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日本が好きなだけなんだよ

Category : 高砂義勇伝

高砂義勇伝

上記の動画は、高砂義勇兵の慰霊碑が撤去危機に晒された2004年に、2chの有志の方達によって製作された『高砂義勇伝 -異国に眠る皇国の戦士 -』サイトに掲載されたフラッシュが、当該サイトの消失により失われたため、あすの日本を考える会 の管理人さんが、失われたフラッシュを動画として復活させたものである。慰霊碑の撤去危機は、2ch有志の活躍や産経新聞の募金募集により回避され、無事に移転が完了している。


以下の逸話は消失した高砂義勇兵のサイトから抜粋したもの。本当に日本の為に働いた高砂義勇兵の方達は日本からの恩給も貰えず、不遇の生涯を終える人が多い。差別ニダ、賠償ニダと騒ぐ韓国には湯水のように金が流れているにも関わらず、本当の意味で日本に貢献した高砂義勇兵の方達が報われることはあまりに少ない。自分は一度台湾に旅行に行ったことがあり、偶然にも高砂族の村を訪問したことがあるのだが、そのときにはインターネットもあまり普及しておらず、バブル崩壊直後の左翼全盛の時代でもあったので、高砂義勇兵の事自体、全く知らなかった。もし、今後、台湾を訪れる人がいたならば、是非、高砂義勇兵のことを思い出して欲しい。彼らの勇気と功績に十分報いるには、今の日本人はあまりに無知で、今の日本はあまりに多くの病根をかかえているように思える。


おにぎり参考文献:高砂族に捧げる
差し入れてもらったおにぎりを食べられなかった日本人兵士の話

そのうちの一人の兵隊がなぜか憑かれたように立ち上がり、傍に建てられた粗末な墓に握り飯を添えて、 全身をふるわせながら

「オレにはこの握り飯は食えない」と慟哭するのである。

どうしたのですか?福島報道班員はきいた。傍の兵隊が、それを説明した。 あの墓には、Bという高砂義勇隊員が眠っているのです。ニューギニアの作戦の当初から、 われわれはBとともに戦ってきました。食料のない日が何日も続きました。 ある日、Bはずっと後方の兵站基地にさがって、食料を運ぶことになりました。 ところが、その次にBに出会った時には、Bは死んでいました。

五十キロの米をかついだまま、 Bはジャングルの中で飢え死にしていたのです。背中の米には一指もつけずに・・・・・・


良き思い出参考文献:海の彼方のニッポンを訪ねて
当時私どもは、国に一旦緩急あれば義勇公に奉ずる犠牲精神を培い、 血書までして入隊を争ったほどでありました。又、出征に際しては、当時の台湾総監、 長谷川清閣下より台湾高砂義勇挺身隊の隊旗を授けられまして、 国民としてこの上もない誇りを感じ、決意を胸に秘めて、歓呼の声と旗の波に送られて 出立したものでした。また、在役中は、上官や戦友の皆様から特にご愛護を賜りまして、 苦しい中にあってそれら一つ一つもよき思い出となっております。


信じられない参考文献:陸軍中野学校1~6巻 畠山清行/著 番町書房

高砂義勇兵達がニューギニア戦線で活躍した理由として 夜目が非常に利き、完全に暗闇なジャングルでも戦えたことがあげられます。 高砂族を指揮した中野学校出身の将校にも最初は彼らの索敵報告を信じられないほどでした。

台湾の司令部で高砂族の編成に当たった、当時陸軍准尉であった後藤田元警察長官も、その回顧録『情と理』の中で 高砂族の夜目が非常に秀でていた事を記している。



元高砂義勇隊の高昌敏さん参考文献:還ってきた台湾人日本兵

河崎氏が元高砂義勇隊の高昌敏さんを訪ねたときのエピソード

「台湾は日本国の一部。あのときは日本のため、天皇陛下のために誰もが進んで 戦う気持ちが強かった。日本精神。大和魂ですよ。血書志願したのに兵役検査で 落ちて、一晩泣いた人もたくさんおりますよ」 まるでグローブのような手、そして靴を履いているのかと見間違うばかりに盛り上がった 足の皮。表情の優しさとは裏腹に強靭な肉体を今も持ち続ける高は、その時代の 空気を静かな声でこう言った。 「中村さんも僕も、軍靴を履くと歩きにくくって、すぐ脱いだ。山のなかははだしで歩くのが、 アミ族にはいちばん楽です。はだしなら、音を立てずに敵に近づくこともできたしね」 1943年10月15日、高は中村とともに村をあげた興奮のなかで出征してゆく。


