京名所図屏風(左隻・嵐山図)円山応挙筆
- 江戸時代
- 寛政元年(1789)
- 六曲屏風一双、紙本金彩著色
- H-155.4 W-336
- 所蔵
- 三井家伝来
円山応挙(まるやまおうきょ)
円山応挙(まるやまおうきょ)
享保1年(1733)ー寛政7年(1795)
江戸時代中期の画家で、円山四条派の祖。丹波の国、穴太村(今の京都府亀岡市)の農家に生まれる。15歳のころ京都へ出て、鶴沢派の画家石田幽汀に画伎を学ぶ。中国の眼鏡絵の模写やシンナンヒ゜ンの写生的な様式の影響を受け、個物に肉薄する写生的な態度と東洋画の伝統である装飾的な絵画様式をかねあわせた独自の画境をひらいた。
孔雀図(円山応挙筆)
虹図(円山応挙筆)
京名所図屏風(右隻・東山図)円山応挙筆
仔犬図 円山応挙筆
王義之書扇図(円山応挙筆)
蟹蛙図(円山応挙・与謝蕪村合筆)
遊亀図
円山応挙
1733~1795(享保18~寛政7)。江戸時代中期の画家。円山派の創始者。通称は岩次郎、左源太、主水、字は仲均、仲選。号は初期に一嘯、夏雲、仙嶺を用いたが、1766(明和3)、名を応挙に改めて以後、没年までこれを落款に用いた。丹波国穴太(あのう)村(現、京都府亀岡市)の農家で生まれる。十五歳の頃京都へ出て狩野派門閥であった鶴沢探鯨門下の石田幽汀(1721~1786)に画技を学ぶ。生活のため眼鏡絵(絵をいったん鏡に映し、それをレンズで見るために用いる絵)の制作に従事し、中国版眼鏡絵を模写、応用して京名所を描いた。これにより奥行き表現への関心を開かれたが、京名所眼鏡絵には機械的な透視遠近法を避けようとする意識も見られ、その見事な成果が1765年の「淀川両岸図巻」である。一方、同じ年に描かれた「雪松図」(東京国立博物館蔵)では、個物に肉迫する写生的態度が看取され、ここに用いられた付立て(註1)、片ぼかしなどの技法は、のちに整備されて円山派のお家芸となった。
1767(明和4)、三十五歳の年には円満院(註2)門主祐常の知遇を得て、本格的な画家としての生涯を歩み始める。祐常門主が亡くなる1773(安永2)までの8年近い間、円満院にたびたび出入りし、祐常との交流を通して様々な知見を得ると共に、新しい絵画芸術を目指して試行を繰り返すことになる(円満院時代)。応挙の新しい写生に対する考え方もこの頃にほぼ確立すると考えてよい。個物に対する写生を熱心に行い、多くの写生帖(東京国立博物館ほか蔵)を遺し、人体に対する即物的関心は、「難福図巻」(円満院蔵)などに示されている。彼の写生に対する絶対的信頼は弟子奥文鳴の伝えるところであり、また最近紹介された祐常門主の手控帳「万誌」にもうかがわれる。写生の重要性を認識するようになった直接的契機として、当時の画壇を席巻していた沈銓(南蘋)(註3)様式、その写生図を模写するほど傾倒した渡辺始興(註4)、名号をならった銭選(舜挙)などが推定される。応挙は1768年の「平安人物誌」や「孔雀楼筆記」に登場しておりすでに新画風が社会的評価を得ていたことがわかる。
1771年の「牡丹孔雀図」(円満院蔵)に写生風装飾様式を完成したころから、東洋画の伝統と融和を計り、障屏画の世界に自己の装飾画様式を求めるようになった。1776年(安永5)の「雨竹風竹図屏風」(円光寺蔵)や「藤花図屏風」(根津美術館蔵)、1787年(天明7)の大乗寺(註5)および金刀比羅宮(註6)表書院、翌年の金剛寺(註7)の襖絵群は、それぞれ大画面におけるすぐれた成果である。このころ豪商三井家や宮中関係の庇護を受けるようになったことも見逃せない。光格天皇(註8)即位大礼に臨み1781年「牡丹孔雀図屏風」を揮毫、やがて妙法院(註9)宮真仁法親王とも親しくなった。1782年の「平安人物誌」画家部では筆頭に挙げられている。
1790年(寛政2)御所の造営に伴い一門を指揮して障壁画を制作。1793年ころから老病にかかって視力も衰えたと伝えるが、再び金刀比羅宮表書院や大乗寺に健筆をふるった。特に絶筆の「保津川図屏風」は応挙芸術の集大成で、モニュメンタルな様式にまで高められている。この間、多くの弟子を教育して円山派を組織した。応挙様式が真の写実主義ではなく、単なる折衷様式だとする非難もあるが、当時の画壇状況にあって、その写実主義が極めて革新的であったことは疑いない。
註1)輪郭線を用いない没骨法の一種。色彩でもって一気に物の形を描き上げていく技法で輪郭線と彩色が分離せず、一筆の中に輪郭、陰影、立体感等を表現しようとする。
註2)滋賀県大津市別所にある単位宗教法人。園城寺(大津市にある天台宗寺門派の総本山:通称、御井寺・三井寺)三門跡の一。村上天皇の皇子悟円法親王の創建。室町時代花頂門跡と称した。
註3)中国清時代の画家。字は南蘋、色彩鮮やかな写実的花鳥画に巧みで1731年(享保16)長崎に渡来して在住2年、熊斐らが師事し、我国の花鳥画に大きな影響を与えた。生没年不詳。
