックな割には深みが足りなくなる。
●伊達政宗は、大胆不敵さと深慮遠謀をあわせ持つ梟雄だったと思うが。斉藤道三にもあった資質。
例えば、万一に備えて自筆の書状の花押は、穴をあけたのとあいていないのとを使い分ける用心深さとか、あえて百姓一揆を起こさせ会津の蒲生氏郷を翻弄したり、関白秀次の謀反に加担したとの疑惑についても巧みに言い逃れしたとか、こうした知略に富んだ武将だったのであろう。まさしく、戦国の雄の一人だ。
今回の放映では有名なシーンとして、父の輝宗が、降伏にやってきた二本松城主畠山義継によって捕虜になり、手を出しかねている政宗らを叱って、ついに政宗が攻撃を命じ、義継とともに輝宗は死ぬという場面が流れました。
(史実は、政宗は鷹狩に出ていて不在で、父の最期に間に合わなかったとされる)
つまり、自分の決断が父親の最期を招いたという悲劇の設定だった。ここでの政宗は例によってヒステリーそのもので、とても知略に富んだ梟雄とは思えず、つまらない人間に描かれてしまっている。
おそらく、「非情な戦国時代においても、父を思う子の人間らしさは、現代の平均的人間と変わらない」というのがドラマのテーマにあったのだろう。
しかし、戦国大名としての戦略を優先した結果、肉親を殺してしまう悲劇は、政宗でなくとも誰が主役でもテーマとして成り立つ、安易な設定ではあるまいか?
結果的に、伊達政宗の当時でも際立った個性が矮小化され、陳腐な「平均的人間」になってしまった。それゆえ、私はこのシーンを「名場面」などと紹介したNHKの感覚にはとてもついてゆけぬ。
それよりも、死装束をまとい、黄金の磔柱を先頭に粛々と行進し、秀吉のいる京に向かうという「奇策」に打って出たシーンを放映して欲しかったね。こちらの方が政宗に相応しい名場面だったのに。
●昔の大河ドラマは概して、主役が際立って目立ち、大いに活躍し、英雄化が著しかったのだろう。主役演じる役者は、目がギラギラして、肉体派的な演出だったか。33年前の「独眼竜政宗」も、今から思えばその系統の一つなのだろう。さすがに演出が古いと感じる。
●1991年の「太平記」あたりから演出の潮流が変わったか?
足利尊氏演じる真田広之さんは、繊細にして気弱な一面を持つ尊氏を上手く演じていたと思う。渡辺謙さんの政宗とは正反対の主役であり演出でもあった。
また、ストーリーも「足利尊氏ひとりまかり通る」的なものではなく、様々な「準主役」が活躍する「群像」的なストーリーだった。もちろん、原作の太平記そのものが「群像」的なのだが。
私は、人間ドラマよりも歴史ドラマとしての要素が濃くなった「太平記」を、「独眼竜政宗」よりも見応えがあり、楽しく見ることが出来た。実際、ドラマとしての質もこちらの方が高かったのではないか?
その分だけ、真田広之さんの尊氏の存在感が希薄になったけども。
この、「主役の存在感が希薄」なドラマは、あの「真田丸」にも受け継がれたと思う。真田幸村役の堺雅人さんの個性がそうでもあるし、ストーリーや演出もそうだった。
主役の武将がギラギラした目に、肉体派的な容姿に、大声を張り上げ、周りを怒鳴り散らす、というものから、だんだんと、涼しげな目に、知性的な風貌の主役が多くなり、むしろ、主役の周囲に「昔ながらのギラギラした肉体派武将を配置」といったパターンが出来あがったのではあるまいか。
で、私は「真田丸」も大いに楽しめた。
●「麒麟がくる」は、「太平記」や「真田丸」よりも主役の存在感が希薄だが、歴史ドラマとしては面白い。
光秀演じる長谷川博己さんは、さらに、知的、スマートで、もう、野菜系人間みたいだ。少しも戦国武将っぽくない。ドラマの中では、狂言回し的な役割が多く、まるで歴史の傍観者みたいだ。で、肝心な時に間に合わず(斉藤道三の最期も、桶狭間の戦いも)、ややもすれば、「光秀って、無能だったのか?」と思ってしまうくらいだ。
その分、戦国時代の主要な事件や山場でそれぞれの「準主役」が活躍するのを堪能出来、時代の流れや全体像が見えやすいという利点がある。まさしく、光秀の時代の「戦国群像ドラマ」だ。
で、私はこちらの方を好む。
2020.06.15 |
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●「竹田の子守唄」
歌詞から分かるように、実は、これは「眠らせ唄」としての「子守唄」ではなく、「守子の唄」である点が実に面白い。守子とは子守りをする子供のこと。有名なドラマ「おしん」の中で、おしんが子供の頃に、「子守り奉公」していたシーンを思い出します。
子守り奉公する子供の辛い心情が、切なくも美しいメロディと歌詞から伝わって来ます。
ウィキ等で調べれば分かりますが、この歌には複雑な背景や履歴があり、かつては「放送禁止歌」のような扱いを受けていたとか。しかし、名曲というのはそうした毀誉褒貶の荒波を乗り越えて歌い継がれて行くものなのでしょう。
「赤い鳥」というグループによって美しくアレンジされ、見事な歌唱力で歌われたことも大きいと思います。
「竹田の子守唄」は多くの歌手に歌われていますが、やはり、「赤い鳥」にとどめを刺す。
何より、ソロを歌う女性の美しい歌声に私は魅了されます。
上手いなあ、この女性歌手。名前を知りませんが。。。
そして、絶妙なアレンジとバックコーラスのクオリティの高さ!
