頼むから裸はやめてと言ったから明治維新は着衣記念日

『刺青とヌードの美術史 江戸から近代へ』を読みました。これは個人的に大ヒットでした。面白い。



序章でいきなり打ちのめされた。

 私はかつて裸で歩き回るのが好きだった。(中略)しかし、上半身だけ裸になって新宿の繁華街を自転車で走っていたところ、誰かが通報したのか、パトカーに追いかけられて呼び止められ、警官に取り調べられたことがある。下半身は黄色っぽいズボンをはいていたのだが、遠目には何も身につけていないように見えたらしい。
 また、一時は裸足で外を歩くことに凝り、裸足で電車に乗ったり大学に行ったりしたものだが、美術館に行ったとき、警備員がスリッパを持ってやってきて、無理に履かされたことがある。建物に入ったら靴を脱がねばならないというのならわかるが、裸足で入ったことが咎められるのはおかしいのではないかと思った。(中略)このころから、なぜ人間の本来の姿である裸や裸足で外に出るのがいけないことになってしまったのかについて考えるようになったのである。


こんな素晴らしい人が書いた本がつまらないはずがない!と思って読み始めたが予想通り面白かった。ちなみに著者の宮下規久朗さんは、すぐに裸になったり、裸のことばかり考えている裸の専門家ではなく、神戸大学で准教授をされている美術史の研究者だという。


この本では、裸体と裸体芸術(絵画、写真、生人形、刺青など)の歴史的変遷を追い、現代社会のヌードのあり方や日本人の裸体観についても考察したものである。目次は以下のようになっている

目次
序章  ヌード大国・日本を問い直す
第一章 ヌードと裸体ー二つの異なる美の基準
第二章 幕末に花開く裸体芸術
第三章 裸体芸術の辿った困難な道
第四章 裸体への視線ー自然な裸体から性的身体へ
第五章 美術としての刺青
終章  裸体のゆくえ


この本はタイトルにもあるように美術史を扱っているので、芸術としての裸体と言う部分がもちろん面白いのですが、個人的には日本の裸体習俗についての話が興味深かったので、そのあたりを書いてみたいと思います。


まず近代以前において、日本は「裸の楽園」であった。江戸の庶民が上半身裸で労働していることは当たり前であったし、女性は人前で乳飲み子に乳を与えていた。幕末に日本を訪れた外国人は一様に、裸体が街頭にあふれていることに衝撃を受けている。とくに外国人が驚いたのは、混浴の公衆浴場で、男女が全裸になり風呂に入る光景は外国人にとってはまさにアンビリーバボーだったようだ。呼ばれてもないのに黒いイカした船で幕末日本にやって来たペリー総督なども、この混浴の習慣に不快感を示していたという*1。


そして明治になると、こうした西洋からの軽蔑のまなざしを意識した政府が裸体を統制しにかかる。明治初期に裸体を禁止する法律が次々に制定される。明治といえば「富国強兵(ふこくきようへい)」と思われているが、実態は「服着ようぜい(ふくきようぜい)」ということだったようだ*2。男女混浴や刺青もこの時期に禁止される。


ところが、一般の庶民にしてみれば、こんな窮屈で理不尽な強制はないわけで、例えば明治六年に京都で起きた大規模な新政府反対一揆では、「徴兵や学費徴収への反対と並んで、「裸体宥免之事」が掲げられてという」。「わすたちを裸にさせろー」というわけだ。草なぎ君の裸体主義の思想的源流に触れた思いがする*3。政府のほうでも取り締まりが大変で、「風呂屋から走り出た裸体の児童を警官が追いかけて殴り殺してしまうといった極端な悲劇もあったという(p. 94)」。


このように近代以前の日本が「裸体の楽園」であったという話は、私自身以前にも耳にしたことがあったのですが、こうした裸があり触れた状況と、そういう状況で人々がどういう感情を抱きながら生活していたのかというのがどうしても想像がつかないでいました。それあたりのことがこの本の第四章に出ていたので、個人的にはここが一番面白かったです。


