玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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輪るピングドラム第21話僕たちが選ぶ運命のドア 命の価値は?

人々それぞれに命の選択がなされた。
高倉剣山の家で暮らしている兄妹のふりをした他人を嗅ぎまわった週刊誌記者の覗木俊太郎は殺された。高倉冠葉は彼の命と高倉陽毬の安定を秤にかけて、覗木を殺す事を選択した。
「生存戦略、もう引き返せない」
高倉冠葉のやっている事は客観的には正しい事ではない。しかし、主観的には彼は陽毬を選ぶのが正しいと思ったのだろう。だって、好きだから。その愛が、人を殺す。人を殺してでも愛する事を辞められない。そんな人の美しさと醜さと悲しさを見た。だから、僕は泣けた。
冠葉の選んだ組織的殺人という選択肢は解決策としてはダメだ。だが、冠葉にはそれしか選ぶカードがなかったという事だ。他に助けやアドバイスを与える人がいなかった。冠葉に力を貸したのはKIGAの会の残党しかいなかった。悲しい事だ。


でも、選ばれた高倉陽毬は冠葉についていくと言いながら、高倉晶馬に、子供の時に妹には選ばれたけど、13歳になって、恋人としては選ばれなかった。晶馬は苹果を選んだ。
だから、ミカちゃんハウスの楽しい三兄妹の生活は終わった。
陽毬は女になった。陽毬は女として晶馬に選ばれなかった事を悟り、冠葉に女としてついていく事を選んだ。
陽毬は自分を選ばなかった晶馬や、晶馬と仲良くする苹果に恨み事を言わず、死んだ剣山と千江美の事で泣かず、まっすぐに冠葉を止めるために歩きだした。その決意は美しい。


真砂子が陽毬を拒絶せず、「ようやく自分の厚かましさが分かったのね」と憎まれ口を叩きつつも「”二人で”冠葉を止めるのよ」と言う選択をした。真砂子は冠葉を守る強固な決意のルールを自分に課している。だから、そのルールに沿っていれば、厚かましい恋敵の陽毬をこれ以上攻撃しない。そして血のつながらない二人の妹として、彼女達の兄のために戦う事にした。この恨みがましくない、潔い女たちの姿は美しい。


高倉晶馬は「陽毬を守る」と言うエゴイスティックに行動していると知った冠葉に対して「社会的倫理」の立場から反対し、抗議し、決闘した。そして、負けた。「悪い事をしてはいけない」という晶馬の漠然とした「社会的倫理」は「世界を燃やしつくすほどにエゴイスティックな愛」に敵わなかった。
冠葉は、だが、秘密を知った晶馬を殺す事は無かった。それは、冠葉と晶馬はたまたま同じ日に生まれた他人に過ぎなくても、やはり兄弟として生きてきた愛のためだろう。
冠葉が晶馬の目の前で覗木記者を殺したのに、晶馬を殺さなかったのは、やはり晶馬と陽毬の生活を守ろうと思ったからだろうか。冠葉は晶馬も愛していたんだろう。不器用だけど。その悲しさは美しい。
輪るピングドラムの小説の上巻を読んだ時に僕が感じたのは「耽美小説だな」ということだ。

輪るピングドラム 上

輪るピングドラム 上


だが、その美しい彼らは渡瀬眞悧というこの世ならざる呪われた幽霊に踊らされているだけなのかもしれない。
覗木記者は眞悧から情報を植え付けられて取材をして、冠葉に人殺しをさせるきっかけとして利用されたのかもしれない。眞悧は冠葉に企鵝の会で第二次殺戮計画をさせたいのだから、冠葉を追い詰めるために覗木を使って冠葉を人殺しに慣れさせる動機がある。
覗木も冠葉も眞悧に踊らされていたのだろう。覗木が付けていた腕時計はピングループの物で、ピングループの裏の顔はKIGAだからなあ。つながりがある疑惑は意図的に演出されている。
冠葉は夏芽家の実父に捨てられ、高倉の義理の両親のもとで他人の晶馬と陽毬を守って、両親から褒められるような立派な息子であろうとした。だが、その褒めてくれる両親は既に死んでいた。冠葉が高倉夫妻と語らっていた「荻窪の味 リナちゃん」というラーメン屋はとっくに廃墟になっていた。眞悧の見せているイリュージョンに過ぎなかったのかもしれない。
イリュージョンと過去の呪いに踊らされて、家族や妹への愛を利用されて、関係のない世界を憎まされているとしたら、冠葉は美しくないと思う。
世界を憎むなら、自分自身の理由でちゃんと憎まなければいけない。世界を知らない高校生にすぎない冠葉が、過去の思い出を利用されて、何十歳も年上の眞悧に心を歪まされて知らない世界を憎むのは子供っぽい。美しくない。

確かに、冠葉から見ると、世界は理不尽で醜い。
高倉家の生活を脅かす経済的困窮は世界の大半の奴らのせいだ。(冠葉が夏芽家の金を使わない意地は、金持ちの真砂子との血縁を考えると子供の意地の張り方みたいで、ちょっと微妙だが)
高倉夫妻を追い詰めて家に居られなくした世間のマスメディアは醜い。高倉夫妻が並んで餓死したか殺されたかした後のラーメン屋の廃墟で、死体が放置されていても、誰も気がつかなくなっている世間はつながりが薄い。誰も誰にも関心を払っていないし、愛してないって感じがする。醜い。だから一般人で、誰も愛さずに自分が生きるためだけに生きてるように見える覗木も醜い。
この輪るピングドラムという作品の世界では醜いものは価値がない。
だから、冠葉は覗木を殺した。美しい陽毬を守るために。


