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2008年07月08日
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カテゴリ:テレビ番組・映画


去年テレビで予告を見て以来,気になりつつも見る機会のなかったアメリカ映画『主人公は僕だった』(原題は「Stranger Than Fiction」) のDVDを楽天レンタルで借りてようやく見た。ある朝平凡な男の頭の中に,彼の行動を3人称で描写する女性の声が突然聞こえてくる。現れては消えるその声はどこにいても彼の状況を正確に,そして文学的に語り,さらには彼の死が近いこともほのめかす。そこで彼は自分の運命を変えようと奮闘するのだが―――といったストーリー。以下ネタバレ全開なので,未見で気になる方は読まないほうがいいかも。



まず興味を持ったのが,登場人物の頭の中に自分を描写する語り手の声が聞こえるという,筒井康隆の小説のような,メタフィクション的な匂いのするそのプロット。こういう実験的な要素を持つ映画自体は珍しくないのだろうが,ダスティン・ホフマンが出演するようなメジャーな映画ではあまりないのでは。

ただこの映画は,筒井康隆の小説ほどメタフィクション的要素が強いわけではない。例えば彼の『虚人たち』の主人公は,自分が小説に描かれている存在だという自覚があり,自分がなぜこのように描かれているのか,作者(筒井康隆)の意図を想像したりする。読者とは次元の異なる「現実」に生きているはずのフィクションの登場人物が,読者と同じ(筒井康隆のいる)この世界に介入してくるからこそ,メタ小説の面白さが生まれる。一方,『主人公は僕だった』の主人公ハロルドも,自分がフィクションの中の主人公にされてしまったことを知り,作者を突き止めようとするのだが,その作者とは『主人公は僕だった』というフィクションの中での小説の作者であり,映画の登場人物の1人にすぎない。この映画の世界は,その内部では人物同士の非現実的なつながりがあるものの,あくまでも映画の中で閉じられた世界であり,観客のいる世界とははっきりとした断絶がある。もっとも,『雨に唄えば』のように,その内部構造がこの映画自体もフィクションであるということを観客に思い出させるという点では,メタフィクションと言えるのかもしれないが。

一方,「作者」も登場人物の1人であるおかげで,小説の主人公とその作者が対話するというおもしろい場面も生まれている。頭の中で声が聞こえてくるハロルドは,精神科医の治療を受けるが効果がなく,文学の研究者のところに相談に行く。この教授はハロルドの聞く語りを小説技法の分類に当てはめていくのだが,この過程もなかなか興味深い。まず,「このささいな行為が死を招こうとは,彼は知るよしもなかった」という語り手の表現から,教授はこの語り手が「全知の語り手」であると判断する。(この時「ナレーターの男はどんな声だ?」と尋ねる教授にハロルドが「女性です」と答える場面があるが,そういえば私は小説の語り手は無意識に男性と考えていることに気付かされた。)さらにその話の流れを「おとぎ話やクリスティなどの推理小説でもない」と,物語の類型に則って分類していく。その教授がファンだという女性作家カレン・アイフルが自分の物語の「作者」であることを発見したハロルドは,住所を調べあげて彼女に電話をかけ,「主人公のハロルド・クリックです」と話しかける。

この後のアイフルの驚嘆ぶりで,この「作者」は実際には「全知の語り手」にはほど遠い情報量しか持っていないことが明らかになる。驚いて受話器を落としてしまう彼女は,ハロルドが実在の人物であることはもちろん,彼が電話をかけてくることも,自分の声が彼に聞こえていることも,そのことで彼が教授に相談していることも知らない。このあたりは彼女の小説にも書かれていないのだろう。

小説はまだ書きかけであり,タイプするごとにその出来事が実際に起こることがわかり,当然ハロルドは結末をハッピーエンドにするよう頼む。しかしこの場面あたりから,結末はハロルドを救うために変えられるべきか,それとも,小説の文学的価値(教授によると「真の傑作」らしい)のためにハロルドは犠牲になるべきか,というよく分からない二者択一で映画は進んでいく。原稿を最後まで読んだハロルドも,なぜか「素晴らしい小説です。他の結末はありえない」と,一転してその死を受け入れてしまう。むしろアイフルのほうが躊躇するが,それでもハロルドを殺してしまうのか―――という流れに。



このあたり,設定は面白いのに,それを生かしきれていない印象がどうしてもしてしまう。おそらくヒューマンドラマとして話を進めたいがためにこのような流れになっているのだろうが,この奇抜な設定にはむしろコメディのほうが合っているのでは。同僚に聞かれた計算の答えが思いつかないハロルドは,ナレーターが語る数字をそのまま答えるが,その答えは間違っていた,というコミカルな場面がある。そのように,全知の語り手と,それに翻弄されつつ立ち向かう主人公という図式を始終コメディタッチに描いた方が,小説の語りの構造が浮き彫りになりおもしろそうなのだが。

それと,小説と現実がどの程度リンクする設定なのか,疑問に感じるところがいくつかあった。例えば,中盤までは,語り手によるハロルドの心理描写は実際に彼が考えていることとほぼ一致しているようだが,終盤では明らかな不一致が生まれてくる。ハロルドが小説の原稿を読み,自分の死がどのように訪れるかを知った後でも,「死の前日ハロルドは何も知らずに仕事をこなした」といった語りが出てくる。また,アイフルが小説を一部書き直すと話す場面があるが,そうするとハロルドの過去はどうなるのだろう。

しかし,こういったことをあれこれ考えることができ,個人的には楽しめた。ハロルドがアイフルの小説の主人公になってしまった理由については一切説明されなかったが,下手にファンタジックな説明が入るよりもかえってよかった。それぞれの役者の演技もそつがなく,音楽も悪くなかった。何より,ある程度メジャーな映画でこのように実験的な試みを感じられたのはうれしく(それほど売れなかったようだが・・・),もっとメタ映画的なものも見てみたくなった。すぐ思いつくのは,主人公の聞く語りを,ある小説の語り手ではなくその映画そのものの語り手が語るという設定にすることだが,ナレーションで話が進む映画はドキュメンタリー以外では少ないので,メタ小説ほどの効果は期待できないかもしれない。

小説における語りのように,映画に必要不可欠でありながら普段はその存在が意識されないものに「カメラ」があるが,そのあたりを意識化させる試みもおもしろそう。実験的な映画ではすでにあるだろうが,娯楽性と実験性のバランスが取れたものはなかなかないのでは。娯楽と言えば,ゲームの「スーパーマリオ64」には興味深い設定があった。プレーヤーが見ているゲームの画面は全て,主人公の周囲に浮かんでいるジュゲムというキャラクターが撮っていることになっている。鏡に映ったその姿を確認したとき,普段意識していないカメラの存在に改めて気付かされた。



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最終更新日  2008年07月09日 00時24分11秒
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