#june29jp

「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」を読んだ

2011-10-23

最初から最後まで、不思議な刺激を受けながら読みました。読書メモです。まずは、プロローグの一部を引用します。

構想力が大事になるというのは、このような文脈においてだ。遠からずかつての夢の完成形を目撃してしまう以上、50年前の夢=ビジョンに代わる新たな夢=ビジョンを、私たちはこれから構想していかなければならない。ジョブズやシュミットからバトンを受け取らねばならない時に備えなくてはならない。それはそう遠くない将来に生じることだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.9) プロローグ「構想力、想像力」

この本が世に出たのは、2011年3月のことでしたが、ぼくがこの本を読み進めている途中に、その「バトンを受け取らねばならない時」をリアルに感じる瞬間が訪れました。2011年10月5日、スティーブ・ジョブズが亡くなったからです。

点と点がつながっていく感じ

本書を読んで、自分の中に「点」として存在していたいくつかのものが、意味のあるつながりをもって感じられるようになりました。この感覚は「パターン、Wiki、XP」を読んだときに感じたものと似ていました。「それと、それと、それが、つながるのか」という感覚です。どちらも書名が「3つの名詞の羅列」であることも共通していますね。おもしろい。

パーソナルコンピュータ、カウンターカルチャー、宇宙船地球号、Whole Earth Catalog、全体性、グローバル・ビレッジ、インターネット、複雑系科学、ネットワーク科学、アソシエーション、コミュニティ、コミューン、Google、Apple、ソーシャルウェブ、デザイン思考、フリーミアム、Twitter、Facebook、人間讃歌。これらのキーワードで、あったり。

スティーブ・ジョブズ、エリック・シュミット、クリス・アンダーソン、ティム・オライリー、ローレンス・レッシグ、アラン・ケイ、スチュアート・ブランド、ケヴィン・ケリー、アルバート=ラズロ・バラバシ、リチャード・ワーマン、ドナルド・ノーマン、マルコム・グラッドウェル、クレイトン・クリステンセン、マイケル・ポーター、ティム・バーナーズ・リー、ビズ・ストーン、ラリー・ペイジ、セルゲイ・ブリン、マーク・ザッカーバーグ。といった人物たちで、あったり。

ひとつひとつ、ひとりひとりは、なんとなく「知っている」くらいのものだったりするけれど、本書の中では、これらの間にある「関係」や「つながり」までを含めて立体的に描かれていて、とてもワクワクしながら読みました。

ところで、余談ではありますが、著者の池田純一さんは「あとがきに代えて」と冠した「ウェブ時代に本を書くということ」の中で「本にしちゃうと立体的に書けない」といった旨のことを言っているのですが、それでも読者であるぼくが立体感を感じ取ることができたのだから、ストーリーってのはおもしろいと思います。

ウェブの情報構造はハイパーリンクが前提であるため、その構造は立体的だ。(中略) ウェブ時代に本を書くということは、この3次元以上の繋がりからなる情報構造をいかにして平面に射影するか、最も効率的な射影方法はなにか、その切り口を作ることなのだろう。そして、この本の場合の切り口は「アメリカ」であった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.309) ウェブ時代に本を書くということ

読書メモ

ユーザーからのフィードバックが常識となった現代から見れば当たり前のことだが、サイクル=循環に基づいたビジネスの見方はそれほど古い歴史をもつものでもない。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.36) 第1章 ウェブの現在「複雑系科学」

自分の感覚とはギャップがありました。古くからあるものだと思っていました。

ネットワーク科学の第一人者であるアルバート=ラズロ・バラバシは、パタンではなく「ライム(音韻)」という表現を好む。パタンは視覚的なものを連想させるが、人々の行動類型は不可視であるがゆえに、たしかにライムと呼ぶほうが適切かもしれない。ライムという表現は、また、重ねあわせによって異なるライムを生み出すことも想像させる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.39) 第1章ウェブの現在「ネットワーク科学」

おお、バラバシ先生の考え方、おもしろい!パタンじゃなくてライム。ライム・ランゲージ!セッションできそう!

その協働のあり方に次代の生産様式をベンクラーは見出す。継続する協働である以上、人々の参加動機は、全くの利己的動機でもなければ、全くの利他的動機でもない。互いに得するwin-winの関係を期待するところにある。そして、その期待が実現することを参加者が実際に経験することで、協働関係は社会的事実として強固なものになっていく。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.46) 第1章 ウェブの現在「アーキテクチャ法学者たち」

「Wikipedia」や「Linux」の発展を身近なものとして感じている自分にとっては、すんなりと受け入れられる記述でした。すでに強固なものになってきた、と過去形で感じているくらいです。ところで格差と若者の非活動性について (内田樹の研究室)というエントリは、

今の日本社会に致命的に欠けているのは、「他者への気づかい」が「隣人への愛」が人間のパフォーマンスを最大化するという人類と同じだけ古い知見です。

格差と若者の非活動性について (内田樹の研究室)

