療育は障害による不自由が少なくなるように行うというものであるのは間違いないだろう。
しかし、療育において柱とすべきことはなんなんだろう?
その辺が頭の中ではっきりしない事には、何かにつけて行き当たりバッタリになることは避けられない。
というわけで何を柱とすべきか考えてみようというのが今日のお話。
まず頭に浮かぶのは個人のさまざまな能力を活かし、のばしていく事だろう。
障害の有無にかかわらず、できることを増やし将来のさまざまな選択肢の幅を増やしていく。
それは生活する能力ともなるし、稼ぐ為の能力にもなりうる。また、余暇を過ごす為の能力ともなりうるものだ。
ゆえに、興味・関心をはぐくみ、さまざまな能力を伸ばしていくことは悪いことではないだろう。
ASD児特有の興味・関心の持ち方があるから、そこに配慮しながら教育する必要もある。
というわけで、これは療育の柱の1つとなりうる。
更に身体面での不具合による負担を軽減していくことも療育の一つの柱となっていくだろう。
ASD者の多くが身体的な問題を抱えている以上、これにアプローチできれば生きやすさは倍増する。
幸い身体や感覚の問題なども近年さまざまなアプローチが可能になってきている。こういった取り組みが生きやすさを作っていくことになるはずだ。
ここまでで安直に二つの大きな柱がでてきた。
ではこれだけで良いのだろうか?
ここがちょっと私の頭の中でモヤモヤしていた点である。
ここで社会の中の個人ということを考えてみる。
個人は社会のルールによってさまざまな形で守られている。
基本的に、殺されない、脅されない、盗まれない等ということが保証されている。
これは社会のかなり厳格なルール(=法律)によって守られている権利である。
そして、あまりお互い不快な思いをしないということ、これは公衆道徳・マナーという、もうちょっとゆるいルールによって守られている。
自閉症児者に限らず、誰しも社会と完全に分離して生きていけるものではない。
となると社会の中で生きていくということは上記のようなルールに従って生きていく事になる。
定型発達児ではこのようなルールが相互の為に存在することなどが比較的自然に学習できるのかもしれないが、ASD児は社会性の障害があるため、そのあたりに困難を抱えている。
ASD児者はルールに厳格な場合が多いのではあるが、ルールの相互性を学ぶ必要はあるだろう。それが身についていなければちょっとしたことルールの順位が崩れたりしかねない。
また、社会の仕組みも当然学ぶべきであるが、細部に目がいきやすい特性から、誤学習を起こしやすく、社会の仕組みを誤認したりもしやすいものである。
従って、社会のルールや仕組みを適切に教えることも療育の重要な柱と見なすことができるのではないかというのが私の結論である。
こう考えていくとASD児の療育には
・さまざまな能力をのばしていくこと。
・身体面の不具合による負担を軽減していくこと。
・社会のルールやしくみを適切に教えること。
の三つの柱が考えられるのではないだろうか。
…などと考えたわけでした。
あーすっきりした。

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