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少林寺にて、武僧として生きること。
3年に及ぶ撮影で目撃した超人の世界。
posted2017/01/12 11:45
text by
大串祥子Shoko Ogushi
photograph by
Shoko Ogushi
あるひとりの写真家が、イートン校の美少年、ドイツ軍の美兵士、近代五種の美選手……などをモチーフとし、写真という二者間の閉じられたダンスに長年夢中になっていました。
「美少年」というキーワードで世界を探訪し続けてきた写真家・大串祥子氏。氏の最新作品のテーマが「少林寺」。
Number Webでは、その厳しくも美しい少林寺における武道の世界を見事に写しきった大串祥子氏の個展を記念し、特別にそのレポートを公開することにしました。
“三顧の礼”で待望の撮影許可。いざ、夢の少林寺へ!
2010年9月。撮影許可申請の最初のコンタクトは、友人の紹介による共産党ルートであった。河南省政府の偉い人は、当時、一切中国語を話せなかった我(大串氏の1人称。以下同様)を丁寧にアテンドして下さった上、食事、ホテルの手配、少林寺をはじめとするあらゆる施設の入場料……すべてに招待してくださり、登封市のセレブなご友人との食事にも招待してくれた。我のためというより、我を紹介してくれた北京の友人のためにだとしても、我にはもったいないほどの手厚いもてなしだった。
偉い人が雇ってくれた通訳のおじさんは、ロープウェーで少林寺近くの山に連れて行ってくれた。地層が縦に屹立した、何億年も前の地層だという。
「少林寺の周辺には30を超える武術学校があり、たくさんの生徒が稽古にはげんでいます。ですが、本当の武術の達人は少林寺にしかいません。ところで、大串先生、お疲れでしたら、お部屋でマッサージすることもできますよ……」
通訳のおじさんの発言を華麗にスルーし、靄でかすむ山々を眺めながら、漫画『拳児』の気分で、嬉々として撮影している自分を想像した。
滞在3日目。
中国漁船が海上保安庁の船に体当たりし、尖閣諸島問題が勃発した。親切だった偉い人から笑顔が消え、重苦しい食事中、突きつけられた筆談用のナプキンにはこう書かれていた。「(第二次世界大戦で)日本人打中国人!(日本人は中国人と戦った)」。戦後の生まれで直接の責任はないとしても、それが国というものを背負うという意味である。我が返答に困って通訳のおっちゃんを横目で見ると、彼は聞こえない振りをしてご飯を食べていた。
結論からいえば、このときは撮影の許可は下りなかった。
2011年1月。2回目の許可申請。
少林寺のガイドのおじさんが言った。
「日本では『三人寄れば文殊の知恵』と言いますが、中国では『諸葛孔明の知恵』と言います。2回は訪れたのだから、次は許可が下りますよ。三顧の礼」
結局、2回目も許可は下りなかったのだが、3回目に期待が持てる成果は得ることができた。
その後、北京在住のある友人の紹介で、少林寺を撮ったことのある写真家の先生が、少林寺の書物を多数執筆されている老師を紹介してくださることとなり、2011年4月、待望の撮影許可が下りた。
浦島太郎は竜宮城で時を忘れ、かぐや姫は天の羽衣を着るとこの世を忘れた。尖閣諸島問題、東日本大震災……浮世の悲しみを、少林寺はすべて忘れさせてくれた。