と、締め括られていましたが、こういった感覚が「次代の生産様式」なのか「古い知見」なのか、どっちなんだろうって興味を持ちました。考え自体は古いけれど、行動に落ちるまでになってきたのが近年、という整理になるのかな。

一方、ブランドは、そうした意匠ではなく、意匠を含む文化現象を生み出した装置、いわばカウンターカルチャーの「精神」の方により強く関心を寄せた。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.72) 第2章 スチュアート・ブランドとコンピュータ文化「歴史的場面の目撃者」

LSDやテレビのように、何であれ、精神的拡張や一体感をもたらすようなツールにブランドは強い関心を示すようになった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.94) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「宇宙から見た地球」

66年には、「宇宙から見た地球の写真」の公開をNASAに求める運動を起こした。これは、ブランド自身がLSDのトリップ経験から地球の丸さを鋭敏に感じてしまったことが発端だった。この運動は「宇宙船地球号」を提唱した、デザイン科学者であるバックミンスター・フラーの発想に触発されたもので、地球が球として一つであることを知れば、人々は惑星レベルで物事を捉えるようになると思ってのことだった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.94) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「宇宙から見た地球」

うまく言えないのだけれど、ここ、すごく引っかかりました。ブランドが「意識の拡大」にずっと興味を持っていた、というのが気になります。おもしろい。自分の場合を考えてみると、2004年くらい、研究室に配属された直後に、この世界の「べき乗則」を知ったり、mixiをクローリングすれば社会の形を把握できるのでは、と考えたりできるようになって、確かに、自分にとってまったく新しい視座を手に入れて、軽く狂ったように興奮気味であったことを思い出します。その感覚に近いのかもしれません。

当時の若者の典型的な不安は、大量生産/大量消費を支える大企業という官僚制の中で一つの部品として生きることに対する不安であり、冷戦の進行の中で徐々に現実味を帯びてきた核戦争による人類の破滅への不安であった。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.87) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「ヒッピーカルチャー」

自分は2011年の日本に身を置きながら核のこととか心配していないし、そもそも考えないようにしているけれども、前半の半分には強く共感します。ヒッピーの人たち、そうだったのですね。

フラーは、comprehensive designという考え方を提出し、デザイン=設計の際には、全体を見渡した上で、最小資源で最大の効果を得るものが最良のデザインであるとする見方を提唱した。デザインを、単なる意匠と捉えるのではなく、最終的な制作物が利用者に与える効果まで見越した上で行う行為と捉える、より包括的な考え方だ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.97) 第3章 Whole Earth CatalogはなぜWhole Earthと冠したのか「全体を見渡したデザイン」

これも、どちらかというと当たり前だと思っていたので、割と新しめの考え方なのだと知って、少し驚きました。

サイモンは、バックミンスター・フラーとは別の文脈で、最適化過程としてのデザイン、システム設計としてのデザイン、という見方を明確にした。これは、フラーのところでも記したが、彼らのデザイン発想は、個別具体的な意匠の制作、というデザイン対象に接近した視点だけでなく、その制作物がどのような文脈でどのように利用されるのかを全体を俯瞰して考えることを優先する。

(中略)

技術も制度も経済も総合的に検討される、一種の総合科学のポジションを持っている。だから、政治科学を専攻し、集団の組織行動に関心をもつサイモンが、コンピュータという人工物の設計を研究対象にするうちに建築的な発想に近づいたのも全く自然なことだ。コンピュータの特質は汎用性=総合性にあったからだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.125) 第4章 東海岸と西海岸「ハーバート・サイモン」

ひゃー。サイモンさん、めちゃくちゃおもしろい。ノーベル経済学賞を受賞しているのか。好奇心に対して素直なタイプの人を想像しました。おもしろい。この流れからドナルド・ノーマン誰のためのデザイン?に代表されるような認知工学的デザインに注目が集まるんだとか。おもしろい。

ソーシャル・ネットワークの動きを見ていく上で、常に気にかけておきたいことがある。それは「ソーシャル」という言葉が何を意味するのか、ということだ。

(中略)

しかし、ここからは、このソーシャルという言葉に拘っていきたい。というのも、ソーシャル・ネットワークという言葉も他の数多のウェブサービスの呼称と同じくアメリカで最初に使われた言葉であり、ソーシャルという表現も自ずからアメリカ社会における意味を帯びているはずだからだ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.142) 第5章 Facebookとソーシャル・ネットワーク「ソーシャルという言葉」

本書のタイトルにも触れる部分ですね。確かに、2011年の日本では「ソーシャル」って言葉の使い方には慎重になった方がよさそう、と感じます。何を指しているのか、分からなくなりがちなので。

実際、ザッカーバーグは、『アエネーイス』の一節の、「境界のない世界・国家」という表現を特に好むようで、何度か社内会議でも引用しているという。ひたすらに世界中の人々を「繋げる」ことに駆られているザッカーバーグが『アエネーイス』に惹かれているのは興味深い。

