わが家の焼け跡のなかから、ひとつだけひろいあげたものがある。
小野家の表札だ。それは木製ではなく、銅で出来ており「小野佐世男」と名前が浮き彫りされていた。ほんとうは金属の光沢があったはずだが、燃え溶けた門柱の残骸のあいだで、その表札はまっ黒に焼けてすすけて落ちていた。それを母はひろった。
それは、いまも私の手もとにある。
ところで、空襲の一夜が明けて、焼け跡に母と弟といっしょに立った私だが、その後どのようにすごしたのか、まったく思い出せないのである。
常識的には、私たち母子は、近くの親戚の家に身を寄せたのではないかと思うのだが、そのことについて、私はその後、母とも弟とも話をした記憶がない。
でもたぶん、親戚の家で短期間すごしたのではないかというほか、考えようがないのは、親戚の家は空襲を受けなかったからだ。
私の家は、現在の小田急線の世田谷代田駅と、井の頭線の新代田駅のあいだに位置していた。ふたつの私鉄電車は、次の下北沢駅でいっしょになる。
そして、私の家の前の坂を南側に下ると、そこから西へ現在の環状7号線に向かう道路にぶつかる。その道を横切って反対側の坂をあがっていくと、小田急線の小さな踏切りに出る。ところが、この線路のむこう側は、空襲をまぬがれていたのだ。
坂を上らず、道を環七とは反対の東のほうに歩くと、下北沢駅に向かう小田急線の別の踏切に出あう。この踏切りのむこう側も、空襲を受けていない。つまり、線路のむこう側――北沢の方面は無傷で、私の父の姉一家の住む家は、下北沢に近い代沢小学校に歩いてすぐの場所にあったため、焼けなかった。
このあたりに、空襲にあった地域とあわなかった地域の運不運があったのはしかたがない。
けれども私の記憶には、空襲を受けたあとに欠落の期間があって、その欠落を埋めることをこれまでしていなかったことに、実はいまこれを書いていて気がつく。そして次に私が覚えているのは、貨車に乗っている自分なのである。
住む家を失った私たちは、疎開をするほかなかった。つまり、なお続くであろう空襲を逃れて、どこかアメリカ軍の空襲の対象にならないような田舎に移るのである。
どこに移るのか、母は前もって決めていたようだ。それは私の母の母(私の母方の祖母)の実家であった。
あとで知ったのだが、母はすでに貴重なものは、そこに送ってあずけていたのである。例えば、小野家に代々伝わるよろいびつ――つまり、天正15年に先祖のひとが着用したことのある本物のよろいかぶと一式を収納したずっしりと重い木の箱や、父の美術学校時代から和紙のノートに描いていた絵日記、また、従軍さきのジャワ(インドネシア)のジャカルタで父が買った高級オモチャ類やスイスの出版社から出ていた画集などである。
ジャワで買ったものは、まだ戦局が日本に利のあった時期に、東京の自宅に送られてきたものを、母が受けとっていたのだが、そうしたものがあったことも、幼児の私はなにも知らないでいた。
ともかく、いろいろ重要なものは、空襲を受ける前に、予定される疎開さきに送ってあったのだった。
そして私たちは、貨車に乗っていた。
なぜふつうの客車ではなく、貨車なのか。
戦局が悪化し、空襲下にある東京では、国鉄(現在のJR)の車両も、多くが燃えて失われていたからだ。私たちは、東京駅からか、どこの駅から乗ったのか覚えていないが、貨車のなかにいた。私たち母子三人のほかに、他の家族や人びとが乗っていた。なにもない貨車の床に、みなすわっていた。
その貨車は、何両かつながれていたはずで、機関車によって引っぱられていた。その走っていた線路は、現在でいえば埼京線の線路ではなかったかと思う。
荷車のとびらは開けっぱなしだったと記憶している。閉めたらまっくらになるからだろう。貨車にすわりながら、外の景色が流れていくのを見ていた。
動いていた荷車が、とつぜん途中で止まった。
よくわからないが、これからさきは行けない――という乗務員の説明があったように思う。
空襲があるからなのか、なぜ途中で止まるのか、よくわからない。午後3時か4時、まだ明るい時間である。ともかく、ここまでしか行けないので、みな降りてくれ、というのである。
*第12回は8/2(金)更新予定です。