ネアンデルタール人が歯石予防用の歯磨き粉を使っていなかったのは幸いだった。
歯垢が石灰化した歯石は、私たちにとっては厄介者だが、人類の進化の過程を研究する微生物学者にとっては宝の山である。ベルギーとスペインで発見された3体のネアンデルタール人の化石に付着していた歯石から研究者たちが動物と植物と細菌のDNAを抽出し、その分析結果を3月8日に科学誌『ネイチャー』オンライン版にて発表した。論文によると、彼らが食べていた動物や植物のDNAのほかに微生物のDNAも含まれていて、彼らがどのように暮らし、どのような病気になっていたかについて、驚くほど多くの情報が明らかになった。(参考記事:「ネアンデルタール人絶滅の謎」)
ベルギーのネアンデルタール人の歯石からは、野生のヒツジと1万年ほど前に絶滅したケブカサイのDNAが確認され、食生活が肉に偏っていたことが示された。一方、スペインのネアンデルタール人は、主としてコケ、松の実、キノコなど菜食中心だった。(参考記事:「農耕以前から人類は炭水化物をたくさん食べていた」)
さらに興味深いのは微生物だろう。オーストラリア、アデレード大学の微生物学者ローラ・ウェイリッチ氏が率いる研究チームは、ネアンデルタール人の歯石のマイクロバイオーム(ある環境にいる微生物のまとまり)からDNAを抽出した。
「マイクロバイオームを調べることで、ネアンデルタール人が日常生活の中でどんなものに触れていたかが分かります。どのような病気になり、どのような薬で治療していたかもです」とウェイリッチ氏。(参考記事:「ネアンデルタール人の謎のストーンサークル発見」)
例えば、スペインのエル・シドロン洞窟で暮らしていたネアンデルタール人は厄介な細菌のせいでつらい思いをしていたらしく、治療に植物を使っていた可能性がある。
この個体からはMethanobrevibacter oralisという古細菌の亜種が見つかった。歯周病の病原菌だ。同じサンプルからポプラのDNAも見つかっている。ポプラはサリチル酸(アスピリンの有効成分)を含んでいるため、おそらく鎮痛作用を求めて摂取していたのだろう。
また、Enterocytozoon bieneusiという下痢と吐き気の病原菌もいた。同時に、アオカビの一種Penicillium rubensのDNAが植物質の中に見つかっており、治療につながる抗生物質の素として摂取していた可能性がある。
鎮痛剤や食べ物は新発見ではない
古代人の暮らしに関する手がかりを得るために歯石を調べるというアイデアは何十年も前からあった。今回の論文の共著者であるキース・ドブニー氏は、1980年代からこの手法に取り組んできた。
しかし、古代人の歯石に隠された真実を研究者たちがしっかり読み取れるようになったのは、強力な顕微鏡検査法と正確な遺伝学的分析が可能になってからである。ウェイリッチ氏によると、ほんの10~15年前までは、歯の標本が新たに発見されると、博物館や研究室では歯石を除去していたという。当時の科学者たちは、歯石ではなく歯そのものの成長や摩耗のパターンに興味を持っていたからだ。
実は、ネアンデルタール人が肉も野菜も食べていたことや薬草を摂取して病気を治療していたことは新しい発見ではない。歯のエナメル質の窒素同位体比の測定や、歯の間に詰まった植物の食べかすの分析から、すでに分かっていたことがあらためて確認されただけである。(参考記事:「ネアンデルタール人が歯科治療?」)
本当の新発見は、肉食のネアンデルタール人と草食のネアンデルタール人ではマイクロバイオームが違っていて、現代人のマイクロバイオームはそのどちらとも全く違うということだ。
この違いはそれぞれのグループが食べていたものによるのかもしれない。
だが、食べ物でマイクロバイオームがどう変わるのかを調べるのはとても難しい。「数百万人の協力者に何カ月も同じものを食べ続けてもらう必要があるからです」とウェイリッチ氏。(参考記事:「人の消化管に棲む微生物を大規模調査」)
「けれども、1カ所に定住して、そこで入手できる食料だけをとっていたネアンデルタール人を基準にすれば、何がマイクロバイオームを変えたのかを特定できます」(参考記事:「食べ物と人類の進化」)
英アバディーン大学の考古学者であるドブニー氏は、先史時代と農業が始まって以降のマイクロバイオームを比較することで、今日の食生活がもたらす問題への対処法を見つけたいと考えている。
「マイクロバイオームは数百万年という時間をかけて進化してきました。私たちはこれなしに生きることはできません」とドブニー氏。「肥満や糖尿病もマイクロバイオームと関係があります。マイクロバイオームの研究は、移住と食生活の変化が人間社会全体に及ぼした影響について重大な洞察をもたらすはずです」
この研究から、ネアンデルタール人が絶滅した原因に関する手がかりも得られるかもしれない。(参考記事:「食べ物で顔はこんなに変わる」)
「私たちが調べたベルギーのネアンデルタール人はほぼ最後の世代です。マイクロバイオームのなかに健康に害を及ぼすようなものがあれば、そこに答えがあるかもしれません」
ホモ・サピエンスとキスした証拠?
ウェイリッチ氏のグループは、歯周病を引き起こした古細菌Methanobrevibacterの亜種の全ゲノムの塩基配列を決定した。この古細菌は4万8000年前のもので、これまでに配列が明らかになった微生物のゲノムでは最も古い。
分析の結果、今回のネアンデルタール人にいたMethanobrevibacterの亜種は約12万5000年前に生じたものであることが分かった。これは、ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の間で交雑が起きていたと考えられる時代である。Methanobrevibacterは唾液の交換によって人から人に伝えられることが確かめられており、ヒトとネアンデルタール人にも唾液の交換を伴う交流があった可能性がある。(参考記事:「4代前にネアンデルタール人の親、初期人類で判明」)
「ホモ・サピエンスとネアンデルタール人の交雑は暴力的な形で起きたと考えられることが多いですが、口腔内の微生物は、キスをしたり食物を分け合ったりすることで伝えられます」とウェイリッチ氏。「ネアンデルタール人の口の中にこの微生物がいたことは、彼らがホモ・サピエンスと仲良く暮らしていたと考える根拠のひとつになります。たった1種類の微生物から、これだけのことが分かるのです」(参考記事:「ネアンデルタール人と人類の出会いに新説」)
この微生物がどのように広まっていったかを正確に調べるためには、さらなる研究が必要だ。しかし、45年間にわたりヨーロッパのネアンデルタール人を研究している米ニューメキシコ大学の人類学者ローレンス・ストラウス氏は、この研究をとても面白いと感じている。
「ネアンデルタール人からホモ・サピエンスに特定の微生物が伝えられたことを示す証拠が得られたとしたら、すばらしいことです」とストラウス氏。
ほかの初期人類にこの分析法が行われることを想像すると、氏は興奮を隠せない。「エル・ミロン洞窟の『レッド・レディー』の歯石から細菌を抽出しようとする研究者も出てくるでしょう」。レッド・レディーはスペイン北部のエル・ミロン洞窟で発見された、真っ赤に塗られて埋葬された30代後半の女性で、1万8700年前ながら歯と顎の骨が見事な状態で残っている。