ココロ社

主著は『モテる小説』『忍耐力養成ドリル』『マイナス思考法講座』です。連絡先はkokoroshaアットマークkitty.jp

話にオチは必要ない

これから時々、笑いと文章について書いていきたいと思います。
参考にしていただければ幸いです。

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その昔、ゲームのプランナーをしていた時代の話。
会社近くのラーメン屋(写真)で流れていたラジオの言葉が私の逆鱗に触れました…聴取者のハガキのコーナーで

神奈川県の、推理野郎さんからのおハガキです。
「私の友達にひどい人がいるんです…私が読んでいる推理小説の犯人を言うんですよ」
あははうふーん…たしかにひどい友達ですね。意味なくなっちゃいますよね〜

それを聞いていたわたしは、「うふんじゃねえよ!」と、ドッカーンとなったのです。わたしは表面的にはとても穏やかなので、あくまで内部的にドッカーンとなっただけで、表面上はラーメンをおとなしく食む、小粋でエッチな草食系男子なのですが…

何にムカッときたのかについて説明させていただきますと、もちろん、犯人の名を教えたその友達についてムカッときたのではなく、「犯人の名を告げただけで台無しになるような軟弱な文章がこの世にあること」についてです。
まあ、ド変態ならではの怒りなので、ここで読むのをやめた方がよいかもしれませんが、多少、共感できるように言うと、楽しく話しているとき、デリカシーがゼロの人に、横から「で…オチは?」と言われてムカッときた感じと考えていただければ幸いです。

『吾輩は猫である』の結末と『百年の孤独』の結末のショボさに学ぶ

これからは、いわゆるひとつのネタバレも含むので、気になる方はご注意ください。
漱石の『吾輩は猫である』の結末は、最後に猫が溺れ死んで終わります。マルケスの『百年の孤独』では、自分の物語を読むシーンで終わります。どっちも結末はものすごく適当で、最後のページを見て、想定外の結末に興奮した人はいないでしょう。

前者は、主人公が死んで終わりという定番の終わり方で、後者はメタフィクション的な終わり方。どちらも、無理矢理な終わり方です。その無理矢理さには必然性があるという話は後日にするとして、結末の話に集中しますね。この2つの小説の結末を知ったからといって、読む気が失せるということはないし、この2つの作品を、「オチがきまっていない」ということを以て駄作とする勇気のある人などいないでしょう。

むしろ、結末がきまっている話というのは、だいたいつまらないものです。「なぜオチのあるものがつまらないのか」、そして、「どうすればつまらなくなくなるのか」について、自作の例(すごく時間かかったよ!)を挙げつつ考察していきたいと思います。

「オチ」を重視すると、オチ以外がオチの犠牲になる

ではまず、「オチのある文章」の例を挙げます。忍耐力に自信のある方はお読みください。

見合い結婚した


うちの母親はお見合いのセッティングをするのが好きだった。
まあ、私が適齢期を超え、いいオッサンになりつつあるからだったのだけれど、いろんな人を連れてきた。
たいてい、私の方から断った。なぜなら、私の好みの女性と会うことがないからだ。

「いい歳して…そうやって顔で判断するからダメなのよ。今度は目隠しをしてお見合いをするからね」

お見合いの日。思いのほか会話は弾んで、時間があっという間に流れた。向こうはどう思っているかわからないけど。
翌日、電話をしてみたら、3時間も話してしまった。

最後に思わず、

「会いたいな」

というと、

「お互いの顔は見ない約束じゃない」

とすげなく返された。

そんなこんなで、毎日のように電話をして、数か月たったある日。勢いに任せてプロポーズしたら、「わたしでよければ」という返事。

そして、いざ結婚式のとき、二人のマスクが外されて…

そこで私が見たのは―

照れくさそうにしている母親の姿だった。

―まあ、結婚するとき、苗字が変わらなくてよかったといえばよかったのだけど。


みなさまの深いため息が聞こえてくるようです…大変申し訳ありません。
念のため、何がつまらないかについて解説させていただくと、描写がないし、すべて、オチを中心に配置しているから、つまらない行が多いですね。特にそのつまらなさは、2度読むと秋風のごとく身にしみます。ただでさえつまらないのに、オチのためだけに状況設定やセリフを作っているので、オチがわかってしまった今となっては、37歳のオッサンによる虚しい努力が浮き彫りになるばかりです。


