WinMXとかWinnyとか、日本ではろくな扱いを受けていないP2Pですが、海外ではけっこう真面目に議論されてるんですよというブログ。
以下の文章は、TorrentFreakの「Joss Stone: Piracy is Brilliant, Music Should be Shared」という記事の翻訳である。
原典:TorrentFreak
原題:Joss Stone: Piracy is Brilliant, Music Should be Shared
著者:Ernesto
日付:June 25, 2008
そうそうあることではないが、しばしば、アーティストはファンに自らの音楽をオンラインで共有することを奨励する。Joss Stoneもまた、そうすることを厭わないシンガーだ。事実、彼女はアルゼンチンで行われた最近のコンサートで、海賊行為は「素晴らしい」と発言している。
昨年、グラミー賞を受賞したJoss Stoneは音楽を愛する。そして、音楽産業を嫌う。最近行われたインタビューにおいて、彼女とは違い多くのアーティストが産業によって洗脳されているという。そして、ファンに彼女の音楽を共有することを勧めた。
ショーのあと、レポーターは彼女に、海賊行為や彼女の曲をダウンロードする人々についてどう思うかと質問された。その答えはレポーターを困惑させるものであった。彼女はシンプルにこう言い放ったのだ。「Greatだと思うわ。」気まずい沈黙が2,3秒流れた。おそらく、レポーターは彼女からもう少し違った反応を期待していたのだろう。「Greatとは?」レポーターは聞き返した。
「えぇ、私は大好きよ。本当に素晴らしいことだと思うの。理由をお話しましょうか?」そしてStoneはこう続ける。「音楽は共有されなきゃいけない。[…] 私が音楽で好きじゃないところは、それに結び付いたビジネス、そこだけ。今、音楽がフリーであるのなら、そこにはビジネスはない、そこには音楽だけがある。だから、私はそれが好きだし、私たちは音楽を共有すべきなのよ。」
「いいのよ。もし誰かがそれを買ってくれたとして、それを焼いて、友達と共有する、本当にクールよね。気にすることはないのよ。私の音楽を聴いてくれるのなら、どうやってそれを聴くかってことは気にしないわ。私のライブにきて、聴いて、最高の時間を過ごせたって思ってくれるなら、それはサイコーなのよ。だから、私は気にしない。彼らは聴いてくれる、それが、幸せってものよ。」
さらにStoneは、ファンに音楽のダウンロードをしないように呼びかける多くのアーティストたちはレコードレーベルによって「洗脳」されているのだろうと続ける。もちろん、実際に自らの作品が共有されることを望んでいるアーティストはStoneだけではない。昨年には、50 Centがファイル共有に対して好意的な意見を述べているし、Nine Inch Nailsはさらに踏み出して、自らの手でBitTorrentサイト上で自らの音楽をアップロードしている。
実際、アーティストが実際にファイル共有から利益を得ているという複数の研究もあり、そういった点では彼らは正しいといえるだろう。人々が音楽を共有することで、彼らはよりCDを購入するし、よりコンサートに行くのだから。
うーん、相変わらず最後の部分の表現が引っかかる。「よりCDを購入する」という主張のもとになった調査は、「ファイル共有によってより多くの音楽をダウンロードする人ほど、たくさんのCDを購入している」という相関を示しているだけで、その因果を明らかにしているものではない。どちらかといえば、これは疑似相関の可能性が高そうで、「音楽へのデマンドの高さ」が本当の変数なんだと思う。それがCDを購入することを促進し、ファイル共有を行っていた場合にはダウンロード数を増やしている、と。その他の結果を考慮して最大限好意的に解釈するにしても、「違法ファイル共有ネットワークから音楽をダウンロードしても、CD・有料音楽配信で購入しなくなるわけじゃないよ」が限界だと思うけどね。まぁ、それはそれとして。
こうした発言をJoss Stoneがするというのが興味深い。少なくとも彼女は、その音楽ビジネスにおいて成功した一人だからだ。しかし、そうしたビジネスの中で見てきたものが、あまりにも彼女の考える音楽の本質とは隔たっていたがために、こうした考え、発言に至っていたのだろう。
Ernestoがあげた「ファイル共有から利益を得ている」(日本語訳)という議論からすると、Joss Stoneや50 Cent(TechCrunchのこの記事を参考のこと)、NINは損失を被っている側になる。 しかし、Stoneや50 Centは受動的に、NINは能動的に自らの楽曲の共有を認める(もし、積極的に共有を薦めるのであれば、Creative Commonsであれ何であれ、そうした利用の許諾を明示的に与えることが最も望ましいかたちであると思う)。
