「沖縄慰霊の日」と『ひめゆり』リバイバル上映に合わせて
柴田昌平監督作『百姓の百の声』のFACEBOOK公式アカウントで、
柴田監督と二人三脚で映画つくりをしている沖縄出身・大兼久由美プロデューサーが、
連載という形でひめゆり学徒隊の足跡を辿りながら、
自身の家族も含めた記録を綴っていました。
この日に合わせて読みたいと思いまとめてみました。
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1945年3月23日、18名の引率教師と共に戦場動員されたひめゆり学徒。その足跡をたどる。
昨晩のJアラート。アナウンサーが慌てた様子で原稿を読む。「沖縄方向に弾道ミサイルが発射されたとみられる。安全な屋内に避難してください。」
79年前の戦場の映像が蘇る。
1945年3月下旬、沖縄本島中部の海には米軍の大船団があった。
本島上陸に先立って一週間、米軍艦隊は沖縄本島への艦砲射撃を行った。
�(4月1日)午前8時前。� 上陸部隊は第一陣が陸地へと向かう。� これまで、サイパン、レイテ、硫黄島など太平洋戦争の上陸作戦で米軍は、激しい抵抗を受けてきた。しかしこの日、日本軍からの抵抗らしい抵抗はなかった。� 「まるでピクニックのようなものだった」と従軍記者アーニー・パイルは報じている。
上陸翌日から、補給物資、建設資材の陸揚げも始まった。� 早速海岸には石油タンクが建設され、さらに軍事拠点までパイプラインもひかれることになる。
�本島西海岸から上陸して三日後には、米軍は東海岸へと到達した。軍も住民も山に逃れ、ほとんど抵抗はなかった。� 余りの静けさに「日本軍は全てどこかの島へ逃げてしまったのではないか」という噂さえささやかれていた。
続く。
5月28日
4月7日、広島から沖縄に向かった戦艦大和が米軍によって撃沈された。
19日、米軍は首里戦線への総攻撃を開始。日本軍は首里に至る宜野湾、浦添に強固な防衛ラインを敷き徹底した持久戦をくりひろげた。
この地域には細長い丘が幾重にも連なり首里を取り囲んでいた。
ここは日本軍の防衛陣地であり、住民の生活の場所でもあった。丘の斜面に点々と集落が存在していた。� 住民は、軍隊の近くにいることが安全だと思い、軍と行動を共にする者もいた。
つづく
5月31日
〜79年前の沖縄をたどる〜
雨期。特に5/21から降り始めた雨は6/5まで毎日降り続けた。住民は足元まで水に浸かりながら狭い洞窟で過ごす者、泥道を這いながら逃げのびようとする者。病気の蔓延。まさに泥と炎の沖縄戦だった。
降りつづく雨の止み間をぬって、九州や台湾から特攻機が飛んできた。その数およそ2000機。だが雨期が終わる頃までには、神風特攻隊もほぼ壊滅し次第に姿を見せなくなった。
�5月29日、米軍は遂に日本軍司令部のある首里城に到達。 「これで沖縄戦は終わった」とアメリカ兵の誰もが思った。しかし日本軍の牛島司令官は、沖縄本島最南端へ撤退した後だった。 「最後の一兵まで、戦い続ける覚悟である」そう語り玉砕を命じたのだった。
つづく〜
6月3日
〜79年前の沖縄をたどる・捕虜収容所〜
5月に入ると、米軍は全ての洞窟をしらみ潰しに爆破する作戦に出る。
79年前のこの時期というのは、沖縄は熾烈な戦禍の中にあった。
負傷兵の看護や手術の手伝いをしなければならなかったひめゆり学徒も過酷な日々を過ごしていた。
一方、捕虜収容所での生活が始まった人たちもいる。
4/1の米軍の上陸以降、捕えられ収容所に入れられたその日が、住民にとって戦後生活の始まりだったのだ。
首には認識票が下げられた。
これを下げていないと戦闘要員とみなされた。
軍政官のもとで新しい戸籍作りが始まっていく。
つづく〜
6月4日
〜79年前の沖縄をたどる・祖父の命日〜
今日6月5日は祖父が戦死した日とされている。されている、というのは死亡した時の詳細が分からないからだ。44歳だった。
沖縄守備軍の牛島司令官は大本営に再三にわたって兵力増強を要請していたがかなわず、結局、17〜45歳までの沖縄の住民男子を根こそぎ動員した。
本来軍籍にないはずの60〜70歳台の高齢者まで動員。
更に、男子学生には #鉄血勤皇隊 を組織させ、中には15歳に満たない少年も実際の戦闘に参加させられたという。
#ひめゆり学徒 のように女子学生は看護要員として動員した。
祖父は「防衛隊」として動員された。現地で招集される補助の兵力部隊だという。戦後しばらくして父や叔母たちが祖父の遺骨を探しに本島南部を歩き回ったが、何も見つけられなかった。亡くなった場所は真壁村。現在の糸満市の一部で、激戦地だった本島南部、ひめゆりの塔の近くだった。
(プロデューサー 大兼久)
つづく〜
6月5日
〜79年前の沖縄をたどる〜
この時期、#ひめゆり学徒 が配属された部隊は、南へ南へと撤退していた。ガマと呼ばれる自然の鍾乳洞が配属された壕だ。5ヶ所の壕のうち山城本部壕には14名の生徒がいた。6月14日、被弾。「夕方みんな集まってきて、米軍の飛行機がいつ消えるかなぁと空を見ていた。その時爆弾が落ちた」
つづく〜
6月14日
〜79年前の沖縄をたどる〜
6月18日は、ひめゆり学徒にとって大きな分岐点となる日だった。
夜に突然、軍から解散命令が下ったのだ。
「本日限りで解散。これからは自分の判断で行動せよ」と言われた。
解散と言われても、周りは米軍に包囲されている。そんな中、少人数に分かれて壕から出ていくしかなかった。
この日を境に生徒や先生は、沖縄本島最南端の山城丘陵から海岸線を彷徨うことになる。
6月20日
映画『百姓の百の声』
https://www.facebook.com/100sho.info==================================
本日の『ひめゆり』ポレポレ東中野での上映は満席だったそうで、
6月28日まで連日19時30分より上映は続くそうです。
また7月1日~7月7日は沖縄・シアターセブンで公開されます。
https://www.himeyuri.info/現在、柴田監督と大兼久プロデューサーは『百姓の百の声』続編を撮影してるようです。
無事に完成しますことを祈念します。