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心の治癒と魂の覚醒

        

スピリチュアル依存症

 
 しばしば「ギャンブル依存症」という言葉を耳にします。この依存症で自らを不幸にしてしまった何人かの有名人によって、広く知られるようになりました。
 最近の研究によれば、ギャンブル依存症になっている人の脳は変質しているのだろうです。かつては、脳というより心理的な領域での問題と考えられていました。
 アルコール依存症や薬物依存症などは、脳に悪影響をもたらす物質を摂取しているので、脳が変質してしまうのはわかりますが、そうした物質を摂取しているわけではないギャンブル依存症に脳の変質が起きてしまうというのは驚きです。しかも、一度変質した脳は、もとには戻らないそうです。つまり、ギャンブル依存症は治らないのです。ただ、社会的に無害なまでにコントロールすることはできるようです。それでも、ギャンブルへの依存傾向は治らないようなのです。脳の変質は不可逆的なので、そうなってしまうのでしょう。

 ギャンブル依存症が発生するメカニズムは、ギャンブルで勝ったとき、ドーパミンという、脳内のある種の麻薬的な快楽物質が放出し、それが長期にわたり繰り返されることによって、脳内の化学的なバランスを恒久的に崩してしまうことにあるようです。
 要するに、ギャンブル依存症も、ある種の薬物依存症と言えるのかもしれません。
 しかし、薬物依存症よりも、妄想などの禁断症状が長く続くと言われています。たとえば、「今度は必ず勝てる」、「自分はギャンブルの天才なのだ」といった根拠のない妄想によって、常軌を逸した大金を賭けてしまうわけです。そうして、たまたま勝って実際に大金を手にすることもあるわけですが(これが危険なのですが)、ほとんどの場合、最終的には大損してしまうのです。
 しかし、それでもやめられません。ここまでくれば病気なのですが、本人には病識(自分は病気であるという自覚)がありません。ここが怖ろしいところです。
 失ったカネをいっきに取り返そうとして、さらに大金を賭けます。何人もの人から借金をしてまでも、やめられないのです。そうして、落ちるところまで落ちて、ギャンブルの続行が不可能になるほど身が破滅した時点で、この悪循環はようやく終焉を迎えます。そうして、自分は病気なのだと自覚できるようになるのです(自覚できない人もいるかもしれません)。

 ところで、ドーパミンを分泌させるのは、ギャンブルだけとは限りません。何か嬉しいことや楽しいこと、快楽を味わったときでも、ドーパミンは分泌されます。普通は、それがコントロールできる範囲の分泌量であるとか、あるいは、たとえ何らかの楽しみごとや快楽にのめりこんでも、ギャンブルのように大金をかけるといった危険な結果を招くことが少ないので、あまり問題にならないだけだと思います。実際には、さまざまな「依存症」にかかっている人が多いのではないでしょうか。

 私は、宗教やスピリチュアルの領域においても、いわば「スピリチュアル依存症」のようなものがあるように思います。宗教の世界では「洗脳」ということが問題になっていますが、この洗脳というものも、ある種の依存症が土台にあるような気もします(すべてではないでしょうが)。
 瞑想などをしていると、多幸感というのか、恍惚感というのか、そういう状態になるときがあります。おそらく、このとき、脳からはドーパミンが分泌されているのだと思います。
 もちろん、こうした恍惚感というものは、霊性の高さとは無関係なのですが、このとき、ある種の妄想が生じるのです。それは、「自分は高い境地を得た」とか「自分は悟りを開いた覚者だ」といったものです。
 これらはエゴの(誇大)妄想に過ぎないのですが、こうした妄想の恐ろしさは、これが妄想だと気づかない、という点です。自分は本当に悟りを開いた偉大な覚者だと信じ込んでしまうのです。

 そして、そのことを他人に吹聴したり、ブログで書いたりします。それが非常に自信に満ちているので、そこまで自信に満ちた言動をすると、世の中には、ある一定数、そういう人を「本物の覚者だ」と信じてしまう人がいるものです。そうして、人々から崇められると、ますますドーパミンが放出されます。そうして、ますます妄想が強くなるという、悪循環を繰り返してしまうのです。

