先日某なおやタンと話していて、最後の最後にこの話になって、もう終電も近かったので話の途中で別れて会話が尻切れとんぼみたいになった話を、メモ代わりに書き留めておこうと思う。
誰か共感してくれる同業者がいれば嬉しいんだけど、このテキスト自体に穴がいっぱいなので、そこを批判されたら「そりゃそうだよね…」とかつぶやきながら記事消してしまういつものパターン。あるいは明日の朝に自己反省して消すパターン。
もう10年近くも前の話になるので今更どうでもいいのだろうけど、僕はココログは、なおやタンのプロダクトだと思っていた。 もちろん会社的にはそのサービスの主幹になる部署はどこなのかとか、どこが音頭をとって全体をデザインしていくのかとか、どこが責任とるのかみたいな話はあるし、こと10年前のブログについては、サービスそのものより、この見知らぬ名前の説明しづらいサービスをどう認知させていくかとか、どういう文化圏(ニフティから見るとフォーラムに匹敵する文化圏、当時のネットから見るとテキストサイト/2ch的な匿名サイトに対する文化圏)を作り上げていくのか、どういうマネタイズを行っていくのかみたいな話はあったし、それはエンジニアリング外の話なわけだが、僕個人としては、結局はモノを構築して公開できる人が、最終の最終には偉い、その人が大将、と考えていた。当時のエンジニアからみると「いや、ココログについては、いちるさんが社内で『あれはオレら企画部が責任とる』と強引に引っ張っていた」と見えたのかもしれないけど、それでも。
だからなおやタンだから、というわけではない。彼がニフティを辞めてからも、ココログは、例えば伊達くんとかさとやんとか、そういう人が本当の本当はココログという事業の中心にいる、と思っていた、というか、そう判っていた。そして、もう一歩引いて見てみると、最終的にはこれはココログのシステムを作っているシックス・アパートに命をゆだねているのだな、と、コンテンツ周りを企画構築するインフォバーンに命をゆだねているのだな、と考えていた。
僕ら企画屋は、ディレクション作業として、そういうエンジニアやデザイナーやクリエイターや外部のすごい人たちを全部予算という名の一枚のお皿に載せて、そのお皿が傾いてみんな滑り落ちていったりしてしまわないようにバランスを取る、お皿が大きくなる(=売れる)よう努力する、みたいな業務なんじゃないか、と感じていた。それは一方では「所詮自分は調整役」的な、割り切った切なさもあったし、もう一方では、その立場ならではのクリエイティブの発揮の仕方もあるはずだと、そこは信じていたというか、そう思わなければやってられないみたいなところはあった。だからその立場からでは自分の全能力と全ての時間を使って、ワーカホリックのようにやっていたと思う。時折感じるむなしさを振り払い、自らが起点となって引っ張っていくように。 いやーあのときは本当にワーカホリックだった。
ココログに限らない。例えば今だと、Zenbackは僕が企画したサービス(今は壽さんや田村さんにお願いしている)だし頭の先から足の先まで僕の理想が詰まっているけど、やはりあれはエンジニアの人あってのたまもの以外のなにものでもない。僕がいくら声を大にしてイメージを語ったって、あれは少しも形にならなかった。
マンガに例えると判りやすいかもしれない。僕は、僕が書いて欲しいマンガの内容を、一生懸命漫画家に伝える。そしれそれをマンガにしてもらう。 さて、そのマンガは誰のプロダクトだろう? 現在の日本では、漫画家の名前がクレジットされ、その漫画家のものになるのではないだろうか。最近はその裏の編集者が「実はあの人が黒幕!」的にクローズアップされることも多いが、凄腕編集者と言われれば言われるほど、作家の方がいかに素晴らしいかを力説しているように感じる。佐渡島さんとか加藤さんとかね。
さて、この話、僕の中でも答えは出ていない。サービスのプロダクトとは、エンジニアたちの作品として出るのが正しいのだろうか。 それともサービスというのは、システムを作るのだけが重要ではなく、そこにコンテンツを起き、コンテンツの中で光るものを見つけ、なければ作り、光をどんどん広げ強めていく、またはさまざまな異業種とアライアンスを組み、そのサービスの可能性をどんどん広げていく、国内だけではなく世界にも広げていく、マネタイズの錬金術も組む、みたいな立場の、企画屋、業界用語で言うとディレクターとかプロデューサーの人が前面に出るのが筋なのだろうか。
ケース・バイ・ケースなのだろう。僕は一概に企画屋に悲観的になっているわけではないし、企画屋が全てのはじまりだと思ってる訳でもないし、エンジニア至上主義なわけでもないし、エンジニアはリソースと思っているわけでもない。 ただちょっと気を引き締めるのを怠ると、すぐに「いや、なんだかんだ言ってやっぱ作る人、エンジニアやデザイナーが大将だろ」という方向に頭が行きがちになるというのは、確かにある。
でも、あまちゃんだってクドカンや能年玲奈の作品という見られ方だけど、あれはプロデューサーの訓覇圭さんも同列に並べられていいんじゃないかと思ったり思わなかったりラジバンダリ。
ひるがえってみて、僕はどういう人になりたいのかというと、それはもう、企画屋になりたい。アイディアを出すのが好きで、アイディアを練るのが好きで、アイディアを検討するのが好き。どこか別で飯が食えるなら、企画事については無償でもいいんじゃないかというレベルで好き。
しかし企画するということ、企画する人というものに、そもそも果たして価値があるものなのだろうか、という疑念はぬぐい去れない。それはコーディングできたり営業できたり文章や絵や音楽や動画や3Dやブツを作れる人が、いわば付随的に持っていた方がよいスキルにすぎないのではないか。企画専用の人、アイディア出し専用の人なんて不要なのではないか、そんな風にも思うこともある。
だから最近、SAブログで、自分が抱え込んでるアイディアを全部公開しちまおうとしているのですが。
これは今の時代特有の悩みだと思うのですよね。個人がツールを持ち力を持つようになったおかげで、今までは「企画する人」「それを実行する専門職」と分かれていたものが、どんどん曖昧になっていく。
実装力をつけようとしばらく頑張ったこともあるけど、どうしてもやりきれないのですよね……あれはやっぱり「絵を描くのが好き」とか「コーディングそのものが好き」という人じゃないと続かない。「こういう企画がやりたい!」だけでマスターできるような甘い世界じゃない。 だから個人のテキストを処理するためにいくつかのスクリプトを書く、くらいにとどまってしまいます。
その昔、某カリスマ社長にこんな悩みを相談したら、「でもエンジニアやデザイナーになるってことは、リソースになるってことですよ? やりたいことがあったら、それができる人と組めばいいんですよ」と言われて震えたことがあります。そういう視点で見るとまた世界は全然違ったものに見えるのかもしれませんが。