muse-A-muse 2nd http://muse-a-muse.seesaa.net/ ja
  • http://muse-a-muse.seesaa.net/article/458301556.html 最近読んだランニング関連本から だいぶblogも更新してないなあとおもいつつ、まあそれはいいとして。特に「書けない」ということでもなくNetflixとかアマゾンプライムとかのコンテンツ消費、読書、ランニング・サイクリングほかのメニュー消費で時間がなくなってblog書く時間がない。そんなこといっても「時間はつくれるもの」だし、簡単なblogするのに1時間もあれば十分だろからそのぐらいはなんとでもなるのだろうけど時間がないというかMPがなくなってるのでやる気にならない。あるいはMPがあるときでもなんとなくNet.. 日記 m_um_u 2018-03-25T13:00:27+09:00 <![CDATA[
    だいぶblogも更新してないなあとおもいつつ、まあそれはいいとして。特に「書けない」ということでもなくNetflixとかアマゾンプライムとかのコンテンツ消費、読書、ランニング・サイクリングほかのメニュー消費で時間がなくなってblog書く時間がない。そんなこといっても「時間はつくれるもの」だし、簡単なblogするのに1時間もあれば十分だろからそのぐらいはなんとでもなるのだろうけど時間がないというかMPがなくなってるのでやる気にならない。あるいはMPがあるときでもなんとなくNetflixとか見てしまう。まあblogのルーチンから遠ざかって「どういうときblogしてたかなあ。。」って感じもあるからだろうけど。自分のなかでごちゃごちゃした悩みがあって、一度言語化して反省したほうがスッキリするみたいなときにしてたかなあとか想うけどそういうのはblogっていうか私的な日記ともいえnoteなんかでやってた気もする。まあどっちでもやってた気がするのでどっちか限定でもないのだけど。


    そういう話題は今回の主題でもないので置いておいて今回はランニング関連で。最近読んだ本からのまとめを簡単に。今年度のトレーニングメニューの自分の指針になってるし人にも勧める、のだけどTwitterなんかで勧めると断片的になりがち / いちいちもっかい説明するのがめんどい、というのもあるので。ここらでまとめてしばらく自分のTwitterのヘッダーにぶら下げておくのもよいだろう。


    前置きはそんな感じ。じゃあ簡単にまとめていこう。



    既にスタディプラスにメモって置いたものの再構成なので順不同なところはある。


    ランニングフォームについて。金哲彦さんの本にもあったようにランニングはウォーキングの延長てことで両者共通するわけだけど小出義雄さんによるといちばん大事なのは「(猫背にならずに)背筋を張っておくこと」「頭頂部を一本の糸で吊られているような感覚を持つこと」とか。あとのフォーム、癖は基本的にどうでもいいとかなんとか。個々人の身体の形→癖になってるだろうから。トップアスリートともなるとその辺も矯正していかなきゃという場面もあるかもだけど一般ランナー的にはどうでもいい。



    型破り マラソン攻略法  必ず自己ベストを更新できる! (朝日新書) -
    型破り マラソン攻略法 必ず自己ベストを更新できる! (朝日新書) -




    着地はつま先かかかとかとかよりも「体の真下で着地し重心が通ってるかどうか」が大事。それをハムストリングと大臀筋で前の方向に運用する。股関節を締めて。写真の脚がX状に交差してるのは股関節を締めてるから。一本の線の上を走る感覚。


    ランニングフォーム.jpeg


    15キロビルドアップの例として、最初の5キロは目標とするレースの平均ペース。次の5キロはそこから1分短縮(1キロごとにそれを平均したペース)、最後の5キロでそこからさらに1分短縮。

    感覚的には最初の5キロはウォームアップ的に鼻呼吸だけでも走れるようなペース。

    次の5キロは口呼吸導入。

    最後の5キロはハァハァと呼吸が荒くなるような。


    タンパク質摂取量は体重と同等で。ランナーの場合はその1.2倍程度。65キロなら78グラム。鉄分は9ミリグラム程度。ヘム鉄が良い(レバー、貝、魚卵)。


    Lグルタミン検討(タンパク質と貧血(≠鉄分)対策)


    峠走もそのうち検討。峠走は速筋鍛錬として有効な登坂があるわけだけど降坂もフォームの維持トレーニングとして有効ということで、短期間で効果的なトレーニングができるものとして本書では特に推奨されている。


    走るときに必要なカロリー.jpeg




    マラソンは毎日走っても完走できない―「ゆっくり」「速く」「長く」で目指す42.195キロ (角川SSC新書) -
    マラソンは毎日走っても完走できない―「ゆっくり」「速く」「長く」で目指す42.195キロ (角川SSC新書) -


    ダラダラと走ってても強くならない。週に一度は全力疾走の日を作って「脚をつくる」。全力疾走とは「1キロを通して自分を追い込み続けられるペース」。1キロ前にペースダウンするようならオーバーペース。決められた区間を呼吸がゼーゼーというまで追い込んで走る(心拍数的には190から200bpmか?)。

    足作りを考えた1週間メニュー 全力走.jpeg

    自分的には「土曜全力→日曜リカバーで1時間から90分、月と水曜20分程度」を基本とするとよいのかなあとか思う。


    靴はソールが大事。練習用はソールが厚くて少し固めのシューズを。つま先をもってそらしたとき、手を離すと元に戻ろうとする力がちゃんとあるのが良い。この反発力を利用してランニングする。土踏まずのところがふにゃっとなる靴はダメ。レース用はソールが薄い方が良いけど返しはきちんと強いものを。履いたときに足にシューズの横とつま先がぴったり合うような。つま先に5から7ミリの余裕が理想。

    あとアーチサポート系の靴下買っておいたほうがよい。足裏ケアとして竹踏み健康法的なのを。

    足のアーチ構造.jpeg




    レース出場に向けた練習メニューとして


    週三日の場合、中心となる追い込み(鍛える日)を1回、次の日休み、その次の日に調整的に目標距離の半分ほどをビルドアップ走、次の日休み、その次の日に2/3ぐらいの距離でビルドアップ走 or 1セットのイーターバル


    ハーフマラソン出場を考えたメニュー.jpeg

    小出さんはビルドアップ走推し。というか、スピード走である程度追い込むことが必要 / ダラダラ走ってるだけでは鍛えられない→メリハリを付けて、ということでスピードランを推奨する。






    毎日長い距離を走らなくてもマラソンは速くなる! 月間たった80㎞で2時間46分! 超効率的トレーニング法 (SB新書) -
    毎日長い距離を走らなくてもマラソンは速くなる! 月間たった80㎞で2時間46分! 超効率的トレーニング法 (SB新書) -

    ランニングのパフォーマンスを決める三大要素は最大酸素摂取量、無酸素性代謝しきい値、ランニングエコノミーの3つとなる。


    最大酸素摂取量はいわゆる肺活量、心肺機能。横隔膜、肋間筋などの呼吸筋を鍛えることであがる。それらで取り込んだ酸素をポンピングする心臓も同時に鍛えられていく。


    無酸素性代謝しきい値は遅筋運動から速筋運動に切り替わる際のそれぞれの体力(筋力)に応じたしきい値。遅筋運動は脂肪を燃焼し、速筋運動は糖分と乳酸をエネルギー源とする。脂肪と違って糖分は多く蓄えられないため糖分→速筋運動は遅筋運動よりも制限される。長距離走における遅筋←脂肪燃焼サイクルが通常装備とすると速筋運動は弾数制限のあるBOMBのようなもの。

    遅筋、速筋、乳酸.jpeg

    俗に「乳酸が貯まる」とか言ってたけどただしくは「(速筋系の運動で無酸素しきい値をこえて脂肪燃焼サイクルからアデノシン三リン酸(ATP)代謝サイクルに変わった結果、その代謝・触媒的な物と考えられる)乳酸の利用がATPサイクルで間に合わない結果、血中にたまり、滞る」かなあ

    つまり、乳酸そのものが疲労物質、というわけではなく、留まっていてもうまく血流に載せて代謝させれば速筋で利用されて燃焼される、ということで速筋系運動あとのストレッチやらLSD(による血流ポンプ)が必要、ということになるのかな




    まあなので、レース用のペースだと乳酸が貯まるようだとまずい/脂肪燃焼サイクル(遅筋系有酸素運動)で賄うべき、ということになるけどそれだとペースが上がらず、基本ペースを上げておくためには心肺(横隔膜、内肋間筋、心臓)の血流ポンピングをふだんから鍛えておいてポンピング血液量自体を増量と心肺系の運動のためにダッシュが必要なのだよな。坂道ダッシュとか


    この機構だとATPサイクルに切り替わってもATPを補完したら(あるいは乳酸が滞らないように補助する何かがあれば)疲労は貯まらない、ということになりそうだけど、それといわゆるアミノバイタル的なものやBCAAがどう関係するかよくわからんな今のところ。。


    あと、脂肪だけ燃焼させたいなら遅筋系の有酸素運動ゆったりとやっとくのが良くて、速筋系の運動して下手したら筋肉痛(乳酸たまりとか炎症)かかえても意味無いのでは?と思うも、速筋系の運動でも脂肪燃焼にそれなりになんかあったりするのだろうか、



    自転車トレーニングの導入により最大酸素摂取量、無酸素性代謝しきい値、ハムストリングあたりの筋力を故障なく鍛える。長距離トレーニングではサブ4、サブ3となってくにつれ月間200キロとか当たり前になり、着地衝撃の積み重ねで故障を起こしやすくなるため。日本では「強くなるには長く走る」が常識とされていたが長く走らなくても効率的にポイントを鍛えることで強くなれる。



    ランニングとクロスバイクを導入したトレーニングの具体としては、ランニングのほうは週に20キロ未満程度のウインドスプリント、あるいはジョグで良い。自転車のほうでハムストリングほか速度を養う。だいたい往復13㎞程度の距離を回転数毎分80を落とさない程度に。時速としては19.5㎞/hから26㎞/hを15から20分間。自転車エルゴメーターがあればこれに加えて90回転90秒→90秒ウインドスプリント→休憩のインターバルを5セット、のこれを週に一、二度。


    たまにジャンピングスクワット系のワークアウトして大腿四頭筋、大臀筋、ハムストリングを鍛える。ジョグの終わりに二種類のスキップをしてバネ→ランニングエコノミーを高める。高く飛ぶスキップと前へ進むスキップ。3から5本程度。できれば縄跳びも。




    前足着地を身につける。小指球から接地するのが普通なので若干母指球を意識して着地する。(←ベアフットランをするとこの辺の衝撃とそれを逃がす自然な挙動がわかりやすくなる→ベアフットシューズも練習用に取り入れる)



    地面のキックはふくらはぎ、ではなく、大腰筋→腸腰筋→腸骨筋のねじりこみで行っている。ねじり込んだ力をバネに変えるのがハムストリングと大臀筋。





    股関節の伸展動作で地面に斜め下方向の力を加える。膝を前に出して股関節を捻りこめ(強く伸展させれ)ば足は自然に地面につく。





    成長ぶりチェックの12分間走、2500m以上走れるならサブ5、3000m以上ならサブ4(4分/㎞)。


    トレーニングの段階を「一般的準備期間」「専門的準備期間」「レース直前(テーパリング)」に分ける。それぞれ1ヶ月ずつ(テーパリングは直前2週間からでも良い)


    写真はクロストレーニングでやる場合の準備期間の例(週末ロングライドで「お出かけ」も楽める)。

    クロストレーニングの例.jpeg


    専門的準備期間のクロストレーニングの例。自分的にはランの方はサブ4の本番ペースを想定して5分40/㎞で15から20キロをそのままのペースあるいはビルドアップで(5分50→40→30)。それに加えてジョグを8キロ程度の週2回ほどの走りで。

    クロストレーニングの例負荷アップ.jpeg



    それらを基本にバイク練習。時速20以上/10㎞程度を週2回。インターバルの場合は全力を90秒間、次の90秒は流しての繰り返しを5セットほど。あとはロングライド時速15から20ほどで2時間→40キロほど(半径20)




    42.195kmの科学  マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」 (角川oneテーマ21) -
    42.195kmの科学 マラソン「つま先着地」vs「かかと着地」 (角川oneテーマ21) -

    この分野の権威であるメイヨークリニック、マイケルジョイナー博士によるマラソンの記録を決める三要因(最大酸素摂取量、乳酸性作業しきい値(LT)、ランニングエコノミー)の説明から。「毎日長い距離を走らなくてもマラソンは速くなる」で出てきた「ランニングエコノミー」ほかの考え方はこの考え方に基づいてるものと想われる。ランニングエコノミーとは「ある一定の速度で走っている際の酸素摂取量の効率性、経済性」。トップランナーはこれらが高い。すなわち心肺(酸素摂取および循環系)、と、ランニングフォームによるランニングコストの減少。それらを鍛える世界の頂点ゲブラシエのふだんの練習の様子 (2000メートル高地で一時間半のインターバル走、ロングランは週に一回、登坂トレーニング、ジムでのトレッドミルを使ったスピードラン、自転車トレーニング(回転数は160で10キロ

    13分以内)) だいたいはトレイルで行いアスファルトは使わないので足への疲労はあまりない


    ケニア人のトレーニング例.jpeg



    マカウのフォアフット走法について。つま先で着陸することで路面への角度調節の応用度が高く振動を少なく出来る。地面との接地時間が長く距離を稼げる。接地する瞬間、足底の面を一旦地面スレスレに平行にしてから、うんたら



    マカウのフォアフット走法.jpeg








    スマホ持ってる場合はランニングアプリ使ってやるとモチベにつながりやすい。月間距離とか走ってるときのペースマネージメント的にもそうだけど、たとえばナイキランプラスアプリ入れてマイコーチプランを設定しとくと一週間のメニューをある程度決めてくれる。中級者以上になると、あるいは上述した基本のトレーニングメニューが有るとナイキランプラスから提示されるメニューがゆるすぎて(ヽ´ω`)…てなることもあるだろうけど初級者的にはこれに従っていくと楽に、無理なく走れる身体を作っていけるように想う。

    自分的にはRuntasticとナイキランプラス、スマートウォッチの mi band2 (使うアプリは MI HR)で心拍数はかってやってる。Runtasticはサイクリング保化にも使えるので便利。ナイキランプラスのコーチングはラン以外にも室内ワークアウトメニューなんかも組んでくれる。


    あとは Run trip なんかでふだんいかないとこにトレーニングを口実にいってみるのもたのしい。サイクリングも同様


    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/451980458.html 朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった 朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった。帰納ではなくm_um_u / m_um_u朝に「彼らの思考は(帰納的ではなく)演繹的なのだろうなあ」と思ったきっかけ https://t.co/kx74rqQBN9 https://t.co/5j7qGul9Fw at&nbsp;07/20 21:27自由論 (光文社古典新訳文庫) - 引用箇所の要、文脈としては「言論の自由とはなにか?」→「反対意見に対して開かれていることである」「それらはし.. 日記 m_um_u 2017-07-20T22:37:25+09:00 <![CDATA[
    朝に「自由論」を読みつつ「彼らの思考というのは演繹的なのかなあ」とか思ったのだった。帰納ではなく



    自由論 (光文社古典新訳文庫) -
    自由論 (光文社古典新訳文庫) -

    引用箇所の要、文脈としては「言論の自由とはなにか?」→「反対意見に対して開かれていることである」「それらはしばしば少数意見である」「少数意見がたいせつなのは、少数意見だから、とか、大勢が間違ってる中で少数意見は正しいことを伝えようとしているから、とかではなく、大勢の意見にしても少数の意見にしてもその時代・環境において特殊なもので後世から見れば正されるものである可能性があるからである。それらは後世、あるいは暫時的に修正されるためにその時点でできるだけ開かれたギロンの可能性を遺しておかなければならない」というもの。繰り返しになるけど、それらの考えが「正しい」からではなく「間違ってるかもしれない」ので多様な意見の可能性を残しておく必要があり言論・表現の自由は担保される。
    そういった考えが暫時的な、あるいは不断の修正を要するものであるのに対して、数学のようなものはそれまでにできあがった一定の公理にもとづいて思考を組み立てていくところがある。すなわち演繹的。演繹と帰納の違い。



    帰納的、すなわち一定の事象を根拠にいちから思考をつむぎそのうえで一定の(自分なりの、あるいは蓋然的な)公理に達する、のではなく、帰納的につくられた公理を所与の前提として思考やギロンを組み合わせていく、みたいなの。彼らのやり方を見てるとどうも彼らの主張の根拠とするもの(多くはPC(ポリティカル・コレクトネス)とされる倫理的な典範)の交換を通じて正当性を競っていく・ギロンして行くというの彼らなりのギロンのあり方だと思っているようで、その典範そのものの正当性を疑ったりギロンしたりする気もないみたい。まあなので中世あたりの盲目的なカトリックに近い印象がある。その辺を指してE.トッドなんかはゾンビカトリシズムとかな用語をつくったのかなというところだけどこれはまた別の話。

    まあとりあえず「彼らと話してると宗教の人と話してるみたいにギロンの埒が明かない」「あれは一種の宗教なのだ」というのはこういうところから来るのかなと改めて思ったのだけど。そういうのはいわゆる「りべらる」のひとだけの特徴でもなくいわゆるフェミというか、急進的・本質的、あるいは初学的なフェミのひとにもある感じ。まあそれは彼女らがそういったりべらりずむの初学的なものだけをかじってるからかなと思うのだけど。根本から疑い再構築しようとするのではなく。

    そういうのに加えて、最近改めて思ったのはこういった人たちはちょっとの言葉尻や表現でみょーに発火するのだなあ、ということ。自分の感覚が一般的なのかというとびみょーなところはあるだろうけど、一般的に見て看過できそうな表現や発言を一部だけ切り取ってみょーに「いかんだろ!」するやり口が見られる。そして「いかんだろ!」してるうちに自分たちがその「いかんだろ!」なオラショにとりこまれてどんどんヒートアップしていくマッチポンプ。少しまえにとりあげた漫画雑誌のチョイエロ表現にしてもそうだけど、ああいうのもふつーに雑誌を見てる限りは「パンチララッキー程度の読者サービスカットなのだなあ(巻頭カラーだし)」ぐらいで済ませるものだと思うのだけどみょーに取り沙汰す。あるいは、その表現自体はたいしたことない、というのを前提にしてる体はしつつも「その背後に無意識の構造がー」とか言い出す。なんだその亜フロイト流文学批評みたいなの?という感じの。60年代ぐらいにスーザンに「アホか」忖度されてたものだったのだけどそういうのは。。

    反解釈 (ちくま学芸文庫) -
    反解釈 (ちくま学芸文庫) -


    話は戻って「一部だけ切り取ってみょーに発火する」な人々について。そういう「一部を切り取って」というやり方は特にネット的なやり方なのかなあという印象はある。あるいはTwitter的といってもいい。Twitterなんかは各発言にパーマリンクがあることがこういった場合には却って災いしてひとつの発言だけ文脈切除されて揚げ足とりされたりする。下の方でリンク貼っておくけど直近だと為末さんとか今井絵理子さんのなんかが印象的だった。あるいは上西小百合とかいう議員のひとの発言とか。

    上西小百合議員の発言にサッカーファンが激怒「政界引退」も検討か - ライブドアニュース
    http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13354264/

