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メンタル、ジェンダー、アート系の話題を心に感じたままに

人を追い詰めてはいけない

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https://baderscott.com/

わたしの経験でいうと、人は、ひとたび追い詰められると、その「追い詰められた状況」からなかなか抜け出せなくなってしまいます。
冷静に考えれば、抜け出す方法はいくつかあったはずなんです。でも、平常心を失ってしまうと、追い詰められる一方になり、視野がどんどん狭くなり、最後は破滅的な結末になってしまいかねない。
最近の例で言うと、
〇兵庫県の斎藤知事のパワハラ疑惑をめぐる百条委員会の委員で、兵庫県議だった男性が誹謗中傷に耐えられずに、家族の無事のために議員辞職した後、自死を選んでしまった事件。
〇神奈川県海老名市で、小中学生の3人のお子さんを持つお母さんが育児に悩んだ挙句、3人の子をすべて殺してしまい、自身は死にきれずに生き残ってしまった事件。

まことにいたましい事件で、本当にやるせなくなります。
どうしてこんなことになってしまったのだろう。
元県議の男性とお母さん。状況はまったく違いますが、大きな共通点は「極限まで追い詰められていた」ことです。

元県議の男性は、インターネット、SNSなど「顔が見えない」膨大な数の相手から、調査の一環で斉藤知事のパワハラ疑惑を指摘したというだけで激しい誹謗中傷を受け、あることないことでっちあげられ、デマを流され、それがいつの間にか真実であるかのように流布してしまうなかで、恐怖のどん底に落とされてしまいました。
誰とは申しませんが、「元県議は警察の取り調べを受けていた、逮捕される予定だった」などの無責任な妄言を拡散した挙句、県警本部長が公の場で否定するという異例とも言える状況になりました。
法律で定められた百条委員会で熱心に活動していたというだけで、なぜ、家族までもが恐怖を感じるような状況に追い込まれてしまったのでしょうか。
なにか、得体のしれない、底知れない、末恐ろしい恐怖を感じます。

先の兵庫県知事の出直し選挙で次点で落選した稲村和美元尼崎市長が、「最後まで、何と闘っているのかわからなかった」とおっしゃっていたのがとても印象的でした。
仮に、稲村候補が当選していたら、斎藤知事を支持する集団から熾烈な誹謗中傷を受けていた可能性も否定できないでしょう。

顔が見えない群衆に取り囲まれ、四方八方から罵詈雑言の嵐を浴びせられ、何も抵抗するすべがない

こんな状況に置かれたら、どんなに強靭なメンタルの方だって、追い詰められてしまうでしょう。
「わたしの言いたいことも聞いてくれ」と言うことすら許されないわけですから。
そして、あることないことでっちあげられていくうちに、本来、味方だったはずの方まで、疑いの目を向けてくる。「あなたって本当はそんな人だったの?」ってね。
誰も助けてくれない。いや、誰かが助けてあげたいと思ったとしても助けられない状況。

こわいです。

過剰なまでの「共感力」はかえって怖い、という話

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ダーク・トライアドという心理用語を聞いたことがある人もいるかと思います。いわゆる、社会的に危険な人格を持つ人物を指し、
 〇サイコパシー…精神病質 psychopathy
 〇マキャベリズム…権謀術数主義 Machiavellianism
 〇ナルシシズム…自己愛症 narcissism
の3つのパーソナリティ特性の総称であると定義されています。詳細はwikiをお読みくださいね。

正直、これらすべてを兼ね備えた人物が周囲に出現したら、と思うと気が滅入ってしまいます。
わたし、きっとこの人に振り回され、ズタズタにされ、最後はボロボロになるんだろうな、なんて考えたくもないですよね。
でも、この種の人物は非常に高い知能とカリスマ性を備えているため、社会的に重要な地位に上り詰めた方も多いことと思います。
その発言や行動力が社会的に大きな影響やインパクトを与え、常に多くの信奉者を周囲に従え、時に独裁者のように振る舞い、はたまた多様な利害が交錯する人々の間を漂流するように巧みにすり抜け、自らは直接手を下さずに人を駒のように操って目的を遂げ、周囲の人の切実な悩みには一瞥もくれず、家に帰れば鏡に何時間でも向かっていられる自分大好き人間。。。
そんなイメージなのでしょうか。
ああ、いやだ、いやだ、いやだわ。。。