フォークソングを歌うグループって、どこか素人っぽくて、歌も演奏もあまり。。。という偏見を私は抱いていますが、「赤い鳥」はちょっと違いましたね。
聴けば聴くほど、歌えば歌うほど、泣けてくる曲です。
日本の原風景を感じさせるような郷愁と純朴な味わい。
それらが胸にしみじみ迫って来ます。
日本にも「五木の子守唄」など、子守唄の名曲はいくつもありますが、
私は「赤い鳥」によって歌われる「竹田の子守唄」が大好きです。
☆
「赤い鳥」のメンバーは、「竹田の子守唄」の背景を全く知らず(又は調べず)、単に大分県の竹田で歌われていた子守唄、くらいに思っていたそうですが、フォークを歌うグループにしては、何ともナイーブなお話です。
2020.06.13 |
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●天童荒太「悼む人・上下2巻」(文春文庫)
恥ずかしいお話ですが、小説の題名、「悼む人」を、私は「たたずむひと」と読んだ。「悼」という漢字を私は正しく読めなかったんです。しかし、「哀悼」の「悼」で、「あ、なーんだ。そうか。」となりました。
これは私の深層心理に関わるのですが、以前、筒井康隆の短編で、「佇む人」という不思議な小説を読んだことがあります。どうやらこれが頭のどこかにあり、「悼む人」を「たたずむひと」と思いこんだのでしょう。一見すると、「佇む」も「悼む」もどこか似た絵柄に見えませんか?「オムツ」と「オツム」がそうであるように。あ、そう思うのは私だけ(^_^;)
天童荒太の小説では、「永遠の仔」や「家族狩り」の方が評価が高いようですね。この二つも良いのですが、私は、「悼む人」の方に強い感銘を受けました。こちらの方が小説としての出来、完成度が上だと思うけどな。
前者の2作品はいずれも「家庭内暴力・虐待」等の重いテーマを扱ってはいますが、一応、ミステリー仕立てになっていて、エンタメ的要素がかなりあります。
「悼む人」はエンタメ性はほとんどありません。
ここで扱われているテーマは、人間の「生」と「死」。「死者といかに向き合うか」等で、ある意味非常に明快です。これをひたすら追求した小説です。
気楽にサラサラと読むような小説ではありません。
一人の青年がいて、アカの他人の死亡記事や情報を得ては、亡くなった場所を訪れ、死を悼む、という巡礼のような旅を続けるのです。このような不思議な青年の生き方が、他の登場人物の視線で様々な角度から描かれています。
純文学的な小説です。大事なのは、どんな内容であれ、どんな書き方であれ、そこに文学的な感銘があるかどうかでしょう。「悼む人」にはそれがあると思います。
少々、スピリチュアルな内容でもあるので、読者によっては敬遠したくなるかもしれませんね。
●それにしても…ドストエフスキーの影響力は日本でも強大です。
ドストエフスキーに大きく影響を受けた小説家は、三島由紀夫をはじめ、村上春樹も天童荒太等、数多い。次はフランスの恋愛小説の系統でしょうか。大岡昇平のように。
天童荒太の扱う「家庭崩壊」「家族問題」は、古典的名作、「カラマゾフの兄弟」のテーマでもありました。ドストエフスキーは「作家の日記」の中で、「偶然の家族」と題してロシアの家庭崩壊を問題にしています。
ロシアの良き家庭は、ロシア正教会を信仰し、父親の権威がしっかりしていたので幸せな家庭が成立していた。しかるに、西欧から科学的合理主義なるものがロシアにも蔓延し、合理主義で人間が分かったような顔をした連中が増えた。それによりロシア正教会の信仰が薄くなり、父親の権威も失われてしまった…というような内容だったと思います。何やら、エライ保守的な内容ですが、現代の家庭問題を考えた時、ドストエフスキーの問題意識には普遍的なものがありました。それゆえ、今でも彼の小説は読まれているのだと思います。
ただし、日本と、欧米・ロシアとの…どうにもならない大きな違いは…信仰という問題の有る無しです。ドストエフスキーの影響を受けた日本の小説には、「心棒」が欠けていると思います。「心棒」とは、一神教であるキリスト教がバックボーンにあること。日本のように、多神教や神道や仏教等が混然としている社会では、どのような文学にも「心棒」が欠けています。