 スピリチュアルの世界には、こうした妄想に埋没してしまっている人が、少なくないように思われます。
 本当に悟りを開いた人は、まず「自分は悟りを開いた」とは言いません。しかし、スピリチュアル依存症にはまってしまった人は、尋ねられてもいないのに、「自分は悟りを開いた」などと言ったりします。

 おそらく、スピリチュアル依存症になってしまった人の脳も、変質してしまっているのではないかと思います。ですから、妄想から抜け出すことは、ほとんど不可能ではないかと思います。
 自分は妄想を抱いているなどとは、まったく思っていないのです。
 こうなると、もうその人の霊性の進歩は、そこでおしまいです。

 私たちは、くれぐれも、スピリチュアル依存症にならないように、注意しなければならないと思います。
 自分が、以前の自分とは何か違う、あたかも高い境地に達したように感じても、「待てよ、本当に高い境地に達したのだろうか?」と、常に慎重に考えるようにしなければなりません。そして、自分のそうした状態については、決して軽々しく人には話さないようにするべきです。
 もし、あなたが、高い境地(と勝手に思い込んでいる)状態になって、そのことを人に話したくなったら、ましてや、尋ねられてもいないのに、そのことを吹聴するようなことをしたら、まず百%、それは妄想であり、スピリチュアル依存症の入口に立った危険な状態であると考えた方がよいでしょう。

 繰り返しますが、一度、妄想の沼にはまり込んでしまったら、そこからはいあがる(自分は妄想を抱いていると自覚すること)は、ほぼ不可能だということです。これは大変に怖ろしいことであり、私たちは十分すぎるほど十分に注意しなければなりません。
 そのためには、「謙虚さ」を失ってはならないのです。
 妄想に対する最良の防御策は、謙虚さです。
 
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運命に対する信頼と忍耐

 まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は「シルディのサイババ」というテーマで行ないました。
 シルディのサイババ(マスコミで話題になったサティア・サイババではありません)は、数多くの奇跡を起こしたことで有名ですが、彼の本当の目的は奇跡を行なうことではなく、人々の気持ちを神に向け、霊性を向上させて真の幸せに導くことでした。ぜひダイジェスト版を御覧ください。
 動画視聴

 では、本文に移ります。
 以前も似たような記事を書きましたが、非常に大切だと最近とくに思うので、恐縮ですが、また似たようなことを書かせていただきます。
 私たちは「運命」というものに対する考え方を明確にしておくことが大切だと思います。
 無理もないことですが、自分の思うとおりにいかないとき、また、辛いことや苦しいことが起きたとき、私たちはそれを「不運」とか「不幸」と言って、「悪い運命」であると決めつけます。
 しかし、それはきわめて狭い視野から考察した判断にすぎません。
 たとえば、教師や親は、子供に勉強しろと言います。勉強が嫌いな子供にとって、勉強しなければならないことは「不運」であり「不幸」であり、「悪い運命」だと考えるでしょう。子供はたいてい、目の先の楽しいことしか視野にないからです。しかし教師や親は、遠い将来まで見据えて、子供のために勉強するように要求してくるわけです。

 問題は、運命というものは、遠い将来を見据えた流れ、すなわち、幸福に向かう目的や方向性というものがあるのか、それとも、そういうものはなく、単なる現象に過ぎないのか、ということです。
 これはおそらく、証明できるものではないでしょう。
 なので、あくまでも個人的な見解となりますが、運命というものは、人を真の幸福という目的地へと導こうとする運動であるように、私には思えるのです。仮に、そのような運動を司る存在を「神」と呼ぶことにします。
 60年以上生きてきた自分の人生を振り返ると、そのときは「不運」、「不幸」、「悪い運命」であると思ったことが、今にして思えば、まるでジグソーパズルがぴったり合うかのように、すべてが「よき出来事」であったことがわかるのです。なぜなら、そうした出来事のすべてが私を成長させてくれて、そして、成長するにつれて、より純粋で本質的で高度な幸せを感じることができるようになったからです。
 あまりよいたとえではないかもしれませんが、むかしは豚小屋で残飯を「おいしい」と言って食べていたのが、さまざまな経験をしたおかげで、世の中には残飯よりも美味しいものがあることを知ることができ、それにつれて、もっとおいしい料理を食べることができるようになった、といった感じでしょうか。