わたしの今までの人生では、サイコパシーの人に何人か接したことがあるのですが、今振り返ってみれば、彼らにはマキャベリズムやナルシシズムも同時に備わっていたのかもしれない、とも思えてきます。いや、おそらくそうだったのでしょう。
二度と思い出したくない記憶ですけれど。

さて、最近はさらに、「ダーク・エンパス」という新手の心理用語も登場してきました。これは、ダーク・トライアドの3つの属性に、「エンパス…共感性 empath」という属性が加わったものを言うようです。
わかりやすく言うと、「過剰なまでの共感力」を持って対象の人物に接近し、その内面に入り込み、心をズタズタにしてしまうような人です。
実に恐ろしいことだと思います。ダーク・トライアドの3つを含めた4つの属性の中で、最も怖いかもしれない。。。
なぜか、を少し考えてみましょうか。

性別違和感は単なる「我執」なのだろうと思うことにした件

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最近、「我執」という言葉を今まで以上に意識することが増えてきました。
何か心に引っかかるたびに、「それって我執なんじゃなくて?」ってね。
ご存じのように、我執は仏教用語で、読んで字のごとく「自己に過度に執着する」ことであり、心に生じる様々な迷いや葛藤といった苦しみの根本原因になっているという考え方です。

~我執を捨て去れば、あなたの心は苦しみから解放され、心の自由を得ることができますよ~

もちろん、理屈としてはよくわかっている(つもり)けれど、我執を捨てるって、そう簡単なことではないですよね。
だって、考えてみたら、人間の意識なんて我執の塊じゃない?、とも言えるし、意識から我執を取り去ってしまったら一体何が残るのだろう? という漠然とした不安もありますよね。
今まで一生懸命に生きてきた結果として今の意識があるのであり、その意識は我執によって支配されているとしたら、我執から解放されるって一体どういうことなのでしょう。
特に子どものころから自意識が人一倍強かったわたしにとっては、とても悩ましい問題です。

中でも、性別不一致の問題はその最たるものです。
子どもの頃から男の子の遊びにどうしても参加できず、女の子とばかり遊んでいたわたしは、やがて思春期になり、一緒に遊んでいた女の子たちがセーラー服に身を包み、スカートの裾を風になびかせながら歩く姿を見て、自分自身の現実とのギャップに愕然とし、深く思い悩むようになります。
学校の性教育などを受けるにつれ、わたしは男性として女の子を妊娠させる立場にあることを知り、さらに愕然とします。「どう考えても逆じゃないの、わたしは精子を出すほうじゃなくて、いただくほうなのよ、赤ちゃんを産んで、お乳で育てるほうなのよ」と心の中で叫びたくなりましたけどね。

その後の葛藤は、弊ブログの「セルフモニタリング」に、恥ずかしながらまとめさせていただいた次第でございます。
それから数十年という長い年月を、男性としての役割を表面上演じながら、ある意味だましだまし生きてきたわけですが、還暦になり、先も次第に見えてくると、死ぬときに絶対後悔したくないという理由で、女性ホルモン摂取を始めて現在に至ります。
若い時分だったら、女性ホルモン剤を投与してもなかなか女性に近づけない自分に苛立ったりしていたかもしれないけれど、それこそ「我執」そのものですよね。
「自分は女でなきゃいけない、男としての自分なんて生まれてきた価値もないし、これから生きていく価値もない」なんて真剣に思い込んでいたかもしれないからね。
仮に性別変更手術を受け、戸籍が変更されたとして、それで我執から解放されるかといえば、たぶんですけど、全然そうはならないだろうし、むしろ自分の魂をより袋小路に追い込んでしまっていたかもしれません。
そこまで我執に全面的に支配されるのではなく、ある程度客観的に自分を見られる部分もきちんと残していたつもりです。

そう、仏教サイトを拝見すると、我執から逃れる方法のひとつとして、「自分を客観的に見ること」と書いてあるんですね。
単一の考え方や価値観で自分自身の意識の全体が支配されてしまうのは非常に危険だということを、思春期に学んでいたので、多少はセルフコントロールができていたのかもしれません。
逆に言うと、醒めていたのかしら? 思い返しても、わたし自身、燃え上がるような強い感情に支配されたということはなく、いつもアンビバレンツ(二律背反)な感情を同時に抱えていたような気がします。、

