2013
Aug
17
10
「消えた仁王像」の追跡 ③
第3章 追跡を終えて
『帰国して間もなく、メノー氏から約束の回答が届いた。2つの文書が添付されていた。1つは仁王像の後頭部の墨書である。そこには、仁王堂が暦応年間(1338年~1342年)の兵乱によって破損したこと、及び天文8年(1539年)に仁王像を彩色したことが書かれている。他の1つは岩屋寺文書の快円日記の抜粋である。康秀が天文8年に四天王像を造ったこと、及び仁王像を修復したことが書かれている。これら2文書について考察を試みた。
仁王像は暦応年間もしくはそれ以前に造られ、仁王堂に安置されていたが暦応年間に兵乱によって仁王堂が壊され、恐らく仁王像も破損し、以後どこかの場所に仮置きされている状態が長く続き、彩色もあせてしまったために、1539年に快円が康秀に修復を依頼したと推測される。
暦応(1338年~1342年)は、南北朝時代前半の年号であるから、更にさかのぼり十一面観音菩薩(1306年鏡信作、岩屋寺旧蔵品)と同じ時期、即ち鎌倉時代後期にさかのぼる可能性がある。なおこの考察についての所見をメノー氏にお願いしている。』
赤水氏のお蔭で、ここまで仁王像の制作時期が分かりました。
ただ赤水氏も書いておられますが、作者が誰なのか不明なのが残念だと…。
追跡を終えて分かった事をまとめておられますが、上記の事、そして昭和48年~50年頃仁王堂から何者かによって運び出され、寄り道をしながらとある場所に辿りつき、メノー氏が平成16年から交渉に入り平成19年に2年半の交渉の末取引が成立し、同年博物館に到着したことです。
色々な噂を赤水氏も聞いておられるようですが、『いずれも確証はなく真相は闇の中にある。この不明期間は、秘密裏に運搬・仮置きされたであろうと推測されるので、事件として追跡しない限りその動静を把握することは困難と思われる。』と書いておられます。
そして2m20cmもある仁王像をどうやって運び出したのか、みんな不思議におもっているのですが、このように書いてありました。
『あの巨像を山門からどのようにして運び出したのか、ミステリーと噂されたが、博物館に到着した時の荷姿を見ると、それほど不可解な作業ではないように思える。像に布を巻いて養生し、用意しておいた木枠の箱2個に納めて、これを小型トラックに載せて運搬する一連の作業は、三人の人手があれば造作ないように思われる。』
と…。そしておかしな人の手に渡るのではなく博物館にて日本美術使者として大切にされていることを見届けたこと、仁王像と対面できたことは終生忘れらない思い出となったと書いておられます。
最後に、メノー氏から木山宮司に宛てられたメッセージの末文の記載と、岩屋寺に関する資料提供をされた方々への御礼が書かれ、レポートは終了しています。
上:アムステルダム国立美術館 写真
中: 同 イラスト
下:仁王像の前で「赤水氏とメノー氏」
このレポートを送って頂き読み終えた時、何とも悔しい気持ちとここまでのレポートをまとめて下さった赤水様に尊敬と感謝の念がわきました。
どうして由緒あるお寺を守ること、仁王像他重要文化財の仏像を守ることが出来なかったのか、残念でなりません。
これはあくまでも噂ですが、この仁王像が売りに出された時、実は旧横田町だか島根県だかに1億円で買わないかと打診があったと聞きました。本当かどうかは分かりませんが…。もしそれが本当であれば、何故その時買い戻すことができなかったのか、本当に本当に残念でなりません。
しかし、赤水様も書いておられるように、日本美術紹介の使者としての役割を担っていると思うと、廃寺にあるよりはよっぽどいいのかもしれません。そして色んな教訓をこの事は教えてくれているので、今後このような事がないようにしていきたいものです。
赤水様は実は友達から新聞社への寄稿を進められていたようですが、作者不明ではニュースの価値がないので辞めたとお手紙に書いてありました。
しかし、私から見れば本当に素晴らしいレポートで、是非多くの方に知って頂きたいとの思いがありましたので、今回お願いをしてブログ掲載をさせて頂きました。
本来なら全部載せるのが読む方にとっては良いと思いますが、インターネット上に載せて残る事がよいかどうか判断が付きませんでしたので、私の拙いまとめでおおくりしました。
この度私のブログを読まれた方から、「是非読ませて欲しい」とのメールやFacebook等でも載せた事に対しての感謝の気持ちを書いて下さっている方もいます。関心が高い事に嬉しくなりました。
長年噂でしか分からなかったことをここまで調べて頂いたレポートを私にまで送って下さり、またブログへの掲載を許可頂きました赤水眞二様に、この場をお借りして御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました!!
