コラム:為替予想に「需給トーク」は役立つか=植野大作氏

コラム:為替予想に「需給トーク」は役立つか=植野大作氏
 3月31日、三菱UFJモルガン・スタンレー証券のチーフ為替ストラテジスト、植野大作氏は、為替売買の必勝法にはならないものの、円高・円安のどちらにも使える「曖昧系の需給トーク」には一定の有用性があると指摘。提供写真(2015年 ロイター)
植野大作 三菱UFJモルガン・スタンレー証券 チーフ為替ストラテジスト
[東京 31日] - 2014年度は、ドル円相場が歴史的な大記録を達成する年となった。期末目前の3月10日に一時122.03円と7年8カ月ぶりの高値を記録。2011年10月の75.35円をボトムに始まったドル高・円安局面が、月足ザラ場ベースで過去最長となる41カ月目に突入したのである。
ただ、その後は年度末の接近を意識した持ち高調整の思惑に加え、毎年この時期になると必ず取りざたされる「日本企業や金融機関によるリパトリエーション」への警戒感も意識され、120円前後の水準に押し戻されている。米国に対する「孤高の金融政策正常化」期待を背景にした、すう勢的なドルの先高観は根強いため、下値は結構堅いものの、日本の年度末シーズンに独特の「円高系の需給トーク」が上値を抑える重石になっているようだ。
為替市場では多種多様な国際資金フローが需給に関与し、その結果として時々刻々の相場変動が生じている。非常に複雑で天文学的な金額の資金フローが日々錯綜している為替取引の全容は、誰にも正確に把握できていないため、市場参加者は「誰が」「いつ頃」「どの通貨を」「どのような理由で」「どの程度の金額で」「売買した(らしい)」あるいは「売買する(らしい)」といった類の噂に敏感だ。
為替市場に流布する「他人の売買に関する噂話」は一般に「需給トーク」と総称されているが、その中には毎年ある時期になると決まって盛り上がる周期性を帯びたものがある。冒頭に挙げた「3月期末に向けた円高圧力」などは代表的な一例だが、ドル円ファンの間で語り継がれている類似の季節的な「アノマリー・トーク」は、その他にも沢山ある。
ちょうど話題になっている旬のテーマでもあるので、今回のコラムでは、時宜に応じて市場に出回る代表的な「需給トーク」について、その背景や利用上の注意点をまとめておきたい。
<円高・円安決めつけトークは疑わしい>
まず「円高系の需給トーク」では、日本企業による海外利益の本国送金や外貨資産の円建て評価確定目的の円買い予約、などが有名だ。いずれも、最近ちょうど話題になっている。
現在、非常に多くの日本企業や金融機関が事業活動のグローバル展開を加速させるとともに、国内外で様々な外貨資産を保有している。このため、日本企業が決算の数字を確定する目的で、期末前になると「海外で稼いだ利益を日本に送金する」「外貨資産をいったん売って円に換金する」「先物市場で外貨売り円買い予約をして期末の為替変動をヘッジする」などの動きが出ると言われている。
最近は日本でも四半期決算の会社が増えてきたため、この話題は「3の倍数月」に盛り上がりがちだが、その中でも、多くの日本企業の中間期末となる9月末や、事業年度末が集中する3月末は特に意識されやすい。これらを総称して、日本の市場関係者は「本国送還」の意味を持つ英語の「リパトリエーション」を短縮して「リパトリ」と呼んでおり、このカタカナ4文字の和製英略語は、日本企業決算期前の為替市場において「俳句の季語」のような取り扱いを受けている。
このほか、米国債の償還や利払いが集中する各四半期の中間日(2月、5月、8月、11月の15日界隈)には、「世界中の投資家がドルで受け取った償還金や利子の一部を自国通貨に換金するためドル安圧力が発生しやすい」、もしくは「お盆休み前には日本の輸出企業のドル売り・円買い予約がまとまった規模で持ち込まれやすい」などの話題も「円高系の需給トーク」として、毎年ほぼ定期的に耳にする機会が多い。
また、これは直前の相場展開が円安の局面に限られるが、近年の為替市場で急速に存在感を増している日本の外国為替保証金(FX)取引による「課税期末直後の益出しのドル売り」なども新手の「円高系の需給トーク」として正月2日以降に意識されやすくなっているようだ。