では、わたしたちは我執から自由になれるのでしょうか。
おそらく、名誉心や嫉妬心、見栄などのくだらないことから、アイデンティティ、人生観、価値観、教育観、イデオロギーに至るまで、わたしたちの意識のすべてが、我執と何らかの関わりがあると思います。
それをすべて捨てるのは至難の業、なのではないでしょうか。
ただ、捨てることはできなくても、一歩引いて、自分をがんじがらめに縛り付けているものは何なのかを冷静に自覚できるだけでも、我執に振り回されて生きるよりは大きな意味があると思います。

わたしの性別不一致はたぶん死ぬまで付き合う相手だと思いますが、だからと言ってそれに翻弄されるのではなく、自分を冷静に客観的に俯瞰する意識を常に持ちながら、我執を制していければなあ、と思っております。

そう、我執を捨てるのは難しいけど、制することはできるんじゃない?ってね。

「絆」って何?

1 Comments
あおい
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日本国政府ホームページ内には「絆」に関する特設コンテンツが設けられている。

絆って、何でしょう。
親子の絆、夫婦の絆、師弟の絆。。。
昔から、心の奥底でずっと引っかかってきました。一度、整理しなくちゃ、と思っていたのです。

絆というと、2011年に発生した東日本大震災のことをイメージする方も少なくないでしょう。
当時、やたらと「絆」という言葉が使われましたね。よく「絆」とプリントされたシャツを着ている人を見かけたりしました。
そんなわけで、特に若い方にとっては、「絆」と聞くと美しいイメージをお持ちの方も多いかもしれません。
が、必ずしもそうではないのです。

「絆」のもともとの語源は、馬・犬・鷹など、動物をつなぎとめる綱だったとする説が有力で、そこから、人情やしがらみなど(腐れ縁も含めて)、「離れようにも離れられなくなった状況」を指すようになった、ようなんです。
つまり、愛情や友情とは異なり、積極的なつながりというよりは、言葉は悪いけど「半ば強制力を担保にした」消極的なつながりとも言うべきものなんですね。
なので、必ずしも愛情は感じないけど絆は感じる、みたいな逆説的な状況だってあり得る。
東日本大震災の際に堰を切ったように「絆」という言葉が使われ始めたのには、正直戸惑いもありました。
わたしも何度もボランティアに行きましたが、それが被災地との絆につながったのか? そこは自問自答ですね。

そもそも絆って、何でしょう。
少なくともわたしにとって、絆とは、
①特定の人物同士が固く団結し、その他の人物を排除するための言語装置
②集団から離脱しようとする人を無理やり集団にとどめるための言語装置

なのかしら、と思っていました(今も、ですが)。

10代の頃、やたらと団結心の強さを売りにするグループが周囲にいくつかあって、だけど、それって結局、異質な者を集団からはじくための装置でしかないんじゃない? ってことを痛感しましたので。
簡単に言うと、固い「絆」を誇示するグループ(彼らは「俺達の絆は誰にも壊せるものか」などと日頃から豪語していた)と、それを取り巻く応援団のような人たち、そして部外者という構図でしょうか。
わたしは完全に部外者の立場でございました。
「おまえなんかに俺たちの崇高な思いがわかってたまるものか」、みたいな感じでしたからね。
こちらは、勝手にせえや、と覚めた目で見ていましたが。

大人になったらなったらで、今度は、逆に抜け出したいと思っても雁字搦めにされてどうにも抜け出せない状況にはまっていくわけです。最終的に振り切るのには大変なストレスを伴いましたし。

なので、若かった頃は①の意味で、大人になってからは②の意味で、あまり「絆」という言葉には好感を持てませんでした。
わたしが物事をペシミスティックに考えすぎるせいかもしれませんが。

そもそも、東北に縁もゆかりもない方にしたら、一方的に「絆」をアピールされても困惑しますよね。
当時は日本中がそういう空気に包まれていたので、自分ができることを何かしなくては、ということになっていました。
でも、使い古したお洋服や毛布をお送りしたり、被災地を訪れてガレキを撤去したり、ご飯を食べてお金を少しばかり落としたりすることが、絆って言えるのだろうか。
「絆」って、そんなに軽々しいものなん? もっと強いものではなくて?
そこはどうしても疑問に思います。
被災地からすれば、忘れ去られることがもっとも辛いことなので、とにかく現地に足を運んで復興に向けた営みを見て感じていただきたい、という気持ちなんですけれど。
それが自然な形で、双方から「絆」という言葉になって出てくるのなら、それは前向きにとらえたいし、素晴らしいことだと思います。

これでお前も俺の女だ???