    自分はこの人のことよく知らないでそれまでどのような発言や行動をし、どういった印象がついてきた人なのかよくわからないのでそういった先有傾向からの印象はないのだけど、やり玉に挙げられた問題発言というのは「サッカーの応援してるだけのくせに、なんかヤった気になってるのムカつく。他人に自分の人生乗っけてんじゃねえよ」というものだった。それ以前に浦和レッズの試合を観戦しててそのあまりの不甲斐なさを嘆いていたら浦和ファンとTwitter上で衝突してたみたいだけど。自分的には該当発言を見ていちお文脈確認すべく上西議員のTwitterホームに飛んで問題となったtwの周辺を見てみた。そのときの印象としてはサッカー選手とやり取りをしていてこれから先なにか具体的な仕組みをつくっていってサッカー振興に役立てていくみたいなことをいっていた。「サッカーの応援してるだけのくせに」というのはこの辺を受けてのものだったのかなあという印象で、単に負けの不甲斐なさをなじるだけとか負けても傷のなめ合いみたいなキレイゴトばっかいうだけで進展のない様子にやきもきしたのかなあみたいな感じ。あと、Twitter独特の煽り合いみたいなのでイライラしてたのもあったのだろうけど。そのへんはまあ性格的に「煽り耐性がない」とかいうことになるのかとか思ったりもする(某首相の街頭演説への辛辣な評価も含めて)。


    今井絵理子議員のものなんかRTとかで飛んできたので問題発言なの?ってみにいったときには確かに該当の一連twは曖昧で嗚呼…ってかんじだったのだけど別件で為末さんのところみにいったら彼女の息子さんが難聴の障碍抱えてて、それもあって障碍支援的なところでやっていこうとおもってるんだって記事がリンクしてあった。「そういう立ち位置から多様性がどうとかな発言になるのかなあ」「まあいきなり障害者用に具体的なお金の算段とか施設の算段とか引き出し難く、とりあえず『世間的なやさしさ』みたいなのに乗っけてく言葉で囲い込んでく必要があるもんなあ。。『多様性』とか『社会的包摂』とかなPC用語というか」とかは思ったのだけど、ソレとは別に蓮舫さんの二重国籍にそれを絡めるのは我田引水すぎるだろうしピンぼけだなあとはやはり思うのだけど。「違った人、マイノリティにもやさしい社会を」以前にふつーに国籍法の不備をいぢればいいだけなのだろうし。


    為末さんもなんか問題発言したらしく為末さんのTwitterホームを見に行ったら該当発言周辺でデキていた文脈を切除して炎上元となった発言だけをPC的に問題ダーしてる人ばっかな感じだった。該当発言は一見すると障害者排除的なネオリベ発想?みたいに見られるのだけど文脈的には「理想としては弱者保護→それを支える保険があって良いと思うけど、現実的にそればっかだとお金たりないので働ける人は働いた方が良い」系の話をしてると思えた。理想と現実に生きていく(資本主義競争社会の中で「やっていく」)ということは違い、彼の「認識」「気持ち」としては後者のスタンスの方が良いと思ってる、というのは競技者としてやってきた彼らしい考えだなと言う感じ。

    今井さんにしても為末さんにしても、理想論は知っていつつ現実的に何らかの問題に取り組むと理想だけではうまくいかないので苦言とかエクスキューズをすると理想論教条主義者たちから文脈切除されて■━⊂( ・∀・) 彡 ガッ☆`Д´)ノとされる構図、だし、彼らは該当発言の文脈そのものも拾おうとしない(該当発言がどういう経緯からなされたのかを発言者のTwitterホームに見に行く程度の労力も払わない)のは確かなのだった。そういった意味でリテラシー的にどうなの?というのは初歩的なこととして思うのだけど、まあ彼らにしてみれば単にそれをマキにして騒ぎたいだけなのかもしれないから発言元の正確な理解とかはどうでもいいのかもしれない。ネットでよくあるテレビなんかの発言を都合よくコラージュして並べて立てるだけのあれにも似てる。


    そういうサンプルとしてついですると、少しまえに騒がれてまだチロチロと狐火してるジャンプのラッキースケベ表現についても、当事者とされる発端の二人としてはわりと終わった問題になってるようだった。当該弁護士さんがRTされていた「例の表現はジャンプ以外のほかの雑誌で見るとなんともないんだよねー」みたいなtwはまさにソレで、「(ヽ´ω`)…ジャンプ以外だと問題にならないってことはその表現自体の是非をうんたらしてる薄フェミ界隈のギロンそのものがそもそも無効ってことじゃん」とか思わせるわけで。。ここでも「まあ彼女たちとしては元の発言の真意とかはどうでもよくて、たんにそれをネタ・マキにしてキャンプファイアーしたいだけなのだろうなあ」とか思わされたのであった。



    冒頭の演繹の話に戻って概観すると、彼らは既存のPC典範を公理とし、自身の倫理や良心を掛け金とすることで公理カードの交換ゲームをしていくわけだけど、そのゲームの中で定められた型から出ないゲーム的なやり取り・モラルハラスメント合戦であるため根本的な倫理の問題や、問題自体の解決ということには思考があまり向かない、ということ。なので彼らの話題と関心は自分たちの都合の良いように視野狭窄的に編集されて伝聞されていくし、一つの話題を燃やし消化してしまうと(その問題は解決していないのに)次の話題に移りまたキャンプファイアーを愉しむ。根本的に思考するということがなくモラルをかけたゲームとしてソレを楽しんでるに過ぎないということ。あるいは自身がゲームのつもりでやってなくてもそういう態度で望んでるうちにそういったゲームに巻き込まれているということなのだろう。


    こういったやり方は特にPCを介するようになって顕著になったのかなあ / 日本でPCがうんたらされだしたのはグローバリゼーションの影響が本格化した後期近代以降、すなわちプラザ合意を端緒とし、それがグローバリゼーション → ネオ・リベラル的な社会保障度外視でキツキツの企業倫理とノルマを説いていくのがふつーになった00年代以降あたりからなのかなあと想ったりもするのだけど、単にネットでのやりとりというのがその程度のモラル揚げ足取り的な型になりやすいと言うだけなのかなとも思ったりもする。特に後者の場合、PCとかりべらるとか関係なくネトウヨとかも似たようなことヤってて馬鹿って話なのだけど。


    スピンアウト的に、元来、絶対核家族のエートスであった自由主義の典範であるとおもわれるPCがみょーに布教されたのは、トッドがいうようにアングロサクソン系がグローバルスタンダードになってしまったことからの片手落ちともいえるのだろうけど、初期には異なった家族系、異なった民族・人種間で無益な衝突が起きないようにライシテ的に設定されていたのではないかPCというのは?ソレがいつの間にかネタがベタ的に「PCを守らなければならない!」ってそれ自体が権力になっていって辟易されてるのでは?と思ったりもしたのだけど、このへんはまた別の課題として(誰か調べてるのかもしれないけどよくわからない)。



    (ラブドールを家庭に連れ込んだ男性についてももうちょっと詳細に書いとこうかと思ったけどだいたいtwったからいいやもう。。構図としては同じだし)































































    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/451803262.html あれは彼女たちにとってはアレルギー反応のようなものなのかもなあ。。 朝に「バッドフェミニスト」を読み進めてなんとなく「昨日の対フェミ(ぽい人ら)嫌味みたいなのは言い過ぎたかなあ。。」とかおもって反省。ロクサーヌ・ゲイなんかがいってることだとそれなりに立ち止まって考えてみようと思うのに彼女らが言うことだとどうも言い過ぎに思えて言い過ぎで答えてしまうのはなんでなのかなと内省してみた。コインランドリー待ち時間をドラッグストアの買い物でつぶしつつ。直感的に「彼女たちの訴えはアレルギー反応みたいなものなのかかなあ」と。一つ前のエントリで彼らのPCは宗教.. 日記 m_um_u 2017-07-14T19:21:45+09:00 <![CDATA[
    朝に「バッドフェミニスト」を読み進めてなんとなく「昨日の対フェミ(ぽい人ら)嫌味みたいなのは言い過ぎたかなあ。。」とかおもって反省。ロクサーヌ・ゲイなんかがいってることだとそれなりに立ち止まって考えてみようと思うのに彼女らが言うことだとどうも言い過ぎに思えて言い過ぎで答えてしまうのはなんでなのかなと内省してみた。コインランドリー待ち時間をドラッグストアの買い物でつぶしつつ。

    直感的に「彼女たちの訴えはアレルギー反応みたいなものなのかかなあ」と。一つ前のエントリで彼らのPCは宗教的なものなのかもしれないという話をしたけどアナロジーとしてはアレルギー反応のほうが近いのかもしれない。それだとライシテよりもわかりやすく一般社会からも線引しやすそうだし。食品などの成分表示よろしくコンテンツに「この作品には女性差別、恋愛、異民族が含まれてません」みたいなのを表示する。まあそういうのはなかなか分け難くさらに物議をかもしそうだけど恋愛とか異民族みたいなところだとなんとなく分かるようにはなってるか。その作品を見る前から。「女性差別は含まれてません」とかいっても作った当人はそのつもりはなくてもナチュラルに差別してるかもだからこの辺はわかりにくい。もっと中立的な成分要素があれば良いのかなとかは思う。たとえばピンク色、とか?いわゆるダサピンク的なあれ。まああれも過剰反応な向きがあるように思ってるのだけど。ネットの話題と関心的に。


    ともあれ、彼女たちが女性の権利を侵害してる― セクハラだ―って一定の表現についていうとき、その表現に対して特になんとも思ってない / ちょっとはまずいかなーとおもいつつもスルーしてる人たちというのは食品において人工甘味料やらアレルギー物質に対してだいじょうぶなのと同じなのかなーと。まあ自分のことなのだけど。ちなみに人工甘味料は苦手。なのでアルコール9%系チューハイはどれも口に合わない。ざんねんなことに。
    対して、一定の表現に過剰反応してしまう人たちはその表現に対してなにか過去になにかがあったりとか、あるいは最近の世間や女性同権的な教育の影響やらがトリガーになって敏感に反応するようになってるのかなーとか思う。後者の方はちょっとマッチポンプにも思えるのだけど、前者の方は自身の経験やら体質に基づくのだろうからどうしようもなさはあるのだろう。体質っていうか心の質っていうか、まあ性的トラウマやら発達段階での経験の記憶が元になったり?

    「バッドフェミニスト」の叙述はまさにそれで、ゲイがまだティーンの頃に集団レイプされたことが語られていた。いわゆるデートレイプ的な。彼に「嫌われたくない」ためにそんなに好きでもない性行為をしているうちに彼の仲間にもそれをしてくれと要請され、断ったけど密室空間だったのでなし崩しに、というような。しばらくして学校に行くとそれは自分の「アバズレ」のせいだと吹聴されていた。自分から求めてやったものだ、と。

    そういう過去がある人の場合どうしても過敏に反応するようになるだろうしその戦いを続けることで自身を保っていけるところもあるのだと思う。



    ゲイのそういう過去と語りを聞いていると彼女の敏感にも耳を傾ける気になる。自分はその部分について特にそこまで思わないけど?とおもってもそういうのでアレルギー反応が出てしまう人がいるなら気を使っていこうという気に。なので、そういうので(彼女たちからすると)鈍感な人たちがわからないような性的侵犯な表現をしている―と叫ぶ時、たんに「世間的にただしいこと」の立ち位置からではなく、彼女たち自身の本当の痛み、そういうものをみたときにどうして痛いのか、嫌なのか?についての語りのようなものが聞けると違うのかなと思う。世間的に正しいからーというだけで頭ごなしにPC叫んでるだけだと単にそういうのをタテマエとして他者にマウントしたいだけの人たちなのかな?とも想えるので。

    でも、そういう辛さや経験みたいなのもごく個人的なものだからいちいちカチンと来た表現などがあるたびに彼女たちにそういうものを告白せよというのも酷なものだなあと反省。そういった個人(プライバシー)の部分に触れずに済むように一般的なルールのようなものがあるのだよなーと。

    んでもそういった「正しさ」を教条的・抽象的にやりとりしてるだけだと運用によっては「正しさ」だけにとらわれた暴力になるのだろうなーと二重国籍の件とファブリーズの件をみつつ想う。蓮舫氏の二重国籍の件だと仮想敵としてるネトウヨの言説に乗っかりそれへの反証を示すという態度を取ろうとしたのだけどその時点で仮想敵とするひとたらと同レベルの低俗に堕ちてしまった。ファブリーズの件も同様で、彼女たちが仮想敵?とする側の男性?側からの主張、「ファブリーズのCMでひどい扱いをうけてる男性の様子は看過されてるけどこれはセクハラにはならないんですか―?」に乗っかって彼女たちが自身に対してしているのと同じようなCM自体の内容分析から応えてみようとした。そのようにすれば、どうとりつくろっても、そのCM単体ではセクシャルハラスメントを含むものになるだろうけど。


    ふたつとも教条的、セイギセイギにならずにきちんと人や経験、実際の痛みなんかをみつめ主張したほうがよいのではないかなーと改めて思ったのだった。










































    バッド・フェミニスト -
    バッド・フェミニスト -

    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/451737424.html 宗教、あるいは権威主義としてのりべらりずむ(あるいはネトウヨ)とライシテ このブログ用にTwitterでの関連twを貼り付けたあとに蓮舫さん関連の話が多くなってしまいあとで編集しようかと思ったけどめんどくさくなったので割愛。端的には少しまえにあった東京都議選での民主党の大敗を受けて「誰かが責任を取らなきゃならない」「この機会に党首の二重国籍疑惑を払拭させよう」ということなのだけど。民進党の迷走続く…蓮舫代表の資質を問う声はなお強く - ライブドアニュース http://news.livedoor.com/lite/article_detail_am.. 日記 m_um_u 2017-07-12T14:22:01+09:00 <![CDATA[
    このブログ用にTwitterでの関連twを貼り付けたあとに蓮舫さん関連の話が多くなってしまいあとで編集しようかと思ったけどめんどくさくなったので割愛。端的には少しまえにあった東京都議選での民主党の大敗を受けて「誰かが責任を取らなきゃならない」「この機会に党首の二重国籍疑惑を払拭させよう」ということなのだけど。

    民進党の迷走続く…蓮舫代表の資質を問う声はなお強く - ライブドアニュース
    http://news.livedoor.com/lite/article_detail_amp/13325040/

    まあ選挙の惨敗と党首の二重国籍は因果関係ないだろうから問題のすり替えのように思うのだけど。つまり政策で勝てない / 戦えなくなった民進党はもはや搦め手から求心していくしかなくなったのだけど、その際の「人気」という曖昧な要素に関わる部分に党首への疑惑があるとかなんとかしてるわけだけど本来なら政策で戦えばいいだけだから本末転倒感がある。よしんば搦め手(政局でありスキャンダルなどを介したポピュリズム)で戦うとしても、それを決断したのは党全体の意志だっただろうし直接の敗因は民進党の選挙対策委員会にあるはずだからそのあたりが責任を取れば良い話のはずだけど選挙対策委員長自らが党首の責任に話をすり替えてるみたい。まあこういうのの結果、党首が辞めるというのはよくあることだけど、そこに「党首が外人疑惑があるからだ―」て付け足したのは自分への責任追及逃れるためだったのかな―、と。民進党の内情をよくしらないのでわからないのだけど。形としては昔の学生運動のときのソーカツ的な内ゲバを思わせ正しくサヨク的ではあるのかなとか思ったりもする。単に皮肉だけど。

    「こういうのも民進党内のまともな政策打てるグループが逃げ出したからかなあ」「蓮舫さんて見た目的には社民党とか女性党みたいなののほうが似合いそうだけど現在の民進党ってそういう系が強いんだったっけ?」「旧小沢グループとかどこいったんだろ?」「うわ…民進党になる際に維新の会とくっついたのか。。(お察し)」、みたいなことを思ったのだけど民進党の内情/構成について詳しくないので本質的なところがわかってない感はある。ちょっとそういうの知りたいなと思うも書籍では出てなさそう。自民党のは最近に中公新書から出ててそのうち読もうかと思ってるけど。

    二重国籍疑惑、というか「民進党は売国奴だ―」みたいなネトウヨを中心とした?陰謀論みたいなのはけっこう前からあって、それに応ずる形でのソーカツだったのかなと想わせるも実際にそれをヤってしまうと認めたことになるんじゃないの?あるいは人身御供的に生け贄の乙女みたいなの捧げて手打ちみたいな。まあ乙女っていうのも変だけど。

    そもそも外国人ガー国政に絡ンデーとかいっても未だ首相とか大臣にもなってないわけだから国政には絡んでないわけだし、よしんばそうなったとしても一個人としてここまで帰化してるわけだからスパイとかいうのも信じがたい。まあそれでもスパイ疑惑の反証とはならないのでそういった陰謀論疑惑が潰えないないひとには潰えないのだろうけど「どこまでやったらスパイって疑惑消えるんですかねえ?」みたいなことは思ったりする。

    それとは逆に、こういったスパイ疑惑を否定する人たちがアメリカのロシアゲート疑惑を肯定的に捉えてトランプバーカバーカしてるのみるとダブスタぶりに(ヽ´ω`)てなる。まあ彼らからすると「国家に対するスパイ疑惑」「国家に対する外国からの組織的アタック」みたいなところが問題なのだけではなく「外国人として『差別』されてる」という人道主義的な見地?が焦点なのだろうけど。そもそもその外国人疑惑・批判的視線が国会議員≒内政に携わる → それが外国人だと内政干渉の可能性ガーてとこから生じてるのでわ?ていっても彼らには声は届かない。そして「日本人は帰化しても外国人は外人―てしていつまでも差別するんダー」てよくあるお題目みたいなのを唱え続けるのだ。ヒステリックに。その様子はちょうどこの季節だと夏の法事の集団読経のようにも想えるのだけど、よくある言い方からすると精神病棟のヒステリックな反応にも似てる。「Twitterは精神病棟に似てる」みたいなアレ。そして精神病棟の人たちのようにちょっとした不安が生じるとその不安を公正(穴埋め)するような題目を集団で唱え同調圧を強めていく。そこで理性的な意見(「それはちょっと違うのでわ?」)を唱えてもそもそもヒステリックな集団読経なので相手してもらえない。下手すると怒りに触れてクソリプを投げつけられまくる。集団読経してる人たちに茶々を入れるとこっぴどく叱られるように。


    そういうのは彼らが平等主義・自由主義として掲げるりべらりずむ的な倫理題目が関わるところにはすべからく存在する。フェミニズム(女性平等運動)やら言論・表現の自由やら。そういった倫理は条件が整えば素晴らしいものだと思うし自分も大事/叶えていきたいとは思うのだけど、彼らはそれが一定の条件のもとに成立していることを考慮しない。あるいは「その条件が崩れているため整えるために声を発している」というのかもしれないけれど往々にして教条的にその倫理をお題目して唱えるのみの人たちはそのための条件の構築ということには無頓着だったりする。たとえば自分とは違った価値観や立場の人達との対話や交渉の余地がなかったり。それがなければ一定の条件のための下地も構築できないだろうけど。

    そして彼らの一方通行の倫理の押し付けは暴力的に機能していく。セイギの暴力として。

    あらためていうけど倫理とかのお題目の話以前に現実的でプラグマティックな環境の構築をきちんと考えてくれと言いたい。。あるいは以前じゃなくてもいいのですくなくとも並行して。そうしないと宗教倫理的なものの教条的な押し付けに過ぎない。


