「人種同一性障害」とわたしの身勝手な論理
2004年10月26日 - 1:05 PM | |ちょっと前の話だけど、tummygirl さんが以前取り上げていた「人種的違和」というテーマについて、きちんと書いておかなくちゃいけないなと思いつつ、やっぱり面倒くさいのとわたしが達した結論があまりに身勝手なので後回しにしてきたわけだけど、あんまり後回しにし続けると永遠に書けないような気がするのでとりあえず何か書くことにする。
ここで問題となっているのは、性同一性障害だとか性自認だとかいう言葉が流通するようになって性別は超えられるようになったのに、人種同一性障害というのが認められないのは何故か、という問題。実は、わたしは普段はこの疑問は取り合わないことにしている。だって、「人種同一性障害」という概念を議論に持ち出す人たちの大半は、性別と人種の問題について考えようとしているわけじゃなくて、ただ単に「白人が自分は黒人であると言っても認められないのだから、男性が自分は女性だと言っても認める必要はない」と言いたいだけの人たちなんだもの。単に自分の偏見に都合のいい理屈としてそうした「疑問」を持ち出しただけの人を相手に、人種と性という二つの大きな問題についての掘り下げた話を頑張ってやっても意味がないのね。
ただ、仮に「人種同一性」について議論しようとする人の大半が実は「人種について議論したいわけじゃなくて、単に性同一性障害の人たちを非難したいだけの人たち」であるとしても、もともとの「性別の自己決定は認められても、人種の自己決定については認められていないどころか、それを求める人の存在すらほとんど見えないのはどうしてだろう」という疑問は解決していない。そのあたり、わたしは意図的に回答を避けてきたわけだけれど、やっぱりちゃんと考えておいたほうが良さそうだと思う。
そもそも、人には自分のアイデンティティを自分で決定する権利があるといったところで、そのアイデンティティに相応しい扱いを他人にさせるというところまで要求する権利は一般論としては存在しない。未成年が「自分のアイデンティティは大人だから酒を飲ませろ」と言っても駄目だし、ある人が「自分は世界最高の才能を持ったアーティストだ」とアイデンティファイしていたところで世間がその人をどう評価するかまで指図できない。自分はこうであると認識するのは確かに自由だけれど、それを世間がどう見るかというところまで権利としては要求できないはずだ。
となると、「どうして人種の自己決定はできないのか?」というのは問題の立て方が根本的に間違っているということになる。問う必要があるのは、「どうして性別の自己決定に限って、本人の意志を社会(医療・戸籍など)に押し付けることができる(とされている)のか?」という問題じゃないだろうか。人種ではなくて、性別の方が例外なのだから。
そう考えてみても、tummygirl さんも言っていた通り、やっぱり性別だけ本人の意志が尊重されなければいけない原理的な理由は特にないように思う。それでもわたしがどうして性別に関して本人の意志を最大限に尊重するかというと、それは「性別の自己決定」が確固とした自然権として認められるからではなくて、現にわたしの周囲に性別をトランジションして生活している人がたくさん存在しており、彼らができるだけ不便な思いをしたり辛い目にあったりせずに生活できるような社会をわたしが望んでいることと、彼らの意志を尊重したところで特に何の弊害もないからというのが大きい。上の例と比べてみると、未成年を大人とみなすのはいろいろな意味で弊害がありそうだし、「自称天才芸術家」というアイデンティティを尊重するよりも自由な評論を尊重する方が社会にとって有益だと思うけれど、性別なら本人に決定させても特に弊害はなさそうだもの。
じゃあ、人種については? tummygirl さんは「人種を超える(あるいは『変える』)という作業は、それほどの熱意を持って語られていない」と言うけれど、わたしはそうでもないと思う。ただし、それは多くの場合身体改造への欲求という形ではなくて、文化的搾取・文化的略奪といった形を取って行われる。かつてはインド人になりたがるヒッピーの白人というのがたくさんいたし、何の根拠も無く「自分のひいおばあちゃんはチェロキー族のお姫様だった」と自称するバカ白人は数えきれないくらいいる。あるいは、沖縄にアイデンティファイする大和民族というのも同型。彼らは、自分の身体は白人(日本人)だけれど精神的には別の人種・民族(であるべき)だと主張している。もちろん、彼らが考えている「精神的な人種・民族」は、ほとんどの場合現実のインド人やチェロキーや琉球人とは全然関係のない、支配民族・植民者の側によって構築された虚像でしかない。そうした人たちが訴える「人種的違和」をオリエンタリズムの一種として撥ね除けるのは容易だ。
でも、男性から女性にトランジションする人たちが、「人種的違和」を訴える人と同じようなオリエンタリズムから自由であると言えるかというと、そう言い切る自信はない。トランス業界では物凄く不評なオートガイネフィリア(男性から女性にトランジションする人たちの一部は、男性として「女性の性器」そのものに欲情しており、それを自分のものにしたいという倒錯した動機で性別再判定手術を受ける、というあんまり根拠のはっきりしない理論)を持ち出すまでもなく、あるトランスセクシュアルの女性が思い描く「女性像」が現実の「女性」とはかけ離れており、それはむしろ多くの男性が抱く「女性像」に近いのではないかといった印象を受けたことは少なくない。
かといって、そのようなトランスセクシュアルの人の「性別変更」については認めないと言ってしまうと、かえって「典型的な女性はこうである」という押しつけになってしまって別の部分に不都合が起きる。「特権のある側」から「抑圧を受ける側」へのクロス・アイデンティフィケーションは批判的に注視されるべきだけれど、それだけでは否定する理由にはならないと思う。