まあ、意図的とはいえ、自分でこさえた文のつまらなさについて説明していくと、どうにも陰鬱な気分になって、おやつ(≒バームクーヘン)の量が増えてしまってしょうがないので、じゃあどうすればよいのかについて説明します。「いつも口先だけじゃなくて代案を出すところがココロ社のいいところだよねー」…って言ってくれる人が少ないので自分で言わせていただきますよ…

基本方針はただ一つ。簡単といえば簡単なのですが、「オチ」についていったん考えない、その行ごとに読ませるようにして書いてみると、こんな感じになります。

うちの母親は、自称、「若いころは男から引く手あまた」とのことだが、「あまた」という言葉の意味を聞いても、ろくに答えられず、

「…屁理屈ばっかり言うんじゃないよ、あまたっていうのはね…あまたっていうのはね…まあ、強い…とか、そういう意味に決まってるじゃないか。ワタシは若いころ、すごく強力に、手が細くなるくらい引っ張られてたのよ」

…などと答えるほどには強がりなのだけれど、さすがに今、自分が「引く手あまた」という状況ではないということは受け入れているご様子で、せめて人の縁を取り持つことで、恋愛における支配的な地位を築こうと悪あがきしているらしく、周りで結婚指輪をしていない人を見つけるや否や、お見合いのセッティングを始めようとする。先日などは、指輪が安くて細いのと、指が毛深いので、一瞥すると指輪がないように見える男に話しかけていた。

「ちょうどいい相手がいるんだよ…ちょっと待ってて、いい子にしててね」

いい大人に対して「いい子」も何もないが、彼女は、長い間、ズボンの後ろポケットに入れて、何度もズボンごと洗って、毛羽立ったパルプの塊と化しているノートを取り出し、くっついているページを丹念にはがしながら、適切な相手を探す。ただ、紙がくっつくくらいだから、字も洗濯によって判読が難しくなっており、名前を間違えて、うっかり、口より先に手が出てしまう女と、口先だけの男を引きあわせてしまうこともあるほどだった。


同じような字数であれば、こちらの方がずっとましです。結婚式の話まで行ってない、というか、お見合いのセッティングが好きというところで終わっていますが、結婚式がどうなるかについては、特に興味が湧きませんよね。それは、『吾輩は猫である』について、「この猫どうなるんだろう?」という気持ちでページをめくる人がいないのと同じ原理です。まあ、オチがあってもいいのですが、オチを配置することで、オチを中心に据えるために、すべての文章を犠牲にしてしまう危険性を冒すより、中心が行ごとに発生する方が楽しいのではないか、と思います。


ただ、難しいのは、よくいる、「…で、オチは?」という人。これは一概に、その人の感性が貧弱だからそう思ったのかもしれませんが、もしかすると、先方がついオチを求めてしまうほど、こちらの伝えた細部がつまらなかったから、その一言が出たのかもしれないので、一概に「…で、オチは?」と口走る人を責められないのではないかと思います。


いずれにせよ、オチを探すような読み方や、オチを重視するあまり、部分が犠牲になってしまうような文章の書き方をするより、読んでいる瞬間、書いている瞬間を充実させるようにした方が、読むのも書くのも話すのも聞くのも楽しくなるのではないかという話でした。
もちろんこの記事もそうです。あくまで論旨はオマケ程度に考えておいた方がよいかと思います。

今回の連載は「つまらない話を聞き流すテクニック」です。

今回の「革命的サラリーマン宣言」は、「つまらない話を聞き流すテクニック」。
禁断のライフハック、「人の話を聞き流す」を自然にやるテクニックの紹介です。
読むのは面倒かもしれませんが、読み終わった後は不要な話を聞かなくてすむように人格改造されるので、最終的には時間の節約になりますよ!
http://careerzine.jp/article/detail/182