日本の小説家がいかに深刻な問題意識を持っていても、彼等の小説が世界的な普遍性を勝ち得ないのはその辺にも理由がありそうです。「言葉の壁」だけではありますまい。
川端康成や三島由紀夫が欧米で人気なのは、たぶんに「物珍しさ」が影響していると思います。欧米人は、「フジヤマ・ゲイシャ・ハラキリのジパング」の秘密がここに潜んでいると期待するのでしょう。
●マーガレット・ミッチェル「風と共に去りぬ・全5巻」(岩波文庫)
名作です。
トルストイの「戦争と平和」に比べると、「深みや重厚さに欠ける」と言う人もいます。そうかもしれない。が、深みや重厚さばかりが小説の醍醐味ではありません。
スカーレットという強い女性の生き方、という点で、「ジェーン・エア」に勝るとも劣らぬ魅力があります。
両方読み比べたわけではありませんが、新潮文庫版よりも岩波文庫版の方が良いと思います。何故かと言いますと、各巻末に詳しい解説があり、「注」も多いからです。
小説を読む楽しみには、単にストーリーやドラマを味わうでけはなく、そこに描かれている人間と社会の歴史的背景や社会システム、そして文化を知ることにもあります。
トルストイの「戦争と平和」を読めば、ロシア史を知りたくなります。ゾラの「ナナ」を読めば、フランス近代史を知りたくなります。「風と共に去りぬ」も同様です。
南北戦争の時代、ジョージア州アトランタはどんな社会だったのか?、何故、スカーレットと父があれほどタラの土地に執着するのか?当時のアメリカにおいて、アイルランド移民とはどんな存在だったのか?大地主と黒人奴隷の具体的な姿は?…これらが分かると、「風と共に去りぬ」を読むのがより楽しくなります。
その点、岩波文庫版は私にはとてもありがたかったです。
小説を読んで驚嘆したのは、あの映画版が原作をかなり忠実に生かしていたということ。大長編の小説をよくぞ上手く230分の映画の中に組み入れたと、脚本家にも拍手を送りたくなります。
もちろん、違いもある。映画ではスカーレットの子供は娘一人だけでしたが、原作では3人だか4人も子供がいたことになっています。しかし、これは映画・小説のテーマから見れば、大した問題にはなりません。
同じ黒人奴隷といっても、畑仕事をする黒人よりも、家の中で仕事をする黒人の方が「格上」なんですね。映画でも印象的に描かれたいましたように、オハラ家に仕えている黒人女性マミーが、わりと威張っていたのは、単なる演出ではなく、マミーの個性だけにあるのではなく、彼女の地位がそうさせているのだと分かります。
こういうことも、岩波文庫版で分かったことです。
これでまた映画版を見ると、より楽しく観賞することが出来ますね。
こちらは…とても観賞に堪えません。画像、お借りしましたm(__)m
2020.06.01 |
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推古天皇の時代、いわゆる「蘇我王朝説」があることは古代史ファンなら誰でも知っています。
以下は私の独創でも何でも無く、古代史の著作をいろいろ読み漁った中から、わたしなりの解釈で蘇我王朝説を「要約」したものと受け取って下さい。ご参考までに。
●隋書倭国伝と日本書紀、どちらの信憑性が高いか?
推古天皇の時代について、隋書倭国伝には当時、倭王は男性だったと記されていることは有名です。
特に、600年に、姓は阿毎、字は多利思比孤、号は阿輩欷鶏弥という倭王が使いを隋の朝廷に遣わしたこと、妻や太子もいたことが明記されています。608年と609年にも男子の倭王のことが明記されています。
しかし、日本書紀では当時は女性の推古天皇の時代であり、太子は厩戸王(聖徳太子)と明記されています。
あくまで日本書紀の「女性天皇」を信用する日本の学者は、
①倭王が女性ではバカにされるので…隋の使者に対し、偽って男性天皇を紹介したのだろう。
②そこで、厩戸王が摂政だったので、天皇として隋の使者と会ったのだろう。
●私は隋書倭国伝の「男性天皇」の方が正しいと見ます。
①後進国の倭国が、子供騙しの手口で、先進国にして大国の隋を騙せるだろうか。
②大国の隋の情報網をバカにして良いのか?
