DV研究×行動経済学−−ドメスティック・バイオレンス被害者が加害者の元に戻る理由
2008年9月27日 - 4:29 PM | |リチャード・セイラーとキャス・サンスティーンによる『Nudge: Improving Decisions About Health, Wealth, and Happiness』の関連ブログ経由で、ブラウン大学経済学部の Anna Aizer と Pedro Dal Bó による「Love, Hate and Murder: Commitment Devices in Violent Relationships」という論文を知る。行動経済学とドメスティックバイオレンス(DV)を結びつけて論じる内容となれば、わたしが紹介しなくて誰がする(いやしない、反語)、ということで、ここに紹介してみる。結論に必ずしも納得しているわけではないけど、興味深いしDV研究で取り上げる価値は十分にあると思う。
この論文が取り上げるのは、「一度暴力的なパートナーと別れることを決意したはずの被害者が、どうしてまた元の鞘に戻ってしまうのか?」という、DVに取り組んでいる人ならおなじみの問題だ。最近書いたエントリ「DVシェルター廃絶論−−ハウジング・ファーストからの挑戦」においてわたしは、被害者支援の現状があまりに不十分なことを指摘し、経済的な理由で説明できる事象を、安易に心理的な理由で説明して納得することを批判した。すなわち、本当は自立して生活するのが経済的に困難だから加害者の元に戻っているかもしれないのに、それを見た支援者たちが「DVの関係から逃れるのは心理的に難しいものだから」と納得してしまってはいけない、ということだ。ところがわたしがそれを書いた途端に、逆に「経済学的な選択を心理的に説明」してしまう(というのは端折りすぎだけど)行動経済学の研究を知ってしまったのは、皮肉としかいえない。
行動経済学以前の経済学では、経済的行為の主体として「経済人=完全に合理的な人間」を想定したモデルが組まれていた。ここでいう合理性とは、常に自分の欲望の充足を最大化するように行動するという意味だ。もちろん実際の人間は完全に利己的でもなければ、そもそもそのような行動が取れるだけの計算能力もないが、近似的な想定として経済や社会をモデル化して分析するには十分に役に立つ。この想定に基づいて「一度暴力的なパートナーと別れることを決意したはずのDV被害者が、どうしてまた元の鞘に戻ってしまうのか?」という問いに答えるとどうなるだろうか?
まずはっきりさせておくと、「経済人」は何の理由もなく考えを改めたり思い直したりはしない。たとえばケーキを食べるかダイエットするかという選択を前にした場合、ケーキを食べた時のおいしさとダイエットした時の健康面の利点を合理的に計算して(もちろん双方のデメリットも比較して)、前者の方が上回ると思えば食べるし、後者の方が上回るなら食べない。合理的に計算したうえで納得して決めるのだから、食べてあとで後悔することもないし、食べないと決めたあとで「やっぱり食べよう」と思い返すこともない。もし決断が変わるとすれば、それは現実に何か条件が変わって再計算した結果、合理性の判断がひっくり返った場合だ。同様に、もし「経済人」のDV被害者の決断が変わるとしたら、それは現実に加害者が改心して「パートナーの元に戻ること」の利益が増えたか、あるいは逆に職を失うなど被害者を取り巻く状況が変わって「別れること」のコストが高くなったかのどちらかだ。
しかし研究者たちは、行動経済学の立場から、それとは別の可能性を提示する。かれらの主張は、「経済人」でない現実のDV被害者は、被害の直後には「DVの辛さ」を強く感じている一方、「パートナーとの生活」の価値を低く見積もっているが、時間がたつにつれて「DVの辛さ」の記憶が薄れ、「パートナーとの生活」の良い面を思い出して再び高い評価を与えるようになるのではないか、というものだ。「経済人」にとって「DVの辛さ」も「パートナーとの生活の価値」も一定だが、現実の人間にとっては時間の経過によって判断が変わってくる。被害の直後には、関係を続けることのコストの方が利点を上回るように感じるが、時間がたつにつれて両者の価値が逆転して、関係を続けることに意義を見出すのではないか、ということだ。そして、被害者はそのことを自覚しているにも関わらず、自分がそう感じることをどうすることもできない。
