「一般的に言って、僕が考える「これは読まなくていい」という類の解説・評論は、
1.妙に細かいところまで、重箱の隅をほじくるようにして取り上げ、しかも断定的に決めつけているもの。
2.「君ら素人にはわかるまいが、実はこうなんだ」という態度で、見下ろすように書いているもの。
3.やたら引用の多いもの。
4.「これは良い」「これは悪い」ということを、白か黒かであまりにもはっきり決めつけているもの。
5.理解不能な専門用語をしりばめて、いったい何を言っているのかわからないもの。
6.逆にすらすらと、すべてが明快単純に説明されているもの。
7.なんでもかんでも、それにつけても「自説」にあてはめてしまうもの。
8.文章表現が下品なもの。
9.(ほめ方けなし方が)過度に感情的なもの。」
これは、村上春樹が1996年に書いた文章である。 昨今の一部のブログ記事、一部のはてブコメ、一部のツイートなどに、とてもよく当てはまるのではないだろうか。
特にまず、1や4の「断定口調だ」というもの。
6年か7年前の梅田望夫さんのブログ記事前後からだと記憶しているが、ネットに断定的な口調が増えてきた。
一部で話題の書籍「20歳の自分に受けさせたい文章講座」にも、断定的に言い切った方がいいと書いてある。
けど僕はとにかくこの断定的な口調が気になる。
断定的に言うとそれは前後左右の行間でそれ以外のものを否定していることになるし、それ以外のものを傷つけていることになる。
たとえ肯定的な断定、「これはすばらしい! 最高だ!」みたいなものでもそうだ。
まあ、何をどう書いても結局はその裏にあるものを傷つけてしまうのは この世のルールのようなものだと思う。以前も書いたが。
コミュニケーションにはユーモアが必要 http://kotoripiyopiyo.tumblr.com/post/46913675003
それでも、「傷つけているのだ」という意識を持って書くのと、なんだかドーパミンがドバドバと溢れて恍惚状態に陥り、あるいは「断定的に書かなきゃ」という思い込みに縛られて、断定的に書くのとは全然違う印象を受ける。
前者は人間の業みたいなものを感じられて中立的に受け止められるが、後者は人の視野の狭さを見るようで気味が悪い。
視野の狭い人がさかんに自説を主張するのって、行き着く先は攻撃的なファシズムなのではないだろうか。
それと、8の「文章表現が下品なもの」。
目にするとものすごく不快だし、はっきり言って当人も損していると思う。せっかくいいこといっても文章表現が下品なばかりに素直にメッセージを受け入れてもらえない。
ひとつは「釣り」を濫用しているのだと思う。その結果、人目を引いて神経を逆撫でするようなことを書けば読者を「釣れて」、PVが増えたり広告収入が増えたりフォロワーが増えて承認欲求が満たされたりすると信じ込んでいる人たちがいる。
そういう人たちは、別に受け入れられたり人気者になったわけじゃなくてネット芸人として檻の中のゴリラのごとく物珍しい目で遠巻きに鑑賞されているだけなのに。
そういえば似たようなことを問題提起したブログ記事を一昨日くらいに見た。
[コラム]Twitterでの釣り行為 http://topisyu.tumblr.com/post/47391171974/twitter
もうひとつは、元切込隊長ことやまもといちろう氏やその他辛口コラムニストのようなヤジ芸に憧れて、あるいはプロレス的なやりとりを「火事と喧嘩は江戸の花」的な価値観で賛美して、結果として文章表現が下品になる場合。
いますよね。隊長風にけなしつつ自説を主張しようとして、単に不愉快な文章になったり、ビートたけしの毒舌の真似事みたいになってる人。相当有名な人でもいますね。
みなさん各自頭の中で「あああの人か」と思い浮かべてください。
いずれにしろ下品な文章表現はそれだけで目にして不快だし、その不快な感情を利用してバズを発生させたりPVを増加させたりしたって、結局は自分が無数の人々からチクチクと攻撃されて長期的に滅びていくだけで意味ないと思います。
元切込隊長のような芸は一朝一夕で身につくものではないので、各自自分が単に罵詈雑言を吐いている面倒くさい人にならないように注意しながら、時間をかけて芸を磨いていって欲しいと思います。
ちなみに僕がこの方面で最強だと思うのは、その昔「アメリカの宝物」と呼ばれたコラムニスト、マイク・ロイコです。機会があればコラム集を読んでみてください。「戦うコラム」と呼ばれた辛口ユーモア満載の至芸をご堪能いただけます。
そういえば僕もマイク・ロイコみたいになりたいと思ってブログはじめたんだよなあ。気がついたら同時代のボブ・グリーン象限に入りつつあるけど。