原子力安全研究グループ
引用
「チェルノブイリ原発事故の実相解明への多角的アプローチ:20年を機会とする事故被害のまとめ」(共同研究報告書) KURRI-KR-133 (2007年8月)
キエフ州ポリスケ市の終焉 ............................ ボロジーミル・ティーヒー
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/tykhyy.pdf

私の知り合いで、1986年の事故直後に30㎞圏避難範囲の決定に深く関わっていた科学者によると、ポリスケ市も避難すべきであった。しかし、除染活動などのため、様々な兵站機能に利用できるインフラを備えた町がどうしても必要であり、ポリスケ市は避難範囲から除外された。それどころか、1986年4月27日から5月5日にかけて、プリピャチ市その他の村々から2万8000人の避難民がポリスケにやってきた。
1986年また1987年~1989年にかけて汚染地域の多くの村々が避難した際にもポリスケ市の避難は実施されなかった。その替わり、大規模な除染活動が実施された。家々の屋根や壁を取り替え、汚染道路のアスファルトを敷き替え、広場や校庭には新しいアスファルトが敷きつめられた。こうした作業には予備役として徴兵された30~40歳の男性が従事し、人々は彼らを「パルチザン」と呼んでいた。こうした「除染作業」も、生活環境を安全にするには不十分であることが分かった。
1988年の秋、私がポリスケ市の一軒一軒を回りながらセシウム137による庭先の土壌汚染を測定していたとき、郡執行委員会の議長に測定結果を説明する機会があった。測定結果は明らかに基準を上回っていたが、議長は、「ここは我々の土地である、我々はここで生まれ、育ち、ここに留まる」と述べた。彼の信念が郷土愛か、危険の過小評価か、命令への忠実さか、また誰かの受け売りか、何に由来しているかは私には分からなかった。おそらくは、ソ連最高会議メンバーという彼の立場が大事だったのだろう。その立場は、権威そのものであり、大衆のことなどにまどわされなかったのだろう。
しかし議長の答えは単純で、「我々は同じ村で暮らしている。だから、みんな同じ補償を受けるんだ」というもの
だった。
汚染状況を改善しようとする多くの努力にもかかわらず、町の汚染レベルは高いままだった。町の放射能汚染に関する本当の情報が広く知られるようになり、多くの人々が被曝の危険について適切に、またしばしば誇張されて理解するようになり、町の中にフラストレーションが充満していった。とくに小さな子どもを抱える人々(ポリスケには二つの学校と三つの幼稚園があった)は、何とかして町から去ろうとしはじめた。しかしながら、町から出るには許可が必要で、そのような許可がない場合には、残して行く財産への補償を受けられず、移住先での生活はみじめなものになってしまう。
1989年12月14日ウクライナ共和国閣僚会議は、14歳以下の子供がいる家族は望めば移住が許可される、という決定を採択した。その2カ月後の1990年2月には、子供や妊婦のいる家族はポリスケから強制的に移住させることを決定した。
そして1996年7月10日、ウクライナ最高会議決議「ポリスケ郡の中心をクラシアチ村に移す件について」によって、ポリスケはその600年の歴史をとじることになった。
ポリスケ市が廃墟となってからも私は何度かそこを訪れた。その光景はまことに無惨だった。わずかな数の警官が空っぽの町への略奪者を警戒し、町周囲の森での頻繁な火事に備えて消防隊が駐在していた。ガスオーブンを備えた新築アパートや100年まえからの家々は、移住先で役立ちそうなものをすべて持ち出そうとした前居住者や、ときには略奪者によって、内部は根こそぎになっていた。移住を拒否したり、どこかから自分の意志で移り住んできた人など、数十人が町に住んでいた。彼らの生活は、週に一度町にやってくるバスショップのパンに依存していた。
警戒区域解除、ようやく墓前に 福島・楢葉町
歴史に学べ!!!
引用
「チェルノブイリ原発事故の実相解明への多角的アプローチ:20年を機会とする事故被害のまとめ」(共同研究報告書) KURRI-KR-133 (2007年8月)
キエフ州ポリスケ市の終焉 ............................ ボロジーミル・ティーヒー
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/tyt2004/tykhyy.pdf

私の知り合いで、1986年の事故直後に30㎞圏避難範囲の決定に深く関わっていた科学者によると、ポリスケ市も避難すべきであった。しかし、除染活動などのため、様々な兵站機能に利用できるインフラを備えた町がどうしても必要であり、ポリスケ市は避難範囲から除外された。それどころか、1986年4月27日から5月5日にかけて、プリピャチ市その他の村々から2万8000人の避難民がポリスケにやってきた。
1986年また1987年~1989年にかけて汚染地域の多くの村々が避難した際にもポリスケ市の避難は実施されなかった。その替わり、大規模な除染活動が実施された。家々の屋根や壁を取り替え、汚染道路のアスファルトを敷き替え、広場や校庭には新しいアスファルトが敷きつめられた。こうした作業には予備役として徴兵された30~40歳の男性が従事し、人々は彼らを「パルチザン」と呼んでいた。こうした「除染作業」も、生活環境を安全にするには不十分であることが分かった。
1988年の秋、私がポリスケ市の一軒一軒を回りながらセシウム137による庭先の土壌汚染を測定していたとき、郡執行委員会の議長に測定結果を説明する機会があった。測定結果は明らかに基準を上回っていたが、議長は、「ここは我々の土地である、我々はここで生まれ、育ち、ここに留まる」と述べた。彼の信念が郷土愛か、危険の過小評価か、命令への忠実さか、また誰かの受け売りか、何に由来しているかは私には分からなかった。おそらくは、ソ連最高会議メンバーという彼の立場が大事だったのだろう。その立場は、権威そのものであり、大衆のことなどにまどわされなかったのだろう。
しかし議長の答えは単純で、「我々は同じ村で暮らしている。だから、みんな同じ補償を受けるんだ」というもの
だった。
汚染状況を改善しようとする多くの努力にもかかわらず、町の汚染レベルは高いままだった。町の放射能汚染に関する本当の情報が広く知られるようになり、多くの人々が被曝の危険について適切に、またしばしば誇張されて理解するようになり、町の中にフラストレーションが充満していった。とくに小さな子どもを抱える人々(ポリスケには二つの学校と三つの幼稚園があった)は、何とかして町から去ろうとしはじめた。しかしながら、町から出るには許可が必要で、そのような許可がない場合には、残して行く財産への補償を受けられず、移住先での生活はみじめなものになってしまう。
1989年12月14日ウクライナ共和国閣僚会議は、14歳以下の子供がいる家族は望めば移住が許可される、という決定を採択した。その2カ月後の1990年2月には、子供や妊婦のいる家族はポリスケから強制的に移住させることを決定した。
そして1996年7月10日、ウクライナ最高会議決議「ポリスケ郡の中心をクラシアチ村に移す件について」によって、ポリスケはその600年の歴史をとじることになった。
ポリスケ市が廃墟となってからも私は何度かそこを訪れた。その光景はまことに無惨だった。わずかな数の警官が空っぽの町への略奪者を警戒し、町周囲の森での頻繁な火事に備えて消防隊が駐在していた。ガスオーブンを備えた新築アパートや100年まえからの家々は、移住先で役立ちそうなものをすべて持ち出そうとした前居住者や、ときには略奪者によって、内部は根こそぎになっていた。移住を拒否したり、どこかから自分の意志で移り住んできた人など、数十人が町に住んでいた。彼らの生活は、週に一度町にやってくるバスショップのパンに依存していた。
警戒区域解除、ようやく墓前に 福島・楢葉町
歴史に学べ!!!