五千人近い高砂族が戦地に赴いた参考文献:還ってきた台湾人日本兵

千葉県松戸市に住む門脇朝秀(87)は高砂義勇兵と高砂族について長年調査を続ける 在野の研究家だ。

~途中略~

 門脇の研究によれば、高砂挺身報国隊や陸海軍特別志願兵、さらに高砂義勇兵と呼ばれる 志願兵なども合わせて、大戦中に十二回の募集で五千人近い高砂族が戦地に赴いた 資料があるという。「二回にわたって志願した高砂兵も少なくなく、実際には三千人くらい だろうか」と門脇は推測する。  高砂族全体の人口が当時二十万人ほどと推計されており、兵役につけそうな若い男は 最大見積もって二万人といなかった、と門脇はみる。  中村が志願した「陸軍特別志願兵」も、広義の高砂義勇兵。兵士以外に、高砂族の 女性で、看護婦やそれ以外の厳しい任務についたケースも数多くあったという。

一方で、日本統治時代を研究している台湾中央研究院民族研究所の黄智慧研究員(42) の調査と推計によれば、従軍した高砂族は、約八千人にのぼる。  門脇と黄で数字に差が出ているのは、高砂義勇兵は正式な軍人としてではなく、運搬や 土木作業など後方支援業務を行う軍属として扱われたケースがほとんどで軍籍簿が 残されていなかったことなどが影響している。  正式な戦史には記述を欠いていたし、戦友会などの組織もできなかった。「敗戦時に 南洋の島で、軍名簿など機密に類する書類の接収を恐れた日本軍が、高砂義勇兵の 名簿を焼いてしまうケースもあった」と黄研究員は話す。  黄研究員は、「幻の高砂義勇兵」として、台湾東北部の宜蘭から飛び立ったとされる 特攻隊「薫空挺隊」のなかに四十人ほど高砂義勇兵がいたのではないか、と考えている。 確実な証拠はみつかっていないが、出撃時の写真が一枚だけあるという。



驚くほどの力参考文献:還ってきた台湾人日本兵

日本兵にとって、ジャングルでの行軍は不慣れだ。軍刀は草木や、蔦を切って道を 開くのに役立たなかった。赤道直下の湿地帯では、軍靴が破れると一歩も歩けなく なる。食料や飲料の調達にも、事欠く事態になってゆく。  こうしたジャングル戦に、台湾の先住民が志願した「高砂義勇兵」は、驚くほどの力を 発揮した。  ラバウルの第八方面軍司令部に勤務していた中尉の小俣洋三(81)は陸軍中野学校 出身者で、第二義勇隊長としてニューギニアで高砂義勇兵を指揮した一人だ。  「ジャングルでの方向感覚や夜目が利く視力、食料となる動植物の知識や敵に立ち向かう 勇敢さ、そして彼らの徹底した忠誠心にだれもが舌を巻いた」  小俣はニューギニアで負傷し、後に病院船で帰国した。  「四人の高砂義勇兵が木を切って担架を作り、意識不明だった私をジャングルのなかから 何週間もかついで港まで連れてきてくれた。今こうして生きているのは、義勇兵のおかげ」  こう言って小俣は電話口で言葉を詰まらせた。


戦友よ参考文献:還ってきた台湾人日本兵

アミ族出身の中村輝夫も、この時代の高砂義勇兵の隊列の なかにいる。  中村とともに日本陸軍特別志願兵に選ばれ、アミ族の高砂 義勇兵になった高昌敏(タケオ、宮田武男、七八)(引用者 注:高昌敏は戦後につけられた中国名、タケオは民族名、台湾 原住民には民族名も日本風の名前にする人が多かった。宮田 武男は日本名)は、太平洋を間近に望む台東県都蘭村の自宅の 倉庫から、従軍答辞に使ったという蕃刀と呼ばれる高砂族の刀 を出してきた。

~中略~

 台東の自宅の庭で陳徳儀(ハパプリン・クラサイ、岡田耕治、 八十)とともに高砂族自慢の蕃刀を腰にすると、背筋をぴんと 伸ばして高は言った。 「そのころは後方からの物資補給も絶えがちでね。バナナや モッカ(パパイア)や、いよいよ(食糧が)ないときは木の根 っこも蕃刀で掘って、日本兵に食わせました」  迫りくる死の極限を切り抜けてきたはずなのに、高はまるで 順風に帆を上げるような笑顔で話し続ける。  かつては差別待遇を受けた高砂族に生まれながら、戦地では 将校から一兵卒に至るまで正規の日本兵に頼りにされたという。 「そのときは、もう日本(人)も高砂(族)もない。上官、戦友よ。 おい宮田君、助けてくれと言われておぶった上官が背中で死んだ こともある。  同じ釜の飯を食べた中村へも、戦友として格別な思いがある。 「中村さんは荷物を担ぐのがうまくて百キロぐらいの荷物をかつ いでも、しっかりと歩いたな。もくもくとよく働いた。ハラが 減ったときは首にぶら下げていた靴の革を煮てかじったよ」