この説が正しいのかどうか、どのようにすれば分かるだろうか。執筆者たちはここで、米国の多数の街で採用されている、ノー・ドロップという政策の効果に注目する。ノー・ドロップとは、いざDV被害が警察に被害届けを提出したら、それ以降は被害者の意志とは無関係に加害者の法的責任追及を行なう、というもの。つまり、一度提出された被害届けの撤回を禁止し、被害者の意志に関わらず裁判を続けるということだ。こうした制度が導入されたのは、現実に被害届を出したあとで思い直して撤回をする被害者が多く、かれらに司法制度が振り回されることがあまりに続いたからだ。
わたしはかねてから、ノー・ドロップの制度は個別の被害者が置かれた状況よりも、被害者に対する「司法制度を振り回すな」という検察や裁判所の感情的な反発を優先したものであり、望ましくないと考えていた。あとで撤回ができないとなると、過剰なコミットメントを恐れて届け出ない人が出るだろうし、あるいは現実に依りを戻して元の鞘に戻った場合に、裁判が続行されることは被害者の安全を脅かすかもしれない。少なくとも安全を脅かすかどうか被害者本人が判断できないのはおかしい、と。
しかし各地でノー・ドロップ制度が導入された時に起きた変化を調査した Aizer & Dal Bó の研究では、意外な事実が明らかになった。まず第一に、ノー・ドロップ制度は被害届けを減らすどころか、逆に増やす効果があった。第二に、DV被害者による加害者の殺害とみられる状況が劇的に減った。一見意味不明なこうした変化は、行動経済学におけるコミットメントという概念を通して考えるとうまく説明できる。
コミットメントとは、何らかの目的を達成するために、あえて不合理に見える選択によって自らの自由を縛ることだ。ケーキとダイエットの例であれば、ケーキを食べないことを決めたらすぐさまケーキをゴミ箱に捨ててしまうことがそれにあたる。ケーキは保存しておけば訪れた知人にふるまうことだってできるし、もしかしたら急な天災で数日間家に閉じ込められた際に「取っておいて良かった」と思い直すかもしれない。邪魔になるわけでないのであれば、とりあえず冷蔵庫に取っておくのが合理的なはずだ。しかし、「経済人」になり切れないわたしたちは誘惑に負けてケーキを食べてしまう可能性があることを自覚しているので、その危険を断ち切るためにあえてケーキを捨てたりする。
研究者の仮説によると、ケーキは食べない方が良いと判断しているのについ誘惑に負けて食べてしまいそうになるダイエット中の人と同じように、DV被害者も被害を受けた直後には「パートナーの元に戻ればまた暴力を受けるだけ、楽しかったあの頃には戻れない」と分かっているのに、次第に一人でいることの不安や寂しさから元の鞘に戻ってしまう、そしてそれを知っていてもどうすることもできない。しかしノー・ドロップ制度が導入されると、「被害届を出すこと」は「何があっても、自分の気持ちが変わっても、加害者の法的責任を追求する」ことにコミットすることと同義になる。そしてそれは、届けを出す時点において、あくまで加害者と別れたい、元の鞘に収まりたくない、と心から願っている被害者にとって、そうした意志を貫徹するための補助となる。
ノー・ドロップ制度が導入された結果被害届が増えたのは、DV被害者たちがそうしたコミットメント装置を望んでいるからではないか、というのが研究者たちの主張だ。つまり、ノー・ドロップ以前に被害者が保持していた「被害届を取り下げる自由」は、かえって「自分はどうせ後になれば被害届を取り下げるのだから、はじめから出さないでおこう」という形で届け出の件数を下げる働きをしていた。単純に被害者の自由を増やすべきだと考えていたわたしのような活動家は、DVという極限状況における被害者の心理を誤解していたのかもしれない。