おそらくオープンやトランスペアレンシーをザッカーバーグが主張するのも、彼からすれば、その二つの価値はローマの多民族融和のようなものだからだろう。この原理によってローマ人が創設されたように、オープンやトランスペアレンシーという価値を内面化した人たちが、いわば「Facebookユーザー」という新たな民族を形作ることに期待しているように思われる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.151) 第5章 Facebookとソーシャル・ネットワーク「方向転換を支えた参照点」

参照点、おもしろい。加えて、マクルーハンのグローバル・ビレッジも参照しておくとよさそう、とのこと。

「連合主義」とは、「同志」からなる人々が状況に応じて可変的に組み合わさり、ことにあたることで、多様な人々が多様なまま結集できるとしている。連合主義も同志も直接的にはホイットマンの言葉だ。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.175) 第6章 アメリカのプログラム「兄弟社会のアメリカ」

通常、コミュニティ(共同体)は地縁を前提に伝統的に形成された集団とされる。そして、その地縁から解放され、個人の自由な意思によってある特定の区域に作られた相互扶助的な集団がコミューンとされる。

しかし、基本的に移民の入植者によって作られたアメリカの街は、コミュニティといっても必然的にコミューンの性格を帯びる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.176) 第6章 アメリカのプログラム「集団を作り替える」

トクヴィルのいうアソシエーションとは、形はどうあれ、人々がある共通の目的を実現するために自発的に集まった組織のことをいう。そして、アメリカ人ほど、このアソシエーションという技術の活用に長けた人々はいないと評価する。トクヴィルは、アソシエーションの技術は「母なる知識」だとまで言う。アソシエーションの技術とは「手段を尽くして共通の目標の下に多数の人々の努力を集め、しかも誰をも自発的に目標の達成に向かわせる」ような「工夫」の総体として説明される。誰に指図されるでもなく自由に助けあう技術を誰もが習慣として身につける。そのことによって、誰もが原則的に平等であり、その限りで確定した権威が長期にわたり存続することはないデモクラシーの社会的不安定さを取り除くことができる。「母なる知識」というのはそういうことだ。

アメリカは「平等」を是とし、かつ、欧州に比べれば遥かに因習からの圧力のない状態から社会が始まった。そして、何より19世紀の、国土が拡大していくアメリカでは、自発的に自らの街を作っていくことが全米で試みられた。その過程でアソシエーションの技術は全米で実践され、活用されたことになる。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.183) 第6章 アメリカのプログラム「アソシエーションの技術」

フランス人であるトクヴィルが見たアメリカという新大陸、の描写がとてもおもしろかったです。なにかというと、これは「日本人である大和田純が見たウェブという新大陸」という写像をまさに想起させるからです。長年に渡って積み上げられてきた因習のある日本と、まだまだ整備の途中であって、これから様々な国や街が創られ形を変えていくであろうウェブと、その対比があるわけですね。「みんな、パソコンは持っていないけれどモバイル端末は持っていて、無線LANのアクセスポイントは整備されていて、日本とはぜんぜん違うルールでのゲームになるからアジアはおもしろいよ」と話してくれる友人は、ネットワークインフラという観点から見たアジア諸国という新大陸の姿を視ているのかもしれませんね。

インターネットはおおよそ1965年頃に構想され95年頃に民間利用への舵を切った。この間約30年間だ。インターネットがいかに私たちの生活に不可欠なものになったかはもはやいうまでもないだろう。30年=ジェネレーションとはそれだけの変化の厚みを持つ。であれば、今この瞬間に思案され、考案されたものが30年後にはリアルなものになる。そう想定するところから始めてみる。そして、そうした「ジェネレーションからの発想」の実践者としてウェブ企業の創始者=ビジョナリたちが存在する。

(中略)

茫洋とした未来ではなく、一里塚となる未来を設定することが具体的な想像力をもたらすことに繋がっていく。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ (P.233) 第7章 エンタプライズと全球世界「ジェネレーションで構想する」

本書の主題である「次を構想しよう」の振りとなる部分。30年、という単位はなるほど、と思いました。

ここから先は「第8章 Twitterとソーシャル・メディア」「第9章 機械と人間」と続いていくのですが、終盤にかけて、一気に駆け足になった印象を受けました。ひとつひとつの節には面白味を感じるものの、全体とのつながりはうまく読み取れなくて、ここにメモとして残しておきたいものは拾えませんでした。中には様々な問いかけもあったりして、ちょうど今、事業をつくる日々を過ごしている自分にとっては、触れることができてよかったな、という文章はたくさんありました。よく噛んで消化したいと思います。

「ウェブ×ソーシャル×アメリカ」は、おもしろい本でした。

ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書)
ウェブ×ソーシャル×アメリカ <全球時代>の構想力 (講談社現代新書) 池田 純一

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