倭国に行き来しているのは公式の使者だけではなく、非公式の使者もいたであろうし、民間レベルでの交流は盛んにあった。彼等からも隋は情報を得ていたであろう。また、朝鮮半島の3国(高句麗・新羅・百済)からも情報を得ていたであろう。
③推古天皇の在位期間は593年~628年の35年にも及ぶ。
この間はずっと男性天皇ということにして、隋や百済等の国々を騙し通せるほど甘くは無い。しかも、天皇だけではなく、皇后も太子についても、嘘を通すなど非現実的です。
④隋書が発行されたのは638年。日本書紀は720年。
当然、隋書の方がリアルタイムに近い情報を持っていた。もちろん、後の資料の方が正しい、ということもあり得ます。また、隋書にも「脚色」「改竄」があるかもしれません。しかし、隋があえて、倭国の女性天皇を男性天皇に改竄してしまう理由や動機は考えられません。
⑤女性天皇ではバカにされるというが。
645年の乙巳の変で、飛鳥の宮殿で朝鮮半島の三国(高句麗・新羅・百済からの使者)の調の儀式が行われ、当時の倭王である女性の皇極天皇が大極殿に出御したとあります。女性ではバカにされるというのであれば、ここでも皇極天皇ではなく、弟の軽皇子か中大兄皇子が男性の倭王として出御していなければ、辻褄が合いません。
また、既に魏志倭人伝の存在は倭国でも知られていた可能性が高いと思います。昔、倭国に女王が存在したことは隋も倭国も知っていたと思います。つまり、女性の倭王には前例が既にあったのですから、何を今さら女性天皇ではバカにされるなどと、小細工をして相手を騙す必要があるのか。
以上の事から、隋書を信用するのが自然です。
●推古天皇ではなく男性天皇だったとすれば、それは誰か?
①厩戸王(聖徳太子)が実は天皇だった。
②蘇我馬子が天皇だった。
推古天皇は実際は皇太后として、天皇の「後ろ盾」「権威づけ」という位置にあったのではないか。
当時、この二人以外には有力な皇族や豪族は見当たりません。
聖徳太子ファンの私としては、①説の方を採りたいのですが。。。
もしも、厩戸王(聖徳太子)が天皇だったとしたら、日本書紀が何故、あえて彼を天皇から太子に降格?させて記したのか。その理由が分かりません。しかも、日本書紀は厩戸王(聖徳太子)を立派な人物として描いているのです。
さらに、厩戸王(聖徳太子)が飛鳥から斑鳩の地に宮廷を築き、そこに自ら移ったというのも、彼が本当に天皇だとしたら不可解な動きです。朝廷はあくまで飛鳥の地にあったのですから。
また、593年といえば、厩戸王(聖徳太子)は18か19才です。当時はこんなに若い皇族が天皇になることは無かった。600年でも26才です。これこそ、大国の隋の使者に「バカにされる」可能性があります。
一方の蘇我馬子ですが、皇族でもない彼が天皇になれるワケないだろう、というのは本当にそうなのか?
①当時、倭王としての天皇(大王)は万世一系、という考えが定着していたかは不明。
②武烈天皇の後に血縁の断絶があります。継体天皇は出目がはっきりしない。応神天皇の5世の孫とされていますが、こんな系図などあてになりません。越前の有力な豪族だった可能性があるし、朝鮮半島からの渡来系ではないかとの説すらある天皇です。
③皇后は仁賢天皇の娘とされていますが、無理っぽい。仮に事実としてもここで女系になります。
④清寧天皇の後にも血縁の断絶があります。播磨に引き籠っていた仁賢・顕宗の兄弟を引っ張り出して後釜に据えたが、この二人の父は天皇ではなく、履中天皇の孫ということになっています。これも非常に怪しい。
⑤つまり、当時の倭王は有力な豪族の中から選ばれたのであり、万世一系は日本書紀の後付けの創作。
以上のことから、当時、最有力豪族であった蘇我氏の馬子が倭王、天皇に選ばれても不思議ではないと思います。馬子は日本で最初の寺院、飛鳥寺を創建した人物です。この大事業を成すには相当の経済力と権力が無ければ不可能だったでしょう。これもまた、蘇我馬子が天皇になっても不思議ではない理由です。
そして、馬子の姪にあたる推古天皇…実は皇太后が後ろ盾となれば権威もつくし、他の皇族・豪族も受け入れたのではないでしょうか。
さらに、皇族の中でも蘇我氏と濃厚な血縁関係にある厩戸王(聖徳太子)を馬子の参謀役として登用したのではないでしょうか。厩戸王は若くても非常に有能だったことは事実なのでしょう。
厩戸王は当時の大秀才であり、超エリート知識人でもあったのでしょう。仏教にも熱心だったし、中国の古典にも造詣が深かったので、「専門家」として馬子を大いに助けたのではないでしょうか。
乙巳の変のクーデターは、「蘇我王朝」と「息長系王朝」との勢力争い、王権争いだったのかもしれません。日本書紀の編纂を命じた天武天皇は「息長系」なので、「蘇我王朝」の存在を抹消した。しかし、蘇我氏と馬子の存在は余りに大きかったので、全てを消すことは出来なかったのではないかと思います。
その分、厩戸王(聖徳太子)の存在をクローズアップしたのではないか。