    条件の話に戻ろう。

    彼らからすると自由主義や平等主義というのは人類普遍のものに思っている / 思われているフシがあるのだけれどそういうこともない。「それが行き渡ってないのは遅れているからだよ」みたいな昔の西洋中心主義的な自由主義進歩史観に彼らは立ってるぽいところもあるけど。E.トッドなんかによると自由・平等主義というのは一定の家族系の共同体に相性のよいイデオロギーで、たとえば核家族的で個人主義的な絶対核家族たるアングロサクソン系の価値観として作られてきた。大家族的な価値観だと老人とかの教えを理性ではなく権威的(パターナリスティック)に踏襲していく傾向があるだろうけど絶対核家族の場合そういう必要もなかったので自由主義や個人主義が根付いていったのかもしれない。ちなみに家族系としては大家族系のほうが比較的新しい家族系のようだけど。

    そういった家族系が下部構造となった上部構造が自由主義なわけだけどそれがアングロサクソンの覇権によってグローバルスタンダードのように錯覚されていった、みたいなことをトッドはいってたような気がする(うろ覚え)。

    もちろん、そういった価値観は現在では尊いし、自分としても権威主義的に「口答えすんな!」って老人の価値や教えを詰め込まれていくのは嫌なのだけど。家族系をはじめ、アングロサクソンの共同体と条件が違う共同体ではその価値観を受け入れるためにまず下地となる条件を整えていかなければならない。たとえば絶対核家族では「父・母・子ら」という家族形態が基本ユニットとして暗黙に前提されている。いわゆる専業主婦モデル。「それがゆえに独身族を想定していなくてその部分へのケアがゆるくなるのだ」とトッドはいう。「そういったものは(大家族的な共同体なら全体で支え合うシステムがあっただろうけどそういうものがなければ)国家が代替して保証していかなければならない」と。デンマークやスウェーデン、フランスのPACSみたいなああいうもの。それによって独身者だけではない社会的マイノリティも包摂していく。社会で独立して暮らせるように。財源としては税金頼りみたいだから税金がその分高くなるけど。


    平等主義や自由主義を求める時、倫理や「(彼らが家父長制と暗黙かつ雑にイコールしてるぽい)専業主婦モデル打倒!」といった根性論以前にまずそういった現実的で構造的な条件の改正を考えるべきだと思う。あるいは倫理とともにそういった具体的なものを勝ち取っていこうとする。対立する相手が合理的配慮が示せる程度の対話の余地を残して。そういうことが必要なように。

    家父長制の話ついでにいうとあれは字義的には「一家の家長が父であること」「そこから発せられていた権威主義」ということだろうけど家長が父(男性)であることと権威主義的であることはそのままイコールではない。たとえば母が家長でも権威主義的な家族はある。うちみたいな母子家庭とか。そして大家族でも権威主義は踏襲されていただろうけどそんなに問題なものでもなく平和に共同体が運営されていたりもした。もちろんそうでもなく不満が溜まっていたところもあるだろうけど。まあとりあえず家父長(すなわち一家の長が男性)であることがそのまま権威主義になるわけではないし、権威主義だったらそのまま悪いということにもならない。家父長制≒男性中心主義としても男性中心主義というのは人類の一定の期間、一定の場所において最適とされたモデルだったのだろうし、男性が中心になったから社会的に変なになっていったというわけでもない。急進する近代の速度が個人にも同様の速度を要請し、結果的に黒いイナゴと化した男性たちが家長としてその権威をトリクルダウンしていっただけともいえる。つまり国家→社会→(男性を家長とした)家族への影響。ゆえに「家父長制と資本主義」の見立てが出てくるわけだしあの見立てではまだ未完成だったりするのだ。


    権威主義ばっか敵にするのもどうなの?という話ついでにいうと彼ら「りべらりずむ」を自認する人々のやり方も権威主義といえるだろう。上記してきたように、彼らのりべらりずむの価値規範である自由・平等について、彼らは往々にしてそれを思想的、本源的に思考することはなくお題目的にそれを唱える。それがゆえに彼らのセイギはともすると教条化してオーバードライブして他者を傷つける。公正性や公平性は「平等」の価値にも関わるものに思われるけれど彼らは目の前の「平等」を説くあまりに公平や公正の原則をしばしば忘れ度外視する。結果として、最悪の場合彼らの倫理題目と相対する人々に暴言を浴びせたり暴力行為を行ったりする。あるいは言論の「自由」をかかげつつ仮想敵の言論の機会そのものを潰したり。そういうものの何が「自由」なのか…。

    それらは本質的な意味での平等主義・自由主義、あるいは人道主義とは違って単なる題目なのだろう。彼らが教科書的に教えられた題目を権威主義的に踏襲しその権威をもって(自分とは違った考え方を持つ)他者を圧しようとしているだけなのだ。

    それが「わたしはシャルリ」運動(イスラム系住民やマグレブの排除)であり、Twitterで異論を唱えた子供芸能人へのクソリプ暴力であり、(中道左派≒リベラリズムを掲げるはずの)民進党による人権侵害的なマッチポンプへの鈍感の正体だった。




    なのであらためて思う。そういう人々は宗教なのだ、と。りべらりずむ(あるいはその反対のネトウヨ的なお題目への教条的な盲信なのだ、と。そしてそれは日本という直系家族系からすると正しく権威主義なのだろう。

    まあ「宗教の人」というのも揶揄的に思われるかもなのでエクスキューズしとけば本来宗教が機能してていた/現在も求められているような空白にああいう教条主義的な「良いこと」価値観が求められ帰属されていくのだろう。たとえばフランスのシャルリ運動の担い手がパリ中心部の人々ではなくその外縁部の直系家族系の人々で、彼らは元々カトリシズムを信奉していたがその空白に共産主義を報じるようになり現在はりべらりずむを奉るように。そういう人々には良心の拠り所としてそういうものが要るのだ。そういうひとたちって異化するだけではなくたぶん自分たちにも。


    んでもそういう宗教の人たちと接すると言葉も通じなくて疲弊してしまうことがママあるのだろうからある程度の線引がデキたら良いなと思う。たとえばライシテのような。Twitterなんかはブロックとかミュートとかフィルター機能である程度アーキテクチャ的に排除できそうだけど、社会的にももうちょっとなんとかならないかなあって。まあ実際社会的にそういうものを設置するとなると暴力的な切断処理も生じるだろうから自分たちの心の境目的なものとしてなんとかデキないかなあみたいなのは思う。そういうわけでライシテについてちょっと調べてみよう。

















































































    問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書) -
    問題は英国ではない、EUなのだ 21世紀の新・国家論 (文春新書) -

    シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書)) -
    シャルリとは誰か? 人種差別と没落する西欧 ((文春新書)) -


    家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫) -
    家父長制と資本制―マルクス主義フェミニズムの地平 (岩波現代文庫) -


    フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ) -
    フランスにおける脱宗教性(ライシテ)の歴史 (文庫クセジュ) -

    世界のなかのライシテ; 宗教と政治の関係史 (文庫クセジュ) -
    世界のなかのライシテ; 宗教と政治の関係史 (文庫クセジュ) -




    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/451662235.html 「こうしてわたしたちは負ける」? さいきんTLを賑わせていた性表現についてのPC系の話題。2つ同時になっていて両方とも「自粛しろ!」と当該表現元にうんたらかんたら。自分的には最初そんなに乗り気でもなく両方共そんなに取り立てるほどの話かなあという感じで見ていた。んでもなかなか鎮火しないのでまあこういうのはこの問題自体がほんとに問題というか、こういうのは皆さんのなにか語りたい欲を刺激しやすい話題なのだろうなあ、とか。いわゆる学校・教育問題だとみょーに皆さん口を出していく、みたいな。「それはしろーとでも強い立場で物.. 日記 m_um_u 2017-07-09T23:47:14+09:00 <![CDATA[
    さいきんTLを賑わせていた性表現についてのPC系の話題。2つ同時になっていて両方とも「自粛しろ!」と当該表現元にうんたらかんたら。自分的には最初そんなに乗り気でもなく両方共そんなに取り立てるほどの話かなあという感じで見ていた。んでもなかなか鎮火しないのでまあこういうのはこの問題自体がほんとに問題というか、こういうのは皆さんのなにか語りたい欲を刺激しやすい話題なのだろうなあ、とか。いわゆる学校・教育問題だとみょーに皆さん口を出していく、みたいな。「それはしろーとでも強い立場で物が言える / 関心をもてる問題だから」みたいなことを誰かが言ってたけど、そいえばこれも子供の教育的な問題に属するのか。「自分のため」というより「子供のため」となると燃料が着火しやすいのかなあ。。あと自分ドリヴンでもないので落とし所が見つかりにくく際限ないというか…。漠然とした不安を感じてヒステリックにギャーギャー言ってくだけなのでいつまでたってもギロンが終わらない。落とし所を見出そうとしない。

    その辺の心理、クレーマー的なものや「何かを損させられてるんだ」的な被害者と弱者意識?からのドリヴンみたいなのはまた別件で見ていこうかと思うのだけど(彼らはなぜあんなのに着火していくのだろう?)、「落とし所がない」という言葉が出たのでついでにいうとこの話自体の落とし所は両方とも「ゾーニング」と「レイティング」ということだと思う。コミケや薄い本系のギロンの蓄積から借りると「性的表現で不快になる人がいるとしてもそれは個人(間)の趣味的なものでたのしむぶんにはよいはずで、その部分で留め不快に思う人には見せないようにする」みたいなの。「不快に思う人」あるいは子供のように合理的判断能力がまだ備わってない(と思われる)人のことを配慮して該当表現を愉しむ場所を囲い込み、そういった人たちの目に届かないようにする。コンビニのエロ本とか、あるいは電車のエロ中吊り広告とか。あるいはお笑い番組的なノリにもそういうものは見られる。直接には言及しなくても同業界のそのへんの倫理意識の低さは垣間見える。まあ倫理が低いっていうか世間並みなのだろうけど。それらはゾーニングとしては未だ甘くて、特に中吊り広告なんかは確信犯的ダダ漏れと言ってもよいのだろうからそういうのが「当然」としてまかり通ってるような社会においては今回話題になったCMなんかも「ちょっとした冗談じゃん?」ぐらいで済むようなものなのだろうけど。

    そういったことを考えると今回の件程度のことよりもより構造的な、社会全体の意識変換が必要に思われるのだけどそういうことをいうと「まず見えたものを一個一個叩いていくこと、その場でプロテストしていくことこそがたいせつなんですよ!」とかいうひともいてまあそうかあとかも思ったりする。んでもその語り方が特に落とし所もなくヒステリックに怒ってるだけのように見えたら周りは引いていくだけのように思うのだけど。彼らが仮想敵とする人はもとより、特に関心のない第三者的な人もますます聞く耳をもたなくなるというか…。

    ではここでいう「落とし所」とはなにか?というと、利益相反する二者が存在し紛争となったとき、相互の利益を尊重しつつ妥協できるような地点(を模索する)ということになるように思う。そういう紛争・衝突の場合、得てして双方が最初に求めた要求が完全に通ることはない、ので相互の妥協点を探る。双方が合理的に納得できる線を探って。

    今回の件の場合、きちんとやるとしたらジャンプとか当該CM担当者との交渉ということになるのだろうけど、まあだいたいもう済んだことみたいな感じにはなってる。当たり前だけど。ジャンプとしては「今後の意見として参考に致します(ペコリ」程度だし、サントリーのCM担当としてはさっさと当該CMを取り下げたみたい。まあ後者は最初から炎上でバズるのが目的だったようだから目的は十分に達せられたのだろう。そもそも両方ともいち消費者としては「買わなければ良い」で個人的なゾーニングはほぼ達せられるはずだし。

    「だったら買わなければ良い / 見なければ良いとかいったって目に飛び込んでくるんですよ?!公共的なものなんだから!」つってもジャンプのようないち週刊マンガ雑誌がどれほど「公共的」なのか。。あるいは当該ウェブCM。まあ後者はTLとかでボーッとしてて流れてきたら不快というのはあるだろうけど電車のエロ中吊り広告と同じく。んでもたとえばTwitter公式アプリなんかだと「この広告には興味がない」で見ないようにできるしなあ。。そもそもふつーに過ごしていてそういうものに遭遇したとしてもそんなに意識するようなものなのかなあとかは思ったりする。特に後者のCMについては。端緒となった「エロ表現だ!」という騒ぎ立てで既存の見立て(PC的にまずいとされるようなポイント)で焦点化されていった意識からすると「エロくてけしからん!」ということにはなるかもしれないけどふつーにみる分にはどうということのないCMのような。。「あれはあきらかにオーラルセックスをメタファーしてる!」つってもまあそういうのもあるんかもねぐらいでそのときそういうことを思った自分の心根を恥じたりするんだけど自分の場合は(「いやらしい!」というひとのほうがいやらしい)。前者のジャンプのエロ表現みたいなのの場合は奇形ともいえるおっぱいのほうが気になってその奇形さへの違和感からドリヴンしたのかなあ。。みたいなのはある。発端となった人もそういった自分の違和感と不安を既存の別のタテマエですり替え合理化したようなところがあるのではないか?直接聞いたわけではないから知らんし、そのように問えばすり替えと合理化が完成した人は「違いますよ!」というだけなのだろうけど。そして自分的にもあのマンガ表現の最初の違和感は持っていたわけだけど。「おっぱいがみょーに大きい」「画面に肌色が多い ≒ 安いエロ漫画みたいな表現だ天下の週刊ジャンプ様にしては」。

    そういえば別件で燃えてる?北原みのりさんの件にも似たようなところがあるように思われる。最初の個人的な違和感、と、公共的な関心・ポリティカル・コレクトネスな倫理のすり替え、みたいなの。表現・言論の自由ガーという人たちではおうおうにしてそういうことが生じてるように思う。あるいは民主主義ガーとかいう人たち。自分たちに都合の良い時だけ「言論の自由ガー危機デー」とかいうけど対立する人の言論の自由は考慮せず、ときとして言論の機会をつぶしたりもする。それが彼らの「民主主義」なのか?とか思ったりもする。


    まあそのへんは皮肉的な視点だからここまでにしておくとして、こういった問題ではやはり個人、あるいは少数の不快をどのようにほかの人々に訴えていくか?というのを考えさせられる。「バッドフェミニスト」でロクサーヌ・ゲイがいうように、問題を軽く扱いすぎて特に関心のない人たちから軽んじられたりしないように、かといって重く訴えすぎて聞く耳を持たないようにされるのも好ましくない。その中間を目指して。



    「こうして私たちは負け」ないように



























































































    バッド・フェミニスト -
    バッド・フェミニスト -



    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/451385799.html 障害者、あるいは、リベラリズムをめぐるオリエンタリズムとモラハラ帝国主義あたりの話 前回に引き続きバニラエア這いずり搭乗事件について。てか、自分的にはこの事案、および、これを出汁に行われてる左/右?のアレゲ点にいるひとたち同士のモラハラ合戦みたいなのは興味もなく、この件についてももともと一般的なニュース程度にしか興味ないので該当ケースの事実関係だけインストールしたら撤退したい感じ。いちお言及してコミットしたのでそのぶんおべんきょーはするけど、ぐらい。今回日記的に思考/試行をとどめたいのはその件を受けた喧々諤々合戦というのがなぜああもつづいてるのか?ということ.. 日記 m_um_u 2017-06-30T20:56:24+09:00 <![CDATA[
    前回に引き続きバニラエア這いずり搭乗事件について。てか、自分的にはこの事案、および、これを出汁に行われてる左/右?のアレゲ点にいるひとたち同士のモラハラ合戦みたいなのは興味もなく、この件についてももともと一般的なニュース程度にしか興味ないので該当ケースの事実関係だけインストールしたら撤退したい感じ。いちお言及してコミットしたのでそのぶんおべんきょーはするけど、ぐらい。今回日記的に思考/試行をとどめたいのはその件を受けた喧々諤々合戦というのがなぜああもつづいてるのか?ということについて。彼らは「障害者のため」みたいなことをいいつつ自分たちの正義を通すために障害者を出汁にしてる印象がある。実際の障害者の便益、ぢみな迷惑は度外視して。そういうのは好かないのだけど自分もこの件を端緒に「なぜ喧々諤々が生じるのか?(もうちょっと冷静に、事実ベースのみの情報交換と対話で終わらんのか?事実ベースだけじゃなくてももうちょっと冷静に。。」について思考を進めようとしてて、まあそれもこの件を出汁にして語ってると言えばそうなのだけど。


    いちお今回のメインは当事者の出演したsession22のインタビューだったのでそれを中心に。あとは倉橋弘さんという専門家のかたによるCiiNii論文とか。

    前回の日記での疑問として残っていた「(車椅子仕様などの障害者が公共交通機関を使う場合、職員の介助やスペースの確保が必要なので)事前連絡が必要と会社側から要求されてるけれど、なぜ事前連絡をしなかったのか?」「ゲリラ的に乗り込みが許されたとしても、窓口で職員と半ば約束となっていたはずの『身体を抱きかかえられて搭乗するならおk』を反故にしたのはなぜか?」辺りが自分的な関心のメインで。

    前者については「事前連絡すると予約を断られるケースが過去に他の会社であったから」「急な用件で事前連絡もできないような場合もあるし」「そもそも介助を要求するほどのものでもなくひとりで搭乗できるので(会社側にはなにも用意される必要はない)」あたりが回答として上がっていた。このなかでも「介助を要求するほどでもないと思っていたので」あたりが「事前連絡をしない」という行動選択をした一番の理由と思われる。

    後者について。「なぜ身体を抱きかかえられる、のではなく、車椅子ごと抱きかかえられようとしたか?」。回答としては「そういうやり方でほかの航空会社ではだいじょうぶだったので」とのこと。そのあと身体を抱きかかえられるのではなく這いずって搭乗したのは当人の意志と選択によるもので、「海外の他の航空会社だとそれがふつーだし、いままでもそうしてきたし、それを屈辱とかと思うこともなくふつーだと思ってたので」との回答だった。それでもダメって止められたらしいのだけど。まあでもそこではそんなに喧嘩になったり、クレーマー的にふるまうこともなく、該当職員の方と手打ち的におわった、みたいな話を木島さんはされていた。

    んでも大阪に戻ってから「そもそも最初の段階で搭乗拒否ってどうなの?自分で勝手に搭乗できるのに?」あたりでムカムカして国交省に連絡したらしい。メールやら電話やらで。まあたしかに、「介助とか必要ないなら最初から断るのどうなの?」とはなるだろし。つっても最初から断ってたかどうかはけっきょくはブラックボックスで、航空会社側のタテマエ的回答としても「そういう件で『一律に』乗車拒否はしておりません」ということだったけど。なので乗車拒否のケースも有り、その選択には航空会社側の恣意性があるということだけど。まあそこは営利企業だし、該当の法律的にも「努力義務」規定されてるので法律的には問題ない。いちお。ただやっぱこの件でガーッと言ってこられると嗚呼…ってなって国交省側が対応したらしい。5日後ぐらいに。そうするとしばらくして航空会社側からも連絡あって、謝罪とともに「今後は、簡易な車椅子昇降機付けますから」ということで手打ちになった、と。まあなので当人間では終わった話だったらしい。

