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カテゴリ:気になること
裏サイトで知り合った3人が共謀して通りかかった若い女性を殺して金品を奪った事件、このニュースを見て、「そんな奴らは極刑に!」と思うのは自然な感情、実は私もそう思いました。でも、死刑にしてほしいという署名に1万1千人の署名が集まったことには、ひっかかります。世論に司法が影響を受けるようなら、もうそれは司法ではなく私刑・リンチになってしまいます。被害者遺族の心に寄り添おうとするのはよいことですが、(ブログのお友達を含め私の周りにはいないけれど、)他のブログのコメント欄など見ると、中には「吊るせ!吊るせ!」とさけぶのが快感になっている人がありそうです。
もし、たまたま通りかかって被害者になったのが、人に愛される罪のない女性でなくて、みんなに迷惑をかけてばかりの嫌われ者だったなら、同じ目的、同じ残酷さ、同じ方法で殺害した場合、罪の重さは違うのでしょうか? 被害者の感情を考えるというなら、アーミッシュのようにすべて許すという人たちや、天涯孤独の人、あんな人は殺されて当然とささやかれるような人の場合はどうなるのでしょう? 刑罰とは、被害者にかわって復讐することでないことは、罰金が迷惑を受けた人に渡されるのでなく、国庫にはいることをみればわかります。ルールを破った人にペナルティを与えることだと思います。ですから、死刑制度があるということは、国が国民に対し生殺与奪の権を握っているということになります。 悪いヤツの人権など無視してよい、さっさと殺せばよい、というなら、殺してよい命といけない命があることになります。 死刑制度を認めるとしても、犯罪者の命でも、いったん奪えば回復できないことを重く受け止めないなら、命を軽視する殺人者と同じレベルになってしまいます。 よく被害者の人権はどうなる?という疑問が出されますが、そもそも被害者の人権を侵したから犯罪者として裁かれるのであって、名誉毀損なら謝罪広告などで回復できるかもしれませんが、命を奪ってしまった場合は加害者を死刑にすることによっても被害者の命は回復できません。人間の力ではどうしようもない不条理です… 昔ドストエフスキーの「罪と罰」を読んで以来、ずっと疑問に思っていることがありました。もしラスコーリニコフがあくどい高利貸しの老婆だけを殺して、偶然現れた姪まで殺さなかったなら、それほどまでに良心の呵責はなかったのだろうか?ということです。それでもソーニャは「大地に接吻して謝りなさい」というに違いないと確信しますが。 読んだのは高校生のころだったので、今読んだら受け取り方が違うのか、再読したいものです。 村野瀬玲奈さんのこの記事をぜひお読みになってみてください。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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