推古天皇を創作したのは、天武天皇の「息長系」に女性天皇が何人も生まれたので、その権威付けとして、あえて推古天皇を初の女性天皇とし、厩戸王(聖徳太子)の「摂政」とセットで、という形にしたのではないか。
他には、蘇我馬子が626年に亡くなったとして、その後2年間は倭王としての次の天皇がなかなか決まらなかった。そこで、臨時の措置として、皇太后が推古天皇となった可能性もあります。
いわゆる、清寧天皇亡き後の「飯豊天皇」や、もっと昔の、神功皇后みたいな感じですね。
そして、蘇我馬子天皇を抹消し、穴埋め的に、推古天皇を593年まで遡って在位していたことに。
と。私の想像、空想もまじえて(^_^;)
2020.06.01 |
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●責任とは?その定義。
①その人に、なすべき仕事・任務(ノルマの達成・成果を出す等)があること。
②ノルマが達成出来ない、又は成果が出せなかった場合は、その人は責任をとるか、何らかの処罰を受けること。
処罰を受ける、又は責任をとるとは、
①自ら辞任、②懲戒処分(解雇、降格、減給、始末書等)を受ける、③損害賠償を負う、等がある。
以上の2点がセットになっているのが、「責任」の定義です。
口を開けば、「全ては私に責任がある」と大見えを切って来た我が国の首相は、一度でも責任をとったことが、処罰を受けたことがあったでしょうか?
「丁寧な説明をします」、「真摯に受け止めます」に続き、
「私に責任があります」も、何の値打ちの無い、空虚な言葉に下落してしまった。
上の者がことほどさような姿勢であれば、下もそれを見習うのが世の常であります。
「権限・権力」と、「責任」は、本来は正比例の関係にあるはずですが、
実際は反比例の関係にあるのが、日本の社会構造の特徴です。
黒川元検事長の「責任」と「処罰」はどうでしたか?
●「自分の家族やあなたの大切な人を守る為にも外出は控えましょう」
テレビのアナウンサー等がしばしばこのような表現をしていました。
「あなたの大切な人を守る為に」…これって、すごく嫌な言い方と思いませんでしょうか?
なんか、、こう、凄く自己中心主義的で。
報道人がこんなことを言う無神経さに嫌悪感を覚えます。
では、「あなにとって大切ではない人はどうでもいいの?」と言いたくなります。
それを言うなら、「あなたの家族や社会を守る為に」とすべきでしょう。
●非力な一人の芸能人個人に向けて放つ、「死んでしまえ!」「人間のクズ」等の罵倒と、
大きな権力を持つ総理大臣に向けて、「死んでしまえ!」「人間のクズ」と罵倒することが、
同一線上で語られ、批判され、制約を受けて良いのでしょうか?
これは「ミソ」も「クソ」も一緒くたにした詭弁と私は思います。
もちろん、「政権側に都合の良い」詭弁です。
☆
私個人は、誰に対してであれ、「死ね」とか「人間のクズ」などという下劣な言葉は使いたくありません。
「ペテン首相だ!」とか、「口から息を吐くようにデタラメを言う首相だ」くらいはいいでしょう。
ちなみに、西村担当大臣には、「あの『女体盛り』の西村氏」と言いたくなります(^◇^)
2020.05.29 |
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彼我の都合の悪い事には蓋をし、(安倍首相が)起訴に至らない為の方策を法案にした今回の検察庁法改正案…内閣判断(基準不明確、運用次第)による個々人への1年単位の定年延長が追加されている…には、私はもちろん反対である。
安倍首相には、「より良い検察へと改革したい」等という志など一切ありません。
改正案の目的・意義についても、後から理屈を付けただけのことだ。
(この点では、賛否はともかく、韓国のムン大統領には明確な検察改革の志がある。テレビに登場する「韓国政治の専門家」は、どいつもこいつもムン大統領を批判するが、私は安倍首相よりは優れていると思う)※
そんな高級?な問題意識など、歴代の首相の中でも頭の悪さ、度量の狭さ、という点で一二を争う安倍首相の頭にはあるはずも無い。あるのは、自己防衛と「オトモダチ作り」だけ…そう疑われても仕方ありますまい。それくらい安倍首相への信頼は失墜しているのだ。
●今、日本の政治は、結果(目的)だけが重視され、そこに至るプロセスや方法については軽んじられる時代だ。「説明責任」という言葉が虚しく聞こえる。
民主主義というのは…もちろん結果を出すことも大事だが…どんなプロセスや方法で取り組むかが大事なのだが。
初めに結論ありき、結果(目的)ありき、だから、政治家の発言や説明が以前に比べ、重みが無くなり、誠意も無くなり、無責任な態度が当たり前になった。
それでも国民が怒らず、相変わらず支持してくれるなら、安倍首相であれ誰であれ、国民を舐め、傲慢不遜にもなろう、というものだ。
これと反比例して、「威勢の良いことを声高に語る」人間を次期の首相候補に、みたいな風潮が生まれる。「威勢の良いこと」とは、無責任ということである。
これは最悪、「目的の為には手段は選ばず」に通じるものではないか?
