差別についての、ごく基本的な考え

2007年3月25日 - 4:36 PM | このエントリーをブックマーク このエントリーを含むはてなブックマーク | Tweet This

最近別ブログ *minx* のほうで関わった論争に関連して、差別についてのわたしの基本的な考えを明らかにしておく必要があると思ったので簡単にまとめてみます。ていうか、以下に書くことはほとんど以前某掲示板で書いたことの再掲なので、お馴染みの読者もいるはず。ただし、最近の論争もそうなのだけれど、差別について議論する際に常にわたしがここで書く通りの意味で「差別」という言葉を使っているわけではない(相手がある議論では、相手に定義を合わせることもある)ので、そのあたりは分かってね。

まず差別という語を goo を通して『大辞林』で調べてみると以下のように書いてあった。

(1)ある基準に基づいて、差をつけて区別すること。扱いに違いをつけること。また、その違い。

「いづれを択ぶとも、さしたる—なし/十和田湖(桂月)」

(2)偏見や先入観などをもとに、特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすること。また、その扱い。

「人種—」「—待遇」

(3)〔仏〕「しゃべつ(差別)」に同じ。

ここで言う「差別」は、もちろん社会的な問題である(2)についてなのだけれど、これをベースにわたしの考えがこうした辞書的な定義とどう異なっているのか説明してみたい。

まず、一番大事なこと。わたしは「差別」という言葉で社会の諸制度や、それを含んだ社会システムのことを指す用法を取り、一般に「差別」と呼ばれる個別の行為や発言などは「差別的」と呼んで区別している。つまり、特定の人々に対して「不利益・不平等な扱いをすること」という行為のレベルではなく、特定の人々が「不利益・不平等な扱い」を受けるような社会のありかたを「差別」と呼び、個々の不平等な扱いは「差別的」もしくは「差別行為」として区別している。それは、「差別」とは主に社会のありかたの問題であり、個々の行為や発言などのことではないと考えているから。

では、「差別」と「差別行為」はどういう関係にあるのかというと、社会的な制度が個々の差別的な行為を助長し(蓋然性を高め)、また個々の差別的な行為が社会制度を強化するという循環をもって「差別」という言葉を規定している。つまり、個々の差別行為は差別的な社会構造の要因であり、また同時に結果であるということ。このことは、社会構造を伴わない、単なる「不当もしくは理不尽な扱い」と比べてみれば分かる。例えば、ある企業の社長が熱血的な阪神ファンで、「巨人ファンは雇わない」というポリシーの持ち主だった場合とかね。

「巨人ファンは雇わない」というのは、能力のある巨人ファン求職者にとっては明らかに不当な扱いだし、あまりにも理不尽。でも、それは偶発的な巡り合わせの不運以上のものではないのね。ところが「同性愛者は雇わない」とか「被差別部落出身者は雇わない」みたいなのは、その背景にそうした不当な扱いの蓋然性を高める社会的な構造が存在しているという意味で、決して偶発的な出来事ではないわけ。だから、偶発的な巡り合わせによって起きる「単なる不当な扱い」と、社会的な構造が関係する「差別的な扱い」はきっちり区別すべき。もちろん「単なる不当な扱い」だってあんまり望ましいものではないけれど、社会問題としての重要度から言えば「差別的な扱い」の方がはるかに重大。

もうちょっと突っ込んだ意見を言ってみると、個人や企業がそれぞれの考えで客観的に見れば理不尽なことをするのは、わたしは自由な社会においては基本的にアリだと思っている。だから「巨人ファンは採用しない」という方針の会社があっても、基本的にそれは構わないと思うのね。ていうか、そりゃあんまり褒められた話じゃないとは思うけど、社会的に容認できるかできないかと言えば容認できる。そうした「理不尽な扱い」に倫理的あるいは法的に何らかの制限を設けなくてはいけないとしたら、それは個々の人や企業が思い通りにふるまった結果、特定の社会集団だけに被害が集中してしまう場合。

どういうことか。例えば、仮に同性愛者を蔑視する人と異性愛者を蔑視する人が同じくらいいて、性的指向を理由とした理不尽な行為が異性愛者も同性愛者も(両性愛者も)同じくらい被害を受けているというのであれば、それはかなりイヤな社会ではあるけれど差別の問題ではない。でも現実の社会では、同性愛者の側だけが圧倒的に多くの被害を受けているわけ。それは単に「異性愛者が同性愛者を嫌悪するほどには、同性愛者は異性愛者を嫌悪していない」というだけでもなければ、「同性愛者に比べて異性愛者の方が数が多い」というだけの話でもなく、仮に両者が同数で同じくらい相手を嫌悪しあっていたとしても、いまの社会を引き継ぐ限り実害は同性愛者に集中するはず。なぜなら、異性愛者が経済においても政治においても医療においても社会の中心に居座っているから。そういう社会構造上の不均衡がある時に、各自が自由に「性的指向を理由とした不当な扱い」を実施することは容認できない。