おそらくそれは、そうした共有が彼らの利益に繋がると考えてのことだろう。もちろん1つには経済的な利益がある。全く利益が得られないのであれば、活動を続けていくことも、生きていくことも困難になる。しかし、少なくとも彼らにはたとえデータとしての音楽がそれほど利益を生まなくても、活動を、生活を続けられるであろうファンベースを得ている(もちろん、そうしたファンベースが存在している「だけ」で「すべてがうまくいく」わけではないということは、Trent Reznorが示してくれたところでもある)。そして、彼らの持つ熱心なファンたちにこそ、彼らの活動を支えてもらいたい、そのためにはファイル共有も有効である、という考えもあるのだろう(参考:七左衛門のメモ帳: 「千人の忠実なファン」)。もちろん、こうしたアーティストたちは1,000人どころではない熱心なファンと、そこまで熱心ではなくともペイしてくれるファンベースを有しているのも忘れてはならない。
しかし、利益といっても単に経済的な利益だけではない。Stoneの発言にもあるように、自分の音楽をより多くの人に聞いてほしい、好きになってほしいという願望が満たされることもまた、表現者としての利益であろう。また、そうした人にサポートしてもらうということも、経済的利益を生み出すということを除いても、充実感を味わえるものだと思う。
ある意味では、成功をおさめた上で、こうした発言をするというのは、経済的な利益と別の利益とのバランスを取ろうということのようにも思える。如何にそういった考えを持っているとしても、すべてのものを完全に無料することは不可能だということは理解しているだろう。たとえば、ライブを常に無料にできるか、グッズをタダで提供できるか、といえばそうではない。少なくともコストがかかるし、そういった活動を続けていくためにはその資金も必要になる。また、それにかかわる人たちの生活もある。それらが満たされてこそ、そうした活動が続けられるというものだろう。CDを売ることだって、それと同じなのだ。
しかし、現状では、一部のアーティストにとって音楽がそのサイクルを超えて、過度に拡大していると感じられる部分もあるのかもしれない。もちろん、その大半は、レーベルをはじめとするコンテンツ産業の活動の結果であるのだろう。企業であるのだから、経済的利益を最大化させることを目的とするのは当然であって、そこには感情的な充足などというものが入りこむ余地はほとんどない。また、音楽産業といっても、さまざまなプレイヤーが存在し、それらの利益はそれぞれに独立し、それぞれに利益を最大化せんとする(もちろん、利益は独立しているが、それぞれに影響し合っている部分もある。たとえば、CDがたくさん売れればテレビ、ラジオへの露出も増えるし、ライブでの集客も増える)。少なくとも、それぞれのプレイヤーが自らの利益を最大化させることは、一部弊害を生み出すことはあっても、一定のメリットを有している関係であるともいえる。
また、そういった商業活動というのは、決してリスナーにとって不利益なものではなく、そうした利益を最大化させるための活動があるからこそ、私たちの耳に音楽が届くことが可能だというところもある。Joss Stoneがグラミーを手にしたのも、彼女の実力もさることながら、そうした商業活動の結果という部分も存在する。また、現在数多くのファンを獲得できたのも、そうした活動によってより多くの人にリーチすることができたためだとも思う。経済的なインセンティブが存在するからこそ、企業はお金を出して原盤を作るし、CDや音楽配信によって流通させる。それが多くの人の聞きたがっている曲だからこそ、テレビやラジオでも放送される。より多くの経済的利益を生むだろうと予測できるからこそ、その展開の幅も大きくなる。
しかし、上述したように音楽産業といっても、それぞれのプレイヤーの利益は独立していることが多く、それぞれに好影響を与えあうこともあれば、トレードオフの関係にある部分もある。また、経済的利益を求めすぎるがあまり、アーティストの表現者としての利益を損なうこともあるだろう。頭ではそうした構造が利益に繋がっていることは理解していても、感情としてそれはどうなのかと思う、のかもしれない。創ったからには、より多くの人に聴いてほしい、接してほしいという欲求は、表現者としては当然のものである。「聴かれること」に制限をかけ、それによって利益を上げるという構造が、創作を支えている部分もあれば、制約している部分もある。