    いちおここでちょっと止まると、木島さん側もクレーム入れた理由として「(独力で乗り降りできるのに)最初から断るってどうなの?」を上げてたけどこれってあとづけで、本来なら(ゲリラ的にせよ)搭乗は(しぶしぶ)ゆるされていたので復路で問題がなければ木島さんとしても訴えることはなかったのだろう。ならば本当の理由は復路の応対にカチンと来たからということなのだけど、まあテクニカルにはこっちのほうが訴えにしやすいからなあ、というところ。いわゆる「当該交通機関の合理的配慮が必要ないのに乗車拒否されるのってどうなの?」ということ。「合理的配慮」というタームはこの分野を語る上でキータームになってるようで、それを巡ってのやりとりが係争上ではポイントになっていくみたい。合理的、すなわち、「航空会社側にもそれでペイされるか?やらコスパやらいろいろな事情はあるだろうからいちいちめんどくさい客にかまってられないだろうけど営利企業だし、んでも、そういった事情があるにせよ『このぐらいだったらペイできるよ』って教会はあるはずで、その範囲内で配慮すべきでは?」みたいなの。乙武さんも木島さんもそのへんを問題にしてたわけだけど。まあ本来ならバニラエア側も合理的配慮の範囲内で配慮してたのだろうし、復路まではいちお問題なかったのだろうけど復路で該当職員が強行にダメっていったってのが問題化した、のかなあ。。まあその強行にダメって言ったのにも現在のところ語られてないなんらかの理由があったりするのかなとおもうけど。あと、この件に関わった下っ端職員かわいそうだねえこの先も含めて、みたいなの。


    まあこの件はここまでとして、これからの連想として。

    けっきょくこれって当人間では手打ちで終わってたのにしばらくして朝日新聞の該当記者が掘り起こして記事にしたらしいのだけど、その際のやり方、焦点化の仕方が煽りっぽかったのだろうなあ。。「障害者に階段を這いずってあがらせて!」みたいなの。まあ自分も最初に見たときは(´・ω`・)エッ?逆蒲田行進曲か?とかおもったのだけど。そこでいろいろ切り落とされて、なんかみょーに「障害者にやさしくない社会」「障害者に優しくしろ」みたいなのが規範的にくっつけられて、「(障害者に優しくないのは安倍政権の弱者排除政策がー)」みたいなのが暗に含まれる感じでモラハラ合戦に燃料を注いでる、のではないか?まあとりあえず「障害者にもやさしくしろ」「バリアフリーを目指せ」というのは望ましいことだと思うのだけど現状不況で福祉政策的にもびみょーなかんじになってるわけだし、そのせいで福祉予算削られて補助金でないので営利企業としてもカツカツなのかなと思うのだけど特にこういう格安航空会社は。「そういう大々的な補助金でなくてもストレッチャー程度でよかったんですよ!」っていうのは後付な話で、こんな形で大騒ぎになったらけっきょくはご立派な昇降機を購入しなければならなくなり「それはペイできるのか?」といすみ鉄道の社長がいってたようなことが気にされるのだった。まあお上の査察が入って下手したら潰されることを思えば、ってことではあるのだろうけど。下っ端職員の命運が…(再)


    で、

    そういった流れがあったと仮定した場合、それが暗黙の下地になってモラハラ合戦続いてるのかな―、と。そんでその際の全体の差別と逆差別の構図、あるいはその構図を元にした権力の流れみたいなのをボケーッと思ったりした。読んでた本に絡めて。「読んでた本にからめて」な話なので以下はぼんやりとした話になるのだろうけどまあそれが思考であり試行であるのでm(_ _)m自分の試行的な思考なのでヒトサマに強いるものではないです。単に「思った」だけ。思うのは自由なので。

    朝日新聞とか毎日新聞とかにそういった流れ、安倍政権打倒でー、みたいな流れがあるとした場合、それは菅さんのときに大コケしてマニフェストで勝負できなくなった民主党が「安倍政権はファシズムだ―」一本で戦うことにしたからかなーと思うのだけど、その選挙戦術?みたいな民主党戦術にマスコミも乗っかってステロタイプ的な言説が固定化してしまってるのかなーという印象がある。まあそれはひとつのやり方としてあっても良いのかなと思うのだけど、こういうのにもそういう影響があるとするとちょっとステルス的になっててイデオロギーぽいのでやめてほしい。。気づくまで遅くなってムダにモラハラ喧々諤々するので。逆に最初から「これはPRです」みたいになってれば「ああPRなんだねー」ぐらいで済ませれるし、わかっててそれを選択するのも自由だろうし。

    サイード「オリエンタリズム」的にはこういうやり方もオリエンタリズムというか、一種の異化からの言説の膨らましなのだろうなあという印象。すなわち、かつて西洋(オクシデント)列強が東洋(オリエント)にエキゾチズムとともにみょーな偏見と期待をもったように、「リベラル」を聖化←異化するひとたちは最初からそれをみょーに聖化して一切の妥協をゆるさなくなる。そして、その反照としてそういった「リベラル」の規範に従わないものは野蛮で無知な下等民として扱うようになる。いわゆる「反知性主義だー」とか「もっと謙虚になりなさい」とか彼らがいう(わりには漠然としてよくわからん)あのへんの心性というのはそういう背景から出来てるのかなと思われる。で、特に生活的実態や実感とつながらない彼らの言説だけがみょーに暴走していき、それがゆえに内容がなく対話の取っ掛かりがなくなっていく。その流れに無自覚に関わった人たち、知識のない良心の人たちは彼らのモラハラをもって「自分はそういうのにやさしさをもてない『悪い』ひとなんだ…」と己を苛み反省する。彼らが言うように「謙虚に」なろうとする。結果として、四角四面の教条主義だけでは矛盾が生じても、あるいはちょっとした生活的違和感が生じてもそれは捨象されていく。そういった違和感をもつことは「悪い」ことなので。良心の人たちの「界隈」から弾かれたくないので。

    なるほど、それが「権力」というものかなーとなんとなく思う。そしてその偏見にもとづいた文化領域への侵略こそ(ハードパワーに対する)ソフトパワー的な寝食なのだ。文化領域、というか、一定の規範とそれに基づいたモラルを人質としたモラル領域への侵食。文化領域へはその派生的な流れとしても侵食するのだろう。いわゆるりべらるな読み物として。そういう(対話不可能な価値)を中心とした文化領域(上部構造でありイデオロギー)を中心とした帝国主義的侵略というのはアメリカがある意味宗教国家といわれるのにも似てる。彼ら「りべらる」を自認するひとたちの規範とは宗教的な典範のようなものなのだろう。まあなので彼らのやってるのは宗教なのだ。岩波-朝日的なサヨク的なりべらる文化帝国主義。

    まあもともと文化人類学とかも帝国的な軍による植民地支配のための研究領域のスピンアウトだしな―。予算としても軍のこういう研究が一番付くわけだし現在のアメリカでも。そのアナロジーからだとたとえば「リベラル」な文化帝国主義におけるわれわれ下等平民の位置というのはポストコロニアル的な抵抗ということになるのかなーとブレンジンスキーの古典を読みつつ改めて思ったりしたのだった。いやあ帝国主義帝国主義


































































































    オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
    オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -

    ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム -
    ブレジンスキーの世界はこう動く―21世紀の地政戦略ゲーム -



    「鉄血のオルフェンズ」の終幕とガンダムサーガについて | m_um_u | note
    https://note.mu/m_um_u/n/n2cf69d06e9d7


    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/451359066.html バッド・リベラリスト TL的にまだバニラエアを巡った話題がちらついててうぜえなと思いつつ、「なんでこの話題こんなに続くのかな?(みんないっちょ噛みしたがる琴線に触れるのかな?)」「それを『うぜえ』と自分が想ってしまうというのはどういうことなのかな?(そして思いつつも言及してしまうというのは?)」、というのをなるべく心根を中立にして問おうとしたときやっぱなんらかの権力がはたらいてるからなのかなーとおもった。まあそれはかなり抽象的に俯瞰したレベルからの話だろうけど、もうちょっと卑近に、最初にいっちょ噛.. 日記 m_um_u 2017-06-29T23:38:30+09:00 <![CDATA[
    TL的にまだバニラエアを巡った話題がちらついててうぜえなと思いつつ、「なんでこの話題こんなに続くのかな?(みんないっちょ噛みしたがる琴線に触れるのかな?)」「それを『うぜえ』と自分が想ってしまうというのはどういうことなのかな?(そして思いつつも言及してしまうというのは?)」、というのをなるべく心根を中立にして問おうとしたときやっぱなんらかの権力がはたらいてるからなのかなーとおもった。まあそれはかなり抽象的に俯瞰したレベルからの話だろうけど、もうちょっと卑近に、最初にいっちょ噛みしたくなるのはそれをもって簡易にマウンティングなりなんなりしてうまいこといえるからだろうし、その「自己表現」をもって注目を集められるからだろう。あるいは、それ以前の先有傾向的にその話題に属することになんらかの文化・社会的アイデンティファイをしていて。その「縄張りを侵食された!」と判断して防衛機制が働く、とか。

    そうやって俯瞰すると「強いられてるんだ!」系の話題なので特に言及しない / 言及するにしても事実レベル、あるいは、ニュースのファーストインプレッション程度にとどめ、そこに自身のなんらかの掛け金を乗せない、というのが賢いやり方なのだろうけどネット世界において。


    たとえば自分がひとりでニュースを見ていた場合、あるいはネットとかかわらない一般世界でこういったニュースに触れた場合、たぶんそんなに引っ張らずにファーストインプレッション的な話題で済ます / 済まされるのだと思う。「ああ、そんな這いずるなんてことあったんだねぇ」「なんかすげぇな。。航空会社側が要求したものだとしたら」「そういうの起こらない方がいいよねぇ」ぐらいの。終局としても「航空会社がストレッチャー用意したんだね―」「まあそれなりに対応したんだからよかったよ(*´・ω・)(・ω・`*)ネー(中の人(特に下っ端)たいへんだっただろうけど」、ぐらいで終わる話。障害者に冷たいんじゃないの?みたいなこと言ってもそれが世の中のふつーだし、一般的にはニュースで伝えられる話題はそのように消化されてるし、不幸や差別はこういったこと以外にも日常的に転がっている。こういったことでことさらに話題にならない限り、あるいは自らのなんらかの掛け金をかけてプライド争い的な事にならない限りは特に気にすることもないし気にされることもない。自身が属するマイノリティ的な話題も。あるいはなんらかの不幸や実存的な課題が関わる話題も。「そういったもの」として流すし流されている。それがみょーに話題になり、マウンティングの仕合いで掛け金が上がっていくのは「ニュース」や「sns内のニュース」といった世論という権力に動かされているからだろう。まあそれが権力かどうかははっきりせず権力以外のなにかでも良いのだけどとりあえずそういった空間から離れた自分を想定した場合こういった事態はふつーではない。

    まあそういった動態(があるとすれば)は別の機会に考えるからいいとして、今回の件で「掛け金が上がっていく」「カチンと来てなんか言及したくなる」ことの要因の一つとしてみょーな皮肉合戦があるように思う。それは一つ前のエントリでも触れたのだけど。本来なら、あるいは、特に関心もなく一般的な関心程度の話題であれば、事実を中心とした情報の交換程度で「へー」で終わる程度で良いはずのものにみょーに倫理と規範を乗せてくる。(一般人のふつーの態度として特に自己の実存をかけていない一般的な話題であっても)事実をベースとした対話によって対象事案についての正確な認識に近づき、ナンダッタラ問題が解決するといい(*´・ω・)(・ω・`*)ネーで済ますぐらいがふつーのはずだけど、最初からミョーに「○○しなければダメだ!」「○○が足りない!」とふっかけてくる。事実ベースではなく倫理ベースで。事実ベースではなく倫理ベースなので問題の構造的解決(の糸口)には繋がらず、いつまでたっても根性論的な精神論で終わる。結果的に玉砕して果てろというがごとくに。まさに一昔前の革命的な思考であり志向!やりがいの搾取というかモラルを搾取し人質にしているのだろう彼らは。そして彼らは下々には「もっと謙虚になれ」「謙虚にオレ(たち)のシソーを敬え」「ただしいシソーのもとに革命を行え」と説くのだ。結果として暴力革命以外のものが見えないような道筋で。対話ではなく暴力。それは今回もそういった傾向のひとたちが説く「正しい行動」のあり方を見てると伺える。「(空港側に対話を求めても最初からキャンセルされるのがわかっていたので)対話をすっ飛ばしてゲリラ的作戦で実効支配したのだ。それは正しい」。けっきょくそんなものなのだろう。


    「対話には相手が応じないだろうなのは明らかなのでそれはすっ飛ばした」。そういった事情もあるだろうなあとは思いつつ、結果的に、そういった通常の手続き過程を踏んでいなかったということですよね?という疑問は残る。加えていうと、そういうゲリラ的な戦術でいきなり空港に現れて予約をねじ込んだとき、空港側から妥協策として提案されていた「(身体をお連れの方が)抱きかかえて降りるんですよね?」な約束も反故にされた。現地で降りる際に車椅子神輿でワッショイしたのを警戒したのか、帰路でそれはダメだと禁止したところでなぜ身体を抱きかかえて登らなかったのか?「身体を抱きかかえることも空港職員が禁止し帰りの便に乗ることを拒否されたからだ」ということかもしれないけれど空港職員側からそれを禁止したという話はでていただろうか?よしんば空港職員が身体を抱きかかえて登ることさえも禁止したとして、その禁止の頑なを招いたのは最初の約束を反故にされた警戒心からだったのではないか?まあ結果的に、このようなパフォーマティブなアクションをされ、それを大々的にニュースにされてけっこうなイメージダウンをされたわけだけど。客対応における「クレーマーが騒ぎ出すまえに菓子折りを出したほうがその後のイメージダウン損害を考えると安く済む」的なの。お客様は神様です上等な日本だとこういうのがふつーとされている。ドイツのふつー本とか読んでるとありえないだろうこういうのは。まあそのまえにPC的な配慮で障害者用の設備も整えておくのだろうけど。通常の、格安でない航空会社なら。



    まあこの事案自体についてはそんなに詳細に触れるつもりもなくてここから思ったこと程度のことがメインに考えたいことなのだった。前回も少し触れたけど「なんでもうちょっと冷静に対話できないのか(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」というのと「もうちょっと『正しいこと』以外の自分のホンネを出してもいきなりガーっとやり込められることもない空気にならないのか(*´・ω・)(・ω・`*)ネー」ということ。そういった正しいことの「理想」と自分たちの生活的現実的ホンネとの止揚にこそ生活にもとづいた思想性と民主主義があるように思うのだけど。

    「なぜそれができないのか?」ということについては「日本人はそういった冷静なディベートの訓練が積まれてないから」というのはよく言われるのだけどあまりそういった「海外ではー」という出羽守的なことをしたくないなとおもいつつ、まあたしかに、自分の経験的にもらくだオランダ人なんかとそういう話してるときは本格的に対立することもなかった。彼はオランダ人のくせにファシズム好きで、軍国主義時代の日本好きで、首チョンパ的なアレゲがすきでファイナルファンタジーほか日本のヲタ文化好きなアレげであり自分からは違和感をちょこちょこ表出してたのだけど。基本的にオレ、リベラルだし。特に喧嘩にもならず「そうですかー そういう考えもあるですねー」と意見交換しつつ笑いあっていた。まあそれは自分が先輩、彼が後輩的な立ち位置というのもあっただろうけど。あまりそういうの関係ないよな欧米人は。



    とりあえずもうちょっとモラハラ的な皮肉合戦以前に事実ベースでの対話であっさり終わらせられないのかな―とか思ったりする。あっさりでなくてもどっぷりでもよいのだけど。そして、事実の交換だけではなく「そのように世間は言っても自分は違和感ある」的なホンネ開陳でもよいのだろうけど。それが誤っているなら対話を通じて修正していけばよいのだろうし。事実ベースで。なぜ最初から喧嘩腰に、あるいは嫌味や皮肉気味に牽制して煽るのか…。まあそんなこといいつつ自分も結構そういう嫌味はしてる(むしろしてる)のだろうから人のこと言えないだろうし反省するのだけど。




    そんなことを思っていたらこういうのって少しまえに読んだ「バッドフェミニスト」の紹介記事でいってたことなのかなーとおもった。まあ紹介記事だから同書で書かれてることそのままでもなく紹介者の我田引水的なところもあるのだろうなとは思うのだけど。あの記事やアマゾンレビューから伺える「バッドフェミニスト」のエッセンスなところとしては「『正しい』のはわかるけどホンネで語っちゃダメなの?」ってことだったように思う。ホンネで語るっていってもいきなり過去の『ただしさ』あるいはポリティカル・コレクトネスに形成されていった規範を前面撤回するということではなく、その範に則った上で「でも、実際の生活ではね…」って修正していくこと。「こういうことも思ったりするよね(世間的には『悪い』っていわれるのはわかってるけど」ぐらいの。

    そういうことを通じて、過去の世代が築いてきた規範や慣習を現代的に修正していくことが大事なんじゃないかと思うんだけど。そしてそういう形で両極に落ちず?に踏みとどまるほうがけっこう辛いように思う。一方に触れればかなり楽だろうけど。


    まあとりあえず同書は読もうと図書館に予約した(明日には用意されてるはず)。「ブリジットジョーンズの日記」の続編も見よう。なんとなく。(鈴木涼美さんは保留)

















































    バッド・フェミニスト -
    バッド・フェミニスト -












    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/451323560.html バニラエアのうんたらでノマノマv( ̄Д ̄)v イエイ 朝に昨今のクソリプやめろ的な空気と今井絵理子さんの「批判なき」うんたらについて日記でもしとこうかなと思ってたら別件で昼ぐらいにクソリプついて(#´ω`)…てなったので記念的に。増田に「アレは通常の『批判』て意味ではなく若者言葉でのdisを意味するのだ」みたいなのあったけど、実際のところどうなのかわからん。元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言にネットで非難集中 | 独女 [DOKUJO] http://www.dokujo.com/entertainment/62.. 日記 m_um_u 2017-06-28T20:18:22+09:00 <![CDATA[
    朝に昨今のクソリプやめろ的な空気と今井絵理子さんの「批判なき」うんたらについて日記でもしとこうかなと思ってたら別件で昼ぐらいにクソリプついて(#´ω`)…てなったので記念的に。増田に「アレは通常の『批判』て意味ではなく若者言葉でのdisを意味するのだ」みたいなのあったけど、実際のところどうなのかわからん。

    元SPEED・今井絵理子議員の「批判なき政治」発言にネットで非難集中 | 独女 [DOKUJO]
    http://www.dokujo.com/entertainment/62444.html

    はてなの中高年は今井絵理子の発言を理解できない
    https://anond.hatelabo.jp/20170624022831

    あいつらは「批判」をすっごい悪いことって意味で使ってるの。
    「批判」は和を乱すとか喧嘩を売るって意味でしかない。ケチをつける。因縁をつける。人の気分を悪くする。
    これはもちろんおそるべき低知性・低学歴の表出と取っていいと思うけど
    ディベートやディスカッションの訓練をしない日本の公教育カリキュラムの悪影響も合流してると思う。
    意見をぶつけ合うことは異常事態であって悪いこと。



    (あまり時間かけてブログするのもなんだからこういうリンクとか引用もなるべくやめようとおもったのだけど日記風にまとめてるだけだとしばらくたって読み直すと当時に当然と思ってた話題の詳細がわからんくなるのでアーカイブ的に)

