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2004年 09月 22日
『内なる目』 ― 意識の進化論
ニコラス・ハンフリー (著) 垂水 雄二(訳) 紀伊国屋書店 訳者あとがき から抜粋 進化論が最終的に人間の精神あるいは意識の進化までをも説明するものであり、また説明できなければならないことは、ダーウィンの進化論の発表直後から暗黙の前提になっていた。また、それだからこそ激しい反発も受けたのである。 ハンフリーは、類人猿からヒトへの飛躍の鍵が単なる知能の発達にではなく、自己意識、すなわち自分がどう感じているかを意識する能力にあったと考える。 人類が社会的存在として生き残るためには、他人がどうしようと思っているか、どう感じているかを推測する能力が不可欠である。ハンフリーのキーワード「天性の心理学者」はこのことを指している。そこで、天性の心理学者にどうすればなれるのか、いかにして他人の考えや感情を類推することができるのか、他人の心をのぞき込む目はどこにあるのか、ということが問題になる。これが、ほかでもない、自分の心をのぞき込む「心の目」、すなわち自己意識である。人間はなによりもまず、自己意識を持つ動物であり、その自己意識をモデルにすることによって他人の意識を類推できるようになるのだという。 本文から P10 動物行動学者は、何よりもまず行動を自然の野生の状態で研究する。そして、心や脳を、単にたまたまそこにあるだけの複雑な機械の部品として見るのではなく、特定の動物が置かれた環境における特定の要求を満たすように長い自然淘汰の歴史を通じて適応してきた生存のために器官として見るのである。 P10 私は、テレビの視聴者たちが「科学番組」において真実が語られることを期待していると、告げられたのだ。それに対して、いくつかの領域においては、何が真実であるかはまったく確信がもてないと述べ、そのうえさらに、あるものの見方が他の見方に比べて「より解る」ということだけであるかぎり、真理が何であるかということがそもそも問題になるかどうかさえ確信がもてないと、異議を唱えたとき、皆は混乱に陥った。 P11 意識は数多くの目的に役立っている――あるいは、まったく何の役にも立っていない――だろうと主張されてきた。しかし、進化的な観点から見て、私は、「内なる目」をもつことは何よりもまず、一つの目的に役立ったと推測する。すなわち、私たち人類の祖先が社会生活を新たなレヴェルに上昇させることを可能にしたのだ。人間の意識の最初の効用はそれぞれの人が、人間であることがどのような感じをともなうものであるかを理解し、自分自身や他人の内側からの理解を可能にすることだった。 P40 人間の心も自然の一部である。私たちはこう問わなければならない。すなわち、心は何のためにあるのか。なぜ心はほかの形ではなくこういう形で進化してきたのか? P60 「別の人間であることがどういうものであるかを私は知っている」と言うとき、私たちは奇妙で神秘的な主張をしているのだ。なぜなら、私たちは実質的に、科学としての心理学がこれまで提供したいかなるものよりもはるかに優れた人間の脳に関する理解を自分たちがもっていると言っていることになるからだ。 P62 意識という言葉によって私が意味するのは、私たちが自らをどのようなものとして思い描いているか、その内なる像、つまり自己認識のことである。私たちの一人一人に「自我」と呼ばれる心(自己、魂……)が存在することを言っているのだ。思考のほか、感情、感覚、記憶、願望を持つものが「自我」である。私自身の存在と、自らの時間的な連続性を意識しているのが「自我」である。要するに、「自我」こそまさに人間であることの本質なのだ。 P63 意識は何をしているのだろう? それは、私たちの人生の何かにどんな差異をもたらすのだろうか。 P72 意識は、知覚にとって不可欠ではないと思われる。動物だけではなく人間も、意識なしに活動することができるのであり、そのことは、途方もなく幅広い可能性を切り開く。なぜなら、もし私たちが、付随するいかなる感覚をも意識することなしに知覚できるのなら、どうして、自分の思いを意識することもなく考え、自分の意図を意識することなく行動できないはずが(あるだろうか)、あるいは、自分が存在するという感じをどんな現実の感覚としてももつこともなしに自分でありつづけることさえできないはずがあるだろうか。 P73 もし人類が時折、いわは、「自動操縦」の状態に入るのだとすれば、もし行動の大部分が、そして原理的にはその行動のすべてが、無意識のうちに起こっているのだとすれば、意識がおこなっているのは何なのだろうか? P76 人間で知られている意識が、実際には自然的な進化の産物と仮定(まさに仮定)してみようではないか。