そう考えてみると、わたしが(セクシスト的な視点を批判的に捉えながらも)「性別違和」を認めつつ、「人種的違和」について否定的な態度を取っているのは、やはりこれといった根拠はないように思う。というか、結局「性別違和」を抱える人たちがわたしにとって大切な人たちであるのに対して、「人種的違和」を抱える人たちはわたしにとってどうでもいい人であるからだという結論になってしまいそうだ。われながら酷い結論だと思う。
一応なんとか自己弁護の理屈を並べてみると(って、だんだん上記の「単に自分の偏見に都合のいい理屈を持ち出す人」に近づいているような気が…(汗))、わたしはそもそも「性自認」であれ「人種自認」であれ一般論として本人の意志を尊重するかどうかは、人と会った時に挨拶するかどうかというのと同じレベルで人々が勝手に決めることだと思っていて、その点においては両者に違いを付けてはいない。わたしが「性別の自己決定」を断固支持しているのは、制度としてどう扱うかというレベルにおいてである。そして、そのレベルにおいて性別というのは人種と違って特に合理的な理由があるとは考えられないのに政府によって記録・管理されていて、一部の施設が男女別に設計されているという点で特殊だ(年齢も政府が管理しているけれど、それを自己決定に任せるのは弊害があるので別の議論になる)。わたしは「一般論として人々がトランスセクシュアルの人の性自認を認めようが認めまいが勝手だが(ただし、認めないと言うなら、あなたがトランスであるかどうかに関わらずわたしもあなたの性自認を認めないよ)、これといった弊害もないのに制度として自己決定を認めないのはおかしい」という立場に立つので、政府が人種登録をはじめたり人種別施設ができない限りわたしの主張に矛盾は生じないはず。
そう、理論的にあれこれ言ったところで、現実の社会では性別と人種では扱いが違うのだ。性別や人種による差別的な扱いはいけないという考え方が常識となる一方で、性別に限っては固定的な役割分担があっても差別的ではないという主張も堂々とまかり通っている。現実には人種による固定的な役割分担も明らかに存在しているのだけれど、正面からそれを肯定する人はほとんどいない。差異についても、人種間の差異に関する言説は差別に繋がるものとしてタブー扱いされるのに、性差についての話ならOKだったりする。タブーになっている人種差別の方が深刻だという言い方もできれば、タブーにすらならない性差別の方が深刻だという言い方もできるけれど、この際その点は重要ではない。問題は差別の深刻さではなくて、「差別はいけない」という言説と「差異があるから役割分担は当然」という言説が矛盾とみなされる事なく同時に受け入れられているという点で「性別」の問題が特殊だということだ。
DSM-IV-TR における性同一性障害の診断要件においても、他の性別にトランジションすることによる「文化的有利性」とは別個に、その性別の「典型的な気持ちや反応」を持っていると感じたり、「その性の役割」を果たしたい、という欲求が存在すると想定されている。つまり、人種に関しては差異の存在や役割分担自体が「差別を強化する」という理由でタブーとなっているのに、性別に関しては「差別的な扱いはいけない」という考え方と、「れっきとした差異が存在しており、役割分担があっても良い」という考え方が不思議と共存している。だからこそ、「自分は生まれた性別とは別の性の典型的な気持ちや反応を持っているし、その性の役割によく適合している」という、性別による「典型的な気持ちや反応」や「役割」を前提とした主張は、実は世間一般が持つ性差や性役割分担についての認識を脅かすことはないし、不愉快なタブーを思い起こされることもない。
でも、これももちろん回答になっていない。「どうして性別と人種では扱いが違うのか?」という問いに「それは、扱いが違うからだ」とトートロジーで答えているだけだもの。現実の社会においてそれらは違った扱いを受けているけれど、そうした扱いを受けるような必然的・根源的な理由はやっぱり何もないわけで、問題は振り出しに戻る。というか、あるレベルにおいて性別と人種で扱いが違う理由は、論理的に言ってどうしても別のレベルにおいて両者の扱いが違うという点に求めるしかないわけだけどね。
なんだかところどころ矛盾が噴出しているような気がするけど(汗)、山頂にたどり着く前に体力を使い果たしたようなので、取りあえずここらで旗を立てて弁当食べて下山するとします。
2004/10/26 - 19:03:05 -
コメント書いたのに、消えてしまいました(泣)。
「人種的違和」、大学の教科書などではrace, ethnicity, gender, sexuality, classなどと並列されてしまっていることが多くてそれが頭に残っているのがいけないのかも知れないのですけれども、「身体改変(あるいは身体形状の自己決定)の可能性の程度」というところに個人的に関心の中心があって、その際、性別をめぐる身体改変にくらべて、人種をめぐる身体改変というものは、はるかに言及されることが少ないのが、ずっと気になっているのです。どうしてなんだろう、と。
あ、というわけで、「人種を超えることがそれほどの熱意を持って語られない」というのは、あくまでも「身体改変」のレベルの話のつもりでした。精神的なアイデンティフィケーションがしばしばオリエンタリズム丸出しで行われているのはそのとおりだと思います。
それと、USでは人種は制度的には登録されることはないんですね。知らなかったです。UKだと、入管の書類とかに、人種のチェック項があったような気がします。あと、大学関係の書類にすらあったような。記憶が曖昧で申しわけないのですが、「どうしてこんなところで人種を申告する必要があるんだ?」と思った覚えがあります。UKの方が人種問題に対する意識が甘いということなのかしら。でもまあ、確かに、「人種別のファシリティ」はさすがに存在しないですよね。
2009/07/26 - 22:09:45 -
http://d.hatena.ne.jp/nodada/20090723
引用しましたのでリンクを貼っておきます。よろしく。