2013
Aug
16
1
「消えた仁王像」の追跡 ②
第2章 仁王像に対面
『4月11日10時半に福岡空港を離陸、同日の現地時間15時過ぎにアムステルダム国際空港に到着(約12時間の飛行、時差7時間)。アムステルダムを起点にして、オランダ、ベルギー及びルクセンブルク三国の周遊を終えて、再びアムステルダムに戻る。いよいよ仁王像に対面する4月18日を迎えた。すでに13日に初公開され、お披露目を終えている。 オープン初日の入場者数は約2万人であったという。当日も入口は長蛇の列ができるほど盛況であった。ゴシック調の博物館は荘厳でヨーロッパ有数の博物館にふさわしい威容を誇っていた。』
私もインターネット上ですが、少し『アムステルダム国立美術館』を調べてみました。1885年に建築家ピエール・カウパースによって建てられ、その後の増改築によって迷宮のようになってしまっていたものを現代に合わせた形に改修しようと2003年から閉館・解体、しかしリニューアルの設計コンペで1位を獲得したスペイン人の建築家のデザインに市民団体が猛反発、そして政府からの予算削減など、様々な問題が起こる度に工事が中断。延期につぐ延期となり、10年もの歳月をかけ、2013年4月にようやく公開にこぎつけたのだそうです。
デザインに対する反発って、美術館を貫く自転車通路の閉鎖に市民が反対したのだそうですよ!
そんなすったもんだがあった中、『アジア館の目玉』として岩屋寺の仁王像がお披露目をされたのだそうです。
対面された赤水氏は下記のように表現しておられます。
『当館で一番広い陳列ホールの入口でアジア館の責任者であるメノー・フィツキー氏が私を迎えてくれた。挨拶をそこそこに済ませ、ホールを見渡した瞬間に仁王像が目に入った。懐かしい、あの故郷の金剛力士がヨーロッパの檜舞台に堂々と立って、次々とやってくる観客に対峙しているではないか、その雄姿たるや涙が出そうになるほどの感激であった。』
そして、木山宮司からメノー氏が日本語が堪能と聞いておられたので、日本語で5つ質問したことが書いてあります。
1.仁王像を初めてみたのはいつ、どこでしたか?
2.仁王像が何年頃に岩屋寺から持ち出されたか聞いたことがありますか、また仁王堂から消えた後、辿った足取りについて聞いていることを教えてください。
3.オークションで落札したのはいつですか?また博物館に到着したのはいつですか?
4.いくらで購入したのか郷里の人は関心を持っている。差支えない範囲で話してもらいたい。
5.オランダ人、あるいはあなた自身から見て、仁王像をどのように評価していますか、どんな魅力がありますか?
1~4については、インターネット上に言葉として残すのが適当かどうか分かりませんので、この場には書かないでおきます。もし興味のある方、知りたい方は私までご連絡下さい。
5についての回答は私も興味深いものでした。
「ヨーロッパで日本美術というと、どうしても禅の世界の「静」のイメージがある。しかしパワフルで、活気のある「アート」もあることを伝えたい。表情が豊かで、とても人気がある。」
そして会話の中で、制作年代は南北朝時代(1336年~1392年)で作者は不詳という事が分かったそうです。ただ赤水氏が入手された資料から赤水氏は16世紀前半の作品で作者は運慶派の仏師・康秀(こうしゅう)だろうと思っておたれたので、疑問をメノー氏にぶつけられましたが、その説明では理解できなかったのだそうです。そしてまたメールで回答いただくという事でインタビューを終えられたと書いてあります。
最後に、ちょっと長くなりますが赤水氏の仁王像に対面し、メノー氏との会話から感じられた感想を記しておきます。
『見納めに、もう一度、仁王像の前に立ち、頭のてっぺんから足のつま先まで、つぶさに観察した。巨像の背丈は3メートルくらいあろうかと思われるが、正確には2m20cmであるという。これほど精巧、しかも力がみなぎり、憤怒の情を豊かに表現している彫像は他にはないとの信念は、些かもゆらぐことはなかった。
仁王の「仏法の守護神」としての使命は、とっくに終わっているとはいえ、美術的価値は永遠である。日本人はその芸術を売り、オランダ人は、それを買い像の魅力に心をわくわくさせているのは皮肉な結果である。しかし、30年余りの流浪の末に、ヨーロッパ有数の博物館に安住の地を得たのである。しかも仁王像をこの上なく愛しているメノー・フィツキー氏に見守られ、更に末永く守護されていくであろう、そして世界の多くの人々に感動を与え続けるであろうと思うと時、安堵の気持ちに満たされた。奥出雲の人里離れた廃寺の山門に閉じ込められているより遙かに幸せではないだろうか。あのいかめしい怒りの表情が心なしか和らいでいるように感じられ、故郷の宝を失った無念の思いが薄らいでいくようであった。末永く安らかであれと祈りつつ別れを告げた。』
このような感想で第2章は締めくくられていました。
③に続く・・・。
『4月11日10時半に福岡空港を離陸、同日の現地時間15時過ぎにアムステルダム国際空港に到着(約12時間の飛行、時差7時間)。アムステルダムを起点にして、オランダ、ベルギー及びルクセンブルク三国の周遊を終えて、再びアムステルダムに戻る。いよいよ仁王像に対面する4月18日を迎えた。すでに13日に初公開され、お披露目を終えている。 オープン初日の入場者数は約2万人であったという。当日も入口は長蛇の列ができるほど盛況であった。ゴシック調の博物館は荘厳でヨーロッパ有数の博物館にふさわしい威容を誇っていた。』
私もインターネット上ですが、少し『アムステルダム国立美術館』を調べてみました。1885年に建築家ピエール・カウパースによって建てられ、その後の増改築によって迷宮のようになってしまっていたものを現代に合わせた形に改修しようと2003年から閉館・解体、しかしリニューアルの設計コンペで1位を獲得したスペイン人の建築家のデザインに市民団体が猛反発、そして政府からの予算削減など、様々な問題が起こる度に工事が中断。延期につぐ延期となり、10年もの歳月をかけ、2013年4月にようやく公開にこぎつけたのだそうです。
デザインに対する反発って、美術館を貫く自転車通路の閉鎖に市民が反対したのだそうですよ!
