狐の王国

人は誰でも心に王国を持っている。

ハルヒダンスが表現したセカイ

一昨年から昨年にかけて一大ブームとなった涼宮ハルヒの憂鬱。エンディングテーマ「ハレ晴レユカイ」に載せて主人公たち5人が踊るダンスは耳目を集め、実際に踊ってみた人たちが続々現れるという異常事態となった。

さて、そのハルヒダンスは何を表現していたのだろうか。

ファンになら言うまでもないだろう。あれは涼宮ハルヒ率いるSOS団の5人の性格や人間関係、さらには日常までをも実にうまく表現しているのである。

「ハルヒ」はそもそもエキセントリックな作品であり、「ハルヒ」自身もエキセントリックな人間だ。

そのエキセントリックさは作品を見てみればよくわかる。ハルヒは日常がつまらないといい、非日常の世界を追い求める。それに付き合わされるキョンの溜め息。そしてそれぞれの事情でハルヒに付いていかなくてはいけない長門有希、朝日奈みくる、古泉一樹の3人。

あのダンスを見ていると、彼等の日常が、作品世界の日常が、手に取るようにわかる。

きっとあのダンスもいつものハルヒの思い付きだ。

「みんな! ダンスを踊りましょう! ダンスよダンス。実は商店街でダンスコンテストがあって……」

溜め息をつきながらしぶしぶ付き合うキョンの姿が目に見えるようだ。

「やあ、それは楽しそうですね。実は僕の知己に振り付けを業としてる方がいらっしゃいまして……」

古泉はこんなことを言いながらハルヒの思い付きに肉を付けて行く。

「みくるちゃんはこの衣裳を着るのよ!」
「ふええ、またですかー?」

きっとハルヒはみくる用のセクシーな衣裳を用意してるに違いない。制服で踊ってたのはきっと練習なんだろうなあ。そして性格のいい(だまされやすいともいう)みくるの事だから、「ダンスもけっこう楽しいですね」なんて言いながら踊るのだ。

そして全国に何人の「自称夫」がいるのか想像も付かない長門は、振り付けを一度見ただけで完璧に踊りこなすだろう。あの、無表情な顔のままで。そしてまたパイプ椅子に座ってぶ厚い本に目を落し始めるのだ。

これはハルヒ世界における「日常」だ。アニメなら第9話「サムデイ・イン・ザ・レイン」に代表されるような、ハルヒとSOS団の「日常」なのだ。

だからこそあのダンスひとつから、ファンはここまで想起できる。それを想起させるだけの材料が、あのダンスにはちゃんと描かれている。

このSOS団の日常は、ある種オタクという人種が望みながらも得られなかった青春時代を体現している。だからこそ「ハルヒ鬱」と呼ばれる、ハルヒを見て自分の青春時代がこんなおもしろくなかった事に気付いて落ち込むという現象が各所で見られた。

「ハルヒ」という作品はこのようなひとつの「楽しい日常」を描く作品だ。そしてハルヒの思い付きにいちいち付き合わなくてはならないSOS団メンバーの理由には、SF的なおもしろさが仕込まれている。それは時系列をばらされながら、次第に明らかになっていった。

我々ファンはきっとそれぞれ、あの「日常」に憧憬を持っている。その強さはそれぞれだろうけども、自分もあのSOS団メンバーの中にいたいと思った人は少なからずいるだろう。

きっとだからこそ、ファンは踊ったのだ。
池袋で、秋葉原で、学校で、公園で、自室で、世界中のありとあらゆる場所で、あのハルヒダンスを踊ったのだ。

自分もあのメンバーの一員になりたいから。一時でもあの「日常」を自分のものにしたかったから。

いや、もちろん単におもしろそうだからとかそんな理由で踊ってた人も多いと思う。でもきっと、あの「日常」への憧れがどこかに潜んでたのではないか。俺はそんな気がするのだ。

さて、このような記事をいまさら書いたのは、「ハルヒダンス」は何が評価されているのか?という記事を見たからである。

この記事では「ハルヒダンスは技術的なデモであって何も表現されてない」という主張が展開されてるのだが、驚くべき事に「ハルヒ」という作品を見てないという。

もったいない。せっかくハルヒダンスの表現に興味を持ったのなら、まず作品を見てしかるべきだ。映画のワンシーンを切り出してうだうだ言うような真似はやめたほうがいい。

ブクマコメントではおもいっくそdisったりもしたが、それも本編を見て頂きたいからだ。この記事が「ハルヒダンスの意味は本編を見なければわからない理由」として彼に伝わる事を祈る。

追記

すっかり忘れてたけど誤字直した。id:nioc01、id:tirol28、教えてくれてサンクス!

Sugano `Koshian' Yoshihisa(E) <[email protected]>