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涙ながらに記者会見する被害女性(NHKニュース)

大阪地方検察庁の元検事正が、酒に酔って抵抗できない状態の部下の女性に性的暴行をした罪に問われている裁判が始まり、元検事正は起訴された内容を認めました。
弁護士の北川健太郎被告(65)は、大阪地検のトップの検事正を務めていた2018年9月、大阪市内の公務員の宿舎で、酒に酔って抵抗できない状態の部下の女性に性的暴行をした罪に問われています。
続いて、検察は冒頭陳述で「事件当日、被告は検事正の就任祝いに参加していて、泥酔した被害者をタクシーに押し込んで宿舎に連れていき、帰らせてほしいと訴える被害者に性的暴行を加えた。やめるよう伝えたのに、『これでお前も俺の女だ』と言って犯行を繰り返した」と主張しました。
https://www3.nhk.or.jp/news/html/20241025/k10014619141000.html

会見の詳細です。最後まで聞くのが辛くなってくるような内容です。


いやはや、とんでもない法曹がいたものですね。
伊藤詩織さんの事件の構図とまったく同じです。
伊藤さんの場合は、故安部元首相に食いついて提灯本を書いて食べていた三流ジャーナリストでしたが、今回は職場の組織のトップです。意に従わなければ、どんな報復や不利益を受けるかわかりません。強引に誘われたら、伊藤さんの場合以上に、断れない状況にあったはずです。そこにつけこんでの卑劣きわまりない犯行ですから。

この記事に触れて、驚いたことを自分なりに上げてみました。
〇検察をともに支える大切な現職の部下である女性検事に対する卑劣な行為であること
〇当初から性的暴行目的で酒を飲ませていたこと
〇つまり、部下の女性に性的暴行する機会をかねてから狙っていたということ
〇罪悪感も何もなく、「これでお前も俺の女」という例の発言が飛び出したこと
〇被害女性はご家庭を持つ既婚者であることを立場上よく知っていたこと
〇刑事被告人を取調べ、求刑を行う立場でありながら犯罪意識が欠落していること
〇謝罪するどころか、あらゆる口止め工作をしていたこと
〇公判では容疑を認めたが、有益な証拠が出て来なければトボけ通すつもりでいたこと
〇還暦間近の50代後半という年齢でありながら、これだけの性欲を持て余していたこと
〇事件が公になったら死ぬとかほざきながら、今現在も堂々と生き続けていること

などなど、あげればキリがありません。

この元検事正は、伊藤詩織さんの事件をどのような目で見ていたのか、推して知るべしですね。
「この女はいったい何をギャーギャー騒いでいるんだ、同意していたくせに、どうせ売名目的か、金が欲しいだけなんだろ」、みたいな目でいたのでしょうね、おそらく。
伊藤詩織さんが実名公表という勇敢な決断をしたことで(すさまじい誹謗中傷があったと聞いています)、女性が司法の場に性的被害を訴えるという流れが出来ました。自衛隊の例の事件でも、勇敢な元自衛官の女性が司法の場で訴えたことで、事件が明るみとなり、元自衛官たちは相応の処罰を受けました。
なぜか不起訴になるグレーなケースも多いですが(サッカー日本代表の伊東純也とか佐野海舟とか)、少なくとも泣き寝入りしていた時代に比べれば多少は進歩したと言えましょう。

今回の事件は、そうした動きとまったく逆行するような犯罪で、怒りを通り越してあきれ返ってしまいます。
検察トップって、こんな奴でもつとまるのね。。。

ちょうど明日、衆議院選挙があります。衆議院選挙では、最高裁判所判事の国民審査も同時に行われます。
最高裁判事の国民審査とあわせて、検察トップに対する国民審査も導入したらどうでしょうか。
今回のようなトンデモ案件もそうですが、無罪判決が確定した袴田事件を見ていても、検察内部では明らかに「控訴して検察の正当性を訴え続けるべきだった」という空気が強そうですし。
そうした検察内部の「空気感」を醸成しているのは明らかに検察トップの意向です。威光と言ったほうがいいかもしれません。
「検察は選ばれし者による特別な権限を与えられた組織だ」という、根拠のない過剰な選民意識、思い上がりがあるのでしょう。
国民の目が光っているとの意識があれば、「国民感情をよく意識した検察庁でないと、検察トップの首が飛んでしまうかもしれない」という緊張感が生まれ、「検察の暴走」を抑える一助になるのではないか?と思ったりします。
実際、今回の衆院選のタイミングだったら、袴田事件での自白強要や証拠の捏造、そして今回の検察トップによる性的暴行事件とで、国民の検察に対する不信感のボルテージが一気に上がり、本当に罷免になった可能性だってあるかもしれない。
まあ無理でしょうけれど。。。