 いわゆる「不運」や苦しみというものは、確かに辛いですが、決して「悪」ではなく、実はとても価値があるものなのです。
 不運や苦しみから早く解放され、真の幸せへと転換させる最大の方法は、いたずらに不運や苦しみから逃げようともがくことなく、しばらくの間、じっと苦しみに耐えることです。
 もちろん、避けるべき苦しみや、避けてもよい苦しみは、わざわざ苦しむ必要はありません。たとえば、病気や怪我などで肉体に痛み(苦しみ)があるとき、鎮痛剤を用いれば痛みが緩和されるのであれば、鎮痛剤を用いればよいと思います。痛みを我慢する必要はありません。
 しかし、どうしても避けられない苦しみ、あるいは、避けたら人間としての道がはずれるというような苦しみが訪れたら、腰を据えてじっと耐えた方がいいのです。
 それにより、過去の悪しきカルマの浄化という意味があるのかもしれませんが、とにかく、しばらくじっと耐えていると、いずれ苦しみが去っていき、その次には、今までは想像もできなかった、より偉大な幸せが待っているのです。

 そのように忍耐するには、運命(神)は、最終的には私たちを幸せに導いてくれるものだという、確固とした信頼が必要です。その信頼を得るのが難しいかもしれません。
 しかし、そうした信頼を得ることができ、その結果として、強い忍耐力を得たら、人生において怖いものは何もないと言ってもいいかもしれません。確実に幸せへの道、それも最短ルートで、歩んでいることになるからです。

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永遠なるものをめざす

 皆様、新年あけましておめでとうございます。
 前にも書いたことがありますが、新年があけておめでたい、というのは、何事もなく(つまり死ぬことなく)、お互いに生きて新年を迎えられたから「おめでとう」と挨拶するのでしょう。むかしはそれだけ生きることが難しかったということの名残なのかもしれません。
 今年は人類が大変な危機的状況に陥るという、不吉な予言が一部で話題になっているようですが、波乱の年になるであろうことは、予言者でなくても、世界のさまざまな情勢を考えると予想できます。
 そのため、今年一年がどうなるか、無事でいられるか、不安に感じている人もいるかもしれません。
 しかし、それは人生において何をめざすか、ということで大きく変わってきます。

 この世間の、つまり物質的な平穏や豊かさを一番価値あるものとして、それを求めているとしたら、確かに不安を感じるでしょう。予言はともかく、データ的に言っても、今後、世界が明るくよいものに変わっていくという材料が乏しく、暗いものになっていくという材料ばかりが目立ちます。政治、経済、社会、環境などの問題、さらには訪れるのが時間の問題とされている大地震などの自然災害、数え上げたらきりがありません。
 こうした物質的な幸せは、本質的に、はかなく、一時的なものにすぎません。たとえ世界が平穏でも、個人としてはいずれ人生最後のとき(生の滅亡)がやってきます。
 つまり、この地上世界には、永続する真の幸せというものは存在していないのです。単なるうたかたのはかない快楽の喜びがあるだけです。その喜びでさえ、大部分は、悲しみや失意に終わる種を潜ませているのです。この世に救いというものはないのです。

 ですから、この世のはかないものではなく、「永遠なるもの」を求めるべきなのです。それがあるとしたら、物質的な次元にではなく、霊的な次元にあるでしょう。
 霊的な次元こそ、私たちの故郷であり、本来私たちが住むべきところです。私たちは、旅人のようなものです。この地上は「旅行先」に過ぎず、いろいろなものを見聞し体験した後で、早かれ遅かれ去らなければならない場所にすぎません。だから、あまり未練や執着を持つべきではなく、ましてここに安住の地を求めるべきではないのです。