ここで少し考えてみれば分かるのだけれど、長年DV被害を受けてきた人がある日ついに加害者を殺害するというのも、かなりコストのかかるコミットメントと見ることができる。暴力的なパートナーから逃れたくても逃れられない、特に大きな被害の直後に一時的に逃れてもついまた戻ってきてしまうことを自覚しているDV被害者が、心理的に追いつめられた末に「相手を殺害することでしか自分の長期的な安全を確保できない」と感じたとすると、とてもよく分かる。しかしノー・ドロップ制度の導入により、より低いコストで「加害者と別れる」コミットメントを達成することができるようになり、加害者の殺害が減ったという説明になる。
先日のエントリ「DVシェルター廃絶論−−ハウジング・ファーストからの挑戦」では、ハウジング・ファーストに参加したDV被害者たちのほとんどが長期的に自分のアパートで暮らしていることを紹介した。その時点ではあまり考えなかったのだけれど、ハウジング・ファーストの成功にもコミットメントが関係しているかもしれない。シェルターや中期滞在施設は「自分の家」ではなく、あくまで赤の他人に囲まれた「仮の宿」であるのに対し、ハウジング・ファーストでは(家賃の支援を受けているとはいえ)自分の名前で契約したアパートに住むことになる。いつでもその気になればパートナーの家に戻ることだってできるとはいえ、いったん落ち着いて住める「自分の住処」を手に入れると、それを手放したくないという心理が働く。退居するのは面倒だし、支援団体にも迷惑をかける。それは、決意の揺らぎに対するある程度の防波堤にはなるだろう。
ところで、コミットメント装置の価値は人の決意が時間の推移によってどれだけ揺らぐかによって決まる。もし決意がまったく揺らがないのであればそれは必要ないし、むしろ将来状況が変化したときの自由度を下げるというコストばかりが高くつく(ケーキの誘惑に負ける危険が全くないのであれば、今すぐ捨てることは損)。逆に、時間の推移によって大きく決意が揺るがされると分かっていて、その結果自分の不利な決断を下してしまうと思うのであれば(ケーキを冷蔵庫に置いておくと誘惑に負けてしまうと分かっているのであれば)コストがかかってもコミットメント装置を発動させることに意義がある。
決意がどれだけ揺らぐかという問題は個人差があるはずで、従ってコミットメント装置の有用さは個々の被害者によって違うはずだ。被害届が増えたということは、平均値としてコミットメント装置の価値がコストを上回ったということになるが、中には将来的な不自由にコミットすることを恐れて(ノー・ドロップ制度がなければ届け出ていたはずなのに)届け出を出さなかった人もいるかもしれない。そう考えると、ノー・ドロップを適用するかどうかは個々の被害者に選択させる、という施策があっても良さそうな気もする。
この点をブラウン大学にいる研究者にメールして問いただしてみたところ、「たしかに選択制でも問題なさそうで、何故そうなっていないのか分からない」という返事が返ってきた。選択の余地がない方が、被害者が加害者に問い詰められた時に「わたしは取り下げたいんだけれど、検察が認めてくれない」と言えるからいいのかな、とか、取り下げ可能な被害届とそうでない被害届があるとしたら、取り下げ可能な被害届は警察や検察がより低く見てまともに取り合ってくれないのかな、とか、いくつか「選択制にしない方がいいかもしれない理由」は思いつくけれども、それらが本当の理由ではないと思う。本当のところ、そもそもノー・ドロップ制度は被害者にコミットメント装置を与えるためではなく、「責任追及するのかしないのかはっきりしろ」と踏み絵を迫るために導入されたものだから、選択制という発想がはじめから無かった、というのが正解だろう。
そのように、決して被害者のためを思って制定されたとは思えない制度が、行動経済学的な動機形成を経由してかえって被害者のためになっている(らしい)という逆説。そしてそれが、追いつめられた被害者によって殺害されるはずだった加害者の命を救っているという皮肉。こうした「意図と結果のズレ」を明らかにしてくれることが、わたしが社会政策の側面から経済学に注目する理由の一つだが、今回も活動家として「被害者の自由を主張すること」の意図せざる結果について考えさせられた。もっとも、この種の研究では行政が善意で何かをやったら困った結果を招き寄せてしまったというストーリーが普通なので、被害者に厳しくしたはずの政策が実は被害者の安全と自立を手助けしているという、幸福なケースは珍しいのだけれど。