    今井絵理子さんの言ってることは昨今のついったーなどでの「クソリプやめろ」とか「年上男性による説教はマンスプレイニングにすぎないのでやめろ」みたいなのと同じことだと思うのだけど。単なるマウンティング的なクソリプがうぜえってのはたしかにあるけどFF(ふぉろーふぉろわれ関係)外からのリプのだいたいをクソリプとしてるようなひとたちもいてそれってどうなの?みたいな狭量さを思ったりもする。こういうのが昨今のfbなどでの閉じた世界とフェイクニュース的な「うちら」真実のエコー・チェンバー的な涵養の土壌になってるのだろうしなあ、とか。まあそのへんについてはもそっと現代若者論とか社会学とかからの詳細をもって相対化していく必要があるかと留保を入れるのだけど。それとはべつに「正しい批判と単なるdisの違い」みたいな話がある。

    ただしい批判というのは研究界隈ではよくある「テーマそのものに対する疑義をもって対立意見を出し、対立した意見をもったものと一定の論拠を通じてテーマとなる事象自体の真実に近づいていこうとする」もの。「批判的(critical)に検証する」なんていうときの「批判」はそうだし批判理論なんかはまさにそういうのが前提じゃないと成り立たない名称だったんじゃないかと思うけど詳細忘れた。まあウィキペディア見れば載ってるのだろう(本件でそんなに重要な事ではないのでぐぐらないしりんくはらないけど)。

    で、

    そういった立ち位置をあらためて反省的に思い出したのでよぉ~し、オレもff外からのクソリプとか喧嘩腰外交とかでもテーマに沿って対話につとめるぞーとかおもってたのだけど…。まあ下にまとめた該当ついーとのアーカイブをみても分かるように結果的にみょーに喧嘩腰に来られて、テーマ(の修正を通じた理解とか)は深まらず、なんだこのひと?みたいな不毛さと不快さのみをのこしてりぷらいの応酬は終了したのだった。まあついったーらんどではいつもの光景なのだけど。「野間さんにたいして、おれも偏見あったかもだからちゃんと話してみるかー」とか思った結果がこれだよ。。とか思ってアレだ。。まあいいんだけどテーマになった事案である障害者の生活とかバリアフリーの実際、その不利益とかに比べると大した話でもないし。

    んでも、こういうご大層な?テーマを扱うときにそのひとがその大層さに酔って、目の前の、自分自身の暴力は看過するというのはどうにかならないものかなあとかおもったりする。まあ暴力というほどでもなくて失礼でありハラスメントなんだけど。じっさいに嫌な思いしたし。この件に関して、対象となった事案や障害者のひとにはとくになにも影響はせずたんにオレの嫌な気持ちが残ったというだけは現実であり事実なんだけど。


    それにしてもなんで野間さんいきなりリプしてきたかな―。エゴサーチしてるんか―やっぱ、とかは思うのだけどエゴサーチはまあいいとして(自分はしないけど)、朝に小山エミさん関連の野間さん話をしてたのが一番ポイントだったのかな―とあらためて思った。『野間さんが影響受けたという小山さんによる差別の構造的問題な説明。「付け焼き刃な親切は却って構造的矛盾を助長するとこがある」というのは首肯できる面があるところもあるけどドブ板な現場レベルではマンパワーに期待されているのでまあ理想論だなと』あたり。「障害者排除などの構造(アーキテクチャ)的な矛盾が目の前にある場合は、ヘタに周りの人が親切してその溝を埋めてるといつまでたっても問題は解決しないので構造的欠陥は放置しておいて矛盾を訴えるべし」ということかとおもうけど、そんなこといっても実際にはたらいてる現場とか生活の現場でも上のレベルがアホで馬鹿だから進まない構造的欠陥があった場合現場レベルで対処していく(とりあえず)というのがふつーだからなあ。。そして、それとはべつに構造的欠陥をなおすように上に訴えるわけだけど、内部での訴えだけけだと潰されるので労基とか頼ったりってのはありつつ(労基に匿名で訴えてもびみょーだから退職時に最後ッペ的にやるかどうかはその人の良心次第みたいなのもあるけど)。


    まあなので、野間さん自身はこのへんがカチンと来て彼のやり方の本質的なアレさを批判されたのかということでふっかけてきたのかと思うに、彼が「油断あり」と踏んだ箇所がそんなに鉄板で弱い箇所でもなかったので、って感じだったのだろうか。できれば彼の「目的のためには手段を選ばない(暴力には暴力(あるいは場外乱闘的手段)で対処する」なやり方の是非を聞きたかったけど。人となりはあらためてわかったのでこれ以上、話すこともないのだろうな。スパム報告したし。


    そういったやり方が有効、あるいは必要とされてきたのは差別がふつーな昔、あるいは現在でも差別がふつーな環境では理性的な対話や要求そのものが通用しないという現状があるからかもだけど、んでも、だからといって最初から対話を飛ばして暴力的なやり方に訴えていたら単なる暴力な人になるだけのように思える。彼の場合は特に、大義名分をもとに己の暴力性を発散したいだけにもみえるし(あるいはそれはたんに偏見で、彼の中の『ただしい』『ただしくありたい』な公正世界的な規範がつよすぎて人を寄せ付けないだけなのかもしれないけど。


    蛇足的にいうとさっきえねーちけーのニュース見てたら当該のバニラエア航空の件をやっていて、「(そもそも規定で乗せられないことになってるけど例外的に乗せたのは)タラップの乗り降りの際に付き添いのひとたちが『(身体を)抱きかかえて』乗せるという話だったかと思っていたのだけど、現地についてみると車椅子ごと抱きかかえて危ないと判断したので止めたところ…」みたいな話だったバニラエア側からとしては。帰りの搭乗でも車椅子ごと抱えて上がろうとしたらしい。まあたしかに車椅子に乗せたまま抱きかかえてたら不安定だろし、ふつーに搭乗だけが目的なら周りのお仲間に身体を抱きかかえられて登ったほうが穏便に済むはずだからなあ。。バリアフリー運動のひとつってことだったのだろうけど。これをもって「プロ市民m9(^Д^)」とか「障害者めいわくかけんなm9(^Д^)」とかいうのも違うだろうしそういうのに与したくはないのでモニョーンとしたりはするのだった。

    できればふつーに要望と対話をつうじてそういったものが改善されていく社会が良いのだけど。まあデフレで不況ってのもあるからなあ。。それで格安航空だから予算なかったってのもあるし。






































    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/451140950.html 「現代ニッポンの論壇事情」とやらを読みました 話題になってるので気になりつつ座談会的な本なので読み散らかしてスルーしよかな雑誌的に、ぐらいで読み進めたのだけどおもったよりモニョンとしたものが残ったのでなんとなく日記で吐き出し。現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) - モニョーンの理由は本書雑談の品の悪さというか、居酒屋なんかで話しつつ界隈を貶す様子のスノッブさとウチワな感じに既視感を覚えたので。ああいうときのスノッブな知性・知識をカサにきた陰口悪口連帯というのは打ち解ければおもしろく気持ちのよいもの.. 日記 m_um_u 2017-06-23T21:48:14+09:00 <![CDATA[
    話題になってるので気になりつつ座談会的な本なので読み散らかしてスルーしよかな雑誌的に、ぐらいで読み進めたのだけどおもったよりモニョンとしたものが残ったのでなんとなく日記で吐き出し。

    現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
    現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -


    モニョーンの理由は本書雑談の品の悪さというか、居酒屋なんかで話しつつ界隈を貶す様子のスノッブさとウチワな感じに既視感を覚えたので。ああいうときのスノッブな知性・知識をカサにきた陰口悪口連帯というのは打ち解ければおもしろく気持ちのよいものなのだろうけどそこから疎外されるとなんともゲヒンに映る。彼らはそのゲヒンさを認識できないのだろうけど、それは彼らが悪口をいう連中に自分が親和性を持ってるから、ということでもなく単にゲヒンなのだ。

    んでも本対談というのはそういうのを前提にしてるからこそおもしろいというのもあるのだろうけど。実際、安全圏からのぞく彼らの界隈語りというのはおもしろく「ああ、あの人(たち)って業界でだいたいそういう位置にあったのかあ。。」などと学びがある。まあ彼らのスコープからというのもあるだろうけど「だいたい」なところで。

    そういう学びはあるにせよ本としての知識的充足は感じられない。その意味で実がないのが本書で、「本」と書くのもためらわれるのでところどころ「対談」とか「雑談」とかしてるのだけど「最初からそういうつもりでまとめたものだ」といえばまあそうかあ…ということではあるという繰り返し。

    実の部分として期待される、あるいは前提となっていたのは安倍政権に代表されるマクロ経済政策(その中でもリフレ政策と俗に呼ばれる財政・金融政策)の知識であり、それらを前提とした福祉・再配分政策であった。あるいはそれが実際に実行されそうになってる?イギリスの現状、そこに至る世間の空気感とか現状について、とか。要するにこの2つの本が前提となってる。

    この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
    この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


    ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
    ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -


    実の部分としてはこの2つを読んでおけば特にこの対談本は読まなくて良いかなという感じ。松尾さんの本でリフレ政策の機構を簡単に学習し、それが福祉や所得再分配と矛盾しない(むしろ量的緩和などで国債買い上げでゼロから作ったマネーをそこに投資するという公共政策ができる)というのが学べる。ブレイディさんの本ではそれが実際にイギリスで実行されそうになってる?というのが伺える。労働党コービンの躍進によって。あるいはそういったサヨク・リベラル周りの空気とかサヨク的なものとナショナリズムが矛盾しないとか諸々。(サッチャー→ブレア、シュレーダー→とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。メルケル的な)緊縮財政によって生まれる貧困家庭の様子とか。

    まあそれとは別にこの対談の実というのは現在の日本の論壇周りの俯瞰、一定の観点からのマッピングというところではあるのだろう。あるいは(論壇の中でも)どうしようもない経済音痴・アレルギーな老害たちによる空想的リベラリズム批判。要するに内田樹を筆頭とした「9条を守る会」とか「反知性主義打倒」な連中。あるいは上野千鶴子とか宮台とか。現在の日本の論壇の中心が岩波・朝日的な流れからなのかそういった連中を中心に視野狭窄したものになっていることの批判。特に彼らはなぜか経済政策に言及しないね?ということについて。つまり現政権を批判しても対案を出さない。その心性、根拠とはどういったものか?ということについて。そのあたりの結論としては「彼らは既に金持ちなお年寄りで、現在は金持ってるから貧困層の苦しみとか考えなくて良いし、自分たちの若いときの記憶といえば日本が豊かだった世代のそれに当たる。そして、それが雇用売り手市場の若者とマッチするのでSHIELDS連中をもてはやす」というもの。「-y( ´Д`)。oO○いまのロスジェネ世代は日本最弱で皮肉ばっかうまくて使い物にならん(大意)」とか発言してしまった内田樹周りについてはまあそうなのかもなーと思いつつも上野千鶴子その他についてはびみょーなんじゃないかなーとも思った。北田さんは上野もそういった連中の一人として「彼ら豊かな世代が経済政策についてはきちんと対案出さずに、とりあえずアンチだけ言ってれば良いと思うのは『経済なんか放っておけば回復する』とおもってるからなんですよ。ようするにレッセフェールです」ってことでそれこそが緊縮財政的発想の源泉としての新自由主義的なものにつながるのにって結論づけてたけど、単に思想的にそこまで突き詰めてないだけなんじゃまいかとかおもったりした。つまり「経済政策的に対案を出すことは自分たちの役目ではない」「対案を出さずともNOはいっても良い」ぐらいの。あるいは上野さんの場合はギデンズとかトッド、バウマンとか読んでそうな雰囲気もあるので、ギデンズの政策的な部分、あるいはトッドのそういったものとかに影響受けてるんじゃまいかと最近の発言でもおもえた(移民がどうとか、人口トレンド的に日本がどうとか)。そうだとするとギデンズのEU本的なもので展開されていたあれを念頭するに、そこでもリフレ政策とかははっきり言っておらず、全体的にいろいろリストラクションしてお金を生み出すみたいな発想だったように思えるのでそのへんなのかなーぐらいな印象。まあそういうのも買いかぶりなのかもだけど。
    揺れる大欧州――未来への変革の時 -
    揺れる大欧州――未来への変革の時 -


    あと、この対談(というか主に北田さん)の前提として松尾匡-リフレヽ(´ー`)ノマンセーな前提にしすぎな雰囲気が感じられたのだけど、リフレ政策もそんなに万能でもなくひとつの考え・チャレンジの一つ程度なんじゃないかなーという印象。たとえば現在だとそれが有効なように思えるけど、バブルが終わってマイルドデフレになってきたころすぐにこれをやらなかったのはふつーにインフレこわいねってのがあったからだろうし、ほかにもなんか指標・経済政策的なオルタナがあるんじゃないかなーという印象。まあ学習進んでなくて印象程度なんだけど、自分的にはこのへんもそっと学習していきたい。

    学習ついでにいうと労働(雇用)研究周りと経済政策をつなげて考えたりとか、筒井淳也さん周りを読み進めたりとか。後者はギデンズ関連からの家族社会学、アイデンティティの変容とか考えるうえでも課題図書になってたけど。


    ふたたび本対談に戻ると、(自分の見方もあるのだろうけど)けっきょく北田さんを中心とした集まりで、そうすると北田総括ということになるかなとおもったのだけどそのあたりは甘い感じがした。要するにしばき隊的な反ヘイト運動へのコミットとかどういうつもりだったの?あとそこからのサヨク(てか日本的りべらる)的なぬるさはどうなの?というのを後藤くんあたりがもうちょっとうんたらかんたらするのかと思ったのだけどそこは案外スルーだった。まあそれはしばき隊的な流れが安倍政権打倒に流れ、SEALDsと合流する中で違和感して離れていった / 最初はヘイトと直接的暴力はダメだろ―ってとこだけで部分的に賛同してただけ、とかいうことなのかもだけど。たとえば「彼らの運動は具体的な政治的影響力に通じていかない、たとえば経済政策→福祉政策への理解の無脳ぶりに辟易した」みたいな。そういうのはかつての民主党への政策提言集まりのときにも出されてそのときの提言はリフレ的なものと再分配的なものが加わったアベノミクス的なものにも近かったともいえたらしいのだけど(けっきょくは実行されなかった)。

    そういう意味では十把一からげに「サヨク」とか「りべらる」とかでm9(^Д^)されがちなひとたちもちゃんと考えてる層とそうじゃない層(経済政策とか対案とかまったく受け付けない層)がいるということの再確認やら俯瞰やらはできるね、という対談本でもある。本書では後者が「経済政策を受け付けないのは彼らが既に豊かであり、豊かであることを前提にしたレッセフェールだからだ」としてるけど自分的にはもそっと変な理由があるんかもなーとか思ってる


    本書の伏線とか、あるいは伏線としての本書があるとして旧論壇打倒・現在のアカデミズム正統でフルボッコ検証してやる宮台・東的な具体としてはこの本があったように思うのだけど

    社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -
    社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -


    自分的には「計量もできるようになったよ―(∩´∀`)∩」的な感じにしか見えなかった。統計分析な具体な章の結論がどうしても地味だったので。テーマ的には宮台・東的なものがどうしても主にあり、それを批判的に検証というだけだとどうしてもそっちの視角がメインになってるように思えた。それは自分がブルデュー的なものにもそっとアイデンティティの変容について考える材料をもとめていたというのもあったからだろうけど。ついったなどにも見られるような後期近代的なアイデンティティのゆらぎと再帰性によるクラスタ(界隈)の自己言及的な固定化。最近だとエコーチェンバーとかフェイクニュースがどうとかいう現象がそういったものの一部に当たるのだろうけど。

    そういったマイルドに階層?分化し、エアリプ嫌味とばすぐらいで、ディスコミュニケーションが広がっていく社会に対して。あるいはそういった社会を基層としたとき、ロスジェネを含んだ貧困や社会的な不安や困難の声 - 改革を求める意志がどの程度、社会全体にとどくのか?ということについて。とくに期待がもてないような内容で終わっていた。ヲタク臭いというか‥(まあ最後の腐女子うんたらについての論文はそれはそれで熱いものがあったのだけど)。「貧困層ほかの声が届くようなアクチュアルな期待もリアリティもない」ということだと本対談も同じで、たとえば北田さんほかはサヨク的な言説を唱える旧世代論壇のグループ性を「彼らはネームバリュー/数字持ってるからね―-y( ´Д`)。oO○内容なくても」的に批判してるわけだけど、それいうんだったら自分たちも似たようなもので、その「数字」をもとに出版資本主義/編集者に選別され、その地位から「ネット論壇程度のものはねーw」みたいなこといってるわけで…まあ入れ子構造の似たようなものだな(人気者の席に誰がすわるかが変わるだけで)という白けた印象しか残らないのであった。

    それとは別に貧困層や社会で問題を抱える層の声が届くかどうか?という問題。粛々と日々の労働・生活を送る人々(サイレントマジョリティ)の声が政治的に還元されるかという問題に対して。特にきちんとした理論建てじゃなくてもブルデューがアルジェ → フランスから見ていた問題意識のようなものをそのまま日本の貧困層 → 金持ちブルジョア層としてポスコロしてもいいのかなーとか。

    「声」のアーキテクチャ的にはシェア的な流通プラットフォームの整えとハンドリングってとこなのだろうけど、それはだいぶまえからいわれていて相変わらずうまくいってない。まあ従来の出版資本主義の人気者的なひとが「降臨」し、数字ーネットワーク外部性を引っ張ってくる、とかなのかなともおもうけど。そういうところだと従来出版資本主義がきちんとそういうひとたちを囲い込み(ロックイン)して「(ヽ´ω`)…りべらるとかいってるけどやってることはエグいよね。。」みたいなのみせつけるのだろうけど。まあ「食える」レベルの報酬は別にして、まともな言論が流通する場の継続的な維持ということだとやはりビジネス的なものが関わるのだろう。


    そういう意味では自分で掘って見てくしかないかな―(あまり期待しない程度に)とか思うのだけど、とりあえず知識人 - 反知性主義辺りのアレとしてこのへんからかなー。


    オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -
    オリエンタリズム〈上〉 (平凡社ライブラリー) -

    知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -
    知識人とは何か (平凡社ライブラリー) -



    [書評] 現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史(北田暁大、栗原裕一郎、後藤和智): 極東ブログ http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2017/06/30-1ebb.html

    池内恵の「反知性主義」依頼原稿への不快からの論壇disと解説
    https://m.facebook.com/satoshi.ikeuchi/posts/10203927148938140