それと、今回の件で見逃せないのが、同僚である女性副検事の陰湿なチクリです(会見動画14:20~)。
今回の件で内偵調査中、懇親会の席で、この女性副検事は捜査中の情報を元検事正側に漏らしたり、挙句に被害女性が虚偽の告訴を行っているとのうわさを検察庁内に広めていた、らしいのです。
オドロキですよね。
同じ同僚女性がレイプ被害に遭っているというのに、よくこんな卑劣なことができるよな。女が女の敵になってどうすんのよ。

思い起こせば、今年1月、天台宗の僧侶による尼僧性暴行事件が発覚した際にも、同じようなことがありました。高位の僧侶による度重なる性的暴行被害を告発した後、同じ尼僧から「あなた(叡敦さん)がこういうことをなさると、他の尼僧の立場がなくなる」みたいな言葉が届いたのだそうです。
女なんだから、黙って受け入れればそれでいいのよ、という無言の圧なのでしょうか。

おそらく、この女性副検事は元検事正の男に手籠めにされていたのでしょうよ。
だとすれば、つくづく卑劣な男だと思います。
そして、こういう強欲な権力者が仕切る組織の中で、女性が正当に評価されて生きていくことの難しさを改めて痛感します。

「権力志向」はどのようにして形成されるの?

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写真:ジャパンタイムス

権力者は、なぜ権力を希求するのでしょうか。
「権力欲」「権力志向」とか言いますが、権力欲は食欲や性欲などの生物的一次的な欲求と異なり、誰にでも備わっているわけではありません。
そして、得てして、どの組織にもこの「権力志向」の人間がいるものです。
非常に厄介な存在ですよね。
この厄介で迷惑な人間に振り回され、右往左往させられ、辛い思いを余儀なくされた方は少なくないと思います。
別に組織のトップになるような権力者だけではなく、周囲に対して支配的に振舞う、言ってみれば「どこにでもいるプチ権力者」。
旦那さまがプチ権力者と化して、困惑しながら日々を過ごされている女性たちも数多いのではないでしょうか。

わたしが心理学をきちんと勉強したいと思ったのも、この「権力欲」の分析が動機のひとつでした。
権力欲はなぜ、どのようにして生まれるのか、という問題ですね。
単なる性格分類だけにとどまらず、幼児期からの発達の過程でどのように権力欲が芽生え、権力者としての道筋が形成されていくのか。。。
わたし的には、もちろん遺伝的な要素も大きいでしょうけれども、幼少期に、人に命令することの「快感」を感じてしまうことが、権力欲への目覚めを生じさせる契機ではないか、と思っています。

思い起こせば、まだ幼稚園生だった頃、すでに権力志向の子たちには、その萌芽が見えていたように思います。
わたしはと言えば女の子とばかり遊んでいましたけれど、男の子たちの世界では、たとえば外でいろいろな遊びをするにしても、周囲の子たちにあれこれ指示を出したがる子というのが必ずいました。
本来的なものなのか、それとも幼稚園生にしてすでに権力の魔力に覚醒していたのか、よくわかりませんが。

「故安倍元首相が女装して現れた」という衝撃発言について

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2024年7月、新刊書発売の記者会見に臨む高市早苗先生(読売新聞)

あまりの衝撃に一瞬、言葉を失いました。
10月13日に行われたという、立憲民主党の衆議院選挙立候補者の出席する集会で、かつて法政大学総長も務めた田中優子さんが登壇し、自民党の高市早苗先生のことを「故安倍晋三元首相が女装した姿」と表現したのです。

「(高市早苗さんは)自民党議員の中でも安倍派ですよね。安倍さんが女装して現れた。言っていることは安倍さんそのものです。女性が今までどういう歴史を歩んできて、どんな目にあって生きてきて、政治はそれに対して何をしなければならないかということを、一度も考えたことはないと思います。中は男でしょ。安倍さんでしょ」