そんなすったもんだがあった中、『アジア館の目玉』として岩屋寺の仁王像がお披露目をされたのだそうです。
対面された赤水氏は下記のように表現しておられます。
『当館で一番広い陳列ホールの入口でアジア館の責任者であるメノー・フィツキー氏が私を迎えてくれた。挨拶をそこそこに済ませ、ホールを見渡した瞬間に仁王像が目に入った。懐かしい、あの故郷の金剛力士がヨーロッパの檜舞台に堂々と立って、次々とやってくる観客に対峙しているではないか、その雄姿たるや涙が出そうになるほどの感激であった。』
そして、木山宮司からメノー氏が日本語が堪能と聞いておられたので、日本語で5つ質問したことが書いてあります。
1.仁王像を初めてみたのはいつ、どこでしたか?
2.仁王像が何年頃に岩屋寺から持ち出されたか聞いたことがありますか、また仁王堂から消えた後、辿った足取りについて聞いていることを教えてください。
3.オークションで落札したのはいつですか?また博物館に到着したのはいつですか?
4.いくらで購入したのか郷里の人は関心を持っている。差支えない範囲で話してもらいたい。
5.オランダ人、あるいはあなた自身から見て、仁王像をどのように評価していますか、どんな魅力がありますか?
1~4については、インターネット上に言葉として残すのが適当かどうか分かりませんので、この場には書かないでおきます。もし興味のある方、知りたい方は私までご連絡下さい。
5についての回答は私も興味深いものでした。
「ヨーロッパで日本美術というと、どうしても禅の世界の「静」のイメージがある。しかしパワフルで、活気のある「アート」もあることを伝えたい。表情が豊かで、とても人気がある。」
そして会話の中で、制作年代は南北朝時代(1336年~1392年)で作者は不詳という事が分かったそうです。ただ赤水氏が入手された資料から赤水氏は16世紀前半の作品で作者は運慶派の仏師・康秀(こうしゅう)だろうと思っておたれたので、疑問をメノー氏にぶつけられましたが、その説明では理解できなかったのだそうです。そしてまたメールで回答いただくという事でインタビューを終えられたと書いてあります。
最後に、ちょっと長くなりますが赤水氏の仁王像に対面し、メノー氏との会話から感じられた感想を記しておきます。
『見納めに、もう一度、仁王像の前に立ち、頭のてっぺんから足のつま先まで、つぶさに観察した。巨像の背丈は3メートルくらいあろうかと思われるが、正確には2m20cmであるという。これほど精巧、しかも力がみなぎり、憤怒の情を豊かに表現している彫像は他にはないとの信念は、些かもゆらぐことはなかった。
仁王の「仏法の守護神」としての使命は、とっくに終わっているとはいえ、美術的価値は永遠である。日本人はその芸術を売り、オランダ人は、それを買い像の魅力に心をわくわくさせているのは皮肉な結果である。しかし、30年余りの流浪の末に、ヨーロッパ有数の博物館に安住の地を得たのである。しかも仁王像をこの上なく愛しているメノー・フィツキー氏に見守られ、更に末永く守護されていくであろう、そして世界の多くの人々に感動を与え続けるであろうと思うと時、安堵の気持ちに満たされた。奥出雲の人里離れた廃寺の山門に閉じ込められているより遙かに幸せではないだろうか。あのいかめしい怒りの表情が心なしか和らいでいるように感じられ、故郷の宝を失った無念の思いが薄らいでいくようであった。末永く安らかであれと祈りつつ別れを告げた。』
このような感想で第2章は締めくくられていました。
③に続く・・・。