より多くの人に聴いてほしい、自らの楽曲を好きになってほしい、そのための手段としてファイル共有を認めるメジャーアーティストたちがいる。Trent Reznorのように明確な思想の下にメジャーを離れ、自らの理想を実現せんとする例は別としても、既存のメジャーレーベルにいるアーティストたちにとって、より多くの人に音楽を聴いてもらう、その効果を最大化させるためには、(個人的には)残念なことではあるが、既存のプロモーション戦略に頼るしかない。ファイル共有やユーザ間のレコメンドは、少なくとも今のところは企業によるプロモーション戦略に副次的な効果をもたらすものでしかない。もちろん、大げさに言っても、だ。
コンテンツを無料で提供したってうまくいくさ、というのは非常に簡単だし、流行りでもある。しかし、その詳細な仕組みは依然としてブラックボックスの中にあって、実際どのようなサイクルになるのかすら想像できやしない。道理は納得できる、が、実を伴っていない。
少なくとも私の実感としては、そのサイクルのために必要な「ユーザ」というピースが欠けているように思える。
もちろん、BUZZが巻き起こり、それによってあるコンテンツが浮かび上がる、そういった事例はいくつか目にしている。それが経済的利益につながるかどうかはわからないが、非常に強力な推進力を持ってはいるだろう。しかし、そうして浮かび上がってくるコンテンツは非常に数少ないものであり、そしてその推進力は一過性のものであることが多い。少なくとも全体のサイクルとして安定しているとは言い難い。
というと、アーティストにダイレクトに対価を渡すことができれば、と考える人もいるだろう。しかし、ではどうやってサポートしたいと思えるアーティストと出会うの?という疑問が浮かんでくる。特にその対象が、確固たる商業的基盤を有しているからこそ、多くの人の目に触れているようなコンテンツであるときには強く思う疑問である。もちろん、既存の音楽産業の中間搾取的な側面やそれを下支えする癒着構造が存在していることも否定はしないが、それにしたって、あなたにリーチすることができたのは、その中間搾取者と揶揄されるプレイヤーがいてこそ、という部分だってある。
「中抜きをすれば…」といっても、その「中」にいるプレイヤーは単に上前をかすめとっているだけの存在ではない。さまざまな役割があり、既存のサイクルをうまく回している存在でもある。中抜きをすることは、ネガティブな側面を排除できる代わりに、そのポジティブな側面をも失うということでもある。
Trent ReznorやRadioheadを成功例と考えられるのも、彼らがメジャーレーベルを抜けたところでメジャーアーティストであり、彼らの生み出すコンテンツがビッグコンテンツだからこそ、だろう。彼らには既に、彼ら自身に、彼らのコンテンツに一定のアテンションを集めることができるだけの基盤を有しているのである。そして、その基盤は既存の音楽産業のサポートによって作り出されたものでもある。「中抜きをすれば」は、負の側面を切り落とすことばかりを考えていては意味がないことだと考えている。「中抜き」よって失われるもの、それをどう補い、どうすればよりよい形に収束させていくことができるのか、それを第一に考えねばならない。
もちろん、音楽が自由に共有されることで、人々の生活に音楽が入り込んでいくんだ、ということも依然として感じている。おそらくそれが私の感覚として最もしっくりくるものだと思う。そして、音楽ビジネスの在り方、ひいては音楽とアーティスト、そしてリスナーの在り方、それは多様であってよいのだとも感じている。今、メインストリームにあるモデルだって、1つの在り方にすぎないし、全てをそのモデルに合わせる必要はない。Trent Reznorのように既存の音楽ビジネスモデルを背景にメジャーアーティストとなり、その後により自由な、リスナーを向いた音楽の在り方を模索するのだって素晴らしいことだと思うし、そうしたアーティストを育てうる既存のやり方だってそれほど悪いものではない、と思える。
だから、今の私の考えとしては、「既存のモデルはナンセンスだ、打ち壊せ!」ではなくて、「新しいモデルを育てよう!」なんだよね。もちろん、それがどのようなモデルなのかは未だに暗中模索にある。でもそれは、3年、5年、10年、それ以上の時間をかけて変わっていくものなのかなって思ったりもする。きっとそれは、私がボトムアップ的な変化を期待しているから、なのかもしれないけどね。10年の歳月がたって振り返ってみたときに、気づけば自分の音楽の在り方に対する感覚が全く変わっていたとしたら、なんて考えるとワクワクしちゃうのよね。
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