一方、毎年「この時期には円安になりやすい」という思惑を刺激する「円安系の需給トーク」では、新年度明けの生命保険会社などによる外債投資計画の開陳、大型連休や年末年始の海外旅行増に伴う外貨需要、給与所得者への賞与支給後の外貨投資の増加観測、などが日本に由来するものとしては有名だ。
実際、日本からの対外証券投資の動きを見ると、各年の投資環境の違いによる濃淡はあるが、毎年年度明けの4―6月期に盛り上がりやすい傾向がある。また、日本人の海外旅行による外貨需要はほぼ恒常的に存在するが、その中にも「ゴールデンウィーク」や「年末年始」などの旬の時期があるのは周知の通りだ。個人投資家の外貨投資やFX取引についても、軍資金の元手になる退職金や賞与が振り込まれる時期に増えやすく、金融機関側もそれらを見込んだ個人マネー獲得営業を強化する傾向がある。
このほか、「季節性」というより「周期性」を持つ「需給トーク」になるが、日本企業の商取引が集中しやすいとされる「5の倍数日(ゴトウ日)」には、日本時間9時55分の仲値公示の時間帯を中心にドル不足の思惑が強まりやすい傾向がある。最近は日本が貿易収支の赤字国に転落したこともあり、以前に比べてこの周期的な需給トークが意識される頻度が「ゴトウ日」だけに限らず上がってきた印象もある。
また、海外の商慣行に由来するものでは、米系多国籍企業の「リパトリ」は毎年12月末に比較的集中しやすいと言われている。このため、クリスマスシーズンの到来が意識されるタイミングでは「米グローバル企業による海外利益の本国還流に絡んだドル買いが持ち込まれたらしい」といった類の噂話も「円安(ドル高)系の需給トーク」として、毎年接することの多い話題になっている。
では、実際の為替相場に「周期性」は存在しているのだろうか。結論から先に述べると、現実の為替相場はそんなに単純ではない。国境をまたがる資金フローについて、部分的に何らかの周期変動があるのは事実だが、それらの存在が「定期的に市場で話題になるほど有名になると、現実の為替相場は必ずしも期待通りのパターンでは動かなくなる」というのが実情に近い。
実際、ドル円相場が変動制に移行した1973年以降の月足で、陽線(ドル高・円安)月と、陰線(ドル安・円高)月の回数を調べてみると、各月どれも極端に陰陽確率が偏るような法則性は見当たらない。昨今話題になっている「3月の円高説」の当否を見ると、陽線が22回、陰線が19回とほぼ互角であり、「寄引ほぼ同値線」も1回出現している。
為替市場には様々な属性の参加者が混在しており、特定の時期にある種の為替売買が集中するのは事実だが、それが広く市場で認知されるようになると、必ず先回り売買で利益獲得を試みる参加者が出てくるほか、その時期に為替差損を被ると都合が悪い参加者がリスク回避に向けた予防策の工夫を進めるはずだ。また、日々膨大な金額が取引されている為替市場の中で、ある程度の「周期性」を持って動く資金は、全体のごく一部に過ぎない。
冷静に考えれば分かることだが、「決まった時期に必ず一方向に為替相場が動く」などという便利な法則が本当に存在するなら、それを利用して外貨売買をすれば、その時期には誰でも簡単に「為替長者」になれることになる。為替相場に「必勝の季節」や「必勝の法則」など恐らく存在しないだろうし、仮にあったとしても、そんなに便利なアノマリーを発見した人は、家族や恋人以外にはたぶん教えないので、市場に流布して誰もが認知しているなどということは、まずあり得ない。ドル円相場に限らず、マーケットの「周期性」に関する話題は、市場の認知度に反比例してその有効性が低減すると考えるのが妥当だ。
<「曖昧系の需給トーク」には一定の有用性>
ただ、為替相場の季節性に関する話題の中で、円高・円安のどちらにも使える「曖昧系の需給トーク」には注目すべきかもしれない。代表的なものとして、毎年5月下旬頃から上半期の6月末あるいは11月下旬の米感謝祭前後から12月下旬のクリスマス休暇前にかけて発生する海外ファンドの損益確定売買、そして国内外の大型連休やロング・ウィークエンドを前にした各種市場参加者の為替持ち高調整、などが挙げられる。