ここで、『大辞林』定義の「偏見や先入観をもとに」という部分にも変更が必要になってくる。わたしが「差別」を問題とするとき、それは偏見や先入観一般を問題としているわけではない。というより、偏見や先入観が動機となっているかどうかはこの際関係ない。社会的属性をもとに、社会構造と共鳴し循環するようなかたちで不平等な扱いをすることが「差別的」になるわけ。同じように蔑視したり不平等に扱っても、ある場合はちょっと気分を害するぐらいで済むのに、別の場合は社会生活すら困難になってしまうような、そういう社会構造のありかたこそが問題なのね。

さらに言うと、そうした社会構造上の問題がある限り、「差別行為」をしなければそれで済むという話でもない。本当に必要なのは、社会構造上の不均衡を強化するような「差別行為」を避けることではなく、本来自由であるべき「理不尽な扱い」がかくも多大なインパクトを持ってしまうような社会構造そのものを是正すること。差別行為をやめるということは、差別行為と社会制度の循環を断ち切るという点では意味のあることだと思うけれども、既に存在している社会制度そのものを変えていかなければ不十分だとしか言えない(とは言っても急には変えられないから、それまでの緊急避難的な対策としてアファーマティヴアクションみたいな考え方も出てくる)。

さて、こうしたわたしの考える「差別」は、世間一般による定義(だいたい『大辞林』のものと同じだと思う)とは違うわけだけれど、そうした違った定義を持ち出すのにはちゃんと理由がある。それは、どこまでいっても個人の内面(もしくはその反映)の問題としてみなされがちな「差別」という問題を、社会構造の問題として扱う考え方をもっと多くの人に共有して欲しいから。例えば、「障害者なんて嫌いだから雇わないよ」という企業があれば間違いなく誰もが「それは差別だ」と思うのに、交通機関や職場のアーキテクチャによって車椅子を使用する人が事実上勤務不可能な状態に置かれていることは「差別問題」として認識されにくい。でも、結果的に就職機会を奪われた人にとってはどちらも同じことなのね。

米国における人種差別だって、進学や就職において人種を理由に非白人が一方的に不利な扱いを受けるということは確かに減っているはず。でも現実問題として、非白人のコミュニティの多くが貧困に苦しんでいることや、十分な教育予算を捻出できないことや、その教育の内容だって歴史でも文学でもなんでも白人中心のものばかりで非白人の子どもを疎外するものであることはあまり変わっていない。差別問題に取り組むのであれば、そうした大きな権力やリソースの不均衡に気を配る必要があるのであって、個別の行為の裏に偏見や差別的な意図があったかどうかが問題なのではない。

一方、差別を個人の内面(あるいは、その反映としての行動)の問題として扱うのは、口先だけの反差別主義に陥りやすい。というより、反差別の姿勢を見せつつ、実際には現実の格差を隠蔽することになりかねない。車椅子を使用する人にとって、それが採用担当者の差別意識によって起きているのか、それともアーキテクチャによって起きているのかは大した違いがない。問題なのは就職機会を不当に奪われていることであるはずなのに、差別意識(あるいはその反映としての行動)だけを問題とするような取り組みでは社会的な平等は実現しない。せっかく差別問題に取り組むなら、個々の差別的な意識や発言や行為だけではなく、それとループとなっている社会制度も同時に問題とするべきだとわたしは思うわけ。

これでわたしの「差別」についての基本的な考えは説明したけれど、分かりにくい部分や説明不足な部分がありそうなので、質問があれば出来る限り答えます。あと、予告してあった「蔑視」と「偏見」の区別については、内容的に別の話になるので別のエントリで書く予定。

5 Responses - “差別についての、ごく基本的な考え”

  1. ダイミテイ Says:

    差別: 人間社会のハウリング…
    差別に関する論争を見て、書こうと思っていたことを見事に書かれてしまった。俺ってまだまだ作文能力が低いなあと忸怩たる思いである。 とりあえず、一番おれが強調しておきたい (more…)

  2. 札幌運転所隣人 Says:

    本文に同意致します。
    且つ、ここに示されている考え方のほうが(正当・不当、優劣などではなく)有益、
    と考えます。
    また、ダイミテイさんの正帰還回路に例えていらっしゃる点、私は電気工学の専門家
    ではありませんが理解の一助となりました。ヒトの社会を電気回路に置き換えるとは
    何ぞや?との批判も有るかもしれませんが、この場合はシンプルに捉えた方が発展性
    大にも思えます。あえて本文にそれこそフィードバック(となるかどうか?)させて
    頂くとなれば、本文の「差別を個人の内面の問題として扱うのは・・・」は、根本的
    な回路の不具合を素子に原因を求める、といったところか。(そういう手法もあるか
    もしれませんが。)電気回路を「流れる」のは電気だが(当たり前じゃ)、これを
    それぞれの立場で置き換えればよい。
    議論の発展を期待いたします。