●しかし、安倍政権の「やりたい放題」を許してきたのは、日本の有権者なのだ。少なくとも、今でも安倍政権を支持する40%前後の有権者と、政治に無関心でいる有権者なのだ。
理屈だけは立派だ。やれ、他に適当な首相候補がいない、やれ、野党は頼りない等々。これらは私に言わせれば、「私は思考停止中です」と宣言しているのに等しいと思う。
あの安倍さんに首相が務まるのなら(いや、務まっていないのだが)、自民党内にも野党にも安倍さん以上の能力と度量を持つ人間などいくらでもいよう。
私達日本の有権者の多くが、「まあ、いろいろ問題はあるけど、当分の間、安倍政権でいいんじゃね?」と考えるのであれば(いや、考えてもいないのかもしれない)、安倍首相のレベル=日本人の民度レベル、と考えてよろしいかと考える。
私は、保守=悪、革新=善、などという単純思考は持たないが、少なからぬ日本人が悪い意味で保守化しているんだなあ、と、つくづく感じる。
※
韓国のムン大統領が検察改革をやろうとした時に、やれ独裁だ!やれ自己保身が目的だ!とか言って非難していた日本の「専門家」は、安倍首相が検事総長の任期を恣意的に延ばせる法改正をしようとしていることについてはどう言ってるのかな?
2020.05.16 |
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「スピード感」という言葉は昔から定着しているイディオムです。
例えば、ある小説や映画を評価する時に、「ストーリーのテンポが良く、スピード感がある」と言いますよね。ビジネスの場では、「彼の仕事の進め方にはスピード感がある」と言います。
もちろん、実際の速度を測定し、何らかの基準に基づいて述べるものではなく、あくまで主観的なものに過ぎません。人によっては、「この映画の展開にスピード感があるとは思わない」という意見があっても良いわけです。
このことは、逆のケースを考えればもっと明らかになります。
例えば、100メートル走で、「ウサイン・ボルト選手の走りにはスピード感がある」という言い方はどこか変です。彼の走りの速さは測定により明らかだからです。
同様に、「さすが、新幹線は在来線と比べてスピード感があるよね」も変な言い方です。
この場合は、単に、「スピードがある」「速い」と言うべきでしょう。
ところで、最近、テレビを見ていると、「スピード感をもって政策を進めるべきです」「対応にスピード感が求められます」等とアナウンサーや評論家が言うケースが目立ちます。
「変な言い方だなあ」と思いつつ、何度も何度も聞かされているうちに、次第に私は不快になって来ました。なんで不快と感じるのか自分でも良く分かりませんでした。が、不快の理由が分かりました。
「スピード感のある対応が必要」…これは、実は、何の中味の無い空虚な言葉なんですね。政治家の対応を批判するストーリーラインで使われるイディオムなのですが、何のパンチも無い…つまりは、曖昧で、腰砕けで、具体例の無い、欺瞞的な「批判」でしかないのです。言葉だけが虚しく踊っているのです。
つまりは、ポエムでしかない。
また、適切な表現としては、「スピード感のある対応」ではなく、「迅速な対応」と言うべきでしょう。せめて、「スピードのある対応」と言うべきでしょう。
言葉の訓練を受けているはずのメディアの人間や、「最高学府の最高度な教育」を受けて来たはずの評論家が、こういういい加減な言葉使いを乱用して何とも思わないのでしょうか?
さらには、ある報道人が、「東京都によると、9日まで政府との協議、10日に決定事項を発表、11日から実施、というスケジュール感となっています」と言ったのには呆れました。
今度は、「スケジュール感」と来た。こんな日本語、あるのか?
単に、「…というスケジュールとなっています」で済むものを、どうして「スケジュール感」と言うのか?
どうやら、カタカナ語の最後に、「感」を付ける言い方が流行しそうな気配です。
そのうち、「ルール感」「マナー感」「レガシー感」「サービス感」も言い始めるのかな?
そうだ!ひらがな言葉の最後に、「感」を付ける新しい言い方がありました!
