なぜ帰宅難民2000人を無料収容したのか −帝国ホテル
■6年前からの備えが当日に生きた
東日本大震災が起きた11年3月11日、金曜日。震度5の揺れがあった東京では交通網が完全にマヒ状態となり、街は約10万人の「帰宅難民」で溢れ返った。タクシーはつかまらず、道路は大渋滞。営業中の店は少なく、あっても満席で入れない。大多数の人はトイレや空腹、寒さを我慢しながら歩き続けるしかなかった。
その夜、行き場をなくした2000人の人々のためにロビーや宴会場を開放したばかりか、毛布やペットボトルの水、保存食などを無料で提供したのが日比谷の帝国ホテル東京である。当日、陣頭指揮を執ったチーフデューティマネージャー(デューティマネージャーとは、ホテル全般の苦情対応責任者。総支配人の代行を務める役職)の山本一郎は、「たまたま運がよかっただけです」と温和な笑顔で語る。
「運がよかった」というのは、まず地震による被害がほとんどなかったこと。建物の損壊は客室の壁の一部に亀裂が入った程度で、電気やガス、水道などのインフラには支障なし。これがもし、火災が起きたり天井が落ちて怪我人が出たりしていたら、逆にホテルの外へ避難してもらわなければならなかっただろう。
さらにちょうど「帝国ホテル創立120周年感謝の集い」が開催されていたため、いつもは外回りをしている50〜60人の営業マンが接遇のためにホテル内にいて、人手があったことも幸運だった。
しかし毛布はまだしも、2000人分の水や保存食などは、日頃の備えがなければとっさに出てくるはずがない。帝国ホテルでは、2005年から事業継続計画(BCP)の一環として、大規模災害に見舞われた際の対策マニュアルづくりに取り組んでいた。現場の意見を取り入れるのはもちろん、阪神淡路大震災を経験したホテルオークラ神戸、神戸ポートピアホテル、ニューオータニ神戸などを訪問してヒアリングをしている。
当時は阪神淡路大震災からちょうど10年が経とうとしていた頃。大災害に遭遇した経験を持つホテルマンがいるうちに詳しい話を聞いておこうと考えた。さらに神戸にある「人と防災未来センター」という施設で学んだことも取り入れ、震災対策マニュアルを作成。そのプロジェクトに参加していたのが、広報課長の小松崎宇弘だ。マニュアルづくりにあたっては、社長の小林哲也をはじめとする経営陣に「もっと具体的に」と叱られながら表現を練っていったという。
「たとえば『迅速に行動する』という表現では抽象的すぎる。誰がどうするかまで具体的に書かねば、非常時に使いものにならない。『A非常階段の扉を開ける』と書いたなら、それは誰が開けにいくのかというような細部まできちんと詰めておくことが求められました」
マニュアルが完成したのは約2年前。その前からも定期的に防災訓練を続けている。24時間・年中無休のホテル業では全館一斉に訓練を行うことは難しいが、年2回は大がかりな自衛消防訓練を行い、そのほかにも年5〜6回、職場単位の訓練がある。
ホテルを利用する立場からはなかなか見えにくいが、ホテル業は「顧客の命を預かる」という重大な責任を負う仕事である。お客の安全・安心はホテル側が最も経費をかけ、重視する点だ。何ごともなくて当たり前。何かあってはならない。
「たとえば帝国ホテルの客室の家具は、すべて角が丸くなっています。暗闇の中でお客様が歩き回っても、ぶつかって怪我をしないように」と小松崎はいう。これらすべての備えが、あの3月11日に生きた。
■「困っている人がいると、お助けしたくなる」
午後2時46分の地震発生からわずか4分後の2時50分には、総支配人を責任者とした現場指揮所を1階ロビーのフロント裏に設置。館内放送で従業員に対して状況確認を命じる。安全確認後は、お客に向けて「余震があるので、次の放送があるまでその場で待機してください」と英語と日本語の両方で指示した。地震発生から14分後の3時には社長を本部長とした災害対策本部を設置し、3時30分にはホームページで「ホテル内での怪我人なし」と発表している。