だが、その陽毬はそれを望んではいない。
そのすれ違いは悲しい。
その悲劇は美しい。



だけどなあ・・・。
醜い、顔の映らなかった覗木俊太郎も人間なんだよ。
彼だってゴシップ記事を使ってでも金を稼いで生きて生きたいと思っていたから、ああいう仕事をしていたんだ。悪人ではないんだ。彼だって生きていたかったんだから。


昨日のUSTこっそりピングドラム27回目で、 21話出演、覗木俊太郎役の宮下栄治さんによると
Ustream.tv: ユーザー penguindrum: こっそりピングドラム27回目, 21話出演、覗木俊太郎役の宮下栄治さんゲスト回. 視聴者参加型...
(5:00あたり)
「視聴者に改めて、主人公たちの情報を整理して伝えるための立ち位置」と言う事だったらしい。ちょっと、そういう「道具としてのキャラクター」は美しくないって思っちゃうな。そんな彼の顔を描かないっていうのも、なんだか「顔のある美しい人たちだけがドラマを動かす価値のある美しい物だ」って言ってるみたいで、ちょっと耽美主義の嫌な部分を見るような気がした。
1話使い捨て悪役のゲストキャラとして出てきた覗木の役作りについて、宮下さんが幾原監督に「どういう立ち位置で?」と質問をすると
幾原監督から

「渡部篤郎みたいな感じ」(7:30ころ)
「あえて存在感を残し過ぎない」、「悪目立ちしない」(8:10ころ)
「めだたない一般の人。あまり目立とうとか考えていないで、素で話している感じ」(9分頃)
Ustream.tv: ユーザー penguindrum: こっそりピングドラム27回目, 21話出演、覗木俊太郎役の宮下栄治さんゲスト回. 視聴者参加型...

と言う話があったそうだ。つまり、覗木は殺されても視聴者に重い悲しみを抱かせない、「目立たない一般人」として演出する意図があったと言う事。
確かに、アニメや漫画では「物語を動かすための使い捨て悪役」は必要悪なんだけど、でも、「目立たない一般人だから殺しても良い」とは思わないし、むしろレギュラーの美少年美少女達より、「目立たない一般人」こそが「きっと何者にもなれない人間」ということだろう。そういう人間を簡単に殺してしまうと言うのは、ちょっとどういうことなんだろう・・・。
テーマとして、いいのだろうか。
「陽毬の死は悲しいけど、目立たない一般人の死は悲しくない。」と言う風に描いてしまうのは、人間を描く作品としては浅いものになってしまうのではないだろうか?という疑念を僕は抱いた。僕もアラサー無職で、美しくない、何者にもなれなかったつまらない人間だからね。僕が自分を死んでいいって思うのは良いけど、僕のような無職たちを切り捨てて良しとする作品はちょっと良くないんじゃないかと思う。


だが、その「人の命への主観的な価値の付け方」つまり「愛し方」こそが人の業で、人の営みとして世界で繰り返される「仕分け」だと言う事を脇役をぞんざいに扱うことで表現しようとしているのかもしれないので、ちょっと単純に批判できない。というわけで、ここら辺の命の価値が美しさだけなのかどうかという議題はあと2回後の最終回まで保留しておく。


高倉晶馬は「一般人を殺すのもよくない」って言ってるし、苹果は姉がスーパー女の子の桃果だけど彼女自身は一般人だ。この一般人カップルがどういう価値として描かれるかに注目だ。



ゴシップ探偵の命の重さを上手く描いたのは、やっぱり寄生獣だよなー。

寄生獣(完全版)(7) (KCデラックス アフタヌーン)

寄生獣(完全版)(7) (KCデラックス アフタヌーン)

あと、富野作品。使い捨て悪役に「あの人にも家族がいただろうに」という機動戦士ガンダムや、悪役の宇宙人や異世界人の血の業を描いた伝説巨神イデオンや聖戦士ダンバインは命の価値を相対的にも描いている。
(主人公たちの主観的な命の選別も描いている。アムロは最終決戦でホワイトベースの仲間を助けるために、テレパシーで仲間を導いたが、その過程で仲間たちはジオンの兵隊を殺した。アムロは命を選んだ。イデオンのラストではそのこだわりを捨てるかどうかがカギになった。まあ、イデオンもメシアへの愛で最後はごまかしたような感じが無きにしも非ずだが・・・)

ブレンパワードは素晴らしかったなあ。

ジョジョの奇妙な冒険は人生賛歌だが3,4,5部ではスタンド使いの戦いに理不尽に巻き込まれる「一般人」は使い捨てられていた。ドラゴンボールとかもそうだよね。



今回の輪るピングドラムは初めて主人公が手を汚したという重い話なので、重い感想になった。
命の選別と言うのは、本当に難しいテーマなのです。


でも、人件費の先進国と途上国の格差とか、我々は日常的に選別を犯して生きているんだよなあ・・・。うーん。だから、僕らの手はもうすでに汚れている。だから、輪るピングドラムで冠葉が個人的事情で組織に入って手を汚したと言うことは僕から見ても他人事とは言えない。


さて、輪るピングドラムは最終的に命の価値をどういう風に描くのだろうか。美しい作品には成って欲しいけど、美しさだけを価値とする思想には成って欲しくない。
難しいね。