命かけた悔いなし参考文献:2003/08/09/産経新聞朝刊

終戦直後の1945(昭和20)年8月18日、旧満州国(現・中国東北部)の皇帝、愛新覚羅溥儀(あいしんかくら・ふぎ) を救出するために、極秘裏に爆撃機「飛龍」で平壌に飛んだ男が台北にいた。

当時、岐阜県各務原に駐屯する陸軍第7飛行部隊の幹部候補生だった台湾出身の邱錦春氏(77)だ。 清朝の最後の皇帝でもあった溥儀はソ連軍に捕まり、救出作戦は幻に終わった。(台北 河崎真澄) 日本統治時代の台湾・高雄で生まれた邱氏は、志願して宇都宮飛行学校で訓練を受け、四四(昭和十九)年末に幹部候補の航空士として爆撃機搭乗の任務についていた。 敗戦で呆然(ぼうぜん)としていたところに、「溥儀救出」の極秘命令を受けて「ようし、やってやる」と胸が高鳴った。

台湾出身兵も区別なくかわいがってくれた上官の佐藤保太郎中尉が操縦士、邱氏が副操縦士として、さらに機関士など三人の日本人とともに十八日午前九時すぎ、四式重爆撃機「飛龍」で各務原飛行場(岐阜県)を飛び立った。しかし、主翼の「日の丸」や尾翼の所属部隊記号は塗りつぶされ、「国籍のない機体で飛ぶ悔しさ」とともに敗戦を実感したという。

無線使用もままならぬなかで、目視と天測だけで当時の京城(ソウル)に飛び、さらに平壌に同日夕方に到着した。そこにやってくるはずの溥儀を、いつでも飛びたてるように準備しながら待った。やっと連絡がきたのは三日後の二十一日のこと。 しかし、溥儀は脱出途中の奉天(瀋陽)ですでにソ連軍に捕らえられ、極秘救出作戦も相手に知られたらしい。ソ連軍機が平壌に迫っている-との情報を受け、離陸を急いだ。

そのとき将校が夫人と子供一人を連れて便乗を願い出た。邱氏は、子供をかかえて押し込めるとき、奥に二人の日本兵が隠れていることに気づいた。脱走兵だった。 プロペラは音を上げ始め、佐藤中尉は「邱、急げ」と叫んだ。逃亡兵を引きずり出す余裕はなかった。離陸寸前、兵士数人が駆けつけ、逃亡兵を降ろせとばかりに「飛龍」に向けて発砲してきた。わずかに、弾ははずれた。そのときの光景はいまも忘れられない。 釜山上空から日本海を横切り、若狭湾から陸地に入り、二十一日の夕方に各務原に着陸した。任務の常で機体の点検をしていると、同乗した田中幸夫機関士が「邱よ、われわれが飛行機に乗るのはこれが最後になったかもしれんな」といった。邱氏はこのとき初めて、敗戦を迎えてからずっとこらえてきた涙があふれてきた。 邱氏は「戦争が終わってもなお、命をかけた任務についたことに悔いはない」と語る。

四六(昭和二十一)年一月、邱氏は「日昌丸」で台湾に復員した。戦後は体育の教師として、出身地の高雄で子供たちの教育にあたった。邱氏は自分の三人の子供を日本に留学させ、七人の孫とはいまも日本語で会話する。自宅に電話すると、孫のひとりが「祖父は今、でかけております」と、礼儀正しく日本語で答えた。 邱氏は語った。「日本はいまでも祖国ですよ」-。

ああ日本人じゃあなかったなあ?参考文献:還ってきた台湾人日本兵
蔡や周麗梅といっしょに訪日したタイヤル族の簡福源(タリ・ワタン、 山田正太郎、七十)にも話を聞いた。1932(昭和7)年生まれの簡は、 「もし今、日本が戦争するなら私も立つという気持ち、山より高いです」 と言う。その目は真剣だ。