 「安住の地」へ到達するには、残念ながら苦しみを避けては通れません。もし楽にのほほんと行けるならば、釈迦もキリストもあれほど苦労して教えを説いてはいないでしょう。
 逆に言えば、「苦しみ」こそが「安住の地」に至る道、それも最短ルートなのです。なぜなら、人は苦しみによってこの世の執着の虚しさを悟り、心が浄まり、智恵が増してくるからです。

 このように「永遠なるもの」を人生の目的にするなら、どんな苦しみがやってきても、「真の幸福に至る道を歩んでいるのだ」とわかるはずです。
 嬉しいことが起これば、それはそれでよいことであり、苦しいことが起きても、それはそれでよいことなのです。何が起ころうと、それは「最善」なのです。この信念を、心に打ちたてることができたら、今年一年を不安に感じることはなくなるでしょう。「永遠なるもの」を求めるなら、そのような信念を持つことができるようになるでしょう。
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まずはお知らせから。
今年最後のイデア ライフ アカデミー授業は、「カルマ・ヨーガ」について紹介しました。カルマ・ヨーガという名称はあまり聞いたことがないと思いますが、「行為の結果を求めずただ行為をする」というヨーガで、霊性を向上させるために必要不可欠のヨーガだと言えると思います。ぜひダイジェスト版をご覧ください。
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では、本題に入ります。
今年も残すところわずかとなりました。年齢を重ねるごとに、時間の経過が加速しているように感じられます。子供のころの感覚で言うなら、今は一年が四か月くらいに感じられるようになりました。
そして一年が終わろうとしている今頃になって、いつも思うのです。
「この一年、どれほどのことをやり遂げただろうか?」
「この一年、どれほど成長進歩しただろうか?」と。
それを思うと、情けなくなると同時に、これから先もこんなありさまが続いたらと思うと、不安と焦りの気持ちに襲われます。

もし残された寿命が、砂時計の砂のように、刻一刻と落ちて減っていく様子を見ることができたとしたら、恐ろしくもありますが、案外、充実した人生を送ることができるのではないかと思ったりもします。私たちは、なんとなく、自分が死ぬのはまだまだずっと先だと思っている、つまり「時間は十分ある」と思い込んで油断しているわけです。しかし実際には、時間は期待するほどないのです。それが可視化できれば、もっと気合を入れて日々を生きるようになるでしょう。

「今年はこれだけのことをしよう、これだけの進歩をしよう」という希望が完全に達成された状態を十とすると、私の場合、実際に達成できたのは三割くらいなので、そう考えると、一年という時間は、その三割である四か月弱しかない、と思っていた方がよいことになります。言い換えれば、一年で目標を達成しようとしたら、自分が想定するよりも三倍のパワーを発揮して密度の濃い時間を送る必要がある、ということになるでしょう。

しかし、よほど怠けていた人はともかく、実際に三倍もの力を発揮するというのは、まず不可能です。
そこで、私は、物事の優先順位をつけることにしました。つまり、あまり欲張らず、なにもかもやろうとせず、本当に重要で必要なことだけを残して、あとは未練を捨てて切り捨てるということです。

そこで、イデア ライフ アカデミーの授業も、来年は授業数を減らして隔月で行うことにしました。もちろん、授業は私の人生において重要なものであることは確かなのですが、その準備のために、自分の修行がおろそかになっていました。やはり修行が一番大切であり、またそれなくしてよい授業もできません。

その他、たとえば世間的な付き合いなどは極力減らしてきたので、もうこれ以上は減らすことはできず、あとは睡眠時間を減らすしかないのですが、睡眠時間を減らすとパフォーマンスが落ちて結果的に効率が悪くなるので、それもできません。あとは、なるべく時間の無駄を省くように創意工夫していくだけです。

私の友人が、このような私の生き方を批判しました。そんな窮屈な生活ではなく、ゆとりを持った方がいいと。
しかし私は、「窮屈」などと感じたことはありません。基本的に好きなことをしているのですから。そして、人生の目標があれば、必然的に私と同じことを考えるはずです。あの野球の大谷選手も、野球を上達させることを目標にして、一般人からすればかなりストイックな生活をしているようですが、たぶん、彼はストイックな生活をしていると自分では思っていないはずです。

