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多様性を尊重していますか?

「最近は誰もが、個性が大事、個性、個性、と言うが、若者はみな同じ格好をして同じ髪型をして、どこに個性があるんだ」というのをよく見聞きしたのは、もう今から20~30年ほど前であろうか。ルーズソックスや「ガングロ」(髪の毛を金髪かオレンジ色に脱色し、肌を黒くするスタイルのファッション)などが流行った頃だった。

最近は、多様性という言葉を様々な場面で見聞きするようになった。それを推進する人々は、「多様性を尊重することで、私たちは新しい視点や創造的な解決策を見つけ、相互理解を深め、より豊かで包摂的な社会を築くことができる」と主張する。主に、文化的多様性、人種的多様性、性別・ジェンダー(性的指向含む)の多様性である。

皮肉なことに、そういう主張が、逆に対立や分断を社会に生んでいる。多様性の尊重とは、偏見や差別をなくそうとする動きであるはずなのに、移民や難民の問題を口にする人や女性固有の権利を主張する人など、そうした慎重派を差別主義者と決めつけ、SNSでは堂々と罵り合っている。と同時に、言葉狩りによって差別用語も急増している。

例えば――坊主、百姓、土方、美人アナ、高卒・中卒、外人、父兄、子女、処女作、等々が言葉狩りによって差別用語の仲間入りをした。また、表記でも「子供」は「子は供物ではない」ということで「子ども」と表記するべきなのだとか。文章の編集に携わる私にとっては息苦しいこと、この上ない。これも一種の偏見ではないのか、と思う。

日本はすでに「価値観の多様化した社会」だと論じる人々もいる。例えば、こんなふうに。スクリーンショット 2025-01-06 142152
しかし、私は「どこが?」と思ってしまう。例えば、「男(女)らしさ」という言葉も差別用語とされているが、世の中には「私は男(女)らしくありたい」と思う人や、自分の子供にもそうあってほしいと願う人だっている。果たして、その人々の価値観は尊重されていると言えるのだろうか? 私には尊重されているとはどうしても思えない。

きっと、そのうち「日本固有」という言葉も言葉狩りの標的になるのだろう。私は「日本人らしく」を心掛けているせいか、SNSの匿名の住人の格好の餌食になる。だから「X」もブログも認証済みの人しかコメントを書けないように設定している。日本の未来を案じると非難されたり罵倒されたりする社会に「言論の自由」はあるのだろうか。

SNSは意見を表明するのにとても便利で、マイノリティに力や勇気、希望を与えた。だが、そこに溢れる言葉には、相手を罵るための、意見とも反論とも言えない便所の落書きに等しいものが多い。つまり、今の日本は、あーだこーだと難癖をつけるのが流行っているに過ぎないのだ。だから結局、一つのことを誰も決められないし、何も決まらない。

足の長さは人それぞれだから歩幅も違う。歩くテンポも違う。だから前を歩く人の踵を蹴ってしまったり踏んでしまったりすることがある。そうならないように少し距離をとって歩くとか、前を歩く人になるべく歩調を合わせるとか、その気遣い合いが「多様性を尊重する」ということではないかと思う。しかし、人混みを歩く人々にその意識はない。

時には舌打ちをし、眉間にしわを寄せて歩く。自動車を運転すれば煽り運転をする。自転車に乗る人に至っては交通ルールを守る者など皆無に等しい、と言っていい状況だ。だから法律や条例を改正して厳しく処罰する流れになっている。この日本、多様化が本当に進んでいるのなら、そんな流れになるのはどう考えてもおかしいのである。

多様性を尊重すべきは「お互い」である。こちらの価値観を尊重しない相手に我々はどう接すればいいのか、推進派の人たちに聞いてみたいものである。ネットで検索すると「全員が意見を共有し、互いの違いを理解し合いながら、共同で目標に向かっていける環境を整える」などと書いてあるが、具体的にどうすればいいのかを知りたい。
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(株)大吼出版の編集長です。政治的スタンスよりも人間性が大事だと考えています。気が合いそうだな、と感じた方は、どうぞ仲良くしてくださいませ。

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