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プラユキ師の9月のダンマパダから学ぶ会7

(続きです)

善因善果、悪因悪果(速やかに生じてくる果と長期的に生じてくる果)についてまとめてみました。
基本になるのは業論です。仏教の「業論」は、運命論の論理根拠ではなく、明るい未来を生みだす理論を提供するものです。
業kammaというのは運命論の根拠にされたり(あなたが今不幸なのは前世で悪いことをしたから等)おどろおどろしい感じで、だからあきらめろみたいな、怖がらせたり救いがない、原因があるんだから今を変えられないというような話になりがちです。
しかしブッダは、そういうバラモン教的解釈から「今の行為が業kammaだ」という明るく可能性を見いだす解釈に変えたんです。
今から行動・考え方(これがkammaです)を変えることで、いくらでもよい未来がもたらされるよ、という明るい未来を生みだす解釈をもたらしました。
明るい未来を持ち、過去への後悔にとらわれない、幸せになれる教えが仏教の業論です。

では幸せになるためにどうすればいいのか、弟子とブッダとの間で交わされた問答からご紹介します。

弟子「一法にして、現在の(現世的)利益(Ditthadhammikattha)と未来の(より高次なる)利益(Samparayikattha)の二種の利益を得られるものはありますか?」
ブッダ「ある」
弟子「その法とはなんでしょうか?」
ブッダ「その法とは、不放逸である」

自分の心をなおざりにせず、今ここに気づくことが現世の日常生活を幸せにし、しかもより高次な幸せをもえられる。両方に利益があるということです。
このあたり誤解によって、世俗的な利用だけ、あるいは現世と乖離したものになったりしていることもありますが、そうではなくて不放逸であることは両方に価値があるんですね。


Cf.最上なる法としての「不放逸」
比丘たちよ、地上のいかなる生き物たちの足跡も、すべて象の足跡の中に入る。象の足跡がこれらの足跡の中、最大であるように、いかなる善法も不放逸を根本とし、すべて不放逸の中に集まる。このように不放逸こそ、すべての法の最上なるものである。

ブッダのことばです。
気付かないで生きていると自由意思はないけれど、気付くことで自由に生きる、幸せに生きる可能性が出てくる。
気づき、不放逸の価値を知り実践ができる、それは素晴らしいアドバンテージ、有利な生き方なんですね。

(続きます)

生きとし生けるものが幸せでありますように

プロフィール

しの2012

Author:しの2012
2012年から仏教を学び、ヴィパッサナー瞑想に取り組んでいます。

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