多くの市場参加者が何らかの理由で為替の持ち高をいったん手仕舞う時期や、相場のことを気にせず休みたくなる時期の前には、「それまでの局面で作り込まれた市場全体の為替持ち高」に大きな偏りがあると推測される場合、反対売買による損益確定やポジション整理の動きが活性化するとの思惑が広がりやすくなる。
むろん、これら「曖昧系の需給トーク」も、アノマリーの一種なので、為替売買「必勝の法則」に昇華させるのは容易ではなさそうだ。しかし、こうした「曖昧系の需給トーク」は、相場が動くと期待される方向があらかじめ決まっている「円高系」あるいは「円安系」の需給トークと違い「それまでの相場の値動きの方角や速度」「当該時点までに溜め込まれたと推定される為替持ち高の大きさ」などによって相場が動きそうな方向に関する印象が変わるため、期待形成への影響が複雑になる。そのため、市場で広く共有される情報にはなり難く、上手く利用できれば一定の成果を得られる可能性を秘めていそうだ。
ただ、「曖昧系の需給トーク」を利用して収益性の高い為替売買に結びつけるためには、必須の条件として、かなり正確に当該時点での「市場全体のポジションの偏り」を把握する必要がある。その作業自体が至難なのは言うまでもない。
筆者も含めて多くの市場参加者が頼りにしているのは、各々の市場関係者に部分的に見えている為替売買注文などをベースに語られる印象論、シカゴ通貨先物市場などで観測される各種通貨ペアの持ち高、日本のFX取引絡みで集計されているポジション、などに基づく類推であり、当然のことだが、それらの局部的データによる推測が無謬であることはあり得ない。「曖昧系の需給トーク」を利用して上手く儲ける手法を確立するのも、非常に難しいと言えるだろう。
為替予想生活を営むようになって約17年、日々市場を行き交う「需給トーク」を織り込んで予測精度を向上させようとする試みは、筆者にとって決して欠くことのできない課題になっている。しかし、テクニカル分析、ファンダメンタルズ分析に基づく正確な為替相場予測が至難であるのと同様、国際収支統計で確認できる過去の資金フロー情報や、需給的なアノマリーなどを活用した予測にも自ずと限界がある。結局のところ、「利用可能なあらゆるツールを活用し、当該時点で最も確からしいと思われるシナリオを提示し続けるしかない」というのが現時点での結論だ。
今のところ、1)筆者がトレンド判定の際に重視している52週移動平均線が上を向いている、2)日米の金融政策運営に埋め難い印象格差が存在している、3)日本の国際収支統計で経常収支黒字をはるかに凌駕する直接投資収支の赤字や公的年金マネーの海外流出が続いている、などの理由からドル円相場は2015年度中もすう勢として右肩上がりの傾向を維持、今月更新されたドル高・円安局面の最長寿記録は一層延びると考えている。
一方、今回のコラムで紹介した需給トークの面では、筆者は「新年度明けの機関投資家による外貨資産投資」や「家計賞与や退職金を当て込んだ投信等の販売・設定競争」などの盛り上がりに期待しており、これらは市場の円安期待復活を刺激するスパイスの役割を果たすだろう。今月達成されたドル円相場の歴史的な記録が果たしてどこまで延びるのか、2015年度も見どころの多い1年になりそうだ。
*植野大作氏は、三菱UFJモルガン・スタンレー証券のチーフ為替ストラテジスト。1988年、野村総合研究所入社。2000年に国際金融研究室長を経て、04年に野村証券に転籍、国際金融調査課長として為替調査を統括、09年に投資調査部長。同年7月に外為どっとコム総合研究所の創業に参画、12月より主席研究員兼代表取締役社長。12年4月に三菱UFJモルガン・スタンレー証券入社、13年4月より現職。05年以降、日本経済新聞社主催のアナリスト・ランキングで5年連続為替部門1位を獲得。
*本稿は、ロイター日本語ニュースサイトの外国為替フォーラムに掲載されたものです。(here)
*本稿は、筆者の個人的見解に基づいています。
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