こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。『反社会学講座』の単行本が出てから、早いもので、かれこれ10年経ったんですね。
私は自著の評判やレビューをなるべくネット検索しないようにしています。やっぱり私も人間ですから、ケチをつけられれば反論したくなるというもの。でもそういうのをちょいちょいやってると、著者がつねに監視してるようで感じ悪いでしょ。読者が遠慮して自由な感想を書かなくなったら不本意ですし。
とはいえ、毎年新年度になると、『反社会学講座』など私の著作を授業や講義の副読本やレポート課題として使ってくださる先生もいるようです。そこでこの機会に、誤解されがちな点について、いくつかいいわけをしておくことにします。
●私は社会学も社会学者もそんなに嫌いではない。
自分がけなすような書きかたをしておいて、いまさらなにをぬかすか? ごもっとも。
ただ、本当に嫌いなのは抽象的な社会論です。社会とはこういうものだ、みたいな哲学思想崩れの総論ばかり語る学者は嫌いです。そういう人は哲学や現代思想のフィールドで存分に活躍すればいいじゃない。社会学を名乗るからには、具体的な社会現象を、データや実地調査などの根拠をもとに論じてくださいな。
●私の書いてることは「ネタ」ではない。
『反社会学講座』などに関して、「あれはネタだから」みたいなことをいう人がいます。どういう意味でいってるんだろう? あいつの書いてることはガセネタだから信用するなという意味なら、とんでもない誹謗中傷です。
私はいつも根拠や出典を示した上で意見を述べてます。わかりやすくするために、コントみたいなたとえを創作することはありますよ。だけど、そこは事実とは区別できるように書いてるつもりです。
皮肉・諷刺をまぶしたふざけた文体を使うこともありますが、提示しているデータや歴史上の出来事は、すべて根拠に基づいたものです。その出典は、本文中や参考文献でしつこいくらいに公表しています。こっちはこんなにフェアにやってるのだから、私の批判をしたいなら、どこがどうまちがいなのか、根拠を示して具体的にいってもらわないとね。
私が『反社会学講座』の内容を鵜呑みにするなと警告したのは、ウソを書いてるという意味ではありません。読解力のない読者に、私はときどきイジワルをしたくなるんです。「今回のまとめ」にわざと本文と異なることを書いたりとか。本文をちゃんと読んだ人ならそのボケに気づき、ちがうだろ、とつっこめるのですが、参考書などのまとめだけを読んで要領よく本の内容を理解するのがクセになってる人は、誤読してしまうかもしれません。
●私はリベラルだが、左翼ではない(もちろん右翼でもない)。
まちがえてる人がとても多いんですが、リベラル=左翼ではないし、保守=右翼でもありません。むちゃくちゃリベラルな右翼もいるし、保守的な左翼もいます。そもそも私は、政治思想でものごとを判断する人たちを信用していません。彼らはタブーや聖域を作りたがるからです。それによって、己が信じるものについての議論そのものを禁じようとします。
私が考えるリベラルとは、多様性を認め、ものごとの真偽を根拠にもとづいて客観的・論理的に判断する姿勢のことです。
学問をやるには、必然的にリベラルにならざるをえないんです。さまざまな説の存在と発言の自由を認めた上で、どの説が正しいかを、証拠をもとにできるだけ客観的に決める。それが学問ですから。
通説が正しいときもあるし、通説がまちがっているときもある。よのなかの常識はときに正しいし、ときにまちがいでもある。伝統はときに素晴らしいけど、ときに人間を苦しめるだけの無意味な枷だったりもする。
通説や常識や伝統の盲信は、公正な判断をゆがませる原因です。ものごとの真偽は、客観的証拠と論理的な議論によって判定されるべきです。
エラい先生がおっしゃることに異議を唱えるとは何事だ、とか、むかしからこうだから、こうなんだ、みたいな主張がまかりとおったら、学問はそこで死にます。
学問というのは、とても不埒で無礼なものなんです。
[ 2015/04/11 20:16 ]
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