「利己的なシステム」と「利己的なユーザ」:ダウンロード/アップロードの独立性・依存性を考える

P2Pは究極的にはWebに収束するんじゃないかと
P2Pソフト=アップロード機能+ダウンロード機能

上記の2つの記事を読んで思ったことをつらつらと書いてみます。

利己的なシステムというのも、なんだか間の抜けた感じですが、個人的にはWinnyやBitTorrentの設計思想というのは、システムにとって非常に利己的に作られていると思うのです。そしてそこに参加するユーザも、コストを最小にし、ベネフィットを最大にしようとする利己的な存在でもあります。という個人的な思いから、ダウンロード機能とアップロード機能の分離について考えてみます。もちろん、私の考えうるところとしては、P2Pファイル共有に限定されるわけですが。

利己的なシステム

利己的なシステムなどと言っても、利他的なシステムなんてあるのか、といわれれば、はて?といった感じですが、その利己性が何をさしているかというと、システムを維持し続けるためにユーザに負担を強制したり、一定の制約を与えるということです。つまり、より多くのコンテンツを保持し続けるためにはユーザのディスクを利用しますし、より高速に配信するためにユーザの帯域を利用する、そのために一定の制約をもうけるということです。少なくともWinnyやBitTorrentなどはそれを強制し、基本的にはそれから逃れることはできません。その意味で、アップロード機能とダウンロード機能を一体化させた利己的なシステムであると考えます。しかし、利己的といっても、そのシステムを維持することは、開発者が考えるユーザの目的を反映した設計思想に基づいたものであるので、ある意味では利己的なシステムの維持が、利他的な恩恵をもたらすよう設計されているともいえます。しかし、
「このファイルをダウンロードする。このファイルをアップロードする」というのはユーザの意思だと思うんですよね。
というユーザの意思は、アップロードに関して制限されてしまうことになります。もちろん、アップロードを自ら制御したいという意思を貫くために、ダウンロードしないというのであれば、両方が制限されるのかもしれませんが。

利己的なユーザ

一方でユーザも利己的な存在です。たとえば、ダウンロード専用のクライアントと、ダウンロード/アップロードが共存したクライアントの両方を提示されれば、多くの人は前者を選ぶでしょう。違法な利用を回避したい、帯域を利用されたくないなど、人それぞれ理由はあるでしょうが、例えそれが直接的に負担に思えなくても、コストがかからないほうを選ぶというのは、人の業といったところでしょうか。単純に、みんなが前者を選ぶのであれば、自分だけ後者を選んでもメリットはないし、みんなが後者を選ぶのであれば、自分だけ前者を選んでも(フリーライドしても)なんら問題はないとも考えられるわけです。

もちろん、全てのユーザが完全に利己的といっているわけではありません。Napster/WinMXやGnutellaなどは、ユーザが目的的に、もしくは善意でアップロードしたいと思ったものを選択的にアップロードできる機構が備わっているわけで、アップロードしたくないと思えば、そうしなくてもよいわけです。にもかかわらず、アップロードする人が少なからず存在し、それによってシステムは成り立っているわけです。

しかしシステムが成り立っていることと、それが効率的であるかどうかとは別物です。もちろん、効率とはユーザにとっての効率です。ではユーザは何を望んでいるのでしょうか。人それぞれという部分もありますが、豊富なダウンロード可能なインデックス、迅速なダウンロードの2つが主なものだと思います。付け加えるとしたら、アップロードしたいファイルの拡散もあるかもしれませんが。とりあえず、前者の2つをユーザは望み、それを効率的に得るシステムを望むわけです。

と、ここまでが前段。これを加味して、アップロード機能とダウンロード機能の分離可能性と、P2Pファイル共有の現状をざっくばらんに見てみる。

WinMXから考える

アップロード機能とダウンロード機能の分離といわれて、ふと思いついたのがWinMX。デフォルトでは共有フォルダとダウンロードフォルダは同一であり、何もいじらなければ、ダウンロード機能とアップロード機能が共存する状態だけれど、多くのユーザはそれを別にすることで、アップロード機能とダウンロード機能を分離している。もちろん、その両者がクライアントに一体化しているけれど、どちらか一方だけに利用することも可能である。

では、WinMXが上記にあげたユーザの望みに関して効率的に機能しているのだろうかと考えると、そうは思えない。WinMXにおいてはアップローダー(供給)に比してダウンローダー(需要)が過多なのである。これは人数的な問題というよりも、要求に応えられるほどのリソースがないということ。実際、WinMXを利用している人ならわかると思うけれど、Queueを入れてもダウンロード可能な枠や帯域は限られており、全ての人にダウンロードが可能なわけでもなければ、その速度も相手と並行してダウンロードしている人たちに依存してしまう。それを解決するために、FrontcodeはグループダウンロードやAFS(AutoFindSources )・AEQ(AutoEnterQueue)を導入したのだけれど、結局はそれが裏目に出て問題を深刻にしただけだった。

まぁ、それでもシステムとしては成り立っている。アップローダーはアップロードに利用される帯域を調整したり、気に入らない相手との接続を切断し、無視することもできる。もともとの実装ではないにしても、アップロード枠を0にすることで、誰彼かまわずダウンロードされるのを防ぐことも出来る。一方で気に入った相手には優先的にアップロードすることもできる。このような背景から、共有から派生した交換という文化も生まれている。