自分自身の内部をのぞき込み、自分自身の心の動きを調べる私たちの能力が、直立歩行や外界の知覚と同じように、人間の生物学的機能の一部であると仮定してみよう。昔ある時、それをすることのできない動物(おそらくは私たちの祖先だった)がいた。彼がそれをすることのできる子孫を生み出した。なぜ、これらの意識を持った子孫は、進化の過程の中で自然淘汰を生き残ったのだろう? ダーウィン自身の自然淘汰の理論が通用する限り、答えは一つありうるが、たった一つでしかない。それはこうだ。他のあらゆる天性の能力や身体構造と同じように、意識は、それを保有する動物にある種の生物学的な利益を授けるがゆえに、この世に存在するようになったに違いない。彼らの生活のいくつかの特定の領域では、意識を持つ人間は、意識をもたない祖先ができなかったことができたに違いない。同じ種の他のメンバーとの競争において生き残る確率をはっきりと高めるような何かを、そして、それによって、意識をもたらす原因となる遺伝的な特性を次の世代に送り伝えていったのである。 P78 もし、意識がそもそも何かに対する回答であるとするなら、それは人類(おそらく人類だけ)が遭遇しなければならなかった生物学的な試練に対する回答であったに違いない。その試練は、他の人間の行動を理解し、反応し、操作しなければならないという人間の必要性の中に横たわっていたのではなかろうか? 私たちが同じ人間の行動を観察するとき、それを単なる偶然の出来事のモザイクと見なすことは、皆無とはいえないまでも、めったにない。つまり私たちは、その背後により深い原因となる構造(計画、意図、情動、記憶、その他の隠れた部分)を見るのであり、私たちが彼らのしていることを理解できるといえるのは、この根拠に基づいてのことなのだ。言い換えれば、私たちは、人間の心についての一つの像、一種の概念モデルをもっており、それなくしては、私たちは天性の心理学者ではありえないのだ。 しかし問題は、そのようなモデルがどこから来るかということだ。 P86 哲学者トマス・ホッブズは、この原理をきわめて明快に述べている。 「一人の人間の思考と情熱が他の人間の思考と情熱によく似ていると仮定すれば、自らをのぞき込み、自分が考え、思い、推論し、期待し、恐れる等々をなすときには、何を、いかなる証拠に基づいてなすかを考慮するものは誰であれ、それをより所として、同じような事態における他のあらゆる人間の思考と情熱がどうであるかを読み取り、知ることだろう。」 P88 もちろん、一定の差異が存在するであろうことはつねに予測しておくべきだ。(・・・ 略 ・・・) 一人の人間が別の人間と厳密に同じであると(内面あるいは外面において)期待することはできない。 P90 他者に当てはめるためのモデルとして自らを使うというこのトリックは、人類に非常によく役立つものとなっている(そしてこれまでもつねに役立ってきた)ほどなのだ。つまり、常識としてあるいは科学として知られている他のいかなる心理学の実践法よりも実際に優れているのである。 進化的な見方からすれば、それは巨大な飛躍だったに違いない。競争相手たちの内面生活について現実性のある推量を行なえる能力を発達させた最初の人類の祖先が手に入れた生物学的な恩恵を想像してもみよ。他人が何を考え、次にどうしようと計画しているかを思い描くことができ、自分自身の心を読むことによって他人の心を読むことができる。共感、同情、信頼、反逆、裏切り(まさに私たちを人間たらしめている要件)といった、人間の社会的関係における新たな協定への道が切り開かれたのだ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ この理論は仮説的な説明であり、ツジツマの合った、かなり説得力のあるうまい議論であるけれども、それは(科学的に)検証されておらず、検証されることを予定しておらず、また検証の見込みのあるものでもないと思われる。 したがって、これを前提とした議論を思弁的に展開するのはどうかとも思われるが、ちょっとやってみたくなる。 社会生活に役立つよう、他者の内面を推測するための道具として自己意識が発生したのだとすれば、自己意識はそのために役立たせるということが肝要なのであって、自己意識それ自体を問題にするのは、進化的には道具の誤用、あるいは流用ということにはならないだろうか。 「自分はどこから来たのか。自分とは何か。自分はどこに行くのか。」などという問いを発するのは、自己意識の本来の役割を離れ、生物進化の本流から外れた、いわば袋小路に突き進む道とは考えられないんだろうか。 ➡️ 追記3: 「自由意志と責任ある主体」という虚構
by nbsakurai
| 2004-09-22 14:29
| エリア6 (生物学的発想)
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