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カテゴリ:劇評
現在形の批評 #31(舞台)
人気blogランキングへ 5月28日 京都芸術センター・フリースペース マチネ 京都芸術センター・フリースペースは、元々体育館だった場所の床を掘り下げ、それほど高くない数段の木製桟敷席が真ん中の舞台フィールドを取り囲む格好で設えらた空間である。今回が初見の五反田団はこの空間の半分だけを使用して行われた。物語内容と併せて非常に小さな作品だが、「私たち」の問題の喚起力が大きい。 舞台空間にあるのは2つの万年床、ちゃぶ台、小物入れの引き出し、そしてとりわけ目を引く夥しい数のカメラフィルムである。舞台は寝そべっている男(金替康博)が、これまた寝そべって雑誌を読んでいる彼女ヒトミ(後藤飛鳥)に、くわえたフイルムケースを飛ばして当てるところから始まる。 印象的だったのは、舞台とは思えないほど日常我々が自室で話す声量や身体の持ち様で台詞が喋られていることだった。いくら日常的な風景を切り取った作品であろうと演劇であることからは逃れられないのだが、この舞台には限りなくそれが排されている。また、この手の舞台はしばしば「四畳半的」と形容されるが、まさに汚い安アパートの一室をスライドさせたかのような設定は、いくら「四畳半的」といってもそれはあくまで比喩なのであって、それをこれまで徹底する作品は珍しく、かえって虚を突かれた思いがした。したがって舞台と客席との距離も、非常に近いにもかかわらず、「四畳半」の徹底によって観客の存在もこれまた居ないものとして進行する度合いが強い。観客は息を潜めてじっと他人の生活を覗き込むような感覚に捕われながら観劇していくことになる。台詞は「間」を多用し、豆電球のようなオレンジ色のほんのりとした室内照明。極めつけは万年床だ。そこに男と女とくれば、田山花袋の『蒲団』に描かれる、蒲団に染み込んだ女の匂いを異常なまでの執念で嗅ぐ男の物語を思い出すが、それを彷彿とさせる汗臭い体臭と生活感が充満したエロティックさがここにはある。 この舞台で、前田司郎が描き出したのは、金替演じる仕事もせず、部屋に閉じ込もった男の私小説である。男は心にポッカリと大きな空洞を抱えた人間である、現在問題になっているニートを思い起こすが、まさにそれを体言した存在である。男が即身仏になることを目的にしており、そのためにゴマだけを唯一口にしている事態が決して他人事ではないのは、食することが動物全体に共通する「生」の実感を得るためという、あくまでも生活に根ざした幸福を求めるのではなく、唯一紳、つまり自分自身が生まれ変わることを希求しているのは我々も同じだからである。やってくる神を待つ点では、サミュエル・ベケットの『ゴドーを待ちながら』と共通するが、外部の力による変化を望む『ゴドー……』の人物と異なり、この作品の男は自らが神になろうとする。その入り口というか、イニシエーションがゴマを食するというある種の能動的行動なのだ。しかし、もちろん叶えられることはなく、結局は受け身型人間の粋を脱し得ない人間なのである。 そのことは、男が見た現実の一瞬間を記録しているはずの無数のフイルムも示している。部屋から一歩も出ない男に撮影できるのは天井くらいしかないことは自身でも知っているだけに、現像(現実の直視)することは自らの無力を思い知ることにしかならない。それでもあてどなく何かをしないと気持ちの整理がつかないというジレンマを、撮影というささやかな能動的行動によって紛らわせるが、その結果(現像)には蓋をするという訳である。散乱するフイルムは、その傷つきたくない一身の象徴(態度保留)として存在する。しかしそれは、受動型人間の満たされぬ苦悩の堆積でしかないのだ。 だらだらとゆっくり流れる劇時間は時に男以外の人物の行動の省略がある。これはテンポを増すという劇作上の事情よりも、日常生活を劇的なものに変えたいがため、私小説の主人公である男が起こしたものと見るべきである。作品の視点が男の一人称だからいくらでも編集可能だ。あたかも妄想世界では権力を握った神になれるかのように。編集される時間の中で注目すべきはラストの旅行のくだりである。部屋ばかりを撮影したフイルムの中で唯一、ヒトミと旅行した時のものが存在する。手をつなぎ、傘を激しく上下させれば空を飛べるだろうかと楽しそうに話す二人は過去のそれなのか、はたまた全く別で、男の幻想なのかは定かでない。しかし、これが男に小さな変化をもたらす。 この作品には3人の女性-彼女であるヒトミ、ヒトミの友達(望月志津子)、ゴマの精(立蔵葉子)-が登場する。最も近しい存在のヒトミを中間点として、男の幻想が呼び出すゴマの精とは、即身仏にならしめてくれる完全体の自己の象徴、反対にヒトミの友達は全くの他人で両極に位置する。しかし、他者とは自己に差し向けられた鏡像としてのまた自己である。するとどうか、この3人の女性は男によって仮想された3種類の自己であり、それはゴマの精を頂点として理想の階級性を表していることになる。ただし、先述したように最後に男はヒトミという最も平凡な自己へ居場所を見出し回帰する。ラストシーンでは、男と女が共に寝そべり、枕元にある小型照明具だけが点された状態で、ケンカ後の男女によく見られる仲直りの言葉を恥ずかしげもなく語り合う寝物語が語られる。結局この男にできたことは、外へ出て仕事をするでもなく、恋人と寄りを戻すという小さな小さな達成であった。しかしヒトミという存在が最も近しい自己だとすれば、そしてその近しい自己へと最後に回帰したのだとすれば、それは現状へとただ戻っただけでしかなく、男が成長したわけではない。完全なる他者が忌避される自己充足的人間の物語として落ち着く。大上段に構えた目標を掲げていたにも関わらずちょっと試して無理だと判明するとすぐに諦めて、手ごろに解決できる方へと容易にシフトする人間。前田司郎が描いたのは、この男に代表される若い世代特有の底流し、なんとなく漂い続ける人間である。 これをもってナイーブな男が抱える空洞が埋められたとは言えないだろうが、少なくとも現実を越境する視線を引き戻し、人間らしさとも言うべき会話を最後に取り戻した所に救いがある。しかし、枕照明を消した後、二人は共に死ぬのではないかと私は想像した。動物的に生きていたという証=匂いが染み付いて充満しきった蒲団で死を遂げることのエロティックさは、生と死の淡いのあやふやさを喚起させる文学的感性を看取させられる。 元々小劇場演劇とは、金銭的な貧しさ等を俳優の肉体で反転させようと目論んだpoor(持たざる演劇)なものであった。しかし、この公演の五反田団はそうではなく、poorな演劇スタイルでpoorな人間そのものを描き出した。五反田団はこれが初見なので全ては言い切れないが、『wonderland』の前田司郎のインタビューや梅山景央氏の劇評を参考にすればどうもそういうことのようだ。つい最近観た青年団の『上野動物園再々々襲撃』が、前向きな人間を描いていたのとは全く逆の人間が登場する点で、前田司郎と五反田団は極めて現在形の人間像を追及している。昨今の演劇シーンをリードする一翼であることに深く納得した次第である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Apr 11, 2009 11:00:42 PM
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