  3. crafty Says:

    質問です。macskaさんはminxのほうで、
    「不当な差別の被害を受けている人」に「気を遣って」蔑視発言を「口に出さないこと」は何の解決にもならない、と言っていますね。
    これは社会で力を持たず蔑視されている人々への蔑視発言が、その背景にある差別構造を強化することへのアプローチは無意味ということでしょうか。

  4. macska Says:

    無意味とまでは言わないし、蔑視発言は言わない方がよいに決まっているわけですが、差別をなくそうと呼びかけると「差別的な発言をしない技術」ばかりが発達するという結果になることがあまりに多いので、戦略的にちょっと強く「それでは何の解決にもならない」と言っています。
     ノースカロライナへ出発10分前なので続きはまた今度。

  5. 山口一男 Says:

    macskaさん
      
     この話題の延長の「蔑視と偏見」とその61のコメントと応答をザーとですが読みました。ブロガーってこんなに消耗なことなのかと思います。最初から批判のための批判を意図する人への反論はいらないのではないでしょうか。僕には到底まねができないほどmacskaさんは、忍耐強いと思います。勿論最初からコメントをする人が、批判のための批判かどうかは、最初は分かりにくいですが。
       さてコメントですがtaste-based discrimination とinformation-based discriminationを「蔑視による差別」と「偏見による差別」と訳したのは、やや混乱を招いたと思います。ただmacskaさんがtaste-based discriminationを「蔑視による差別」、information-based discriminationを経済学での統計的差別のことだとして上で「偏見により差別」としたことで、僕自身はtaste-based discriminationの中にむしろ偏見(prejudice)による差別が入っていると思っていたものですから、一寸驚くと同時に、実は2つで無く3っの差別を区別したほうが良いのではないかと思いました。「蔑視」「偏見」「平均あてはめ」の3つです。その点macskaさんの議論は示唆的でした。 なぜなら通常統計的差別は、女性の平均離職率が高いことで女性を差別する例のように、個人情報がコスト高か不確定のとき、コスト安の情報である集団平均を個人に当てはめることから来る差別だからです。そのことは勿論ご承知と思います。一方統計的差別では正確な情報を持つことがコスト高だと仮定はするけれど、通常は持っている限られた情報が偏っているとは仮定しません、でも実際にはその限られた情報が事実と異なる偏ったものである場合(たとえば女性には、根拠も無くこれこれの仕事が向いているとか向いていないとか思い込んでいる場合)があると思います、「偏見による差別」というのは、そのような場合にふさわしい呼び方と思います。この場合も「情報が偏っている」のですから、それに基づいた判断は客観的には合理的といえず、主観的合理性しか持ちません(誤った情報で意思決定する企業は、他の条件が同じならば、正しい情報で意思決定する企業と競争できません)。一方「統計的差別の方は」一応客観的にも合理性がある可能性があります(実際は、いろいろあって簡単ではありませんが)。「蔑視による差別」については主観的満足感は与えられますが、合理性の定義(与えられた情報のもとでの適切な手段の選択)ととっているので、単純に自己満足的なだけで主観的合理性もたず、単純に非合理的差別と考えられます。
      差別を無くす制度を考えていく場合、3っのグループの割合がどれぐらいで、どこに焦点を当てるかと言うことが極めて重要になると思います。「平均当てはめ」の合理的(統計的)差別の場合、macskaさんのおっしゃるように、規範状況をかえて、サンクションにより、社会での差別のコスト・ベネフィットのあり方そのものを変えていく必要がありでしょう。「偏見による主観的差別」の場合、ポジティブ・アクション(勿論員数あわせで無く、実力のある女性を積極的に起用して)は効果があるでしょう。偏った情報による認識を変えていくからです。「蔑視による差別」の場合、ジェンダー・フリー論者の言うように、初期のソシャライーゼションを通じて、女性に対して差別的な価値観が生まれてくる土壌を変える必要があると思います。でもこれは僕の推測ですが実際は「蔑視型」は少なく、「平均当てはめ型差別」「偏見型差別」が支配的なのではないでしょうか、特に「偏見型」が。そうだとすると、幼児や学校教育に主たる焦点をあてる、ジェンダー・フリー提唱方フェミニストは随分、見当違いをしていることになると思います。もちろん議論の余地はありますが。
       

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