「やってる感」
これは主に、安倍首相の政治姿勢を揶揄する際に使われます。
「安倍首相は、やってる感を演出してる」「やってる感だけの政府の新型コロナ対策」、というように。
そもそも、日本語には熟語の最後に「感」をつけるイディオムはたくさんあります。「違和感」「圧迫感」「立体感」「優越感」「臨場感」「責任感」「透明感」「清潔感」等。。。
中高年男性に多い、「残尿感」もありんす(^o^)
カタカナやひらがなの後ろに「感」を付ける言い方はほとんど無いです。
そうか!「距離感」「立体感」「重量感」はあっても、「速度感」というのは聞かない。それに代わって、「スピード感」という言葉が生まれたのかもしれませんね。
「スピード感」「スケジュール感」の変な使い方ですが、これは、ぼやかした言い方や角の立たない言い方を好む日本人の特性から生じたものかもしれません。
私は→わたし的には、〇〇したいです→○○したいと思います、〇〇です→○○みたいな??
「迅速な対応が必要です」は、少し言い方がキツく、それよりは、「スピード感のある対応が必要です」の方が表現が弱く、丸く、無難で、角が立たないですよね。
平時の、平和で、他愛の無い会話をしている女子会であればそれでも良いのですが、緊急事態の時に、あんな曖昧でうすぼんやりとした言い方をしていて、報道の仕事が、批評が務まるのですかね?
これらの事が重なり、私は段々と不快になったのでした。
報道人や評論家の皆様には、「スピード感をもって善処」をお願いしたいと思います。
2020.04.08 |
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現在、私が唯一、継続して見ているテレビドラマです。過去2年間は私の見たい内容ではなかったので、やっとこさ、大河ドラマらしい戦国ものが戻って来たよ。
「麒麟がくる」も、突っ込みどころはアレコレあるでしょう。画面の色が鮮やか過ぎる、光秀役に存在感が乏しい、光秀は忍者か使い走り役か?京の医者役のセリフがわざとらしくて鼻につく、駒役の女優の演技がイマイチ等々。。
でも、まあ、私はじっくりと楽しみたいです。
【明智光秀・織田信長・帰蝶(濃姫)関連の本を読む】
お陰で、戦国ものの本をアレコレと読み、苦手だった戦国時代の輪郭も何とか私なりに掴めて来ました(^_^;)
●垣根涼介の小説「光秀の定理」「信長の定理」
はぴらき様の推奨で読みました。読み応え十分!!勉強にもなった。
垣根さんはアイデアだけでなく、人物の描写に優れています。
後で、垣根さんの現代ものアクション系、「午前三時のルースター」と、前半の重厚さと後半の軽快さで読み手を飽きさせない、「ワイルド・ソウル(上下巻)」を読みましたが、これらも傑作。未読の方にはお勧めですよ。
●諸田玲子「帰蝶」、宮本昌孝「ドナ・ビボラの爪」(帰蝶純愛篇・光秀死闘篇)
諸田さんの小説では、織田信長の正室としての帰蝶の生き方と帰蝶の前だけで見せる信長の一面という組み合わせが良い。宮本さんの方は奇想天外な発想で、読者によって好き嫌いが分れそうです。私は堪能出来ました。
●司馬遼太郎「国盗り物語」
なるほど、高度成長期のサラリーマンや経営者・管理者はこういうのを読んでは、「夢があるよなあ」「男のロマンだよなあ」と感激したのでしょうね。
出張先の宿泊ホテルや、帰りの長距離列車の中でもサクサクと読める内容です。別に悪くはありませんが、私には物足りない内容でした。50年以上も前の小説なので、話の組み立てにも資料的にも、古さを感じさせます。特に後半では信長と光秀、どちらが主人公なのか分からなくなり、スッキリしませんでした。
●海道龍一朗「乱世疾走(禁中御庭者綺譚)」
正親町天皇と織田信長の緊張関係それ自体、興味深いものがあります。天皇や公家たちが戦国時代をいかに、強かに生き抜いて来たかが分かります。剣豪や忍者が登場するのでエンタメ色の強い内容にもかかわらず、海道さんは重厚な筆致でじっくり読ませてくれます。海道さんの小説にハズレはありませんね。
【「麒麟がくる」で、女性の立て膝の座り方が「韓国式だ!」と、ネトウヨが発狂す】
だからネトウヨというのはどいつもこいつも、アホばっかりだと言うのだ。
こちらのサイトを見れば良く分かりますね。
→サイトはここです
私は、なるべく史実通りに、というのには賛成です。
ただし、紹介したサイトでも触れているように、では女性のお歯黒はどうなんだ?となります。これは現代の私達の美的感覚から耐え難いものがあります。不気味過ぎる。女優さんだって嫌がるのでは?
武士の言葉使いは…これは現代風にするのは仕方ないでしょうね。
馬だって、もっと小柄な馬を使いますか?すると、俳優さん達ももっと小柄な人を選ばなくては馬とのバランスが悪くなるかもしれません。ことほど左様に、史実通りというのにはどうしても限界があるでしょうね。でも、昔ながらの、馬上で刀を振り回す、というのは余りに史実と乖離してヒドイので、いい加減に止めて欲しいわ。
☆例によって、戦国時代も元号は煩わしい。天文、弘治、永禄、元亀…。例えば天文19年、と言われて西暦に換算出来る人がどれだけいるのか?
