1964年の東京オリンピックは戦後日本の経済復興を決定づけ、デザインの力を国内外に知らしめた場でもあった。東京五輪に関わり、72年の札幌五輪のシンボルマークを手掛けた永井一正氏とともに、半世紀前のオリンピックとデザインを振り返る。
亀倉雄策の手による、シンボルマークをメインとした1号ポスター(1961年)。
最終プレゼンの表紙から始まった
1959年5月26日――1964年の第18回夏季オリンピック開催地を決める第55次IOC総会が、ミュンヘン体育館で執り行われた。
ウィーン、ブリュッセル、デトロイトとともに立候補していた東京のプレゼンテーション資料の表紙を制作していたのが、日本を代表するグラフィックデザイナーの亀倉雄策だ。亀倉は、当時のJOC・竹田恒徳委員長のスキー仲間であった。ちなみに竹田委員長は、先ごろ2020年夏季五輪の東京開催を勝ち取ったJOCの現会長・竹田恆和の父にあたる。
64年の開催まで、残された準備期間はわずか5年。60年にはデザイン評論家の勝見勝の指揮のもと、五輪開催のためのデザイン懇談会が結成され、シンボルマークの指名コンペが行われた。永井一正氏もこのコンペに参加している。「勝見さんは59年に『グラフィックデザイン』という雑誌を創刊したばかり。日本デザインセンターが立ち上がったのもこの頃です」。
忘れていたコンペの締め切り
コンペには永井氏のほか、亀倉雄策・河野鷹思・田中一光・杉浦康平・稲垣行一郎という面々が参加、3案ずつ提出した。
「亀倉さんは締め切りを忘れていて、直前に慌てて案を提出していたのをよく覚えています。ところがふたを開けてみたら、採用されたのは亀倉さんの案だった。日の丸を太陽に見立てたこのマークを中心に、五輪のデザインポリシーが決まっていった」。
亀倉はコンペがとても好きだった。「ここぞという時に燃え立って、必ずホームランを打つ人だった」と永井氏は評する。大先輩であったが、1972年の札幌オリンピックも1975年の沖縄国際海洋博覧会でも、常に若手と競い合っていたという。
東京中のストロボをかき集めた
2号ポスターは亀倉がフォトディレクターに村越襄、フォトグラファーに早崎治を指名し制作された(1962年)。
東京五輪のポスターで最も著名なのが、陸上競技のスタートの瞬間を鮮烈に捉えた「2号ポスター」(1962年発表)だろう。当時、歴代の五輪ポスターで写真を採用したものはなく、日本初のグラビア多色刷りB全版ポスターでもあった。
「亀倉さんはフォトグラファーとして早崎治、ディレクターとして村越襄を指名した。両名とも、ライトパブリシテイの創設期のメンバーです。東京中にあるストロボをかき集めて ...