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ニュースの現場で考えること

どう考えても、ネットで言論はフラットにならない

溜まった資料を読んでいたら、眠れなくなってしまった。日本はもう、朝の9時だ。眠れず、資料も読み飽き、で、再び、「ネット言論がフラットである」という意見について、今晩もつらつらと考えていた。「ネット言論はフラットだ」という話は、私の理解度が浅いこともあるだろうが、この概念は抽象的で、なかなか分かりにくい。

それでも、私なりにまとめると、こういうことだろうか。「これまでは既存マスメディアを軸とした「絶対的正義」の言論が支配的だったが、簡便に情報発信できる『ネット』『ブログ』等を誰もが手にすることができる現代・将来においては、かつての絶対的正義は相対化され、その権威は崩れ、やがて言論界はフラットになっていく」

既存メディアに対する評価については、私もそう思う。種々の例外はあるとはいえ、既存メディアが、絶対的正義を振りかざしていた部分は相当にある。たぶん、それは病的ですらある(もっとも以前に何度も書いたように、既存メディアの病気は、そもそもはネットと無関係に発症した。ネットの発達が病気の進行を早めてはいるが)。


だけれども、「言論のフラット派」(と名付けてみた)の言うように、ネットが発達し、だれもが自由に情報を発信できるようになったとしても、それによって「情報の所有度」までもがフラットになるわけではない。だいたい、「格差社会」などと言われ、種々の社会的格差が拡大する現在においては、情報を持つ者と持たぬ者の格差もどんどん広がっていく。情報を持つ者と持たざる者の「情報発信力」は、最初から格段の差があるし、パソコンとネットを少々手にしたところで、それが解消されるわけではない。





「意見」や「批評」「評論:は自由に発信でき、「議論」は自由に交わせる。今までなら縁もなかったような人々同士が、縦横に結びついて議論ができる(かもしれない)。しかし、議論や意見の土台となる「情報の質と量」は、以前と同じく、「持つ者」から「持たざる者」へと流れてくる。そりゃそうだ。膨大なマンパワーと資金によって、情報をかき集めてくる大会社や官庁・捜査当局等の情報量と、個人や地域の民間団体等とでは、今は土俵が違いすぎる。そこに最大の問題が横たわっているように思うのだけれど、「言論フラット化」の主張の中では、その部分はすっぽりとスルーされていているように思える。

ネットには大いなる可能性がある。「双方向」「即時性」という部分においては、媒体としての新聞紙など太刀打ちできない。「既存メディアVSブログ」といった問題設定は、ツールと中身がごちゃごちゃになり、好ましくないと感じているが、ここ1-2年の間に流行したこういう狭い見方を超えたところで、ネットはさらに力を発揮する可能性が多分にある。

だがしかし、そういった大いなる可能性と同時に、現在は、ネットに対して大いになる錯覚もあるように思う。その一つが「言論のフラット化」ではないかと感じている。

私自身はこのブログを始めて1年半と少しになる。途中、ずいぶんサボって、なかなか更新しないときもあった。なぜなら、ブログを継続するには、相当の根気と精力が必要だからだ。たぶん、世の中の多くの人は、みんな忙しい。「ネット言論界」をこまめにチェックし、それぞれを読み、さらに自分の意見を書き、そして継続して・・・という人はそう多くあるまい。将来的には、ブログは(あるいはそれと似た技術は)さらに拡大するだろうけれども、そういう「日々の忙しさ」の前では、継続は相当にたいへんだ。

「言論のフラット化」という言葉は聞こえがいい。だがそれは、社会格差・情報格差が少なくなり、人々の忙しさもある程度平準化され、一定程度の人が「継続」に苦痛を感じなくなるような「ゆとり」ができてからのことではないか。あるいは、ネットにおいて、意見をぶつけるしかなくなるほど、多くの人々が何かに追い込まれたときかもしれないが。

ネットで言論がフラットになる? ならない。それはたぶん、ネットに没頭できる環境に身を置いた方々が語る幻想だろうと思う。少なくとも今は。
by masayuki_100 | 2006-09-05 10:31 | ★ ロンドンから ★