ロビーに続々と人が集まってきたのはその頃からだった。予約客がチェックインしようとしてもエレベーターが停止したままなので、ロビーで待っていてもらうしかない。その一方で、上階にいた人々は不安を感じて非常階段を使って下りてくる。予定されていた宴席の招待客も、単なる通りすがりの人々も入ってくる。そんな中、山本はロビーで立ちつくす人々のために椅子を200脚用意し、タオルと氷の入った水を提供した。
「この日だけ、特別にそうしたというわけではないんです。たまに何らかの理由でエレベーターが止まることがあるのですが、そんなときはいつも復旧までそうしていたので、この日も同じようにしただけ」
帰宅難民に対してロビーを開放したのも、自然な流れだったと山本は振り返る。
「私がそうしようと決めて宣言したというより、スタッフが、『椅子をご用意しますか?』『お水をお配りしますか?』と聞いてくる。その都度『はい、お願いします』と許可していきました」
その後は無我夢中だった。ホテルはほぼ通常どおり営業を続けるかたわら、情報を求める人々のためにテレビを見やすい場所に設置し、電車の運行状況など新しい情報が入るたびに拡声器で案内するなどの対応を続けた。
日が暮れて気温が下がってくると、ロビーはおろか、地下のショッピングアーケードから2階の宴会場まで、人で埋め尽くされた。JRが止まったままの中、私鉄や地下鉄は順次運行を再開していたが、「いつ止まるかわからない電車に乗るより、ここで一夜を明かしたほうが安全」と判断した人が多かったのだろう。絨毯敷きの床で毛布にくるまってごろ寝する人たちの数は、ピーク時には2000人を数えた。
道路の渋滞のため到着が遅れ、最後の宿泊客のチェックインが済んだのが明け方の4時。ハイになっていたせいで眠気を感じなかったという山本も、1時間ほど仮眠を取った。自宅に帰れなかったのは、ホテルのスタッフも同じだった。
翌朝6時30分には水とパンを再度配布したほか、宴会場で温かい野菜スープを振る舞った。7時すぎにJRが運行を一部再開。午前11時頃ロビーにいた帰宅困難者が全員いなくなったとき、ようやく山本は胸をなで下ろした。
だが話はそれだけでは終わらない。ロビーで一夜を明かした人々から、お礼の電話や手紙がひっきりなしに届き出したのである。
「われわれとしては当たり前のことをしただけ。お手紙をいただくなんて、恐縮してしまって」と山本は語る。どの手紙にも、感謝の言葉が切々と綴られていた。
いわく、“寒かったから室内にいられるだけでもありがたかったのに、お水や食料まで差し入れしてもらった”“近隣の外資系ホテルではドアを開けてもくれなかったのに、毛布を貸してくれたばかりか、毛布の数が足りなくなったら大判のバスタオルを出してきてくれた”“携帯電話の電池が切れて途方に暮れていたとき、フロントで充電してくれたおかげで家族と連絡が取れた”……。
2000人の中には、ホテルとは無関係な、いわば通りすがりの人々も多かったはずである。にもかかわらず、分け隔てなく水や保存食を提供した。
実は帝国ホテルでは1923年の関東大震災のときも、避難してきた人々におにぎりなどの食料を提供している。山本にこのエピソードについて聞いてみると、「そういうDNAがあるわけではないんですが……」と謙遜しつつこう言った。
「困っているお客様がいれば、どうしてもお助けしたくなってしまう。なんとかしてお客様のお役に立ちたいというホテルマンの使命感は受け継がれているかもしれません」
(文中敬称略)
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1956年、東京都生まれ。80年学習院大学卒業後、帝国ホテル入社。宿泊部、営業部、帝国ホテル大阪営業部等を経て、2008年より宿泊部次長兼接遇課長。デューティマネージャーは30年以上の経験を求められる職務という。
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(長山清子=文 市来朋久=撮影 帝国ホテル=写真提供)