    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/450990295.html 取らぬ狸の管さん用 昨日の朝にジョギングしつつなんとなく思ってたこと、「安倍政権憎しってやってる人たちに伝える言葉 / 対話のトバ口とかないのかなあ。。たとえば松尾さんの『この経済政策が民主主義を救う』なんかは『安倍政権に勝てる方法』て副題もついててわかりやすいだろうに」「んでもそもそも彼らはそういう対案的なものは考えてなくて、オイルショックや3.11原発事故→被爆の不安のときのようにフォビアになってるだけで、集団ヒステリーとか神経症みたいなものなのだろうしなあ。。そういうのも誹謗中傷的な見方と.. 日記 m_um_u 2017-06-18T21:23:20+09:00 <![CDATA[
    昨日の朝にジョギングしつつなんとなく思ってたこと、「安倍政権憎しってやってる人たちに伝える言葉 / 対話のトバ口とかないのかなあ。。たとえば松尾さんの『この経済政策が民主主義を救う』なんかは『安倍政権に勝てる方法』て副題もついててわかりやすいだろうに」「んでもそもそも彼らはそういう対案的なものは考えてなくて、オイルショックや3.11原発事故→被爆の不安のときのようにフォビアになってるだけで、集団ヒステリーとか神経症みたいなものなのだろうしなあ。。そういうのも誹謗中傷的な見方といえば見方なのかもだけど。んでも一種の不安神経症みたいな感じで『戦争内閣絶対反対!』て耳に残りやすいアレがこだましてるんかもなあ。。だとすると心理学と社会心理学的な観測が必要なのかむしろ」、とかをもそっとちゃんと書き残しときたいなあと思って該当twアーカイブしよかと思ったけどSeesaa blog からでは既に届かず。。200件先までしか追えないのか。

    まあとりあえず、昨今TL的にチラチラ出てくる「サヨクのみなさんも経済政策をまなんで」とかいうのもあまり意味がなくて、彼らにとっては最初から「戦争ぜったいダメ><」だけがあたまにあってそれ以外のものは詭弁てスタンスなのだろうから対案とか優先順位とかトレードオフみたいなのは通用しないのだろうなあとかなんとか。

    たとえば安倍政権に対してはわれわれ周りの人たちのスタンスだと「タカ派で阿呆みたいなところあるけど量的緩和を持続的にやるというのは確かだからその辺だけは期待するしかない」という「タカ派アホ < リフレ政策の持続」というトレードオフをもとにした消極的賛成が発生してるわけだけどそういうのも彼らにはないみたい。繰り返しになるけど経済的な思考-政策というのはすでに「詭弁」とでもとらえられてるのかもしれない。たとえば「新自由主義で切断していく内閣だー」みたいな見方もちょっとまえにあったし。まあそれいうなら量的緩和に踏み切る前の内閣である旧民主党政権のほうがアレゲだったんじゃないかと想うのだけど、管さんがビビって量的緩和ストップするまではマニフェストとやらにのっとって福祉政策とかもいろいろやろうという構えだったのかもしれしれない。まあよく覚えてないのだけど。ちなみに福祉政策切断新自由主義としては小泉構造内閣のほうがひどかった。管政権以降は財源なくてそういう政策もできなかったようだし。

    マニフェストと言えば管さんのとき以来、民主党から「マニフェスト」というアピールが消えたように想う。そういうことは長嶋さんも言ってたのだけど、「かつての民主党は政策でたたかおうとしてたけどいまは『戦争内閣絶対反対!』みたいな印象操作だけだし、森・加計問題みたいな政策ではなく政局(SCANDAL)みたいなとこでみょーにがんばろうとしてるし。。正直見るに堪えない」、みたいなの。まあでも直近の内閣支持率も落ちたようだからある程度効果はあったのだろうけど。そのヨコで「次期政権はいよいよ麻生内閣か?」みたいなのも出動してたり。まあ正直、いろいろ問題あり印象も悪くなった安倍内閣よりは麻生内閣のほうが良いよなあ。。経済政策的にも麻生さんのほうが主導だったんじゃないかと想うし。

    「あれ以来、野党がみょーに『戦争内閣!』て煽るようになった」ついででいうと、それがマスコミにも影響し、そういうのがTwitterほかにも影響したのかなあとかおもったりもする。Twitterて最近までここまでウヨサヨ的な政治的な話題というか、分断、敵か味方かみたいな殺伐ってなかったように想うのだけどさいきんみょーにこういうのでギスギスしてるし。まあこういうのも実際に統計なりなんなりとってみたら意外と違ってたりするのかもだけど。

    んでもやっぱ安倍政権ニクシ、というか、戦争内閣不安みたいなのでフォビアだかなんだかドリヴンしてる人たちってみょーに意識高いというかセンシティブになってるとこがあるように思えて、たとえば昨今の共謀罪なあれでも詩織さんなあれでも。共謀罪なアレは国際的なテロの不安とその協調のための関係として設定されたものだとしたら安倍政権ではなくても成立していただろうし、そもそも実行においては警察・公安機構がやるのだろうから政府とは直接関係はないのだよねえ。。まあそれは彼らからすると「タテマエであり、実際になると政府から権力が発動し、『なにか上からの命令だ』ってことで超法規的なアレがナニするのだ!戦時中の特高警察みたいに!」とかいうのだろうけどそんなこといってたら信号が青でも「車が来るかもしれないだろ!」とかいって渡れないのだしねえ。。まあでも政府と直接に権力的な癒着があるとしてもないにしても現在の日本の警察機構の問題というのはあってたとえば取り調べにおける密室性と市民の基本的人権いきなり剥奪的な横暴とか、一回警察が目をつけるとメンツにかけて叩き潰すために圧迫尋問みたいなことして無理やりイエスを引き出すような手法とか。そういうのは詩織さんのケースでも問題になってたようだけど(まあ彼女の場合は容疑者としてではなく被害者として告発してもひどい調査内容だったということだけど)。そういうの考えると問題は日本の警察のそういう部分ということで、それは政権変わっても共通するところなんだからそこから改善叫んだほうがよいのでは?と思うのだけど。

    あと、「戦前・戦中と同じだ―」「ヒトラーみたいだー」とかいってもドイツにせよ日本にせよそもそも開戦を決断せざるを得なかったのは不況かつ国際的な経済協調からハブられたからであり、不況が問題だったのだから経済政策とか気にして不況にならないようにしたほうが良いように想うのだけどそういうのが通じないのだった。

    まあでも、そういう警察の問題にしても、安倍総理や一部の自民党の政治家の阿呆な側面にしても、政党変わっても普遍的問題ならばそういうのを彼らがウォッチドッグしてくれてるのはそれなりに役に立つのかな―とか意識を変えるといいのかなあとも思ったりした。






    現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -
    現代ニッポン論壇事情 社会批評の30年史 (イースト新書) -


    この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案 -
    この経済政策が民主主義を救う: 安倍政権に勝てる対案 -



    安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書) -
    安心社会から信頼社会へ―日本型システムの行方 (中公新書) -


    世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫) -
    世界リスク社会論 テロ、戦争、自然破壊 (ちくま学芸文庫) -
    リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話 -
    リスク化する日本社会――ウルリッヒ・ベックとの対話 -





    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/450911969.html 「しかくいにかくが『まあるく』おさめます」 ジョギング行ってきたので汗が引くのを待つのがてら昨日のtwをメモ的に。一つ前のエントリにもかぶる内容なのだけどけっきょくネット上の、あるいはついったになってからその速度がより上がった感じの丁々発止というのは知識を資本としたマウント(オレ(たち)のほうがえらい / おまえ(たち)はバカ)合戦みたいなとこがあって事実にもとづいた意見交換・理解促進というわけではない。「ネット(Twitter)はギロンに向かない」とかいうけどネットとかのツールが問題なのではなくて最初からそういう姿勢.. 日記 m_um_u 2017-06-16T07:02:56+09:00 <![CDATA[
    ジョギング行ってきたので汗が引くのを待つのがてら昨日のtwをメモ的に。

    一つ前のエントリにもかぶる内容なのだけどけっきょくネット上の、あるいはついったになってからその速度がより上がった感じの丁々発止というのは知識を資本としたマウント(オレ(たち)のほうがえらい / おまえ(たち)はバカ)合戦みたいなとこがあって事実にもとづいた意見交換・理解促進というわけではない。「ネット(Twitter)はギロンに向かない」とかいうけどネットとかのツールが問題なのではなくて最初からそういう姿勢なのでギロンとか対話にならないんじゃないかと思う。ネットあるいはTwitterというアーキテクチャ、場にそういうのを促すなんらかの要素があるのかもしれないけど。でも、いつの間にかそういう「事実交換以前に馬鹿にする」みたいなスタイルがふつーになってしまった。たとえばたかが政治・経済の話でそれがその人の全人格的要素、魅力につながるものでもないものでもそれで少しでも知識的に劣ると一気にm9(^Д^)とする風潮。ちょっとそういったことでふつーの疑問を投げかけただけで○○警察みたいなのが来てモヒカン的に刈り取っていこうとする殺伐。そういうのは幼稚でもったいないことだなあと。

    まあそう思ったのもこないだsession22でそういう話してたのの影響受けたのかなあとも思うのだけど。「昔のぼくのブログみると文末に草生やしてて恥ずかしくなる。聴衆を意識してそういう振る舞いをすることで『自分のほうが優位に立ってるんだぞ』と見せるような印象操作。いま、過去の自分に言えるとしたら『そういうのはやめたほうがいいぞ?』と言うと思う」みたいなの。あと「ネットでの発言の変化・同一性ってどこまで許されるんでしょうね?人は変化するものだと思うのだけど公人でもない私人の過去のブログ発言を見つけてきて現在の違いを矛盾としてあげつらうようなの。政治家などの公人でもない私人にはそういうのに付き合う義務も責任も本来はないわけだけど」みたいな。まぁ、チキさんは一気に成功しちゃったので昔とも環境が変わりそれに伴い変化するものもあったのだろうし、「金持ち争わない」的な余裕のもとにそういうこと言ってる側面もあるかなあ(ヽ´ω`)…成城トラカレも遠くに来たもんだ、と遠い目したものだけど。


    話を元に戻すと知識資本と嘲り合い(マウント合戦)みたいな話。

    自分的には<それによって彼らがなんらかのアイデンティティ-縄張りを確認しあってる ← なんらかのアイデンティティをそうやって確立する必要が無意識のうちに生じてる?>みたいな視角がある。その大きな背景としてはギデンズがいったような後期近代化による変化の影響というのがあるのかなと思うけど、なにがどうなってそういう風になるのかはまだよくわかってない。のでこれからおべんきょーしていく予定。ブルデュー、マルクスなんかも交えつつ。あるいはアイデンティティゲームというところで発達心理的なものと幼稚性みたいなのも見てくかも。


    優越感ゲームというのはネット全体の現象というか、ついったとかでも政治経済(というかウヨ/サヨレッテル貼り合い)系以外の話題でも生じてるのだけどフェミ/ヲタ(ミソジニー男性)とか。直近だとウヨ/サヨがわかりやすかったのでそういう例として。

    そして、誰かが図示して言ってたけど、「こういうのって双方の属性の一番上のところにえらいひと・知識がある人がいて最下層に知識がないひとがいるのだけど、知識がないひとが阿呆な発言をしたのを片方のえらいひと・知識がある人が拾い上げ相手方陣営全体を『バカm9(^Д^)』てラベリングすることで不毛なディスコミュニケーション・煽り合いしてる」、って感じ。まあバカサヨク / バカウヨクみたいなのが双方にいてどうしようもないなと。そんでそもそも知識がある程度あればそういう属性をかぶってバカに足を引っ張られてく不毛みたいなのもわかってるはずなんだけど。いわゆる「運動」なんかでもそういった連中のせいでぐだぐだになってくわけだし。まあ「オレはウヨクとか保守とかになったつもりはないよ?周りが勝手にそう見て攻撃してくるだけだよ?」ってのもあるかもだけど(二項対立でしかものが見れない連中)。




















    ついったーも「丸くなった」ようなのでこういう人たちもそろそろもうちょっと丸くならないかな



    ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -
    ヨーロッパ・コーリング――地べたからのポリティカル・レポート -


    スコットランド狂想曲:経済とスピリットはどちらが重いのか(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



    スコットランド狂想曲2:市民的ナショナリズムと民族的ナショナリズム(ブレイディみかこ) - 個人 - Yahoo!ニュース



    この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -
    この経済政策が民主主義を救う 安倍政権に勝てる対案 -


    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/450854252.html 「モダニティと自己アイデンティティ」読んだのでわからんながらにメモ 朝に「モダニティと自己アイデンティティ」を読み直していたら最初に読み終えたときよりもなんとなくイメージが浮かんできたのでジョギングにいって忘れないうちにメモっとこう(ついったで関連話もあったしそれも絡めて)とおもってつぶやいた連弾をちょっとメモ。とはいってももともとそんなに理解できてたものでもなく、今回もそんなに理解できたとは思ってない / 2割ぐらいいってたらいいかなあぐらいの理解なのでまあ愚痴みたいなものなんだけど、んでもそもそもこの本で書かれてる内容というか書かれ方が具.. 社会 m_um_u 2017-06-14T12:07:02+09:00 <![CDATA[ 朝に「モダニティと自己アイデンティティ」を読み直していたら最初に読み終えたときよりもなんとなくイメージが浮かんできたのでジョギングにいって忘れないうちにメモっとこう(ついったで関連話もあったしそれも絡めて)とおもってつぶやいた連弾をちょっとメモ。とはいってももともとそんなに理解できてたものでもなく、今回もそんなに理解できたとは思ってない / 2割ぐらいいってたらいいかなあぐらいの理解なのでまあ愚痴みたいなものなんだけど、んでもそもそもこの本で書かれてる内容というか書かれ方が具体的ではないのでわかりにくいのも仕方ないかなあとか。まあそれについては巻末の訳者あとがきにも「もともとわかりにくい本なので何回も読んでみるといいです」てあるんだけど。「使われてる用語も独特なので巻末用語解説とあわせて何回も読んでみるといいです」て。なので、本来は手元に置くか、図書館にずっと置いてあるのを何回も読むのが良いのだろうなあと思うのだけど、今回は取り寄せで読んだのでこのぐらいで返却しとこうかなあと。今日返却日だし。

    前置きはこのぐらいにしてんじゃついったに連弾したのからとりあえず

















    後期近代(ハイモダニティ)化の問題として、おーざっぱには「それまで規範としていたものがズレることによって不安が生じる」というのがある。生活スタイルが変わることに伴いそれまで規範としていたものもズレてそれによって戸惑いが生じる。後期近代化とはなにか?というとオイルショックによって生じた不況に対抗するように金本位制から変動相場制に変わったとき、それを標準としてグローバリゼーションが進み、それにあわせて企業内倫理・ふるまいの規律なんかも世界標準化がすすんだ、ということ。具体的には87年ごろを画期に90年代を通じて会社員に求められる規律(キツキツ)が進み、それにともなった規律訓練も進んで鬱になるひとも増えたね―、みたいなの。「モダニティと自己アイデンティティ」の主要な射程というのはこのへんではないかと思うのだけどはっきりとはかいてないのでよくわからない。もちろんこれだけが射程ではなくこういった画期を軸にした労働→生活 / 親密圏の変化を総体的に扱ってるというのもあるのだろうけど。

    ギデンズの本書からの主要用語である「経験の隔離」では、そういったキツキツ生活のなかで規律訓練が進むことで自動化も進み、本来なら実存的な不安もそれによって隠される、というのが表されている。逆に、こういった規律訓練な生活の自動化から外れたとき本来の実存的な不安が顔を覗かせてくる。たとえばサラリーマンが退職後にどうしたらいいかわかんなくて途方に暮れるとかもそういうののように思える。

    あるいは現在だと非正規雇用なんかが標準になってて退職以前にそういった実存的な不安(たとえば貧困≒将来が不安≒死)が顔を覗かせているともいえるのでそういった見立ても生ぬるいかなあとは思うのだけど、自分も含めてそういった人たちが日々の不安を隠すためにアイデンティティゲームをしているところもあるのかなあとか思ったりもする。雑誌やテレビ、アニメや小説、日々の娯楽に埋没することでそういった不安から遠ざかる / 別の想像空間に身を置くことで不安をそらす、というような。あるいはライフスタイル誌のようなものでちょっとでも「豊かな生活」を享受して生活に彩りを添える、とか。ライフスタイル誌のようなものがなぜ求められるようになったか?というのもこういった文脈に関係するのだろうけどはっきりとはわからない。おーざっぱには「核家族化がすすみ従来のライフスタイルから抜け出し(脱埋め込み) / 参照点がなくなったために雑誌などがそういったものを提供するようになった」と言えるかなと思う。

    そして人々はそういったものを参照することで新たに生じた不安 / ズレ、あるいは実存的な不安から目を背けていくわけだけど、そこで自らを構成するために択っていったアイデンティティにみょーに固執するために苦しくなる情況も生まれるのだと思う。苦しくなるというか、たとえばついったなんかでもよくみかける自らが蓋然的に属すると同定している属性に基づいた対照属性へのエアリプ攻撃とか。リベラル / ネトウヨ、フェミ / ヲタ、女性 / 男性…。そういったものが大文字で糾弾され、糾弾していく中でその攻撃性に自らが飲まれるようにアイデンティティとそこへのコミットメントを先鋭化していく。本来、なんらかの縛りにたいして自由になるために楽になるような属性-生き方を参照し選択していったはずなんだけど、その属性への縛りが強くなるために却って不自由になる情況が生じているのではないか?そういうのが自分的な見立てでであり、こういった読み物を通じて理解を進めていきたいところとなっている。


    そういった現状があるとして、「モダニティと自己アイデンティティ」では特に解法は提示してない。ざっくりとそういった情況が生じる構造的要因のようなものを考察している。近代において生じた規律の内面化がさらなる段階に進んでより生活的な場面で生活者自らが規律を作り内面化していこうとしている、みたいなのも(生権力からライフポリティクスへ)。

    そのなかで「純粋な関係性」という用語は唯一鍵になるのかなあと印象された。「関係そのものが与える満足や見返りに根本的に依拠する関係」。要は「なんらかの限定や留保のない肯定」でありその関係内でのコンサマトリーな充足を前提とした愛ということになる。



    それは曖昧であるがゆえに諸刃ではあるようだけど。




    あと、「親密性の変容はこれ読んどけば読む必要ない」とか言われてたけど「親密性の変容」のほうが具体的で分かりやすかった。まああれは本書からの恋愛やセクシャリティの変容をスピンアウトしたものだったように思うけど。要は家族制度とかLGBTとかそういうの。





    モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会 -
    モダニティと自己アイデンティティ―後期近代における自己と社会 -

    親密性の変容 -
    親密性の変容 -

    現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス) -
    現代日本の転機 「自由」と「安定」のジレンマ (NHKブックス) -

    社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -
    社会にとって趣味とは何か:文化社会学の方法規準 (河出ブックス 103) -

    奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -
    奥田民生になりたいボーイ 出会う男すべて狂わせるガール -

    カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -
    カフェでよくかかっているJ-POPのボサノヴァカバーを歌う女の一生 -

    親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR) -
    親密性の社会学―縮小する家族のゆくえ (SEKAISHISO SEMINAR) -
    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/444959791.html 「身体はトラウマを記憶する」 少し前に読んでついったのTL的にもシェアしといたほうがいいかなと思ったので簡単に身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 - 簡単にはトラウマからの復帰の方法について。んでもトラウマだけでもなくグリーフケアとか発達障害とかにも適応される感じ。あるいは鬱とか自律神経失調とか。そういうわけで紹介しといたほうがいいかなとおもった。紹介的な文章になるので特に自力でうんたらする必要性もないだろから他人様の紹介を主に借りよう。巻末の解説が端的にまとまっていたので.. 日記 m_um_u 2016-12-17T07:45:14+09:00 <![CDATA[

    少し前に読んでついったのTL的にもシェアしといたほうがいいかなと思ったので簡単に

    身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -
    身体はトラウマを記録する――脳・心・体のつながりと回復のための手法 -




