シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

テキパキしてない人、愛想も要領も悪い人はどこへ行ったの?

 
 

 
 この、何気ない疑問がたくさんリツイートされて、followersが200人ぐらい増えてびっくりした。反応も様々で、こちらには色々なコメントがぶら下がっている。
 
 いやしかし、本当に不思議だ。
 
 コンビニやホームセンターの店員だけじゃない。市役所の窓口の人も、福祉課の皆さんも、たいしたものだ。職業柄、若い警察官の方と話す機会も多いけれど、彼らの対応にもソツがない。えらくスムーズで、しっかりしている。
 
 似たような傾向は、建設業や製造業に従事している人にも、ある程度見受けられる。病院の内外で(特に勤続5年ぐらいの)若い人と話す限り、ネットスラングでいうコミュ障の兆候を読み取れる人にはなかなか出会わない。みんな、なかなかコミュニケーションも達者で、「ぎこちなく頑張って喋ってます」的な人や「真面目に働いているけれども超スロー」な人は稀になった。
 
 なんというか、社会の前線、職場の前線でみかける若者が、ツルツルピカピカしてみえるのだ。
 
 昔は――例えば1999年の頃はどうだったか。私の記憶だと、皆テキパキしていなかったような気がする。そしてもっと無愛想だった。医療の道に進まなかった友人知人を思い出しても、およそテキパキとせず、なかなか不器用な人達が、色々な業種に散っていった。ときに落ち込んだり挫けたりしながら、それなりに社会に溶け込んでいった。
 
 さらに昔はどうだったのか?子ども時代の記憶はあまりあてにはならない。ただ、私よりもずっと年上の男性には、テキパキせず、無愛想な、しかし働き続けてきた人が沢山いるようには思う。昭和時代のワークスタイルは、“モーレツ”だったと言われている。それは事実だったろうけど、イマドキの若年就労者のような、ツルツルピカピカした性質は求められていなかったように思う。もっと無愛想で、もっとノロくて、もっといい加減でも許されていたような……。
 
 こうした変化の背景には、人材教育の効率化といった、テクノロジーによる部分もあるのだろう。右も左も知らない人材を“使える水準に育てていく”ノウハウの進歩により、新世代の労働者の質が底上げされたとしたら――それ自体は、素晴らしいことだ。
 
 でも、本当にそれだけだろうか?
 
 実のところ、小器用に振る舞える人間、融通の利く人間、汎用性の高い人間以外が、社会から排除されているのではないか?要領の悪い人間、愛想の悪い人間が働ける場所が失われてきているのではないか?*1
 
 ほんの数十年前までは、日本社会のあちこちに要領が悪い人・無愛想な人が溢れていたはずだ。融通の利かない店員さんも沢山いた。私の周囲もそうだった。だから、いくら社員教育が充実したとはいえ、今の若い世代にだってそういう人が相当数いなければ辻褄が合わないはずなのだ。
 
 ところが現に社会の最前線に現れてくる若者達はというと、実によく働き、なかなかに器用で、愛想も悪くないときている。老人の常套句に「近頃の若者はなっていない」というのがあるが、少なくともこの点では逆だ。「近頃の若者は、不思議なほどよくできている」。
 
 インターネットのあちこちに吹き溜まっている怨嗟の声に耳を傾け、精神科の診察室で遭遇する適応障害に該当する人々の苦境をみる限り、本当は、要領の悪い人や無愛想な人、不器用な人が消えてしまったわけじゃない事はわかっている。にも関わらず、そのような人達が気持ち良く働けるポジションが社会のなかであまり見当たらないのは、とても、怖ろしいことのような気がするのだ。
 
 労働者の質が高くなり、サービスや品質が向上するのは素晴らしいことだが、そうした向上が人間の切り捨てと排除に基づいて成立しているとしたら――それは悲しいことだと思う。そういう意味では、実のところ、昭和時代の社会のほうが、現代社会よりもマシだったのかもしれない。まあ、昔には昔の悲惨があり、例えばコミュニケーション能力の一環として暴力が幅を利かせる時代でもあったわけだけど。ただ、テキパキしていない奴、愛想も要領も悪い奴でも働ける社会だった、という点では今よりもマシだった。
 
 そして、テキパキした人間、愛想や要領が良い人間ばかりが社会の表層に現れる社会とは、ゆっくりした人しか持ち得ない妙味、愛想や要領の良さとは無縁の美徳――そういったものが水面下に消えやすい社会なのだとも思う。人間の多様性という視点でみれば、それは勿体無いことかもしれない。即応性や汎用性を持ち合わせていないだけで(ほんの上澄み0.1%を除いて)切り捨てられる社会とは、可能性や進歩に開かれた社会なんだろうか?
 
 

誰がこんな社会をつくったのか?

 
 もちろん、こんな社会をつくったのは「私達」だ。
 システムと「私達」の二人三脚が、現在をつくりあげた。
 
 テキパキしてない店員は御免蒙りたい・愛想の悪い窓口対応にはクレームをつけよう・融通の利かない同僚とは働きたくない・付き合いやすい人とだけ付き合いたい――そういった私達の欲望が寄り集まり、競争社会と個人主義の流儀に基づいて具現化したことによって、社会全体を覆う淘汰圧となって私達自身に跳ね返ってきたのだろう*2。
 
 サービスを受ける側としての私達にとって、そうした変化は欲望の具現化そのものだった。そのかわり、サービスを提供する側・社会を支える側としての私達にとって、そうした変化は働くためのハードルを吊り上げるものでもあった。その高いハードルをクリアした若者だけが、社会の最前線に立ち続けることを許される。なんと過酷なことか!
 
 理想的な社会って、一体どんな社会なんでしょうね?
 
 思い描く理想像は人それぞれだろうけど、テキパキしていない人、愛想も要領も悪い人が働く場が排除されることで成立するような社会は、たとえ便利で快適でも、理想の社会と呼んではいけないように私は思う。今までのようなやり方で便利さや快適さを蒸留し続けても、今以上に息苦しい社会がやって来るだけではないか。どこかで、新しいかたちで、揺り戻しがあって欲しい。
 

*1:なかには例外もあろう。例えば医師の世界には、まだまだ無愛想な若者も混じっているようにみえる

*2:例えば、自分自身がテキパキしていない人でさえ、サービスを受ける際にはテキパキを期待するようなふしがあるわけで、ここでいう「私達」の範疇に入らない人は、世間には殆どいないと思われる