第四章では、日本と欧米との裸体観の違いが強調されます。「衣服を脱いだ裸体は、西洋においてはそれだけで性欲を換気し、性的視点の対象となる「性的身体」であったが、近代以前の日本にはそういう視点は存在しなかった(p. 121)」というのだ。


そして、ここが面白くもありやや複雑なのだが、当時の日本の社会においては裸体はありふれていたものの、それをじっと見るという行為は不作用でみっともない行為とみなされたという。

p. 125-6

 羞恥心の歴史について分析したハンス・ペーター・デュルによれば、日本の社会において、裸体は見えているのに見てはいけないものであった。日常的に見る機会は多いものの、それはじっと見てはいけないものだったのである。


ところが、日本を訪れた西洋人が物珍しさから浴場に出かけていき、女性たちの裸体をしげしげと眺めた。こうした野卑な視線によって、初めて「日本人も裸となることは羞恥心を伴うようになり、自然であった裸体が性的身体に変容してしまった(p. 129)」というのだ。そして明治政府が裸体を禁止したことで、体が隠されることによって逆に裸体が性的なものと認識されるようになり、新たな性的欲望を産出する結果となったと説明されている。


ありふれているが見てはいけないものとしての裸体。そして裸体禁止令によって裸体が隠されることによって生じるエロス。ここでの分析は非常にスリリングで面白かった。


しかし、気になる点もあった。そもそも、裸体が「性的身体」として存在していなかったのであれば、なぜそれを凝視することが禁じられていたのか? このあたりについては本書では次のような記述がある。

 そもそも日本人は元来、会話するときも目線の接触を嫌い、対面のときは目を伏せるのが普通であった。(中略)
 長く見つめられたり凝視されたりすると「恥」が生まれ、とくに公衆浴場や温泉でそれが起これば、その羞恥心はずっとひどくなったとデュルは分析している。


しかし、凝視されると恥が生まれるということは、少なくとも自意識としては裸体が性的身体として存在していたということにはならないのだろうか。そしてそもそも、目線の接触を嫌うという心性自体が、性的なものとなんらかの関係があるのではないか、そういうような気がしないでもない。つまり裸体云々を超えて、視線自体が性的欲望と結びつくような心理が存在し、それゆえに視線の接触が必死に回避されるというようなエロスの有り様である*4。このあたりについてはもう少し突っ込んだ議論があれば個人的には嬉しかったが、いずれにしても、「ありふれているのに見ることは禁止される」という状況は非常にややこしくて面白いと思った。


本書では、こうした日本人の裸体習俗や裸体に対する視線のありようが、裸体芸術の成立といかなる関係を持ったのかが綿密に描かれている*5。また、今回は紹介できなかったが、刺青について語られる第五章も、小泉元首相の祖父又次郎が全身に刺青を入れていて「いれずみ大臣」と呼ばれていたことや、明治期に皇太子時代のイギリスのジョージ五世が来日した際に刺青を入れてもらい各国の王室で刺青ブームが起きた話など、知らないことばかりで非常に面白かった。とにかくお得な一冊だと思います。しつこいですが、ポプラ社なら軽く100万部いってたと思いますね。頑張ってNHK出版!


ちなみに、刺青については『日本の刺青と英国王室』という本が出ているようですね。成毛真さんのブログでも紹介されていました
 →http://d.hatena.ne.jp/founder/20101227/1293408968

*1:勝手に来といてそれはないぞ!

*2:この部分はもちろん私が勝手に言っているだけです。

*3:草なぎ君というのは八王子駅前の中華料理屋でバイトしている架空の若者で、実在の人物・団体とはいっさい関係がありません

*4:なんでも性と結びつけるフロイト・メソッド

*5:そこを紹介しろ!