註4)江戸中期の画家。京都の人。初め狩野派山本素軒に学び、その後尾形光琳について琳派風を習得した。両者の画風を併行して描いたらしい。写生を重視し代表作に大覚寺正寝殿杉戸絵、興福院書院・霊屋障壁画などがある。
註5)兵庫県香住町にある真言宗の寺。山号は亀居山。行基菩薩の開山と伝える。天明年間にこれを再興した密英が円山応挙に修行の資を与え、後に応挙が弟子蘆雪・呉春らと共に来て襖絵を描いた縁で、俗に応挙寺という。
註6)香川県沖多度郡象頭山(琴平山)の中腹にある元国弊中社。祭神は大物主神・崇徳天皇。古来舟人の尊信篤く、毎年10月10日の大祭は盛大。金毘羅大権現。
註7)京都府亀岡市にある臨済宗天竜寺派の寺。
註8)第119代の天皇。在位37年間(1780~1817)。
註9)京都市東山区にある天台宗の門跡寺院。もと比叡山の一院であったが、後白河法皇が京都に移した。高倉天皇の皇子尊性法親王の入寺以来門跡寺院となり、日吉門跡と称した。
孔雀図(円山応挙筆)
虹図(円山応挙筆)
京名所図屏風(右隻・東山図)円山応挙筆
仔犬図 円山応挙筆
王義之書扇図(円山応挙筆)
蟹蛙図(円山応挙・与謝蕪村合筆)
遊亀図
解説(春の玉手箱)
春の嵐山界隈の景観を鳥瞰的に描いた図で、八坂神社を中心とする東山図を右隻とし、併せて一双を成す屏風のうちの左隻にあたる。円山応挙(一七三三~一七九五)は、江戸時代中期の画家。丹波穴太村(京都府亀岡市外)の出身。京都にて狩野派の石田幽汀に学びつつ、中国絵画の写実技法を融合し、装飾様式を加えた独自の様式を確立、後に円山派として明治期に至るまで命脈を保った。この保津川周辺の図は、移動視点によるため細部を見れば写実的とは言い難い点があるが、そうした理屈以前に、見る者に金泥の霞の合間に浮かぶ春の嵐山の情緒を感じさせる。写生は単に写実的に写すのではなく、天が創り出した造化物だからこそ美しく、欲を出さずに只ひたすらにその真を写そうと勤めれば良いとした応挙の思想が、このような平明でいて品格のある画を生み出したといえよう。
Catalogue Entry
This screen would have been the left screen of a pair and shows a bird's eye view of Arashiyama in spring. This screen would have been paired with a right screen showing the Higashiyama area, centered around Yasaka Shrine. Maruyama Okyo (1733‐1795) was a painter of the mid‐Edo period who was born in Tamba Ano village, on the outskirts of present‐day Kameoka city in Kyoto prefecture. Okyo came to Kyoto where he studied under the Kano school artist Ishida Yutei. Okyo went on to create his own distinctive painting style which was a fusion of Chinese realist painting techniques with decorative elements. This style, which became known as the Maruyama style, was continued by his followers through the succeeding Meiji period. The scene here from the Hozu River area is depicted with a moving viewpoint and an examination of the details of this scene shows that they are less than realistic. But more than such theoretical impressions, the viewer mainly has a charming sense of the spring scene at Arashiyama, glimpsed between clouds of gold mist. This painting with its bright, open character shows Okyo's philosophy regarding the importance of earnestly conveying the truth of something, in a forthright manner, revealing its heaven‐made beauty, not simply its realistic form.