これは、さすがに炎上しますよね、いくらなんでも、ひどすぎるのではないでしょうか。
名誉棄損で訴えられてもおかしくないレベルです。
少なくとも、教養や品格を備えている(はずの)学識経験者のご発言とは思えません。
田中優子さんは着物がお似合いで、江戸文化の優れた研究者で、わたしも著書の2~3冊ほどは読ませていただきましたし、何よりGMARCHのひとつである法政大学の総長まで務められた方なのですから。。。
一体どうしちゃったのだろう。
ご本人に謝罪する気があるのかないのかわかりませんが、ここはとにかく一度謝罪して、これ以上ヒートアップしないようにすべきではないかと思うのですが。
当然ながら、この発言にはいろいろと考えさせられるところがありました。

まずはじめに、「女装」がこの上なく侮蔑的な形で使われたことが大変気になります。わたし自身も含め、トランスジェンダー志向の方たちにとっては、「揶揄された」「バカにされた」という裏切られた気持ちしかありません。
田中優子さんはトランスフォビア(簡単に言うと、トランスジェンダーに対する否定的な考え方)の人なのでしょうか? 必ずしもそんなイメージではありませんし、むしろ、左翼の方に多い、多様性を志向する方とお見受けしていました。
田中優子さんが総長を務めていた法政大学の卒業生には、男性から女性に性別変更し、女性として立派に活動なさっている地方議会の議員の先生もいらっしゃって、ある媒体で対談をされているのを目にしたこともありますし。

人はどこまで残酷になれるか?

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今日、浜田麻里さんファンクラブの会報Vol.186が手元に届きました。
麻里さんフリークにとっては、クォーターに一度のかけがえのない楽しみです。不思議と、やる気が落ちてきたり気分が乗らなかったり、物事をつい悪い方向に解釈してしまったりなど、意識が下降気味のタイミングで届くことが多く、自身にカツを入れ、魂を正しい方向に向き直す契機となってくれています。
今回もまさに、そんなタイミングでした。

さてさて、今回の会報のインタビューでは、話の流れの中でやや唐突に、スタンレー・ミルグラム博士による「アイヒマン実験」の話題が。。。
おおお、さすが精神医学・心理学オタクの麻里さん、そう来ましたか。
独裁者の下で、人間はどこまで残酷になり得るか。。。ベトナム戦争が泥沼化していった1960年代に行われた有名な心理実験です。映画の題材にもなっていたことは、今回初めて知りました。
わたしも心理学を学ぶ者として、決して無縁ではいられない社会心理学の実験です。ただ、わたし自身はこの手の実験は正直、あまり好きではありませんが。。。
どのような実験か、ご興味のある方は、日本心理学会のコラムがわかりやすいので、ご覧になってみてください。

アイヒマン実験の話題で思い起こされるのは、やはりユダヤ人の問題です。
いま、イスラエルは被害者ではなく加害者として、世界を混乱の渦に巻き込もうとしています。
ガザ地区はおろかレバノンにも空爆を開始し、核大国イランにまで報復措置を検討しています。
いったいネタニエフは何をどうするつもりなのか、わたしたち日本人にはまったく見当がつかないですね。

そして、興味深いのは、イスラエル国民への意識調査の内容です。先日、NHKのクローズアップ現代で紹介されていました。
それによると、イスラエルの64%もの市民が、「ガザ地区で軍事的にできることをまだ達成していない」と回答しているのです。
まだまだ手ぬるい、中にはハマスとの全面戦争も辞さない、ハマスを全滅させなければならない、などと普通に考えている市民が多いという衝撃の事実。多くの民間人に犠牲者を出しているにもかかわらず。

インタビューでは、ある市民(あえて言うと、ごく普通のおばはん)が、
「テロリストを1万人殺そうが、5万人殺そうが、5千人の市民を殺そうが関係ない」
と平然と言ってのけていたのには、思わずのけぞりそうになりました。
このおばはんだって、普通に旦那さまと結婚し、子どもを授かり、家族を愛し慈しんできたはずです。
何の罪もないガザの子どもたちが、自分たちの理不尽な空爆で血まみれになり、手足が吹き飛び、残酷にも命を落としている映像をニュースで見ていないはずはないのに。

よく見てほしいのは、「5千人の市民を殺そうが関係ない」と言っているのです。
「5千人の市民が死のうが関係ない」とは言っていない。
国際戦争法上、保護されるべき民間人の市民に対して、「殺す」とはっきり口にしているのです。