    簡単にはトラウマからの復帰の方法について。んでもトラウマだけでもなくグリーフケアとか発達障害とかにも適応される感じ。あるいは鬱とか自律神経失調とか。そういうわけで紹介しといたほうがいいかなとおもった。


    紹介的な文章になるので特に自力でうんたらする必要性もないだろから他人様の紹介を主に借りよう。巻末の解説が端的にまとまっていたのでそれをまるっと引用から。

    ちなみに引用はiPhoneのスキャンアプリCamScannerからのOCRを試しがてらやってみた。便利だけどiPhoneカメラの性質上カメラで捉えられる範囲が限定される/あまりたくさん文字を写すとOCRの誤認識が多くなるのでなるべく短い単元ごとで撮影する → 何回も撮影しなければいけなくなって疲れる、というのはあった。んでもあらためて写経におけるスキャナ→OCR便利だなあとおもったので安価なハンドスキャナとかあとでぼけーっと見て見るかもしれない。

    閑話休題

    以下、巻末引用から






    浜松医科大学児童青年期精神医学講座  杉山登志郎



    本書の著者、ヴァン・デア・コークはエピローグの冒頭で、次のように書く。「私たちの社会は今、トラウマを強く意識する時代を迎えようとしている」


    本書は・自伝的な要素を有し著者の精神科医としての、そしてトラウマに関する世界的な研究者としての歩みがそのまま記されている。オランダ系移民であるヴァン・デア・コークの父親は、ナチスに対し批判的であったがためにナチスによる投獄を経験し、母親は幼児期のトラウマの経験を持つことが暗示され、家族の中に深いトラウマがあったことが開示される。彼の歩みは、トラウマの再発見から始まる、今日のトラウマ研究の歴史そのものなのだ。一九七八年、駆け出しの精神科医であったヴァン・デア・コークがベトナム戦争の帰還兵が示す凄まじい後遺症に圧倒され、トラウマのもたらす多?にわたる脳ヘの影響に気付くところから本書は始まる。トラウマについて、精神医学が発見と忘却を繰り返してきたことを彼もまた再発見し、一九八○年に出版されたアメリカ精神医学会炸成の「診断・統計マニュアル第三版(通称D S M.皿)」に初めて心的外傷後ストレス障害(PTSD)の概念が登場したことをきっかけに、効果的な治療法を見つけるための体系的な研究を開始する。さらに彼は、慢性のトラウマや強烈なトラウマにさらされた脳が通常とは異なる働きを作り上げて行くことを、最新の脳科学や脳画像法を駆使Lて解明して行く。そうして積み上げられた実証を伴うデータの集積によって、一見脈絡のない不可思議な症状群が、すべてトラウマによって引き起こされた脳の変化に基づくものであることが示され、なぜ従来の治療法が無力であるのかも、脳の働きに遡って明らかになる。また薬物療法の限界も示される。

    重度のトラウマ、特に子ども虐待などの慢性のトラウマによって生じる様々な重症な臨床像である、複雑性PTSDと発違性トラウマ障害が、なぜかアメリカの精神医学の主流から無視され続けたこと、さらに抗精神病薬や抗うつ薬の処方のみが膨れ上がって行く状況も克明に語られる。その上で、不可能とも思われたトラウマの後遺症からの回復を可能にする様々な方法が、これも実証を伴った研究によって今日の到達点として描かれる。

    本書を通して私は、被虐待児とその親の臨床の中で疑間を感じつつそのままになっていた問題や断片的な理解のままになっていた間題のほぽすべてに、明確な回答を与えられ、視野が何倍に広がったような体験をした。本書は日本でも、トラウマに向き合わざるを得ない人々にとって信頼できるテキストとなるだろう。それはこんな人々である。ドメステイツク.バイオレンスや子ども虐待に向ぎ合わざるを得ない人、少年非行や少年犯罪、薬物中毒、性被害・性加害、社会的擁護、里親・里子、貧困、すべての精神疾患、怠学、不登校に関わる人々。つまり学校数師、ソーシャルワーカー、児童養護施設や児童自立支援施設で働く人、精神科医、臨床心理士、弁護士、裁判官、警察官、検察官そして政治家。まさに私たちの社会は今、トラウマを強く意識しなくては何もできない時代を迎えようとしているのである。


    本書の圧巻は、なんといっても第5部「回復ヘのさまざまな道」である。本書の冒頭でヴァン・デア・コークは三つの方法があるとしている。一、自分に起きていることを知り、それを許容しつつトラウマ記憶を処理するトップダウンの方法、二、不適切な警戒反応を抑制し、脳の情報処理を変える方法、三、トラウマに起因する無力感などに立ち向かうボトムアップの方法。どれが有効なのかはやってみなくては分からないし、ーつだけではうまく行かないことが多い、従ってて組み合せが必要であるとしている。


    第5部で取り上げられているのは、トラウマからの回復のために工夫、開発されてきた実に広範な様々な治療方法である。最初に、言葉での表現として、自分に手紙を書くという自由筆記法の可能性が取り上げられる。次の章ではEMDR(眼球運動による脱感作と再処理法)が紹介されるが、自分が実施Lていたグループセッションの参加者の中に、併行してEMDRを受けた患者がいて、その回復ぶりに驚嘆したヴァン・デア・コーク自身が早速研修を受けに行き、その効果に驚くというエピソードが紹介されている。これは私自身の経験そのものでもある。次がヨーガである。ヨーガこそボトムアップの強力な方法でありマインドフルネスや呼吸法との組み合わせによって、細心の注意を払いながら治療に織り込んで行く具体的なやり方が示される。ヴァン・デア・コークのすばらしいところは、これらの効果を直ちに最新の脳画像研究を用いて立証して見せることができることだ。EMDRの効果検証のみならず、ヨーガに関しても自己調整の中枢である脳内の島(とう)と呼ばれる部位の活性化が示されている。次に取り上げられるのは多重人格ヘの内的家族ジステム療法の紹介である。我が国では自我状態療法として行われている方法とほぼ同じ治療手技である。次いでPBSP療法が紹介される。

    これはグループ精神療法を用いて、失われた愛着を想像の中で取り戻すという大変に興味深い臨床的試みである。我が国の治療者のために補えば、嶺輝子(みねてるこ)が独自に開発したホログラフイートークが類似のアイデアで構成されていて、この手法に精通すれぱ、愛着の修復の効果が同等に得られると考えられる。次に登場するのがニューロフイードバックを用いた脳の反応の正常化である。この部分に関して私は未経験であり、ぜひ学んでみたいと強く思った。最後に紹介されるのが、演劇や声劇によるトラウマヘの治療効果である。こちらも私は未経験であるが、その効果に関してはなるほどと実感ができるものぱかりである。

    ヴァン・デア・コークは特定の治療法を勧めてはいない。そのいくつかを組み合わせることが必要で、本人に合った治療法を選び、脳や生体の起こすトラウマ反応に最新の注意を払いつつ実践して行くことによって、薬に頼らず確実な回復を得ることができることを実証しているのである。






    上記にもあるようにこの本のハイライトは後半の様々な治療法部分となる。


    人はどうやって「トラウマ」を克服するのか | 今週のHONZ | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準
    http://toyokeizai.net/articles/-/141463

    本書のハイライトは、間違いなく、それらの治療法について述べた後半部である。そこでは、驚きともいえる治療法と回復事例の数々が、著者の熱い筆致によって語られる。正直な話、おそらくこの部分は、その筋の専門家でなければ、「そんな方法で本当に効くの?」と訝しく思われる箇所もいくつかあるだろう。

    ただそれと同時に、治療法の新奇性とともに、「できることなら何でもする」という著者の意気込みがことさらに目を引く部分でもある。健全な疑いを持ちつつ、新しいアプローチと著者の情熱を楽しみながら読んでいきたいところだ。


    著者のモットーは、「患者が良くなるのを手助けするために、できることなら何でもする」であり、実際に本書でも、EMDR、ヨガ、内的家族システム療法、ニューロフィードバックなど、じつに多くの治療法をとりあげている。

    さて、以上のように整理すると、トラウマの治療として著者が何を目指しているのかも、よりはっきり見えてくるかもしれない。原題や邦題が示しているように、「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」というのが著者の基本的な考えである。ならば、「トラウマはどんな痕跡を残しているのか」「患者は現にどんな状態にあるのか」を見定めたうえで、それぞれの場合に適した治療法を選択し、ひいてはそれらを組み合わせよう、とそういうのである。



    「トラウマは脳と心と体に痕跡を残す」という部分については実際に脳の状態をスキャンしてトラウマを負った脳の状態を診ている。トラウマを負った脳は扁桃体への電気信号が過剰になり、そのぶん前頭葉へのそれが持っていかれるみたい。つまり無駄に恐怖・不安反応が高まり自動的にそれが生じ理性的な判断がしにくくなる。

    ひとつ具体的な議論を追ってみよう。先に述べたように、トラウマは脳にもその痕跡を残す。典型的には、トラウマを負った人では扁桃体が過敏に反応するようになっているのである。扁桃体といえば、情動反応の処理においてとくに重要な役割を果たしていて、脳における「煙探知機」に喩えられる部位だ。脳画像でも確認されているように、そうした探知機が過敏に反応するからこそ、患者は必要以上に危険を感知し、ストレスホルモンがたびたび強く分泌されてしまうのである。

    ただし、トラウマと関係している脳部位は扁桃体だけではない。扁桃体との関係でとりわけ重要なのは、前頭前皮質だ。前頭前皮質はいわゆる実行機能を担っており、とくに内側前頭前皮質は脳の「監視塔」に喩えられる。煙探知機として警報を鳴らすのが扁桃体の役割だとすれば、その警報が妥当なものかどうかを判断するのが内側前頭前皮質の役割である。かりに煙探知機が警報を発したとしても、監視塔がそれを誤報だと判断すれば、ストレス反応はじきに抑制される。だから重要なのは、扁桃体と内側前頭前皮質の均衡関係なのである。その証拠に、そうした関係が崩れてしまうと、現にトラウマを負った人がそうであるように、すぐさま闘争/逃走モードのような状態に陥ってしまうことになる。


    この状態をリセットするために様々方法が提示される。ヨガとか演劇を通じたロールプレイとか。あるいはEMDR(眼球運動を利用した方法)を命綱にトラウマダイブして自分で克服する手助けとか、ニューロフィードバックで脳に直接に電気信号を送り障害を調整とか。

    もっとも身近にはヨーガとか長距離走なんかが良いように思えた。要するに呼吸。長くて落ち着いた呼吸で自律神経を落ち着かせる。1分間に6回の呼吸。


    トラウマ性ストレスにうまく対処するためには、まさに両者の均衡関係を維持・回復することが肝要だと考えられる。そして著者によれば、そうした均衡を維持・回復する手段には、トップダウンの調節方法とボトムアップの調節方法がある。

    トップダウンの調節は、監視塔の力を強化するものであり、具体的にはマインドフルネス瞑想やヨガなどがそれに当たる。他方、ボトムアップの調節は、自律神経系の再調整を促すものであり、具体的には呼吸や身体動作、接触などを介して行われる。そして、そうした具体的な調節方法として、先に示したような多種多様な治療法を著者は紹介していくのである。




    自分的にヨーガはまだやってないのだけどそのうちやるときように本書でよく紹介されていたこの辺とか読んでみるのも良いかも。



    スティーヴン・コープの名著「ヨーガと真の自己の探求」


    あとは太極拳とかかなあ。。64式とか。あるいは地味な套路。




    「習得への情熱―チェスから武術へ」: muse-A-muse 2nd
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/442327056.html

    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/444959781.html 「ドッグヴィル」/「マンダレイ」 『ドッグヴィル』×『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー ツインパック [DVD] - ドッグヴィル - Wikipedia 舞台は大恐慌時代のロッキー山脈の廃れた鉱山町ドッグヴィル(犬の町)。医者の息子トム(ベタニー)は偉大な作家となって人々に彼のすばらしい道徳を伝えることを夢見ていた。そこにギャングに追われたグレース(キッドマン)が逃げ込んでくる。トムは追われている理由をかたくなに口にしないグレースを受け入れ、かくまうことこそが道徳の実践だと確信し、町の人々にグレースの.. レビュー m_um_u 2016-12-17T07:44:00+09:00 <![CDATA[

    『ドッグヴィル』×『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー ツインパック [DVD] -
    『ドッグヴィル』×『マンダレイ』 ラース・フォン・トリアー ツインパック [DVD] -


    ドッグヴィル - Wikipedia

    舞台は大恐慌時代のロッキー山脈の廃れた鉱山町ドッグヴィル(犬の町)。医者の息子トム(ベタニー)は偉大な作家となって人々に彼のすばらしい道徳を伝えることを夢見ていた。
    そこにギャングに追われたグレース(キッドマン)が逃げ込んでくる。トムは追われている理由をかたくなに口にしないグレースを受け入れ、かくまうことこそが道徳の実践だと確信し、町の人々にグレースの奉仕と引き換えに彼女をかくまうことを提案する。
    グレースは受け入れてもらうために必死で努力し、いつの日か町の人と心が通うようになる。しかし、住人の態度は次第に身勝手なエゴへと変貌していく。


    作品の内容自体は鶴の恩返しとかその他の教訓的昔話にも似てる。

    「平凡で刺激のない村にある日うつくしい娘があらわれた。村人たちは最初、娘を受け入れがたくしていたが次第にココロを開いていく。娘を受け容れるなかで平凡な生活の中で気づかなかった楽しみにも気付かされていく。そこで終わっておけばよかったのに村人たちは次第に娘に甘えエゴや欲望を押し付けていく。そのエゴと欲望の罪から目を背けるため罪を娘になすりつけ己の罪を見ないようにする(『あの女が誘惑したんだ!』『あの女が悪いんだからひどい目にあって当然だ』『ひどい目ではなくこの女には当然のことなのだ』)。娘はそんな村人のひどい仕打ちにも耐え忍んでいたが、娘を陥れようと村人たちが仕組んだ罠が却って村人たちに最後の裁きを下すことになる。村人たちは自ら最悪の裁きを招き入れる。娘は赦すつもりでいたのに」

    村人目線で見るとこういった昔話的な教訓話になる。でもこの物語は主人公グレースの、あるいはトリアーの描いてきた聖女たちの物語となる。汚れ、寡黙に耐え忍ぶだけの聖女たちの。

    以前にダンサー・イン・ザ・ダークの感想で「彼女はある意味独善的だ」「自分に酔っているだけだ」というようなことをいったようにおもう。


    それと同じようなことがこのドッグヴィルの最後の対話でも指摘される。

    グレースは強力なギャングのボスの娘で、彼女は父の汚い仕事を継ぐのを拒否してそこから逃げてきたのだった。ギャングのボスはグレースと車の中で話し、他人が自分と同等の道徳的水準にないと考える (さらに、本来人は自分行為について説明責任がある (accountable) が、グレースが住人に説明の機会も与えず許そうとしていることについて) グレースを傲慢だとした。グレースは最初父親の言うことを聞こうとしなかったが、いったん車を離れ町や住人の様子を見ながら熟考した末、父の考えに同意して「もし住人達が自分自身と同じくらい道徳的だったならば住人達を非難して重い罰を与えなければならないだろう、そうしないのは独善的で偽善的である」と考えた。グレースが町を破壊するこの決断に至ったのは最後にトムと交わした会話による。トムはギャングが町に対して行うことそのものについては恐れているが、自分のやったことに自責の念や後悔はないと言い、トムがグレースを裏切ったことで互いに人間の性質について多くのことを学べたと発言した。グレースは父の娘としての役割を受け入れ、町を消し去るよう命令する。



    彼女たちの行い、全ての罪を自らが被り贖うという行為はたしかに尊いし立派ではあるのだけどそれを誰にも説明せず行ってるうちは単なる自己陶酔にすぎない、し、誰も彼女たちと対等のものとして認めてないということになる。

    グレースの選択は住民たちを彼女たちと対等のものと認めることを通じて、「であるならば」対等に同じ罪を贖わせなければならない、という苦渋の決断だった。ギャングたちによって殺され火を点けられた村は彼女の幼い正義の象徴だったといえる。それに火をつけ決別したことで彼女はヒキコモリ的正義から正しさを世に試し、それによって傷つくことを受け入れていく。傷つき成長していくことを。

    ただ、最後の決断に対して、その正義の判定が甚だ一方的であるという点で疑問は残るのだけど。まあそのことについても続編を通じて自省と自己批判の材料となっていくのだろう。




    マンダレイ - Wikipedia
    舞台は1933年のアラバマ州、南北戦争と奴隷解放宣言からおよそ70年。縄張りを失って旅をしていたグレース(ハワード)たちギャング団は大農場マンダレイの前で黒人の女に呼び止められる。そこでは依然として奴隷制度同様の搾取が横行し、今まさに「使用人」の一人ティモシー(バンコレ)がむち打たれようとしていた。グレースが銃の力で割り込むと農場の女主人(バコール)は息絶えてしまう。命令するものを失って途方にくれる黒人の使用人たちをみてグレースは、マンダレイを民主的で自由な共同体につくりかえる決心をする。



    前作で父の権力(暴力による己の正しさの行使)と同じものを自身も実行してしまったグレースはその後、ふたたび父への反発をつのらせていたところで南部のしみったれた街マンダレイにたどり着いた。
    そこでグレースは未だに奴隷制度がつづいている街の様子を見て止めに入る。ギャングの暴力≒父の権力によって。

    その後、かつての女主人を失った奴隷たちが奴隷としては開放されつつも極めて不利な条件で労働契約をさせられそうなのを見て間に入る。「このままだと実質的には奴隷と同じだ」。グレースは逆にギャングの法律顧問を使うことで契約書を作り直し街の白人たちと黒人たちの立場を同じようなものとする。
    そこで黒人たちはいちおう自由とはなったものの自由を継続するための仕事≒収入が安定しない。その安定が確立するまでグレースはとどまりともに働きつつ彼らを支えていこうとする。彼らに共同体の民主的運営、民主主義を教えつつ。

    これがうまくいっていたらヴェイユの工場日記みたいな感じだったのだろう。「理想をいうだけではなく下層労働者とともに働き、リアルを実感しつつともに戦い、なんだったら改善策を練っていく」。
    とはいっても結果的にそうはならなかったのだけど。工場日記もそういう内容でもなかった。

    ネタバレしてもよいだろうからネタバレしちゃうけど、収穫が終わり換金したところで悲劇が起こる。

    グレースはだんだんと街の暮らしにも慣れていっていたが長い共同生活の中で自身の女の疼きを持て余すようになっていた。そんな中で共同体の中でも「誇り高い黒人」として種別され、一匹狼的な側面とともにある種の知性と誇りをにおわせていたティモシーを気にするように。
    収穫の後、女主人の役割を解かれたグレースをティモシーは誘い、グレースもそれを受け容れる。「女は裸にされて横たわらされ目隠しをされ男が一方的につらぬくのに身を任せなければならない」という交わりは伝統に則った直接的なもので情を交えるというものでもなかったのだけど、むしろそれはグレースが望んだものだった。否定していた父の権力観、主と奴隷的な生活のなかで黒人の異性にかしずかれ性的な愛撫もサービスされることを妄想してしまっていたグレース。ティモシーによる一方的なセックスはそういったものとは真逆といえるけれど、「奴隷に襲われた女主人」的な妄想と欲望を満足させるものとなったのだろう。とりあえずその交わりはグレースの満足の行くものだった。
    その後、悲劇が起こる。

    目覚めてみると村人の一部が殺され収穫金が奪われていた。「ギャングが戻ってきて襲って盗んだんだ」と残っていた黒人はいう。しかし目撃したわけではないらしい。
    呆然としていたグレースに白人の男が近寄ってくる。かつてグレースに唾棄すべき取引を持ちかけた男だ。「解放奴隷は解放した体でパンと娯楽を与え、娯楽≒ギャンブルを通じて有り金を巻き上げてしまえばいい。そうすれば実質は奴隷と変わらない。わたしだったらうまくやれる。わたしは二割でいい。八割の儲けをあなたに渡そう」。そのとき嫌悪をしめして突っぱねた男が戻ってきて言う。「これはあなたの分だ。約束していた8割だ」。訝るグレースに男は続ける。「ティモシーとかいう黒人から巻き上げたのだよ」
    ここでグレースの世界が歪む。

    ある程度信頼し身体を預けた相手が、共同体の中で一目置いていた相手が、、よりによって、、


    ティモシーは「誇り高い黒人」ではなかったのか?