私は、天文元年=1532年、弘治元年=1555年、永禄3年(桶狭間の戦い)=1560年、元亀元年(姉川の戦い)=1570年、天正10年(本能寺の変)=1582年、くらいは覚えることで、時間感覚というか西暦との換算で、なんとか辛うじてイメージを掴めるようになりました。疲れるわ(・・;)
【なぜ明智光秀は織田信長を討ったのか?】
怨恨説、黒幕説、自己防衛説、野望説等々…色々あっても資料が乏しく、決定打はありませんね。なんせ、光秀本人が理由を語っていないのですから。
常識的な所では、上記の複数の理由に、たまたま信長と嫡子の信忠が京にいたのを絶好のチャンスと見た、とするくらいでしょうか?私は光秀は立場的にも精神的にも、「追い詰められていた」と思うのですが、どうでしょう。
そもそも、戦国時代は下剋上が当たり前の時代。光秀の信長殺しは特殊な出来事ではなかったでしょ。武士の世界では、主殺し、親兄弟殺しは珍しく無かった。松永弾正は将軍足利義輝を殺しましたし。
2020.04.07 |
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「全世帯に布マスクを二枚づつ配布する」とした安倍首相の政策が大不評だ。
安倍政権や自民党を支持する層からも不評らしい。
アメリカのメディアは、「何の冗談だ?エイプリルフールか?」と嘲笑うし、
日本国民は、アベノミクスをもじって「アベノマスク」と冷笑し、
「国破れてマスク在り」、と揶揄し、
安倍首相が全国民にマスクを送る意味は、
「俺のやっている政策には口を塞げ!」」
二枚の意味は、
「二度と口出しするな!」なんだよ。
等々、惨憺たるものだ。
しかしネ、私達にマスクが全く手に入らないことは事実なんだし、
私のような勤め人は、ドラッグストアを何軒もハシゴしてマスクを手に入れる時間もチャンスも無く、
たった二枚でも頂けるならありがたいと思う。
しかも、布製だから洗って何度でも使える。
エッ?効果があまり無い?
それでも付けた方が良いに決まっているではないか。
それと、大事なことが一つある。
中国の古い名言に、
「一尺の布も尚お縫うべし…」というのがある。
つまり、わずか一尺の布でも兄弟が互いに分けて衣服をつくることが出来る。兄弟は互いに助け合うべきだ、ということ。新型コロナウイルスの感染拡大という国難に対し、一世帯にわずか二枚の布マスクだが、家族みんなでお互いに分けて助け合って使おう、国難を乗り越えよう、との安倍首相のメッセージが込められているのだ。
安倍首相はこの中国の名言を知っていた。
それゆえ、そうした思いを込めて、あえて、布製マスク二枚を送ったのだ。
こうした心を読めない日本人は、何と言う貧困な精神の持ち主であろうか!
と、
これくらいの擁護をしなさいよ、エッ?安倍政権の支持者達よ!
2020.04.04 |
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新型コロナウイルスの感染拡大という国難の中、陛下におかれましては何をなされておられるのでしょうか?
皇居にひきこもられたままなのでしょうか、お姿を見ることがありません。
イギリス女王もスペイン国王も、国民へのメッセージを発信されたと聞きます。
また、お父上の上皇陛下には、東日本大震災発生から一週間後にビデオメッセージを発信されました。
しかるに、陛下には未だ何の発信もありません。
即位の礼において、陛下には、「国民に寄り添い、象徴としての責務を果たす」とのお言葉があったとか。
国民からの好感度の高い陛下がここで、国民へのお見舞いと激励のビデオメッセージを発信されれば、象徴としての権威と好感度はいや増すばかりでありましょう。
失礼とは存じますが、陛下には悪い意味で安倍首相に籠絡され、取り込まれているのではないか、との憶測もあります。この点、安倍首相とは明らかに一線を画しておられた上皇陛下を是非とも見習って頂きたいと願うものです。
国旗掲揚や国歌斉唱について、「強制になることではないということが望ましい」と仰ったお父上に比べ、天皇陛下には失礼ながら少々心許ないように感じております。私のカン違いであれば良いのですが。
感染爆発、医療崩壊の危機が迫る中、陛下の国民へのお言葉は、間違いなく、首相や知事の言葉よりも、国民に与える影響は大きいものがありましょう。国難を乗り切る覚悟と勇気を与えるに違いありません。
今からでも遅くありません。
是非とも、国民の象徴として、国民に寄り添うお言葉を発して頂けたらと願うものです。
2020.04.04 |
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