開戦時に私は小学三年生。自分でも日本の国民として日本のために兵隊 なりましょうと(いう気持ちが強かった)。国のためなら高砂族も(働か ねばならない)。おじさんやいとこなどフィリピンから戻った親戚が勇ま しく、村中で万歳三唱した。おじさんはニューギニアで戦死したが、昭和 十九(1944)年に届いた手紙で「天皇陛下のために戦ってくれ」と書 いてあった。私は必ずかたき取ってやると心に決めた。隣村で勲章もらっ た男がいた。ようしオレもと若い人が志願した。特攻隊に行った人もおる。

昭和二十年三月に卒業して陸軍軍属になった。情報員だった。しかし八 月十五日、暫時戦争停止だと言われた。日本は負けただの(そんな)バカ なことありはしない。

日本兵がみな日本に帰っていった。(不思議に思って)私も日本人なの に日本にならないか(日本に帰らないか)、とおじいさんに聞いたら、内 地の人とは違うんだと言われて初めて、「ああ日本人じゃあなかったなあ」 と残念に思いました。

簡は、ああ日本人じゃなかったなあ、と二度繰り返して、少し目を潤ま せた。

戦後、家庭で密かに日本語を使っていたが、国民党は絶対に許さなかっ た。日本兵の残した軍服や靴を使うことも許さなかった。山の人(高砂族 )には服も靴もない。でもシナ兵(国民党軍の兵士)は許さない。戦後二十 年くらいたって、やっと文化交流など日本人と話ができるようになって、 非常に喜んだ。日本語で交流できる。

今も六十五歳以上の人は戦前の気持ち。日本精神というのは「誠」の精 神。まっすぐで正しい。すべてやることはまっすぐです。心のなかにいつ も残っている。当時の日本軍人は本当にまっすぐだった。日本軍人は忙し い。(生死に)あっさりしている。立派に戦いました。精神訓練受けた者 絶対に悪いことしない。国のため天皇陛下のためにつくす。もし日本が今、 戦争するなら私も立つという気持ち、山より高いです。このこと自分の子 供にもしっかり伝えている。

簡はこの話を聞かせてくれた前日、周麗梅とともに日章旗を抱え、民族 衣装をまとった人々を率いて靖国神社を参拝した。その感激も強く残って いたことだろう。


三回泣きました参考文献:還ってきた台湾人日本兵


岡田は(陳は時折、自分を岡田、と言う)兵隊になって三回泣きました。迫撃戦で私の 部隊がばたばた倒れて、戦友がつぎつぎに戦死したとき。

そして「マカン(食糧)作戦」のとき。(米軍上陸から三ヶ月の)昭和十九年十二月には もうモロタイ島の部隊にコメひとつぶもない。ここからは「マカン作戦」に入った。食料 調達しながら攻撃した。裸足で山ブタを追いかけまわした。我々は足強い。トゲ 踏んだらトゲのほうが折れる。しかし、アメリカ兵が食べ捨てた残り物を探せ、と命令 されたときは泣きました。乞食にさせられた。

その後、戦争終わったこと分かる。負けたこと分からない。台湾に戻されて、基隆港 に船がついたとき、出迎えだれもいない。シナ兵(中国大陸の国民党軍兵士)だけ。褌 一本にされて、あとはすべて没収。本当に情けなかった。日本が負けたと分かった。 私は泣きました。好きで兵隊になったのだから、恨むのはアメリカだ。ただ、私は日本の 兵隊になって偉くなってみせる(という強い思い)が水の泡になった。

ただ陳徳儀は2000年4月4日に、門脇朝秀ら「あけぼの会」の招きで日本を訪問した とき、靖国神社参拝を控えて、東京・九段の偕行社で非公式に出席された三笠宮さま 臨席の下、勲五等瑞宝章を授けられた、と言って勲章をみせた。

むろん叙勲として公式に認められたものではないだろう。関係者は言葉を濁すが、ある いは、陸軍中野学校出身の小俣洋三がパイワン族の平山勇(楊清課、イリシレイガイ)に 小俣自身が授かった勲章を与えたように、招いた日本側の有志が勲章を提出したとの 想像もできる。仮にそうであっても、陳徳儀にとっては、人生最大の喜びであるようだった。  陳は言う。「三笠宮さま(ご臨席の下での叙勲は)本当に尊いことです。日本は敗戦した というが、行ってみたら第一級の姿です。三笠宮さまが頭を下げられた。その瞬間、私は もう(感極まって)何も覚えていません。それで十分です」

報われることのほとんどなかった高砂義勇兵のなかで、陳はある意味で、最も報われた 男の一人かもしれない。ただ、この男のぎりぎりの生活は何も変わらなかった。

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