皆さんも、来年なにを成し遂げたいか、それを明確にして、そのために優先順位を決めて、あまり重要ではないことは思い切って切り捨て(あきらめ)、もっとも重要な目標にエネルギーを集中してがんばってみてください。
来年もよろしくお願いいたします。
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霊的修行と孤独

  まずはお知らせから。
 今月のイデア ライフ アカデミー哲学教室は、「エックハルトの神秘思想」というテーマで行ないました。エックハルトはキリスト教神秘主義の巨人です。その教説には禅を思わせるものがあります。しかしキリスト教会からは異端と見なされ、一時期、歴史の舞台から消されました。しかし、すぐれた教えというものは、地下の水脈のごとく密かに伝えられるもので、二十世紀になって再評価され今日に至っています。霊的進化にとって重要な示唆を与えてくれます。ぜひダイジェスト版を御覧ください。
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 では本題に入ります。
 悟りや神との合一といった霊的な境地に達するために、古今東西の宗教、とりわけ神秘主義は、「孤独」の大切さを教えています。孤独とはすなわち、人との交わりを避けることです。少なくとも、世俗的な価値観の人々との交際は避けることだと言えるでしょう。そのために、深山幽谷に籠ったり、あるいは修道院や寺のように、同じ道を歩む人だけで暮らしたのだと思います。
 
 とはいえ、世俗で仕事をしなければならない私たちのほとんどは、山に籠ったり出家して孤独になることはできません。気の進まない人とも付き合わなければなりません。それはしばしばひどいストレスとなり、そのストレスのために、瞑想などの修行も妨げられてしまいます。世俗で霊的修行をすることは、それはそれは大変なことです。「世俗でも解脱できないことはない」とも言われていますから、絶望的ではないにしても「きわめて難しい」というのが本音のようです。

 私の場合は、幸い、一般の人よりは自らを孤独に置きやすい状況にあります。3年くらい前から、なるべく人との交わりを避けるようにしました。宴会はもちろん、霊的な道とは関係ない交際も断り、年賀状じまいもしました。今はイデア ライフ アカデミーの時と、同居する家族の他は、ほとんど人と会うことはありません。家族ともあまり話したりしませんし、イデア ライフ アカデミーも、来年からは少し授業数を減らす予定でいます。また、テレビもニュース以外はほとんど見ません。
 私はもともと性格的に人と交わることが大好きというわけではないので、それほど苦痛は感じませんが、それでもときどきは、とても寂しくなることも正直あります。
 それでも、なるべく孤独に身を置いて祈りや瞑想に励むと、今まで漠然として存在を感じることのなかった「神」や、霊的なある種のエネルギーのようなものが、少しですが、はっきりと感じられるようになってきました。「人は孤独の中で神を見出す」という言葉を聞いたことがあります。確かにその通りだと思います。

 人と交わっていると、とりわけ、世俗の価値観しか頭にない人と交わっていると、どんなに気を付けていても、霊的な感覚がかき乱されて鈍ってきます。セネカという哲学者は、「私は人と交際して帰ってくるたびに、自分が低くなっているのに気づく」と言っていますが、私もそう感じています。
 ベートーベンは、あまり人との交わりが好きではなかったようです。そしてご存じのように、やがて聴覚が失われてしまいました。この世的には不幸ですが、しかし、聴覚が失われたことで、世俗の雑音から遮断されたおかげで、あのような崇高な音楽を生み出すことができたのではないかと思ったりもします。

皆さんも、なるべく孤独になるようにしてみるとよいと思います。人との交際が好きでたまらない人は「人間依存症」にかかっているのかもしれません。孤独の辛さは「禁断症状」です。
 しかし、禁断症状を乗り超えると、気分がさっぱりして、孤独というものが、実はいかに居心地がよいものか、わかるでしょう。そうすると、霊的修行が格段に進歩していきます。

修行の基本的な姿勢 | コメント:4 | トラックバック:0 |
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