    グレースは室へ戻って前の女主人が残していた秘密のノート、黒人の等級・区分けに示されていた内容を調べる。

    誇り高い黒人、おどける黒人、暴力的な黒人、臆病な黒人、、

    いくつかの性格付けごとに属性され7つのグループに分類されたそれ。



    ティモシーは1の「誇り高い黒人」ではなかったか?



    1だと思っていた数字はよくよくみてみると7で「ずる賢い黒人」だった。


    「人をこのように属性分けしそれに従って管理するなんて(政治的に正しくない)」

    そのように思っていた忌まわしい書の内容の通りになったのだ。

    後の会合でこの書は前の主人がつくったものではなく主人に仕えていた老黒人が作ったものとわかる。

    彼らは、無理やり奴隷制度に従わされていた、のではなく、彼らのうちの数人が自らこのような管理体制を望み象徴として女主人をたてていた、のだ。女主人がそのような制度の憎しみを一手に引き受けおさめることで共同体の平衡を保っていた。

    グレースはそのような女主人の代わりと勤めるように要請される。真実を知ったグレースは北へと逃れる。




    今作でははっきりと「政治的ただしさ(ポリティカル・コレクトネス)」という用語が出てきてこのシリーズがそれをめぐる作品であることがわかる。
    正義やPCを尊ぶ純真な乙女が現実に直面しだんだんと薄汚れていく物語。あるいはそのなかで鍛えられナニモノかになっていく、のか。

    ふつーの道徳おとぎ話だったら「解放奴隷とともに手を携えることで彼らの自立をたすけましたとさ(チャンチャン♪)」で終わって良いところを皮肉で露悪な内容に仕上げている。
    作品の最後の「アメリカに対して黒人たちは不平を言うがこんなにも自由を与えてるんだぜ?」(そこからEDの「young america」という脳天気な曲に合わせKKKが最初に出てくる)というのはそういった皮肉だろう。

    「マンダレイ」を含め「ドッグヴィル」もトランプ当選後のアメリカに合わせてみると感慨がある。「マンダレイ」は黒人も含めた非白人層一般、「ドッグヴィル」のほうはアメリカの田舎の中・下流を想わせる。
    「政治的正しさは彼らも平等にというがじっさいの彼らは怠惰で卑怯で村ごと消し炭にしてやりたいような存在だ。きみたちはその現実を見ていないからそのようなキレイゴトを言えるのではないか?現実を見、実際に体験してそれを言えるのか?」
    それがこの一連の作品のじっさいの問いだろう。

    そして、聖女が汚れたたきのめされつつもそれらを引き受けていけるかどうか。




    ]]><![CDATA[ ]]>
    http://muse-a-muse.seesaa.net/article/444959767.html 「メランコリア」 → 「土星の徴の下に」 少しまえにトリアーの「メランコリア」をみて感想なんかをnoteしてたのだけどそのリライト的にまとめてエントリしとこう。メランコリア [Blu-ray] - メランコリア (映画) - Wikipedia コピーライターであるジャスティンは、心の病を抱えていた。その鬱症状が引かないうちに僚友マイケルとの披露宴を迎えた彼女は、母であるギャビーとともに奇矯な行動に出、祝宴の雰囲気をぶち壊すのみならず上司ジャックや、他ならぬ新郎マイケルとの関係決裂を招いてしまう。そんなジャスティンを.. レビュー m_um_u 2016-12-17T07:42:41+09:00 <![CDATA[


    少しまえにトリアーの「メランコリア」をみて感想なんかをnoteしてたのだけどそのリライト的にまとめてエントリしとこう。

    メランコリア [Blu-ray] -
    メランコリア [Blu-ray] -


    メランコリア (映画) - Wikipedia

    コピーライターであるジャスティンは、心の病を抱えていた。その鬱症状が引かないうちに僚友マイケルとの披露宴を迎えた彼女は、母であるギャビーとともに奇矯な行動に出、祝宴の雰囲気をぶち壊すのみならず上司ジャックや、他ならぬ新郎マイケルとの関係決裂を招いてしまう。そんなジャスティンをなじる姉クレアだったが、仕方なく夫のジョンや息子とともに彼女との生活を続ける。だが、ジャスティンの病状が穏やかになるとともに、地球に奇妙な周回軌道をとる惑星が接近する。彼女は周りの狼狽を意に介さず惑星の到来を朗らかに出迎えるのだった。


    ◆ 僕を哲学的に考えさせる映画:ラース・フォン・トリアーの〈メランコリア〉 - LIFE WITHOUT "THINKING" ・・・ IS BORING!
    http://mythink.hatenablog.com/entry/2016/07/24/150418



    巷で言われてるほどショッキングなものでもなくむしろ耽美的で落ち着いた感じだった。まあうつ病のひと的にはリアルに感じてなまじっかのショッキングな映像よりクるものがあるのかもだけど。

    この映画の感想をざっと見たところやはり裸とかセックスシーンとかに目を引かれそのことについて言及せざるを得ない人たちがちらほら見当たるのだけどアレ自体はこの作品においてはそんなにショックな事でもないのだとおもう。あるいはトリアーのほかの作品においても。

    「メランコリア」においては主演のキルスティン・ダンストが惑星の明かりの元で全裸になったり、披露宴当日に特に知らない冴えない男とセックスする(新郎やパーティを放ったらかして)。
    これらはそれ単独だとショッキングなことだけどキルスティン・ダンストが演じるヒロインの心境を思うとそんなにたいしたことでもない。単に裸になったりセックス(粘膜接触・体液交換)したりってだけなので。
    こういった行動に及ぶ背景にはヒロインの心がそれをせざるを得ない / してちょうどよいぐらいに壊れていて、その逃げ道として裸になったりセックスしたりするのがちょうどよかったのだろう。クソみたいな披露宴をなんとか( ^ω^ )ニコニコとこなしつつ、だんだんと「世間」が自分たちの都合を押し付けてくることに(#^ω^ )しつつもやりすごしていたのに身体とか自分の心の奥のほうが拒否反応を示しだして、最終的に「初夜の契」的なもので(表面的には紳士を装いつつも)性欲を押し付けてくる新郎に嫌気がさして身体がくそくらえな反応をする。その結果としての見ず知らずの冴えない男とのセックスで、そこに心は通ってない/単なるストレス解消の体液放出なので道具を使った自慰的になる。そこには理性的な判断とか理由とかは特になさそう。放尿と同じぐらいで。

    そして、彼女の鬱的な心境は惑星の衝突 ≠ セカイノオワリによって救われていく。

    それが鬱になった彼女の心の中の常態であったのでとくにアタフタもない。自分の心が死ぬ≠世界も終わっている=オワレバイイノニ、ぐらいだったので。かといって喜ぶでもない。ベストな選択でもないし。

    問題はこういった心境、鬱的な心境が披露宴によってつくられたのか?ということだけど、どうも披露宴以前からこういう心境がつくられていたぽい。「彼女は仕事中毒だ」の言葉と広告業界という場。父親と母親の不仲とその影響としての愛の無い家庭環境の片鱗。そのへんでなんとなく慮れるけど、物語的な合理性からこの作品を説明・理解したい人にとってはそのあたりの細かい描写があったほうが分かりやすかったのだろう。物語的合理性から理解したい人たち ≠ たとえばセックスシーンとかにとらわれるような人たち。単に鬱の心象を描きたかったぽいトリアーとかにとっては蛇足で冗長的にはなるのだろうけど。

    「冗長」ということでいえばこの映画全体が冗長ともいえる。本来ならオープニングの8分ぐらいの断片的な映像のコラージュによって終わっていて然るべきともいえる作品で、それを映画的な作品に仕上げるため≠ほかのひとにもある程度わかりやすく表現するために物語的なつなぎと因果関係が必要になった、程度だったのではないか。

    鬱状態だったトリアーの見た、あるいは想像しアンシンした美しい画(夢)が冒頭8分の断片であとからそこに物語をつけて説明していっただけのような…。

    あとは細々としたこと。

    キルスティン・ダンストの鬱になったときの表情がそれっぽかったのだけど…?とおもっていたらユリイカの特集号で「自身も鬱を患った経験から」とあった。



    ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー  『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -
    ユリイカ 2014年10月号 特集=ラース・フォン・トリアー 『奇跡の海』『ダンサー・イン・ザ・ダーク』から『ドッグヴィル』、そして『ニンフォマニアック』へ -


    たぶんタルコフスキーの「惑星ソラリス」の影響とかオマージュとかあるのだろうけどタルコフスキー作品は相変わらずわかりにくくよくわかってない。まあ「ソラリス」はこの機会に見てもいいかなと思うし、自分的にはトリアーから見たほうがわかりやすい(トリアーの関連作品が補助台になってる)ともいえるのかもだけど。そういえば惑星がいよいよ衝突寸前で瀟洒なお屋敷からお庭を眺めたときに馬が草を食んでいてという場面のシュールな静謐がなんとなくタルコフスキーの作品を想わせた。


    メランコリア (映画) - Wikipedia

    カンヌ国際映画祭における記者会見でラース・フォン・トリアーは本作におけるドイツのロマン主義芸術からの影響を話した後、「ヒトラーに共鳴する」などと発言したために反ユダヤとされた。カンヌ映画祭事務局側は事態を重く受け止め、「好ましからぬ人物」としてトリアーを追放した。出品された「メランコリア」は審査の対象から外されなかったものの、仮に授賞してもトリアー監督は出席できなくなった



    この部分についてはユリイカの特集号にインタビューについての詳細が載っていた。

    (ユリイカ、ラース・フォン・トリアー回より2011年のカンヌ映画祭での「メランコリア」上映後のトリアーへのインタビュー)
    ― 本作はドイツロマン主義に触発されたそうですが、あなたの中に流れるドイツ人の血とゴシック芸術との関連性について説明してもらえますか。デンマーク映画協会の資料によると、本作を作るにあたりナチスの美術論についても関心が生まれたそうですが、それについて説明してください


    自分はずっとユダヤ人と思っていたし、それも下層階級のユダヤ人と思っていて、それに満足していた。ユダヤ人になりたかったんだ。ところが自分はナチスだと分かり(他界した母が、ジップはドイツ人だったと遺言した)、それもまた同様にうれしかった。ヒトラーを理解できると思ったんだ。たしかに彼は残虐なことをした。地下壕に座ってヒトラーが……(ここで、隣に座っていたキルスティンが、ラースに腕を回し発言を控えるように態度で合図する。戸惑うラース)……それで、彼を理解できる気持ちになった。彼は善人とはとても言えないが、少しだけシンパシーを感じるんだ。でも第二次大戦でやったことについてではないよ。それに僕はユダヤ人に反感はないし、スサンネ・ビアに対してだって……これも同様に冗談だけれど、ユダヤ人にはシンパシーを感じている。ただしイスラエルがやっていることについては同意しないけど。どうやったら僕はこの話題から抜け出ることができるんだろうか……。

    話題を転換させようとしたが、あまりにも当惑し、最後「わかった、僕はナチスだ」と自爆した。会見の会場はリラックスした雰囲気で、笑いさえ漏れた。ところが――。

    翌日の朝刊、特に本国デンマークの新聞やゴシップ誌から、辛辣な批判を受けることになった。19日の朝はその話で持ち切り。そんな状況のなかでこの囲み取材は行われた。内容的にも、一件について訊きたいデンマークの記者や、キリスト教の側面について訊きたい記者が他者に発言権を渡そうとせず、どうにも焦点が定まらない取材となった。さて、ラースの発言は更に波紋を呼び、結局カンヌ映画祭側は、周囲からの圧力もあったのだろうか、彼を「ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからぬ人物)」として映画祭永久追放という手段に出るに至った。ただ、主演キルスティン・ダンストが主演女優賞を獲得したのがせめてもの計らいか。この事件は以後のラースに暗雲のようについてまわり、2014年現在、彼はマスコミの取材を一切受けていない状況だ。







    メランコリー+ロマン主義ということでベンヤミンとかソンタグとかをトリアーも参照して影響されたりしたのかな?とちょっとぐぐったけどそういうのはないみたいだった。まあこの機会だからついでにちょっとこれ読んどいてもいいかもしれない、とこの辺を読む。

    土星の徴しの下に -
    土星の徴しの下に -


    自身もうつ病だったベンヤミンは生まれつきうつ病傾向のひとを「土星の徴をもつもの」といった。それはガレノスの四体液説に依る。

    メランコリー - Wikipedia

    現代の精神医学の用法では、「メランコリーの特徴を有する」うつ病という、うつ病の細分類であり、重症のものという意味合いが強い。それとも別に、近現代の精神医学では、主にドイツや日本にて、うつ病が起こりやすい性格としての、几帳面で良心的といった特徴を持つメランコリー親和型が関心を集め、テレンバッハがその著書『メランコリー』にて提起したが、1977年の日本の報告以来、うつ病像がそういった特徴を持たないものへと変化しており、日本の現代のうつ病論へとつながっている。

    医学では古くはギリシャのヒポクラテスまでさかのぼるが、メランコリーは抑うつを示す状態でも特に重症のものを指してきた。四体液説における黒胆汁質のことを指し、「黒胆汁」という体液の多い人は憂鬱な気質になるとされた。



    占星術にも絡んでいて黒胆汁のひと≠土星のひと、だったか。

    昔の医療ではこの理論に基づき身体の不具合は「悪い血がたまってる」と考えられ瀉血(しゃけつ)を主としていた。いわゆる血抜き。血抜きでだいたい治るとされていた。外傷以外の病は。


    四体液説 - Wikipedia

    ギリシャ・ローマの医学では自然治癒を重視し、悪い体液を排出し自然治癒を促すために、刃物やヒルを使って悪い体液を排出する瀉血(刺絡とも)や、下剤、浄化剤、緩下剤、誘導剤を用いた。また、体液のバランスのために、食事療法や運動、入浴も重視された。「医術について」では、すべての人に当てはまる最高のバランスがあるわけではなく、人によってその体にふさわしいバランスがあり、また健康にいいものは状況・年齢などによって変わってくると説明される。例えば、体が運動を求めている時の休息、休むべき時の運動は健康的でははなく、同じことが飲食物や薬物に関しても言われた。


    そういやメランコリアでも入浴シーンがなんどか出てきたけど、まああれは四体液説というよりは単に疲れたときに風呂入ってるぐらいがちょうどよいということだったのだろう。




    タイトルにもなってるエッセイ「土星の徴のもとに」を読んでちょっと「メランコリア」の感想に付け加えたくなった。「土星の徴のもとに」はベンヤミンをはじめとした鬱傾向の人、土星の徴のもとに生まれた人たちについてのエッセイ。


    映画の中で姉のクレアが鬱の妹に対して「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」みたいなこといっていたけどあれはこういった先天性・器質的鬱人間が鬱モードにはいったときの離人・非コミュ感に対する一般感覚なのだろうなあというかんじ。
    土星の徴をもつ人間はなんとなく内向的になりがち+非人間的なものを蒐集するし編成・分類する傾向がある。そしてそれらがしばしば「仕事」に通じるとワーカホリック的な偏執性を帯びることがあるのだけど、それはその作業に逃避することで人間的コミュニケーションから逃避できるという裏返しにも思える。

    「メランコリア」だと主人公がそんな感じで、壊れるまえまでワーカホリックになっていたのはそれによってわずらわしくわかりにくい人間的コミュニケーションから逃避できたからだろう。ふだんの仕事的な付き合いだと仮面(ペルソナ)をかぶってやり過ごせば良いわけだし。その意味だと「仕事が忙しすぎて壊れた」というのも一面的な見方だったといえる。ただしそういった表面的な付き合いもある程度すすむと深いものにならざるを得ず、その究極ともいえるものが結婚であり、結婚披露宴、そしてその日での破局というのは鬱的な土星人間が頑張って耐えて築いてきたものが一気に崩れ去る最高で最悪の舞台だったといえる。「土星的人間がもっとも衝撃を感じる場面」の表象という意味で「披露宴での破局」という場面が選ばれた、のかもしれない。

    土星の徴をもって生まれた人間にとっては時間感覚が単なる束縛となっていくらしい。逆に空間に可能性を見出しそこに無限の寓意性と解釈の可能性を見いだす。近代的時間は現在から未来に向かっての単線という束縛を帯びるが空間は恣意的に無限の配置の可能性・自由度を残す。そのため他人からみて緩慢とも思える反応をし他人を苛立たせる(cf.「あなたってほんとに忌々しくなることがあるわ」、披露宴で人をまたしておきながら風呂に入ってるというシンジラレナイ行為)。

    それらは現代の一般的常識人からすればシンジラレナイ行為・行動なのだろうけど知的に先鋭化した土星人間たちが真実に対して誠実になってるだけとも言える。単線の時間概念は近代のフィクションにすぎないし、三次元を超えた時間と存在の感覚からすれば空間への配置の可能性は無限にある。そして彼らは「人に対しては不誠実」と思われてもモノやコト(あるいは超自然的法則)に対しては誠実に振る舞う。

    ベンヤミンは現在の自分を見つめること、そこから語ることを不得意とし自身を語るときはむしろ少年期の自身の様々な徴候を現在に至る必然として語ることを好んだ(そこから「自身」を語った)らしい。近代的単線時間というフィクションに対して、記憶もフィクションの一部なわけだから「現在から未来」について考えるよりもすくなくとも「過去から現在」について語ったほうが誠実、ということだったのかもしれない。

    ベンヤミンのテキストはちょっとした読んだことないけどこういった推理からするとたぶん彼のテキストというのは因果関係、論理がバラバラに配置された脈絡のないものになっていて、それぞれの単元ごとに論理が完結してはいるけれどそれを連続して読み解こうとすると読み解きにくいものになっているのだろう。たとえば「パサージュ論」のように。
    なので、それらを通読してすぐに読める・理解できるものと思うのではなく、とりあえず全部読んでおいてしばらくしてなんとなく全体がつながるのを待つのが適当なのかもしれない。まあそれで理解できるのかもしれないし理解できないのかもしれないというところなのだけど。

    (学位論文にしようとした「ドイツ悲劇の根源」だったか?は学位論文にしようとしたぐらいだからまともな単線論理で書かれてることを期待するのだけど。内容的にもロマン主義と悲劇のうんたらについて書かれているようで重要なので)










    ]]><![CDATA[ ]]>