しかし、このような状況が効率的かといえば、豊富なダウンロード可能なインデックス、迅速なダウンロードの2点から考えるとそれほど効率的ではない。アップロードに貢献しないユーザと貢献するユーザの両方が枠や帯域を奪い合うことになり、効率は落ちる。もちろん、上記の事情はWinMXに特有のものであるけれど、他でも同様のことが起こりうる可能性はある。

もし、これを解決するとなれば、アップローダーの利己的な制御可能性を抑制するか、ダウンローダーの利己的なリクエストを抑制する必要がある。結局、方法は変われども、システムは利己的になる。しかも、効率を上げるというよりは、安定させるため、といったところだろうか。この点はWinMXのみならず、LimeWireなどでも考慮されており、フリーライドの定義を自ら定めることができ、さらにそのユーザへの配分も設定できる。

アップロード/ダウンロードの独立性、依存性*1

WinMXの例であげたように、ユーザの意思が効率を落とすということがある一方で、少なくともアップロードに関してその制御可能性を与えないことで効率をあげるというのが、BitTorrentの設計思想なんじゃないのかなと。ユーザが自らの制御可能性をシステムに(気づいているいないにかかわらず)譲渡することで、豊富なダウンロード可能なインデックスと迅速なダウンロードの両方を手に入れることが出来る。

一人ひとりの意思や善意に頼ってしまうことで、フリーライドの傾向が強くなり効率が落ち、ユーザの望みを達成できなくなる可能性があるけれども、一人ひとりの意思を排除することで、フリーライドを許すことなく効率を上げ、ユーザの望みを達成できるという可能性もあるのである。

そこにはユーザの選択的なアップロードの意思は介在しなくなるけれど、それによってユーザの求めるものが担保されるのであれば、利己的なシステムだっていいじゃないかと思うのですよ。ユーザもそれを許容できるのなら、それでかまわないんじゃないかと。

で、本題。

もう1つはダウンロードした人が善意でアップロードすることもあるよ、という解釈。これは善意はあるけどアップロードのために手間暇かけるほどじゃない、という人を一応想定して、なるべく簡単にアップロードできるようなソフトを作ることになるでしょう。 WinnyやBitTorrentは今は全員アップロードするのが前提みたいですけど、将来的にダウンロード専用クライアントがあって当然になるのならば、このような環境になるかもしれません。または善意でアップロードするユーザが少なすぎてネットワークが機能しなくなるか。
システムは、目的を達することを促進すると同時に、望ましくない結果を回避しようとする。もちろん、システム自身に意思などはないが、開発者の理念やユーザの意向が反映される。ネットワークが機能しなくなることはシステムとしては回避すべき自体であり、利己的にそれを回避しようとするだろう。そこで、ユーザの善意をシステムに預けてしまうという方法をとるということも、回避するための1つの手段となる。

利己的なユーザの利己性を互いに抑制しあうことが、ユーザの制御可能性を限定してしまうものではあるけれど、全体として効率が担保される。リソースを提供し、システムに貢献するという善意は、それがあろうがなかろうが全体が等しく持つことになり、それが全体に、ひいては個人のメリットに繋がる。少なくともBitTorrentはそれを実現しているように思える。もちろん、コンテンツの提供ということを考えると、その状態でも善意がシステムを支えることにはなるのだけれど。

だからといって、アップロードしたいという目的を持った人のために、アップロード専用クライアント、ダウンロード専用クライアントに分離するというのも1つの手段としては否定されるものでもないし、有意義な利用もされるだろう。でも、現在のP2Pファイル共有の現状を見る限りでは、その分離を持ち込むことが全てにおいて有意義だとも、そのような形に収束していくとも思えないんだけどなぁ。アップロードを回避するダウンロード専用のクライアントが登場してきたとしても、即座にシステムが壊滅するわけでもない。システムはそのようなクライアントを排除することも可能なのである。システムはシステムを維持しようとする限りでは利己的であってもよい。それを許容できるかできないかに、ユーザの意思が反映される。

決してWinMXがBitTorrentに劣っているというわけではないし、WinMXにはWinMXとしてのよさがある。趣味の合う仲間を見つけることができ、その仲間と語らうこともファイルをやり取りすることもできるし、チャットを開催して仲間を集めて議論することも出来る。コミュニティの機能はBitTorrent以上に優れていると思う。ただ、ダウンロードの見返りにアップロードを強いるという依存の形態が、豊富なダウンロード可能なインデックス、迅速なダウンロードという目的を達成することに関してBitTorrentは優れている、と思う。

P2Pファイル共有に限定すれば、そのシステム形成には、開発者の共有に対する思想がベースにあるわけです。BitTorrentであればより多くのユーザに、より迅速にコンテンツを供給することを第一の目的とし、WinMXは個人個人がコンテンツを持ち寄って、それぞれに共有することを第一の目的としている。ダウンロードとアップロードの独立性や依存性というのは、その思想に基づいた手段となるだけのものだと思うのだけどなぁ。

*1ユーザ間でのダウンロードとアップロードの依存性というのは当たり前の話ですが、ここではユーザ内のダウンロードとアップロードついてです。つまり、ユーザ内でのダウンロードすることとアップロードすることが独立していないということを依存関係にあると。

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