『帰国して間もなく、メノー氏から約束の回答が届いた。2つの文書が添付されていた。1つは仁王像の後頭部の墨書である。そこには、仁王堂が暦応年間(1338年~1342年)の兵乱によって破損したこと、及び天文8年(1539年)に仁王像を彩色したことが書かれている。他の1つは岩屋寺文書の快円日記の抜粋である。康秀が天文8年に四天王像を造ったこと、及び仁王像を修復したことが書かれている。これら2文書について考察を試みた。
仁王像は暦応年間もしくはそれ以前に造られ、仁王堂に安置されていたが暦応年間に兵乱によって仁王堂が壊され、恐らく仁王像も破損し、以後どこかの場所に仮置きされている状態が長く続き、彩色もあせてしまったために、1539年に快円が康秀に修復を依頼したと推測される。
暦応(1338年~1342年)は、南北朝時代前半の年号であるから、更にさかのぼり十一面観音菩薩(1306年鏡信作、岩屋寺旧蔵品)と同じ時期、即ち鎌倉時代後期にさかのぼる可能性がある。なおこの考察についての所見をメノー氏にお願いしている。』
赤水氏のお蔭で、ここまで仁王像の制作時期が分かりました。
ただ赤水氏も書いておられますが、作者が誰なのか不明なのが残念だと…。
追跡を終えて分かった事をまとめておられますが、上記の事、そして昭和48年~50年頃仁王堂から何者かによって運び出され、寄り道をしながらとある場所に辿りつき、メノー氏が平成16年から交渉に入り平成19年に2年半の交渉の末取引が成立し、同年博物館に到着したことです。
色々な噂を赤水氏も聞いておられるようですが、『いずれも確証はなく真相は闇の中にある。この不明期間は、秘密裏に運搬・仮置きされたであろうと推測されるので、事件として追跡しない限りその動静を把握することは困難と思われる。』と書いておられます。
そして2m20cmもある仁王像をどうやって運び出したのか、みんな不思議におもっているのですが、このように書いてありました。
『あの巨像を山門からどのようにして運び出したのか、ミステリーと噂されたが、博物館に到着した時の荷姿を見ると、それほど不可解な作業ではないように思える。像に布を巻いて養生し、用意しておいた木枠の箱2個に納めて、これを小型トラックに載せて運搬する一連の作業は、三人の人手があれば造作ないように思われる。』
と…。そしておかしな人の手に渡るのではなく博物館にて日本美術使者として大切にされていることを見届けたこと、仁王像と対面できたことは終生忘れらない思い出となったと書いておられます。
最後に、メノー氏から木山宮司に宛てられたメッセージの末文の記載と、岩屋寺に関する資料提供をされた方々への御礼が書かれ、レポートは終了しています。
上:アムステルダム国立美術館 写真
中: 同 イラスト
下:仁王像の前で「赤水氏とメノー氏」
このレポートを送って頂き読み終えた時、何とも悔しい気持ちとここまでのレポートをまとめて下さった赤水様に尊敬と感謝の念がわきました。
どうして由緒あるお寺を守ること、仁王像他重要文化財の仏像を守ることが出来なかったのか、残念でなりません。
これはあくまでも噂ですが、この仁王像が売りに出された時、実は旧横田町だか島根県だかに1億円で買わないかと打診があったと聞きました。本当かどうかは分かりませんが…。もしそれが本当であれば、何故その時買い戻すことができなかったのか、本当に本当に残念でなりません。
しかし、赤水様も書いておられるように、日本美術紹介の使者としての役割を担っていると思うと、廃寺にあるよりはよっぽどいいのかもしれません。そして色んな教訓をこの事は教えてくれているので、今後このような事がないようにしていきたいものです。
赤水様は実は友達から新聞社への寄稿を進められていたようですが、作者不明ではニュースの価値がないので辞めたとお手紙に書いてありました。
しかし、私から見れば本当に素晴らしいレポートで、是非多くの方に知って頂きたいとの思いがありましたので、今回お願いをしてブログ掲載をさせて頂きました。
本来なら全部載せるのが読む方にとっては良いと思いますが、インターネット上に載せて残る事がよいかどうか判断が付きませんでしたので、私の拙いまとめでおおくりしました。
この度私のブログを読まれた方から、「是非読ませて欲しい」とのメールやFacebook等でも載せた事に対しての感謝の気持ちを書いて下さっている方もいます。関心が高い事に嬉しくなりました。
長年噂でしか分からなかったことをここまで調べて頂いたレポートを私にまで送って下さり、またブログへの掲載を許可頂きました赤水眞二様に、この場をお借りして御礼を申し上げます。
本当にありがとうございました!!